† こここそが中心的な聖句だと考えますので、先ず、54節を読みます。 … 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、 地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、 「本当に、この人は神の子だった」と言った。』 『本当に、この人は神の子だった』、マルコ福音書では、このように記されています。 … 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。 そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、 「本当に、この人は神の子だった」と言った。』 マルコ福音書では、『このように息を引き取られたのを見て』であり、マタイ福音書では、『地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ』です。マタイらしく、マルコ福音書を解説・補完しているように見えます。 † それだけではありません。そもそもマルコ福音書は地震のことには全く触れません。 52節。 … 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。… これもマルコ福音書にはありません。 百人隊長は、一体何を見て、『本当に、この人は神の子だった』と言ったのか、直接的には、『地震やいろいろの出来事を見て』となりますが、この地震については、他の福音書は全然記していないのです。 † 念のために、少し詳しく申します。 45節。 … 昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。… これが、『本当に、この人は神の子だった』と言う根拠にはなりません。 全地は暗くなったと言うのは、とてつもなく不思議なことと聞こえますが、ここに居合わせた人々は、少しも恐れても慌ててもいません。彼らにとって、『全地が暗くな』ったことは、大した出来事ではなかったようです。 古代の社会を舞台にした映画には、『全地は暗くなった』場面が出て来ます。人々は、驚き狼狽え、不安に駆られます。ギリシャ神話にも日本神話にも、そんな場面があります。 しかし、ユダヤ人たちは、『全地が暗くな』ってもへいちゃらです。 もしかしたら、日蝕を知っていたのでしょうか。 とにかく、これが、『本当に、この人は神の子だった』と言う根拠にはなりません。 † 46節。 … 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」 これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」 という意味である。… これは、初めから対象外でしょう。これで「この人は神の子ではなかった」と躓いたと言うのなら分かりますが、これを聞いて、『本当に、この人は神の子だった』とはならないでしょう。 † 51節。 … そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、… 『神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け』たことは、大きな意味を持ちます。 イエスさまが十字架に架けられた場所、ゴルゴダの刑場、つまり、穢れたこの世と、神さまの聖所との仕切りがなくなりました。この世界が直接神さまの世界、神の国と繋がったとさえ言えます。 イエスさまの十字架が、神の国を切り開いたのです。 しかし、この出来事・事実も、『本当に、この人は神の子だった』と言う根拠にはなりません。何故なら、十字架の場面に居合わせた人々には、そのことは分からないからです。 † 今日、ゴルゴダの丘とされている場所は、あまり信憑性がありません。2000年の間には、丘の形さえ変わります。富士山の姿だって大きく変わりました。 ですから、ゴルゴダと聖所との距離も正確には分かりません。いずれにしろ、声が届く距離ではありません。聖所の幕屋が裂けて落ちた出来事が、ゴルゴダに伝わるまでは相当に時間がかかります。 ゴルゴタに居た人々が、聖所の出来事を知ったのは、何時間も、もしかしたら何日も経った後のことでしょう。 † 51節の後半から、53節にかけては、大変なことが述べられています。 … 地震が起こり、岩が裂け、 52:墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。 53:そして、イエスの復活の後、墓から/出て来て、聖なる都に入り、 多くの人々に現れた。… 『地震が起こり、岩が裂け』はまだしも、52・53節の出来事は、並大抵のことではありません。しかし、他の福音書には、この記述はありません。 † 先週も同様のことを申しました。十字架の出来事を巡る福音書の描写には、大きな違いがあります。矛盾さえあります。 それを捕まえて、歴史的信憑性がないと批判する人がいます。その通りかも知れません。歴史的信憑性はありません。何度繰り返して読んでも、見つかりません。 仕方がありません。福音書は、歴史的信憑性を持たせるために、記事を書いているのではありません。もしそれが目的なら、口裏を合わせることは簡単です。福音書記者は、そんなことをしません。 それぞれに、自分の気持ちを、自分の信仰を描いているからです。 † マタイ福音書の記者にとっては、イエスさまが十字架に架けられたことは、51〜53節に描かれたような出来事、大事件です。天地がひっくり返る程の出来事なのです。 先ほど申しましたように、ここに居合わせた群衆にとっては、『全地は暗くなり、それが三時まで続いた』ことも含めて、イエスさまの十字架は、大した出来事ではありません。平然としています。 しかし、マタイにとっては、どんな表現を持ってしても表しきれない、トンでもない出来事なのです。 今日だって、多くの人々は、今日と言う日、棕櫚の主日を知りませんし、今週が受難週だということにも関心がありません。クリスマスには大騒ぎする日本人の多くが、金曜日、受難日には殆ど関心がありません。しかし、私たちにとっては、特別の日、特別の週です。 † やはり、肝心なのは、54節です。 百人隊長は、一体何を見て、『本当に、この人は神の子だった』と言ったのか。この時にも、私たちが、新聞報道を読むような観点で考えても結論は得られません。 これは、報道ではありません。証言であり、信仰告白なのです。 何を見て、『本当に、この人は神の子だった』と言ったのか、出来事ではありません。イエスさまを見たのです。十字架の上に死なれたイエスさまを見たのです。 † マタイ福音書27章に限定して、十字架の場面での信仰告白を拾い上げてみます。 11節。 … さて、イエスは総督の前に立たれた。 総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、 イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。… ここでは、断定はしていません。しかし、はっきりと、『ユダヤ人の王』という言葉が出て来ます。 † 17節。 … ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。 バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」』 ここでも未だ、断定はしていません。しかし、『メシア』という言葉が出て来ます。 † 19節。 … 一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。 「あの正しい人に関係しないでください。 その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」… 『正しい人』、義人です。ここで、はっきりとした証言が初めて出て来ました。それを言ったのは、ピラトの夫人であるという大変興味深い設定です。イエスさまの弟子の一人ではない、客観性を持つ証言であるという主張なのでしょう。 ところで、これは、伝言とは言え、夫婦の間のプライベートな会話です。この事実を、マタイはどのようにして知ったのだろうと考えると、疑問が湧いてまいります。この会話が事実だとしても、福音書記者はそれを知り得ません。これも、報道ではありません。 † 少し先を急ぎます。 22節では『メシアと呼ばれているイエス』、29節では『ユダヤ人の王万歳』、37節、『これはユダヤ人の王イエスである』、 そして43節、 … 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。 『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」… 間接的な表現とは言え、ここではっきりと『わたしは神の子だ』という証言が現れます。 † このような、沢山の伏線、延長上に、『本当に、この人は神の子だった』という言葉があります。この言葉は、キリストを証言するものであり、信仰告白なのです。 この言葉は、何をさして言ったのか、ということよりも、どこで言われたのかの方が、大事かも知れません。 この言葉は、十字架の下で、言われたのです。 主の十字架を見上げて言われたのです。 † 日本基督教団信仰告白の冒頭部分。 『我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は、神の霊感によリて成り』 『神の霊感によりてなり』を、『お筆さき』のような自動筆記だと考える人がいます。 著者の意図や思想・信仰とは関係なく、ひとりでに指が動き、文字が記された結果が聖書であり、人間の手が道具として用いられていても、聖書を記したのは神さまだと考える人がいます。 しかし、それならば、先週今週と例に挙げたような食い違い、矛盾は一つも生まれないでしょう。 それとも、違いや矛盾があるのは、そこだけ、人間の手が勝手に動いたのだと考えるのでしょうか。もしそんなことがあるならば、最早、『神の霊感によりてなり』と言うのは難しいでしょう。 † あまりにややこしいので、一番簡単な言い方をします。 聖書を書いたのは人間です。人間に違いありません。しかし、何故聖書に数えられる文書を書いたのか、残したのか、書かせたのか、残させたのか、それは、著者一人ひとりの信仰です。 信仰です。そして、その信仰がどこから生まれるのか、今日の出来事こそが、つまり十字架の感動、つまり、十字架によって、心が揺り動かされて、その心が、信仰が、ペンを運ばせるのです。 そういう意味でなら、正に神の霊感によりて、であり、神が聖書を記したと言うのも分かります。その意味では、聖書は神さまによって示されたとなりますでしょう。 † 『非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。』百人体長はそのように告白しましたが、これはマタイの告白でもあります。 そして、マルコの告白もあり、ルカにも、ヨハネにも告白があります。それが完全に一致しないのは、むしろ当然です。 † 55〜56節。 … 55:またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。 この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。 56:その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、 ゼベダイの子らの母がいた。… この人たちも、福音書こそ残していませんが、十字架の目撃者であり、証人です。 これらの人たちによって、十字架の出来事、福音は語り伝えられていきます。十字架の出来事は1回切りのことですが、多くの人によって繰り返し語り伝えられていきます。多少のずれが起こるのはむしろ当然です。報道ではなく、信仰の証しだからこそ起こります。 |