† 32節。 … 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、 イエスの十字架を無理に担がせた。… 多くの聖書物語で、欠かせない場面です。最も劇的、絵になる場面の一つでしょう。クレネ人シモンについては、マルコ福音書でも、ルカ福音書でも、大きな違いはありません。 しかし、ヨハネ福音書19章17節には、このように記されています。 … イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、 すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。… 大きな違いです。それだけではありません。マタイ福音書とマルコ福音書の間でも、十字架の場面描写で、大きな違いがあります。マタイでは、イエスさまが十字架の上で息を引き取られた時に大地震が起きたと記されていますが、マルコでは地震のことには全く触れられていません。 † マタイ福音書27章52節。 … 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。… これもマルコ福音書には、一行も記されていません。 これは個人的な感想ということになるのでしょうが、私には簡潔に記しているマルコ福音書の方が、陰影があって、とても文学的に深いように思われます。マタイの方は、ゴテゴテした分、却って信憑性が損ねられているような気が致します。 二つの福音書を捕まえて、どちらが文学的・神学的に優れているか、まして片方は劣っていると評価するのは、人間の分際を越えたことであり、傲慢でしょうが、正直な感想でもあります。 † どうして、福音書間で、このような違いが出てしまうのでしょうか。これにルカ福音書、ヨハネ福音書を重ねると、もっともっと、違いが増えて来てしまいます。 しかし、四つの証言の食い違い、ここに私はむしろ信憑性を感じます。同じ出来事でも、そこに居合わせた4人の証言がぴったりと重ならないのは、むしろ、当然です。 ぴったりと重なったら、それはおかしい、何か脚本のようなものがあると勘ぐらなければなりません。筋書き通りの証言は、偽証臭くなるでしょう。 ▼私は20数年前に、東京駅銀の鈴近くのロッカー前で、人がナイフで刺され、その場にくずおれるのを目撃したことがあります。 動転しまして、細かいことについては、確かな記憶がありません。被害者についても、犯人についても、背丈、年齢、服装、そういったことについて、確信をもって証言することは、とても出来ません。今では、日時どころか季節さえ定かではありません。 男の人が男の人をナイフで刺し、倒れるのを見てから、何事もなかったように悠然と立ち去った。これだけが、確かな記憶です。 犯人が逮捕されたかどうかも分かりません。時効になっていると思います。もし、目撃者として証言しろと言われても、責任的に答えられることは、何もありません。 † 4人の福音書記者の証言に微妙な、或いは、小さいとは言えない程の食い違いがあることは、むしろ、この出来事の信憑性を裏付けるものです。 そもそも、福音書を記した人には、或いは、その元となった伝承を持っていた人々には、今日の新聞報道的な関心はありません。詳細に至るまで記憶し記録し、正しく詳細に伝えるなどと言う気持ちは、初めからありません。 もし、そういう関心があったのなら、証言を付き合わせて、調整し、少しずつ書き換えることなど簡単なことです。 少なくとも、聖書が今日の形に編集される段階で、それは出来た筈です。 それをしなかったのは、そのような関心が、初めからないからです。互いに矛盾する話の内容に、整合性を付ける、そのために加筆したり、訂正したりするというような気持ちは、全くありません。 † 福音書記者が伝えたのは、伝えたかったのは、事実の報道ではなく、彼らの感動であり、彼らの信仰です。 これを絵画に準えることが出来るかも知れません。私は絵画について、からっきし無知です。ですから、難しいことは言いません。当たり前のことです。 絵画にも主題があります。ただ、景色を写し取っただけでは、絵画とは言えません。それなら、写真で十分です。否、写真にも、主題やイメージがありますでしょう。 ともかく、見たものをそのまま写し取るのではなくて、画家が感じた印象を写し取ります。そのままではなくて、頭の中で編集が行われます。大事な、ある部分だけが強調されます。デフォルメされるのです。勿論、切り捨てられてしまうものもあります。 † 優れた画家が描いた絵画を鑑賞して、何度も何度も、記憶する程に見て、絵の片隅に描かれているものに、改めて気付くこともありますでしょう。それも、良いかも知れません。私の友人は、同じ映画を3度見なければ、本当のことは分からないと言います。 繰り返し鑑賞し、そこに描かれた景色に憧れて、その場所を訪ねたくなるかも知れません。それも、良いでしょう。しかし、そこに出掛けるときには、地図を使わなくてはなりません。絵を地図の代わりにしたら、映画の場面をナビに使ったら、目的地には行けません。迷ってしまうでしょう。もともと、地図ではありませんから。 † 違いに目をやるよりも、共通していることにこそ、目を向けるべきです。そのために、回り道ですが、もう一箇所、違いをはっきりさせたいと思います。 以前ヨハネ福音書でお話していますし、ごく簡単に結論部分を申します。32節。 … キレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。… ところが、ヨハネ福音書を見ますと、19章17節、 … イエスは、自ら十字架を背負い … 大きな違いを見せます。マタイ、マルコではシモンが背負ったとあり、ヨハネではイエスさまが背負ったと書かれています。 これを、観察した時間の違いだと説明する説があります。最初はヨハネの書いた通り、マタイ・マルコの書いたのは、暫く経ってからだという説明です。しかし、それは姑息な解釈です。主の十字架という最重要な場面で、大きな食い違いが残ります。 † しかし、主題が何かという観点で読めば、何も矛盾はありません。 マルコ・マタイ・ルカは、このように言っています。 「私たち弟子が担うべきであったあの十字架を担ったのは、弟子の一人ではなく、通りすがりの人物、何の関係もないキレネ人であった。私たちは、既に逃げていたから、十字架を担うことが出来なかった。」このように証言・告白しているのです。 ヨハネはこのように言っています。 「私たち弟子が担うべきであったあの十字架を担ったのは、鞭打たれ付かれ果てていたイエスさまご自身であった。私たちは、十字架を担うことが出来なかった。」 このように証言・告白しているのです。表面真反対に見える描写です。しかし、両者の証言・告白に、矛盾はありません。言いたいことは、全く同じなのです。 † さて、以上は長い長い前置きに過ぎないかも知れません。 私たちは、マタイ福音書に記されていることの内、むしろ、他の福音書にも共通していることにこそ、注目しなければなりません。 それは些末なことではなく、本質的な事柄のことです。マタイ福音書から拾い上げます。 32節。これは、今読んだ通りです。37節。 … イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた 罪状書きを掲げた。… これも四つの福音書に共通しています。決して些末なことではありません。 † 少し先を急ぎます。 22節では『メシアと呼ばれているイエス』、29節では『ユダヤ人の王万歳』、37節、『これはユダヤ人の王イエスである』、 そして43節、 … 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。 『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」… 間接的な表現とは言え、これらの言葉・証言で、はっきりと『わたしは神の子だ』と言われています。。 † 39節から改めて読みます。 … 39:そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、 40:言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。 そして十字架から降りて来い。」… 同じ内容が、42節で繰り返されます。 … 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。… これは紛れもない信仰告白です。裏返しですが、信仰告白です。私たちが信じる救い主は、この証言通りのお方です。 『他人は救ったのに、自分は救えない。』、裏返しですから、ひっくり返しますと、 『他人は救ったのに、自分を救おうとはしない。』になります。 これこそが、私たちの仰ぐ、真実の王です。 † 一番顕著な例を挙げます。ヨハネ福音書10章11節。 … わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。… 同様の表現は、福音書に散らばっています。旧約聖書にもあります。 新約でも旧約でも、羊飼いはキリストに準えられています。真実の羊飼いがメシア・キリストです。そこには、『羊のために命を捨てる。』と描かれているのです。 『他人は救ったのに、自分は救えない。』、『他人は救ったのに、自分を救おうとはしない。』これが、本当のキリストです。 † 多くの偽キリストは、この真逆です。 実名を挙げる必要もありません。歴史上の、そして現代の偽キリストは、この真逆です。 彼らは、お国を守る、家を守るためと言いながら、若者を戦場に送ります。そして、自分は安全な所で守られています。結局は若者の命を犠牲にして、自分の安全を守るのが、偽キリストです。 滅私奉公とか、欲しがりません勝つまではとか、いろんなキャッチコピーがあります。しかし、他人に忍耐を貧困を強いる者が、己は贅沢な食事をしています。 イギリスの中世を舞台とした小説を読みますと、ロビンフッドの物語が一番典型的でしょうが、貴族領主は贅沢三昧な日々を送り、貧しい農民は毎日の食べ物にも不自由しています。その農民が、領主の森で、鳥や鹿を狩ろうものなら、死刑にされてしまいます。領主は領民を守りません。むしろ領民が領主を守っています。領主は領民を盾にします。 † 数年前、ちょっとしたきっかけで、一揆の歴史を勉強しました。一揆とは何か、一揆が何故起こるのか、それを記した本を何冊か読みました。 一揆は、このようにして起きます。一番典型的な事例です。時代劇に描かれるような、飢饉と阿漕な代官の図式ではありません。米が単に食料ではなく、換金作物となった時代、税金が上げられます。米が不作になりますと、農民は税が払えなくなります。そこに農民を守る、助けると言って、地主、大百姓や、お寺がお金を貸し付けます。借金が貯まって行きます。利息も払えず破綻すると、農民の土地は、買い取られます。そして、農民は小作、更には実質農奴に落ちて行きます。 この図式が初めから意図的なものだったと、歴史学者は言います。地主、大百姓や、お寺が結託して、殿様に進上し、税を上げ、お金を貸し付け、結果土地を奪います。 これは、イギリスなどでも全く同じです。領主と教会が結託して、同様のことが起こります。農民だって、その仕掛けは分かります。これが一揆の原因なのだそうです。 † 聖書には、ヨベルの定めがあります。安息日は7日目です。これを二乗すると49になります。49年目には、あらゆる借金が棒引きになり、借金の形に取られた土地も元の持ち主に返ります。 多分聖書世界にも一揆が生まれる図式が実在したのでしょう。これを防ぐために、ヨベルの年の定めが出来たのです。ユダヤの真の王ならば、ヨベルを実施しなくてはなりません。それが王たる者の責任です。領民を救うのが本来の領主です。逆ではありません。 † 聖書箇所からずれた話に聞こえているかも知れませんが、そうではありません。イエスさまの十字架は、人間の罪を棒引きにするヨベルでもあります。毎週の礼拝もそうです。罪が贖われる時です。どうも、歴史上の教会は、この逆をして来たかも知れません。 教会は偽キリストになってはなりません。人間の罪を棒引きにするのが教会の役割です。罪の糾弾よりも、罪の赦しが教会の役割です。 |