◆1節から、順に読みます。 … そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。… 『全会衆』です。大祭司の庭・法廷に居合わせた『全会衆』です。イエスさまの弟子たちは、既に逃げ出して いました。だから、『全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。』、そういう意味も込められてい るのでしょうか、『全会衆』です。 これはまた、イエスさまの十字架について、誰も、『私は知らなかった。』とは言えないという意味です。 十字架の周辺には、逃げ出した人と、イエスさまを追い詰めた人としかいません。但し、女たちだけは、そのど ちらでもありません。 ◆2節。 … そして、イエスをこう訴え始めた。… 訴えたのも、『全会衆』です。その内の誰か一人二人ではありません。『全会衆』です。 訴えの内容が記されています。 … 「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、 また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」… 先ず、『皇帝に税を納めるのを禁じ』、これは、二重に嘘です。 ルカ福音書ですと22章 … 24:「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」 彼らが「皇帝のものです」と言うと、 25:イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、 神のものは神に返しなさい。」… これだけでも充分でしょう。 イエスさまがローマに税を納めることに反対したとは、言えません。 ◆もう一つの嘘、『皇帝に税を納める』ことに、反発していたのは、ユダヤ人そのものです。これは当然です。ロ ーマに占領され、その圧政に苦しめられていました。ならば、『皇帝に税を納めるのを禁じ』る主張には大賛成 の筈です。 それなのに、イエスがこの主張をしたと嘘をつき、ローマに訴えるとは、二重の嘘であり、何よりも、自分自身を 欺く嘘でしょう。嘘つきの極まりは、自分自身をも欺く人です。 ◆もう一つの訴えの内容は、『自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。』 これは嘘ではないかも知れません。間接的ですが、イエスさまはそのように言われました。しかし、微妙です。2 2章の66節以下にその問答が記されています。 それは、今日の箇所の3節に続きます。 … そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、 イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。… 『ユダヤ人の王』『王たるメシア』だと言ったのは、ピラトであり、ピラトに告発した者たちです。イエスさまがご自 分で仰ったのではありません。しかし、イエスさまは、それを否定されません。 このことはマルコ、マタイ、ルカに共通します。彼らは、イエスを否定するために、『イエスはこう言った』と、事実を 捏造します。しかし、結果的にそれがイエスがキリストであることを浮かび上がらせてしまいます。 ◆4節。 … ピラトは祭司長たちと群衆に、 「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。… これは、偏見・利害のない者の観測・意見です。 その観測をイエスを憎む者は否定します。5節。 … 「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、 ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」… 事実とは違います。イエスさまは、ローマへの抵抗運動を煽ったことなど、一度もありません。時に民衆を扇動 し、時にそれを弾圧し、兎に角、自分たちに都合の良いことだけを行っていたのは、祭司長やユダヤ人の指導 者です。 ◆6〜7節。 … これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、 7:ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。 ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。… ピラトは、決して公正な人ではありません。ただ、面倒を避けただけです。責任逃れをしただけです。イエスさま は、最初大祭司の法廷に引き出され、それから、ピラトの元に送られました。これもまた、責任逃れに過ぎませ ん。 ◆8節。 … 彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、 ずっと以前から会いたいと思っていたし、 イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。… 自分の手を汚し責任を取りたくなかったピラトよりも、ヘロデの方がより無責任でいい加減です。ヘロデがイエ スに興味を持った理由は、ここに記されている通りです。イエスさまを何か手品師か魔法使いのように思っていた のでしょうか。自分の責任も権限も放棄し、高みの見物です。 9節。 … それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。… これは、ちょっと脱線かも知れませんが、この表現は興味深いと、私は考えます。 その人なりに、イエスに関心を持ち、質問しても、イエスさまは答えません。 無責任な問い、ただ興味本位な問いには、答えません。高みの見物ではイエスさまと問答は出来ません。 ◆福音書を通じていろんな人が、イエスさまに問い尋ね、また願います。いろんな問があります。切羽詰まった 問、学問的な問、信仰的な問、イエスさまを罠に掛けるための問、いろいろな問がありました。その問に、イエス さまは、時に罠と承知でも答えられます。 しかし、このヘロデの問は、いろんな問の中でも、最低な問です。そんな問には答えられません。 私たちもまた、イエスさまに問います。大抵、祈りという形で問います。罠と承知でも答えられるイエスさまです から、私たちの問にも答えてくれるでしょう。しかし、それがヘロデの問だったら、興味本位、ただの知りたがりだっ たら、答えは期待出来ないでしょう。そんな問をしてはなりません。 ◆10〜11節。 … 10:祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。 11:ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、 派手な衣を着せてピラトに送り返した。… 答えて貰えなかったヘロデは、イエスさまを嘲り、辱めました。こんな人は少なくないでしょう。自分の問が、およ そ真摯さを欠く、出鱈目な問なのに、それに答えないからと、腹を立て、憎むのです。 ◆22章61節を引用します。 … 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、 あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。… 『鶏が鳴く前に』とは、 単に早朝という意味ではなく、一番鶏が鳴き、その後二番取りが鳴くまでの僅かな時間の間にという意味なの でしょうか。 その短い時間の間に、ペトロは、イエスさまとの約束を破ってしまいます。自分の誓いの言葉を破ってしまいま す。 ◆イエスさまの十字架の出来事は、ことごとく、『鶏が鳴く前に』、僅かな時間の内に起こったことです。 十字架の出来事は、直接には、イエスさまのエルサレム入城から始まったとします。棕櫚の主日と呼ばれるよ うに、日曜日です。十字架は金曜日です。一週間ありません。この短い間の出来事です。 十字架の苦難そのものは、イエスさまが十字架に架けられたのが、ルカ福音書に準拠するならば、金曜日の 正午前となります。44節に、 … 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。… このように記されています。そうしますと、十字架に架けられたの十二時ごろよりは前となります。 26節には、 … 人々はイエスを引いて行く途中、 田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、 十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。… このように記されていますから、更に、正午から1時間ほども前でしょうか。2時間でしょうか。 ◆先ほど読んだ44節に、『全地は暗くなり、それが三時まで続いた。』とあります。 そして、46節には … イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」 こう言って息を引き取られた。… これは、『全地は暗くなり、それが三時まで続いた。』間のことなのか、その後のことなのかはっきりしませんが、 ほぼほぼ、この時間、午後3時かと思われます。 そうしますと、イエスさまが十字架の上にいた時間は、3時間を少し超えるくらいでしょうか。 いずれにしても、短い時間です。『鶏が鳴く前に』と言って良い程の、短い時間です。 そもそも、イエスさまの生涯も、その公に活動された時間も短いものです。一番長い可能性でも、3年半と言 われています。4つの福音書を照らし合わせて計算した結果だそうです。もっと短いと計算する人もいます。 キリスト教の2000年の歴史からすれば、ごく短い時間です。正に、『鶏が鳴く前に』起こった出来事です。 ◆繰り返し引用するシュテファン・ツブァイクに、『人類の星の時間』という本があります。人類の歴史を変えるよ うな出来事が、幾つも取り上げられています。 もし、『人類の星の時間』があるとすれば、十字架の瞬間こそが、その時間でしょう。一瞬の時間かも知れま せん。しかし、その光は、2000年後の世界にも届いています。その輝きが薄れることはありません。 ツブァイクが取り上げた『人類の星の時間』の挿話が、ことごとく光薄れ、忘れ去られたとしても、十字架の瞬 間、その光は、永遠に輝き続けることでしょう。 ◆『鶏が鳴く前に』、一番鶏が鳴いた後、二番鶏が鳴くまでの僅かな時間の内にと解釈することが出来ます。 しかし、福音書によっては、鶏は明け方前に鳴来ますから、その前に、未だ暗い内にと解釈することも出来ま す。 どちらも福音書ですから、どちらが正しいかは分かりません。両方正しいのでしょう。 ところで、『鶏が鳴く前に』、それでは「鶏が鳴いた後」は、どうなるのでしょうか。 今日の箇所は、厳密には、『鶏が鳴く前に』ではなく「鶏が鳴いた後」の出来事です。 この時間にこそ、十字架の苦難は現実になりました。 ◆23章44節。 … 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 45:太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。… 一番鶏が鶏が鳴きました。二番鶏も鳴きました。夜が明けました。もう既に、昼12時です。それが十字架の 時間です。しかし、この時に、『全地は暗くなり』ました。 シュテファン・ツブァイクが描いた『ノアの洪水』では、最後に放たれた鳩は、未だに、乾いた土地、平和な地を 探し求めて、飛び続けています。 烏に続いて2番目に放たれた鳩は、オリーブの葉を咥えて戻ってきましたが、最後に放たれた鳩は、未だに飛 び続けています。 十字架の鶏は、鳴いた後に、また闇を迎えてしまいました。 この鶏は、夜明けを待っているのでしょうか。 シュテファン・ツブァイクは、1942年、日本軍がシンガポールを攻め落とした日に、ピストル自殺しました。ロマ ン・ロラン宛てに遺書を残しました。 「曙は見えています。しかし、せっかちな私は先に行きます。」 私たちは、曙を待たなくてはなりません。たとえ永遠と思われる時間飛び続けるとしても、曙を信じて、待たなく てはなりません。私たちには永遠と見える時間も、『鶏が鳴く前に』と表現される時間でしかありません。〜星の 時間ではありません。 |