◆ 16〜18節前半までを、先ず、読みます。 … いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。 … これも、4章から述べられている終末と切り離して読むことは出来ません。そして、忍耐という主題の元に、述 べられています。 先週の箇所、5章1〜11節に述べられていることを要約します。 世の終わりの時と様子を知る必要はない。だから書き送る必要もない。 時期と場合を知ることで回避できるようなものではない。3節に記されているように、『それから逃れることは決 してできない』。ならば、時と様子を知ることではなく、それに耐えられるように備えなければならない。 ◆『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい』、時も場合もない、いつも、絶えず です。 世の終わりの時とその様子を知る必要はないとパウロは言います。では、必要もないのに何故そのことに触れ ているかと、言いますと、そこに人々の強い関心があったからです。そして、その関心は、時と様子を知ることにの み流れてしまっていました。その執着のために、かえって、終末論の本質を見失ったのです。 これに対して、使徒パウロは、普段の信仰生活が整っていれば、それで良い。時期と場合を知る必要はな い。弁えておかなくてはならないのは、その覚悟の程。その時を見据えた生き方が問われる、と言います。 それが、『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい』という言葉の意味です。 ◆ 19節から22節を読むためには、やはり、4〜5章に記された終末論と重ねて見なければなりません。 まあなるべく簡単に申しますと、当時の教会員は、終末というものを、時間的に極めて切迫したものであると 考えていました。パウロ自身もそうでした。単純な比較は間違いかも知れませんが、まるで、今日のキリスト教 系新興宗教の人々のようです。 しかし、なかなか終末は実現しない。今日か明日かと緊張して待っているものがなかなか来ないというのは、 辛いものです。 何も手につかないし、他の事は何も考えられなくなります。強迫観念のようなものです。 そうなりますと、ろくなことは頭に浮かばなくなります。焦燥、不信、不満、こういうものが、心を支配するように なってしまいます。 ◆ 回り道のようですが、ここで、5章6〜8節をご覧下さい。 特に8節。 … しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、 救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。 … 終末を待つことは、戦いです。武具を着けて戦わなければならない、厳しい戦いです。 焦燥、不信、不満、これを別の言葉で言うと、滅びの力です。死・滅びと闘う具体的な力が、ここで示されて います。力とは、信仰と愛、救いの望みです。 救いの望みこそが、信仰と愛を産む、そして、信仰と愛だけが、死・滅びと闘う真に有力な防具となりうるとパ ウロは言います。 ◆ ついでに、9節も読みます。 … 神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、 わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように 定められたのです。 … 怒りは、救いのための戦いに於いて、力にはなりません。慎んでいることが、真の戦いだとパウロは主張しま す。 だから、『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい』となります。 この言葉は、戦いを止めて、傍観していなさいと言う意味ではありません。 『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい』これは、そのようにして戦いなさいと言 う意味です。 19〜22節に述べられていることは、積極的な戦いの術です。決して消極的なことではありません。 聖霊、預言、倫理的な生活、こういうものこそが、悪、絶望、不安と戦う胸当てであり、冑なのです。それし か役に立つ武器はありません。 ◆ 23節は、日本基督教団の式文で、祝祷の言葉の一つです。それも、火葬前式で朗読されるものです。 これも、勿論、テサロニケの教会員の終末的な関心に応えている言葉です。 当時の人々は、終末を、自分が生きている間に、今日か明日にも来るように考えていました。そうなりますと、 終末が来る前に死んでしまったら、大問題です。 出来れば、若く元気で美しい間に終末が実現して欲しいというようなことにもなります。 逆に、若く元気で美しい間は、この地上の人生を愉しみたい、終末はその後にして、と考える人も有ったかも 知れません。 ◆ そんなことを考えている間にも、親しい者が亡くなるという事態が起こります。どうして、大きな躓きになりま す。埋葬された家族の遺体が、未だ、終末が実現していないのに、朽ち果てて行きます。このような躓きに使 徒パウロは応えているのです。 『どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。 また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、 わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、 非のうちどころのないものとしてくださいますように。』 例え肉体は朽ち果てても、『全く聖なる者としてくださいますように』、土の中に埋葬されても、『霊も魂も体も 何一つ欠けたところのないものとして』お『守り』下さいますようにと、そういう祈りです。 パウロは、信仰をもって、使徒としての責任に於いて、24節のように断言します。 … あなたがたをお招きになった方は、真実で、 必ずそのとおりにしてくださいます。 … ◆ 25節以下も、10〜11節以下と重なっていると思います。 … 主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、 目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。 11:ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、 お互いの向上に心がけなさい。 … そして、25〜26節 … 兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。 26:すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい。 … 終末を前にして、教会は何をなすべきか、この問題について、実に実際的なことが上げられています。 『励まし合い、お互いの向上に心がけ』ること、『聖なる口づけによって挨拶を』すること、『聖なる口づけ』は、 私たち日本人にはちょっと無理がありますが、別に口づけが大事なのではありません。ハグでもありません。『挨 拶』です。慎みのある交わりです。 一番簡単にまとめると、祈りによって、教会という交わりを形成するのです。 単に気が合うか、合わないか、そんなことではありません。 私たちは、終末を待つ共同体です。十字架に架けられた方と共に歩む共同体です。罪を見詰め、病を見詰 め、死を見詰め、なおかつ、希望に生きる共同体です。 ◆ だからこそ、12〜15節にありますように、互いの人間関係に於いても、寛容で、忍耐強く、交わりを作り上 げなければなりません。 12節。 … 12:兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、 主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ … これは明らかに、パウロたち伝道牧会者を指して言っています。自分たちを重んじなさいと言っています。私に は一寸言えない言葉です。そんなことを言わなくてはならない事態になったら、みっともない、恥ずかしいし、私な らもう務まらないでしょう。 パウロは、その禁じられた言葉を口に出しました。それこそが、テサロニケの教会員へのパウロの思いです。そし て、パウロの同労者たちへの思いです。 ◆13節。 … また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。 互いに平和に過ごしなさい。… これも、パウロと共に働く同労者たちを思えばこその言葉です。パウロだけのことだったら、『心から尊敬しなさ い』とは言いませんし、言えないでしょう。 ◆14節。 … 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。 気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。 すべての人に対して忍耐強く接しなさい。… 待つということは、信仰が問われることです。 単純に根気があるとか無いとかの問題ではありません。信仰があるか無いかです。神さまへの信頼があるか 無いかです。 信仰が揺らいでしまうと、「どうせ無駄なことだと」考え、怠けるようになります。その前に『気落ちし』ます。つま り、希望が潰え、どうでも良くなります。それらは、全て弱さの故です。意志が、そして信仰が弱いからです。 そのような弱い人を、『助けなさい。』とパウロは言います。弱い人を、裁いたり、見捨てたりするのではなく、 『助けなさい。』とパウロは言います。 ◆15節。 … だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。 お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。… 弱い人を、裁き、見下し、見捨てるのは、まして弾劾するのは、『悪をもって悪に報いること』でしかありませ ん。何故なら、信仰とは愛の業だからです。 弱い人を、裁き、見下し、見捨てることで、自分の正義が保たれると考える人がいます。しかし、それは、『悪 をもって悪に報いること』でしかありません。 ◆ 27節をご覧下さい。 … この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、 わたしは主によって強く命じます。 … ここだけ、馬鹿に強い調子です。ここだけ他の人が書き加えたのではないかとか、何か言いたくなる所です。し かし、学問的にはどうであれ、確かに、私たちキリスト者にとって、現代のキリスト者にとっても、極めて重要な事 柄が取り上げられています。必読の箇所です。 聖書的根拠のない勝手な終末論や、独りよがりな正義を振り回す人は、この箇所を読んでいないのではな いではしょうか。そうとしか思えません。 ◆ 28節。 … わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。 … 儀礼的な挨拶文かも知れません。パウロ書簡の末尾に、決まってこれに類似した表現が見られます。しか し、パウロが祈りを込めて、この祝福をしていることも確かです。 一テサロニケ1章1節。 『パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれている テサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように』 『キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ』、これが大前提です。全てのことが、このことを前提にして語ら れなければならないし、教会の業は、このことを前提にしてなされなければなりません。 そうした時に、神の恵みが必ず下され、私たちは、神さまに与えられた使命を全うすることが出来ます。 『恵みと平和が、あなたがたにあるように』『キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように』 この恵みとは、勿論、単に御利益のことではありません。終末と結び付いた事柄です。テサロニケの教会員 が、追求したものです。『キリストに結ばれている』共同体は、どんな状況下でも、希望のもとに、忍耐して、待 つのです。 信じていれば、待つことが出来るのです。 … わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。 … パウロの願いであり、祈りであり、そして戒めでもあります。 |