日本基督教団 玉川平安教会

■2025年3月16日 説教映像

■説教題 「ユダの裏切り」

■聖   書 ルカによる福音書 22章47〜53節 



▼小学校低学年の頃。夜8時に布団に入らされます。それから1時間ばかり、隣の居間から聞こえてくるラヂオ
放送を聴いて、何時の間にか眠りにつくのが毎夜のことでした。曜日によって、落語か浪花節、ラヂオドラマでし
た。ラヂオドラマは、三国志演義だったか、項羽と劉邦だったような気もします。両方だったのかも知れません。

 降伏した40万の兵士が、武装を解かれた上で、馬に追い立てられ、崖から落とされて、皆殺しにされるとい
う場面がありました。ラヂオながら恐ろしい情景でした。後に司馬遼太郎の『項羽と劉邦』を読みました。記憶
の通り、何とも残虐な場面です。

 三国志は、中学生になってから、吉川英治で読みました。こんな場面がありました。

 劉備玄徳、関羽、張飛が、曹操との戦に敗れ、後の燭の国に逃れていく場面です。疲れ、飢えた一行が、
山中一夜の宿を求めると、その家の主人は狼の肉を供し、歓待してくれます。

 翌朝旅立つ際、劉備玄徳は、家畜小屋に人間の女の死体があるのを発見します。それは、宿を提供した
主人の妻でした。貧しく、何のもてなしも出来ない男が、妻の肉で、もてなしたという、何とも、恐ろしい話です。
その後、毎晩夢にうなされました。

 三国志では、劉備玄徳は後に、この男の行いに感謝して、沢山の報償を与えたことが記されています。妻を
人に食わせて、報償を得た、そのこと自体も、恐ろしい記憶になりました。


▼私たちはイエスさまの十字架の場面を何度も読んでいます。十字架は、結局復活に繋がることも知っていま
す。その結果、些か感覚が麻痺しているのではないでしょうか。十字架の残酷さ、非道さ、そのおぞましさが、
薄められてしまっているのではないでしょうか。

 十字架の出来事は、本来、今挙げました項羽と劉邦の物語や『三国志演義』の残虐な場面にも等しい、
残酷な出来事なのです。

 22章44節。今日の箇所の直前です。

  … イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。…

 イエスさまの苦しむ様が、描かれています。『苦しみもだえ』です。ルカ福音書の他の場面に描かれる、熱心で
あっても静かな祈りではありません。『苦しみもだえ』た祈りです。

 『苦しみもだえ』ながら、『いよいよ切に祈られ』ました。その時に、『汗が血の滴るように地面に落ちた』とありま
す。そこまで、切羽詰まった状況です。

 続く45節。

  … 弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。…

 イエスさまが『苦しみもだえ … 切に祈られた』時に、弟子たちは怠けて、ましてのんびりと眠りこけていたと受け
止められがちですが、しかし、弟子たちもまた、『苦しみもだえ … 切に祈った』あげく、『悲しみの果てに眠り込ん
でいた』のです。

 体力的にも限界を超えていたでしょうが、『悲しみの果てに』、つまり精神的にも限界を超えていたことが描か
れています。


▼想像してみていただきたいと思います。疲れ果て眠り込んでいた、これなら解ります。誰もがそんな体験を持
っています。待ちくたびれて、飽き飽きして、いろいろありますが、『悲しみの果てに眠り込んでいた』という体験を
持つ人は少ないと思います。

 そこまで追い込まれていました。『悲しみの果てに眠り込んでいた』その眠りが、安眠だとはとても思えません。
悪夢を見る眠りでしょう。しかし、その眠りだけが救いと思われる程に、悲しみ、苦しんでいました。体も心も疲
れ果て、限界を超えていたのです。

 話が飛ぶようですが、22章の、特に36節をご覧下さい。

  … しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。

  袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。 …

 これは、他の福音書とは大きな違いがあります。

 マタイ福音書26章52節。

  … イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。…

 普段のイエスさまからは、『剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい』というような言葉が生まれて来ると
は、到底考えられません。

 いちいち例を上げる暇はありませんが、ルカは平和の福音を説きます。あのクリスマスの場面を思い起こして
下さい。羊飼いたちは、天に現れた軍隊と共に、讃美歌を歌います。

 しかし、ここでは、『剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい』です。


▼38節。

  … 「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、

  イエスは、「それでよい」と言われた。 …

 普段とは全く様子が違います。剣を用意しなくてはならないような、非常事態です。それが十字架の出来事
です。三国志演義や項羽と劉邦に描かれるような、壮絶な場面なのです。

 49節。

  … イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、

   「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。 …

 これをイエスさまは否定しません。止めなさいとは仰っていません。


▼50節。

  … そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。…

 『右の耳を切り落とした』後で、

  … そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、

  その耳に触れていやされた。 …

 私たちは正直ほっとします。イエスさまは矢張り平和の人で、剣で戦ったり、戦わせたりなさいません。しかし、
それならば何故、剣を用意しなさいと言われたのでしょうか。『右の耳を切り落とした』のをご覧になって、溜飲を
下げたとでもいうのでしょうか。そんな筈はありません。

 ここでは、剣を持ってでも戦うべき非常事態であることと、しかし、イエスさまは、それをなさらず、剣を納めさせ
たということが、同時に強調されていると考えます。

 このことは、私たちにも、私たちの教会活動にも当て嵌まると思います。

 徒な平和主義ではありません。徒な寛容でもありません。間違いは間違いです。戦うべき時は戦うべき時で
す。異端を許してはなりませんし、神や教会への冒涜を許してはなりません「誰とでも、折り合いをつけて仲良く
やりましょう。」というような話ではありません。

 ただ、剣を用いません。むしろ、悪に捕まえられ、殺されるのです。牽かれ行く子羊のように、黙して十字架の
死へと歩み続けるのです。それが信仰者の戦いです。武器は祈りだけです。


▼39節。

  … イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。…

 イエスさまは、祈るために、オリーブ山に向かわれました。そして、その道は、十字架の死へと続く道です。弟子
たちは、これに従ったのです。従わなければならなかったのです。

 40節。

  … いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、

  「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。 …

 誘惑とは具体的には何のことでしょうか。普通に読めば、後で眠りこけてしまったと書いてありますから、睡魔の
誘惑でしょうか。しかし、そんなことではないと思います。


▼鍵は、最後の53節にあると考えます。

  … わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。

  だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。…

 誘惑とは、この闇、闇の時代の支配のことだと思います。この闇は、ローマの闇の力は、後々までキリスト教
信仰を苦しめます。今日だってこの闇の力との戦いは続いています。

 誘惑に負けるとは、闇に身を委ねてしまうことです。敗北して、闇の支配に下ることです。

 それは則ち、剣で戦うことでしょう。祈りではなく、拳で戦うことでしょう。

 先ほど申しましたように、剣を抜いて闇の力と戦う気概がなくてはなりません。しかし、剣を抜くことは、イエスさ
まの御旨ではありません。


▼41節。

  … そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。…

 『石を投げて届くほどの所に離れ』とは、祈りの声が聞こえない距離ということかと思います。聞こえない距離な
ら、「誰がこの祈りを聞き記録したのか」と意地悪を言う人がいます。しかし、そんな批判をする人は、文学作品
を読んだことのない人です。文学の表現形式としては当たり前のことです。肝心なことは、イエスさまが何と祈ら
れたかということです。


▼42節。

  … 父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。…

 何度もお話ししておりますように、今起こっている出来事は尋常のことではありません。

 喜んで受けとめるとか、へっちゃらとか、そんなことではありません。

 その一方で、42節後半。

  … しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。…

 正に戦いです。イエスさまの祈りこそが戦いです。

 『この杯をわたしから取りのけてください』そして『御心のままに行ってください』矛盾と言えば矛盾ですが、十字
架は、そういう出来事です。祈りとは、葛藤であり、戦いです。


▼43節。

  … すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。 …

 ルカ福音書は、クリスマスの出来事と十字架の出来事とを重ねて描いています。ここもそうです。『天使が天
から現れて、イエスを力づけた。』

 クリスマスがそうであったように、この天使は、イエスさまを連れて逃げるようなことはありません。十字架の死を
回避しません。しかし、『イエスを力づけた』とあります。十字架への道、死への道を歩むことを、『力づけた』ので
す。

 このことは、私たちにも、全く当て嵌まります。私たちの信じる信仰は、所謂、御利益宗教ではありません。信
じれば、病も困難も止む、そういう嘘ではありません。神さまが苦しむ者と共に居て下さると信じる信仰です。イ
エスさまと一緒に苦しむのが、信仰です。

 自分の十字架を背負って、イエスさまに従う者を、慰め励まして下さる方がいると信じる信仰です。私たちも
祈ります。この十字架を取り去って下さい。そして、同時に祈ります。『御心のままに行ってください』、これが私た
ちの信仰です。祈りとは、葛藤であり、戦いです。


▼47節。

  … イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、

  十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。…

 イエスさまが『苦しみもだえ … 切に祈られた』のは、一つにはこのことのためではないでしょうか。イエスさまが選
んだ十二人の一人が裏切り、イエスさまを、金で売ったのです。

 しかも、48節に『ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか』とありますように、愛と信頼を表す接吻をもっ
て、裏切ったのです。


▼マフィアズキッスという言葉があります。映画『ゴッドファーザー』にもそんな場面があります。マフィアはこれから
殺すべき相手に接吻をして、殺し屋に標的を教えるのだそうです。

 暗がりの中ですし、当時は写真なんてありませんから、ユダは接吻で人の子、つまりイエスさまが誰かを、捕ら
えに来た人々に教えました。正に、マフィアズキッス、裏切りの口吻です。

 ユダが何を考え何を重んじ、結果、何故イエスさまを裏切ったのか、ルカは詳しく記していません。一番詳しい
と言いますかはっきりと描いているのは、ヨハネ福音書です。会計をごまかしていた、サタンが心の内に入ったと説
明しています。

 ルカはそこまで記していませんが、『誘惑に陥らないように祈りなさい』、これが説明でしょう。何かは解りません
が、ユダは誘惑に負けたのです。単純にお金のことではないかも知れません。しかし、何にしろ、口吻をもって、
イエスさまを裏切ったのです。単純にお金のことだったら罪は軽かったかも知れません。ユダは赦されない仕方
で、裏切ったのです。


▼もう一度53節を読みます。

  … わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。  だが、今はあ
なたたちの時で、闇が力を振るっている。 …

 闇の力に支配されるとは、光が信じられないということです。

 信仰のない人でも何かしらを信じて生きています。例えば、愛とか友情とか正義とか、少なくとも家族とか。も
し、何も信じられないとしたら、信じるられるものがないとしたら、この人は闇の中に生きているのです。闇の力に
支配されているのです。

 現実、そのような人が多くなっているかも知れません。何も信じられない、信じるられるものがないとなると、信
じられるものは、確かなものは、己の欲望だけです。その結果は、自分の欲望だけが行動の規範です。そのよ
うな人が多くなっているかも知れません。


▼私たちは、信じるものが与えられていることをこそ、喜び、感謝します。それが救いです。

  … 主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。

  死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。

  あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。』

 詩編23編です。何もかも失った時に、何が見えるのか、そこに信仰が残る人は、幸福です。