◇ 先ず13節をご覧ください。 … あなたが来るときには、 わたしがトロアスのカルポのところに置いてきた外套を持って来てください。 また書物、特に羊皮紙のものを持って来てください。… 随分と、些末なことが記されています。『書物、特に羊皮紙のもの』となりますと、福音宣教の上で大事なも のかも知れません。 『カルポのところに置いてきた外套』はどうでしょう。寒い季節が近づいていたのでしょう。それに備える充分な 衣服もなかったのかも知れません。そもそも、住まいが粗末だったのかも知れません。それにしましても、些末な ことです。私たちが有り難がって読んでいる聖書には、馴染まないような、日常生活の必要について記されてい ます。 ◇ 16節を見ますと、 … わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず … とあります。 『最初の弁明のとき』とは、最初に裁判にかけられた時です。この時に、教会からの援護が少なかった、何も なかったとパウロは言います。 … 皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。… この時のことが背景にあります。寒さから守ってくれる外套もないままに、パウロは冬を迎えようとしているのでし ょうか。『彼らにその責めが負わされませんように。』、これは、皮肉、むしろ嫌みでしょうか。僻みっぽくさえ聞こえ ます。 いずれにしても、些末なこと、日常のことに聞こえてしまいます。 ◇ 13節16節には、深刻とも言える事柄が隠されていて、批判も込められているのかも知れませんが、その他 の箇所も、些末と言えば些末です。パウロの個人的な状況であり、情報です。 10節と14節では、パウロを裏切った人間の名前が上げられて告発されています。これも、実名まで挙げて 批判するのは、パウロらしくありません。 しかも、告発だとしたら、全然具体性がありません。具体的でない告発は、悪口に過ぎません。このことも、パ ウロらしくありません。ですから、これも一つの根拠として、テモテ書はパウロが書いたものではないという学説が 生まれるのでしょう。 ◇ 長過ぎる前置きになりました。改めて、9節から読みます。 … ぜひ、急いでわたしのところへ来てください。… 寒い冬が近づいているから、早く、暖かい外套を届けて欲しいのでしょうか。そんなことではありません。そんな ことだけなら、それこそ、聖書の紙数を割くようなことではありません。当時貴重な羊皮紙を費やすことではあり ません。 18節を見ますと分かりますように、近づいているのは、単に冬ではありません。この世の終わりの時、裁きの 時が近づいていると、パウロは考えているようです。 ◇ その危急の時に、10節、 … デマスはこの世を愛し、わたしを見捨ててテサロニケに行ってしまい、 クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行っているからです。… デマスと他の二人とでは、事情・理由が全く違うのでしょうが、いずれにしろ、これまでパウロと共に働いていた 人がいなくなりました。そういう、危機感をパウロは抱いています。今日の言葉は、些末なことに触れられてい て、迫力がないようにも聞こえますが、実は、物語がクライマックスを迎えようとする、大事な時なのです。 映画の画面だったら、急に音楽が低くなり、照明が暗くなり、人の動きがスローになる時です。そして、映画な ら、その直後には、大音響が響き、物語は急展開します。一番簡単に言えば嵐の前の静けさです。 ◇ 11節。 … ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。 彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。… これも、全く事務的なことに聞こえますが、聞き逃してはなりません。 ルカは常にパウロの側近くにいた人です。ルカ福音書の著者です。一方、マルコは、マルコ福音書の記者です が、パウロと良好な関係だったとは限りません。パウロの第1回伝道旅行に参加しながら、途中で帰ったために、 批判されて、以後共に旅行することを拒否されています。そういう過去があります。 常に側にいて、行動を共にしたルカと、もう一人の福音書記者であるマルコと、並べられて出て来るのは、この 場面だけです。これから大事件が起こる、その前提なのです。 ◇ 12〜13節は、既に触れましたし、省略してよろしいでしょう。 14〜15節は一緒ですので、15節だけ読みます。 … あなたも彼には用心しなさい。 彼はわたしたちの語ることに激しく反対したからです。… 『銅細工人アレクサンドロ』は、パウロに敵対しました。どんなことを巡って対立したのか、どんなことをしてパウロ を『ひどく苦しめ』たのかは、記されていません。全く述べられていません。口にするのも汚らわしいようなことだった のでしょうか。 詳細に描かれていないのは、具体的に描くと、パウロさえも含めて、関係した全員が卑しくなるからだと思いま す。批判されたパウロにしても、弁明すること自体が、不愉快であり、卑しいことに堕ちてしまうからでしょう。 私はそのように想像します。私もそのような体験をしたからです。その話を説教で話したくはありません。礼拝 そのものが汚れてしまうと思うからです。 ◇ その問題については、14節後半に記されていることで充分です。 … 主は、その仕業に応じて彼にお報いになります。… それなのに、パウロは重ねて言います。既に読みました。『あなたも彼には用心しなさい。』これは、言わなくて はならなかったのです。 私の想像に過ぎないかも知れませんが、アレクサンドロが、同じことを繰り返したからでしょう。また、同じことが 繰り返されてはならないからでしょう。 私は教団での役割上、いろんな教会を見て来ました。一つの教会で同じ問題が、同じ過ちが繰り返されま す。同じ人によって繰り返されます。それこそ、他人様の教会のことであり、具体的には言えませんが、同じ人 が、何代もの牧師を追い出したりします。 どこかで止めなくてはなりません。誰かが、勇気をもって止めなくてはなりません。 ◇ 改めて16節を読みます。 … わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、 皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。… パウロが、今申し上げたような羽目に陥ったようです。その時に、『だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てまし た。』これが現実でした。 教会に起こってはならないことです。しかし、起こるのが現実の教会です。 『最初の弁明のとき』、これも具体的には記されていないので、ローマに対する弁明の時なのか、教会に対す る弁明の時なのかも分かりません。 しかし、『最初の弁明のとき』、最初の争いの時、教会員は、パウロを支持せず、『銅細工人アレクサンドロ』 の言い分を聞いたのではないでしょうか。『銅細工人アレクサンドロ』が何ほどの人なのかも分かりません。実力 者だったのでしょうか。そうとは限りません。ただ、面倒臭い人だったのかも知れません。ただ、変な人だったのかも 知れません。 その程度の人が、パウロほどの人を追い出すことなど、有り得ないように思えますが、しかし、教 会だから、それが起こります。世間では起こり得ないことが、起こります。 教会員が善人過ぎるのかも知れません。 パウロが敢えて言わないことを、私が暴露する必要はありませんでしょう。 ◇ 17節前半を読みます。 … しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、 すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、 力づけてくださいました。… 『主はわたしのそばにいて』、それは、他に誰もいない時にです。誰かにいて欲しいのに、誰もいなかった時のこ とです。 今日の箇所は、読みようによっては、ぼやきにも聞こえます。普段抑えている教会員への不満にも聞こえま す。 しかし、同時に、『主はわたしのそばにいて』、という信頼でもあります。そうしたものでしょう。どちらか一つでは ありません。矛盾するようで、二つは結び付きます。 ◇ 17節声半を読みます。 … そして、わたしは獅子の口から救われました。… ここも、ここさえも具体的ではありません。何が起こったのか、詳しくは述べられていません。パウロが他の箇所 で描いていることから想像は出来ます。コリント書等から、今、かなりの行数で引用することも出来ます。 しかし、敢えて止めておきましょう。パウロが述べていないからであり、また、具体的なことを挙げる必要がない とも考えるからです。 兎に角、パウロは『獅子の口から救われました。』 ◇『獅子の口から』です。それは、『銅細工人アレクサンドロ』からと言うことではないでしょう。『銅細工人アレク サンドロ』がパウロに悪事を働いたことは間違いありませんが、そんな大物ではありません。パウロを恐怖させるよ うな大物ではありません。 むしろ、16節の『だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。』このことこそ、『獅子の口』と呼ぶべきことか も知れません。 〜私にはそのように思われてなりません。もう一つ考えさせられることがあります。『獅子の口』とは、一つではな いでしょう。口が沢山あります。パウロのみならず、私たちにもあります。『獅子の口から救われ』たことが何度も あります。多分、どなたもです。 ◇ 分かり易くするために、自分の話をします。 私は、20年ばかりの間に、3度ほど、死んでもおかしくなかった病気を体験しました。 最初はA型肝炎です。救急車ではなく、タクシーで病院に行ったのが災いして、何ら治療を受けることなく、治 療室に放って置かれました。ガタガタからだが震える程の悪寒がし、早く診て貰いたいのに、担架に乗せられたま ま、一晩捨て置かれました。自分で起き上がることが出来ません。担架から転げ落ち這いずって行きたいと思 いましたが、その力さえありませんでした。 後で分かったことなのですが、翌日の検査では、劇症肝炎に近い数値が出ていて、死んでも不思議はなかっ たそうです。明らかな医療ミスです。 たまたま、その大きな病院の前の副院長と、やはり以前に部長として勤務していた医師が教会員の役員でし た。この役員は、後日結果を知って、ナースイテーションにいた全員を、大声で怒鳴りつけていました。〜この病 院では1年後、別件で、重大な医療ミスがあったのに隠していたことがばれて、大問題になりました。 ◇ 他にも、寸前で助かった狭心症と咳喘息を体験しました。咳喘息の時は、駅のホームでうずくまり、呼吸で きなくなって、暫くは座り込みました。その傍らを大勢の人が通り過ぎて行きます。何十人どころか、何百人でし ょう。しかし、誰一人立ち止まることも、声をかけてくれることもありません。息が出来なくて苦しんでいて、頭をよ ぎったのは、「このまま死んで行くんだ。誰も助けくれないんだ。」という思いでした。 狭心症の時は、20分近い発作を繰り返し起こしました。すんでで心筋梗塞にはならなかったようです。この 時には、当時飼っていたワンちゃん、今と同じキャバリアが、異常を察知し、大声で泣いて娘に知らせ、ずっと側 にいて、私の体をなめてくれました。 ◇ こんな話は切りがありません。もっと、地味なと申しますか、大事には至らなかったけれども、命に関わること が起こり、何事も無かったかのように見過ごされることは多々あります。 駅のホームで、若い娘さんが、手に提げていたショルダーを背負いました。その際に、電車待ちで並んでいた 老人の背中に当たりました。老人は、一歩2歩前によろけて、ホームから落ちるところでした。娘さんは、何が起 こったのか、全く気付かずに、そのまま通り過ぎて行きました。老人にも、何が起こったのか分からなかったと思い ます。私だけが一部始終を見ていました。 ままあることです。誰かに酷く傷付けられても、周囲の人には何も見えません。何も感じません。しかし、瀬戸 際だったのです。自分が人を傷付けた場合も同じことです。人を傷付けたことに、気付きもしません。 『獅子の口』は、人の日常の中に開いています。大きく口を開けて待っています。何人かは、それに食らわれ てしまいます。逃れた人は、何事が起こったのかも知りません。 ですから、私たちは、罪を犯さないようにと、日々祈り、『獅子の口』に墜ちなかったことを、日々感謝するしか ありません。 |