◇ 39節を先ず読みます。 … 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。 そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、 「本当に、この人は神の子だった」と言った。 … 繰り返し読んでいますと、この表現が、心に、棘のように刺さります。魚の小骨がそうであるように、何度目の 咀嚼で引っ掛かったのは分かりません。その瞬間に激痛が走ったのでもありませんが、気付いてみると、棘があり ます。 ◇『本当に、この人は神の子だった』。イエスさまが十字架に架けられる場面で、このように言われているのです から、誰が言ったにせよ、これは単なる感想ではなくて、一種の信仰告白です。極めて短く凝縮された信仰告 白です。 その信仰告白をした百人隊長とは何者かということは、後に申し上げることと致しまして、百人隊長は、一体 何を見て、或は何を聞いて、『本当に、この人は神の子だった』と言ったのでしょうか。その観点から、読んでまい りたいと思います。 ◇ 百人隊長が直接に目撃した可能性が高いのは、15章22節から後に記されている出来事です。拡げれ ば、15章1節からの可能性がありますし、それ以前の出来事も考慮に入るかも知れません。 しかし、『このようにして息をひきとられたのを見て』という表現に拘るならば、15章33節以下の場面と言うこと になります。15章33節以下に、『本当に、この人は神の子だった』と言わしめるような、何事があったというので しょうか。 ◇ 33節でしょうか。 … 昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。… 突然として『全地は暗くなっ』たのですが、そのことで人々が仰天したとは、記されていません。そこに居合わせ た誰もが、平然としています。 突然のように全地が暗くなることはあります。そう度々は起こりませんが、皆既日食もあります。雷雲が湧き出 て暗くなることがあります。エルサレム辺りでも起こります。深紅の闇に、ただ雷鳴が響き、ギサギザの光が走る 光景は、有名な写真家の作品にも描かれています。その他にも、幾つか可能性・候補を上げることが出来まし ょう。 ◇ しかし、この時に、天変地異が起こったと解釈すること自体が無理です。 何しろ人々は冷静です。慌てる様子は全くありません。逃げ出した人は一人もいません。 『全地は暗くなっ』たとの記事・表現は、イエス・キリストという地の光が消えたことを表現しているのでしょうが、 人々は、全く気が付きません。重大事とは思いません。 人類の歴史を変えるような出来事があったのに、人々は、それを何事もなかったように、やり過ごすというの は、聖書に繰り返し描かれている場面です。ここもその一つでしょう。 マルコ福音書は、とんでもない出来事が起こったと描きたいのではなく、とんでもない出来事が起こったのに、 エルサレムのユダヤ人は、何も感じることはなかった。 ただ、異邦人である百人隊長だけが、この出来事を正しく受け止めたと、記しているのではないでしょうか。 ◇ 改めて、37・38節が、百人隊長の言葉の理由でしょうか。 … 37:しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。 38:すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。… この後に、39節 … イエスがこのように息を引き取られたのを見て… と続きます。そうすると、一番普通に解釈すれば、『神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。』この 出来事こそが、『本当に、この人は神の子だった』と言わしめたとなります。 しかし、意地の悪い読み方に聞こえるかも知れませんが、『神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた』のは、 エルサレム神殿内の出来事であって、外の者には分からない筈です。少なくとも、今、百人隊長には、見えま せん。 ここでも、『神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた』大事件は、人々の心に届きもしなかった、しかし、百 人隊長には、それが感じられたと言うことなのではないでしょうか。 ◇ 39節そのものが、百人隊長の言葉の理由でしょうか。 … 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。 そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、 「本当に、この人は神の子だった」と言った。… しかし、『このように』とは何を示すのか、矢張り分かりません。 37節でしょうか。 … しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。… ピンと来ないどころか、むしろ逆です。結局、特定することは困難なようです。 ◇ 百人隊長がどうだったかということを忘れた方が良いかも知れません。 私たち自身は、『このようにして息をひきとられたのを見て』という表現から、イエスさまの死の全てを、イエスさま の出来事の全てを思い起こしながら、『まことに、この人は神の子であった』と言います。 つまり、私たちは、この場面、この言葉だけではなく、イエスさまの言葉や行いを知っています。それだから、こ の場面でのイエスさまの言葉や行いにも、特別な響きを感じますし、『本当に、この人は神の子だった』と告白し ます。 百人隊長の言葉も、イエスさまの死の全てを、イエスさまの出来事の全てを思い起こしながら、『まことに、この 人は神の子であった』と言ったのではないでしょうか。 ◇ ここで百人隊長とは何者かという所に話を戻します。 福音書の中に、百人隊長と呼ばれる人は何人も登場します。十字架の以降の使徒言行録も含めれば、4 人以上にもなります。その一人一人について説明をする時間はありません。 十字架の以降に登場する者はともかく、今日の箇所を含めて3人の百人隊長はしばしば混同されます。私 たちは、百人隊長についても、十字架の出来事についても、4つの福音書を混ぜ合わせ、一緒くたに読み考え てしまいます。 例えばマグダラのマリヤなどについても、同様の混同が起こります。聖書中に何人ものマリヤが存在しますが、 それぞれ別人なのに、エピソードを重ねて、一人の人物像に作り上げてしまいます。 このような読み方は、厳密な聖書解釈としては間違いと言われるでしょう。しかし、信仰的にはどうでしょうか。 それで良いのかも知れません。 ◇ さて前置き、前準備が徒に長くなったかも知れません。結論部分をお話しすることに致します。そのために、 少しだけ前の箇所をご覧いただきたいと思います。 29節以下です。 … 29:そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。 「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、 30:十字架から降りて自分を救ってみろ。」 31:同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、 代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。 32:メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。 それを見たら、信じてやろう。」 一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。… 他の機会に申し上げていることですが、本来イエスさまを罵る意図を持ったこの言葉は、しかし、イエスさまを 実に正確に表現しています。 イエスさまは、正に、『他人を救ったが、自分自身を救えない。』方なのです。もっと厳密に言えば、『他人を 救っても、自分自身を救うことはなさらない。』方なのです。そして、人々は、『イスラエルの王キリスト、いま十字 架から降りるがよい。それを見たら信じてやろう』と言いますけれども、もしここで超能力を発揮して十字架から おりてしまったならば、それはもうキリストではありません。 ◇ 何故なら、26節、 … 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。… この十字架こそ、「ユダヤ人の王」世界の真の王が座るべき玉座だからです。 人々は、ローマの兵隊たちは、自らはそれと知らず、イエスさまに紫の衣を着せ、茨の冠を被せ、十字架という 玉座に座らせて、「ユダヤ人の王」世界の真の王として即位させる儀式を執り行ったのです。 十字架の出来事は、「ユダヤ人の王」世界の真の王の即位式であり、ここに、神の国が、神の国の統治が 始まったのです。 マルコ福音書の連続講解説教は、今日が第1回目です。しばらく置いて11月30日の1章1〜3節の説教 から、連続講解が始まります。 おいおいと申し上げるべき事柄なのですが、マルコ福音書の主題の一つは、王キリストということにあります。マ ルコ福音書とは、イエスさまが王として即位するまでの物語です。そのクライマックス、王としての即位式が、この 15章なのです。 ◇ もう一度38節に戻ります。 … すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。… 『神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。』とは何を意味するのでしょうか。 神殿の幕とは、至聖 所と俗世間とを隔てるものです。 至聖所とは、神への犠牲が捧げられる場所です。ですから、『神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた』と は、イエスさまが十字架に架けられたゴルゴダの丘が、神への犠牲が捧げられる場所となったという意味です。 至聖所と俗世間とを隔てるものがなくなったということであり、即ち俗世間が至聖所となったということです。私た ちの世界は、今や、神の言葉を聞くことが出来る場所、聖所なのです。 至聖所は神の領域です。神の国に属するものです。ですから、『神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた』 とは、神の国が、この世界の中に拡がって来たということです。つまり、約めて言えば、イエスさまの十字架の出 来事によって、神の国が始まったのです。 ◇ マルコ福音書16章の所謂虚ろな墓の箇所を聖句として与えられ、『終わりから始まる』という題で説教した ことがありました。墓も、十字架も、終わりでありながら、同時に始まりです。神の国の始まりです。 … 神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 39:百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。 そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、 「本当に、この人は神の子だった」と言った。… 百人隊長は、神の国の始まりを見たのです。 ◇ わたしたちもまた、今日、新に、神の国の始まりを覗き見ています。召天者記念礼拝とは、そのような意味 を持っています。 この頃は、何故かハローウィンが盛んです。そのどんちゃん騒ぎが、やや静まった頃にクリスマスになります。間 にあるアドベントには、世間の人は知らんぷりです。ツリーやイルミネーションは、街に溢れますが、それはアドベ ントではありません。 クリスマスの後には、イースターではなく、カーニバルが盛んに祝われます。レントは全く忘れられています。不 思議な現象です。キリスト教の大事な行事は不人気、その周辺にあるものだけが人気で、肝心なものには、 誰も目もくれません。 クリスマス・イースター、何事かが起こりました。しかし、それを見ていない人もいます。見ていても何も感じない 人がいます。飲み食いの方が大事な人がいます。 ◇ 今の時代、地獄はガラガラに空いていて、そこに悪魔はいないそうです。何故なら、全員、この地上に出張 しているからだそうです。悪魔にとって、地獄よりこの世が人気です。楽しいからです。シェークスピアの『テンペス ト』が、そのように伝えています。 極楽と天国も空いているそうです。極楽は娯楽がないので、不人気だそうです。 それでは、天国はどうでしょうか。勿論、ガラガラです。悪魔は勿論これを嫌います。そして人間は、詩編とロ ーマ書に書いてある通り、『義人は一人もいない』、空っぽです。 この頃の我が玉川平安教会の礼拝出席に鑑みても、天国は不人気です。もしかすると、天国は、今もガラ ガラかも知れません。多分満員御礼は出ていないでしょう。 しかし、私たちは、例え人数が少なくとも、天国に移住する日を待ち望んでいます。 ◇ それでも、私たちは、天国=神の国を目指して歩んでいます。天国の見取り図はありません。旅行案内も ありません。どんな所か、さっぱり分かりません。それでも天国を目指すのは、そこに信仰の先達たちがいると信 じるからです。 私たちは、行く先が良く分からない旅を、し続けています。愛した人がそこにいるからです。いると信じるからで す。 |