日本基督教団 玉川平安教会

■2025年9月28日 説教映像


■説教題 「神の言葉は縛られない

■聖   書 テモテへの手紙二 2章8〜13節 


◇ 先ず、9節後半をご覧ください。

 … 神の言葉はつながれていません。…

 これは何を意味するのでしょうか。具体的には、9節の前半との比較です。

 … この福音のためにわたしは苦しみを受け、

  ついに犯罪人のように鎖につながれています。…

 パウロは、今獄中にあります。『鎖につながれています』。文字通りではないかも知れません。手紙を書くことは
出来たわけですし、面会も許されていたようです。しかし、パウロにとっては、全く不満足な状況です。


◇ 誰でも、牢屋に入れられて満足出来ませんが、パウロの場合は、単に肉体の束縛のことではありません。

 自由に福音宣教の働きが出来ないことが、不自由であり、それが『鎖につながれています』と言わせます。パ
ウロは、もっと広範囲に、速やかに、福音を伝えなくてはならないと考えています。手紙を書くことは出来ても、面
会も許されていても、自由に動けないことは福音宣教の使命からすれば、大きな妨げです。

 しかし、『神の言葉はつながれていません。』

 宣教が今も行われているからです。パウロが獄にあっても、様々な不自由、制限の中でも、『鎖につながれて
い』ながらも、宣教は続けられています。


◇ 先週の箇所の2節に戻ります。

 … 多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、

   ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。…

 パウロが獄にあっても、宣教が続けられているのは、パウロに従い、その使命を共に担う人がいたからです。

 パウロが獄中にあることと、福音が『忠実な人たちにゆだね』られることとは、教会の歴史上一つの大事件と言
って良いでしょう。

 パウロが不自由を強いられているから、他の人々が、宣教のために自分も何かしらしなくてはと考え、その中
から、働く人が出ます。

 コリント書等を読みますと、パウロが獄に入れられたことで躓き、パウロを批判する側に回ったり、教会から離
れた人もいたようです。

 しかし、同じ出来事が、より伝道熱心な人、責任的に働く人をも造り上げまです。それが、神さまのなさる不
思議な業です。


◇ 10節を読みます。

 … だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。

  彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。

  だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。

  彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。…

 『選ばれた人々のために』と言います。『選ばれた人々』とは誰のことでしょうか。2〜6に触れられています。福
音宣教のために走り続ける人のことです。

 神の国を信じて、そのために生き、そのために死に、人々に福音を告げる人のことです。

 必ずしも、神の国をゴールとしたマラソン競走に勝ち抜いた人ではありません。神の国へのマラソンを走り続け
た人です。


◇『選ばれた人々』とは、現世の生活で成功した人、偉くなった人のことではありません。何しろ、パウロは今、
獄中です。この世的に見れば、落ちこぼれであり、失敗した人に過ぎません。

 しかし、神の国への不適格者ではありません。聖書研究祈祷会で読んでいるテモテ書に、適格者、不適格
者と言う表現があります。神の国へ入る適格者、不適格者です。

 パウロの伝道は行き詰まっているようです。何しろ、牢屋に入れられています。しかし、パウロは不適格者では
ありません。

 パウロの働きを共に担い、福音宣教に働く人がいます。

 福音宣教のために働く人が大勢になりました。むしろ、パウロが獄中にあるからです。


◇『神の言葉はつながれていません。』。つなぐことなど出来ません。何故なら、福音宣教は、人の心から人の
心へと伝えられるものです。これを縛ることは出来ません。一人一人の心の中に育った信仰はどこから来たもの
なのか、約めて言えば、聖霊によって与えられたものです。聖霊を縛ることは出来ません。

 田中久重という人がいます。田中久重、それは誰という感じです。私もその一人ですが、田中儀右衛門で
す。この名前なら、知らない人はないでしょう。からくり儀右衛門です。どうして日本史で人の名前も地名も本
の題名も変わってしまうのでしょうか。事件の年代まで変わります。とても不自由です。

 それはともかく、儀右衛門については、有名な逸話があります。彼が捕らえられ、縄で縛り上げられた時に言
ったとされる言葉です。

 「儀右衛門を縛っても、頭の中を縛ることは出来ない」

 パウロは縛られていても、伝道の志は縛られていません。パウロの心を縛ることは出来ません。


◇ 11節。

 … 次の言葉は真実です。…

 それならば、私たちも『次の言葉』を聞きましょう。

 … 「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、

  キリストと共に生きるようになる。…

 ここで、一番肝心なのは、『キリストと共に死んだのなら』でしょう。パウロは第一に、殉教を思い浮かべている
と思います。そろそろ、迫害、殉教の危機が迫っていた時です。

 しかし、『キリストと共に死んだ』とは、殉教を指すだけではありません。何々をして、その結果死んだと言うより
も、信仰を抱いて死んだという意味だと考えます。

 これがなかなかに難しいことです。


◇ 信仰の長い旅路の途中で、道を逸れてしまう人が少なくありません。それぞれに困難な事情がありますか
ら、教会に来なくなった人のことを責めはしません。そうではなく、心が教会から離れてしまうことです。教会にも
いろいろと問題があったりしますから、教会に来れなくなってしまった人のことをも責めることは出来ません。

 むしろ、教会が、牧師が反省しなくてはならないことが多いでしょう。

 問題なのは、信仰そのものが、心から出て行ってしまった人です。或いは、心の片隅に信仰をしまい込んだ人
のことです。

 その人にも誰にも、神の国は等しく開かれています。こう言ったら、嘘になります。

 それでは福音宣教する意味がありません。

 『キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。』最低、死ぬ間際の罪の告白、これだけでも
なくては、その人に、神の国を約束することは出来ません。


◇ 先日もちょっと触れましたが、少し古風な葬儀場では、あるゆる行列の先頭に、お坊さんが立ちます。偉い
からではありません。あの世へと導く導師だからです。

 骨上げまでの時間、休憩室で一杯やるようなお坊さんがいたら、亡くなった人は、あの世ではなく、どこか違う
世界に迷い込むかも知れません。そういう信仰です。

 『キリストと共に死んだなら』とは、教会で、キリスト教式の葬儀で、牧師を導師として天国に旅立つのがふさ
わしい、必ずしも、そういうことではないかも知れません。

 しかし、死の瞬間まで信仰を持って生きていたいものです。それならば、神の国へと旅立つことが出来るでしょ
う。声が出るならアーメンと言って死にたいものです。

 死後の裁きは、神さまがなさることですから、期待するしかありません。


◇ 12節。

 … 耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、

  キリストもわたしたちを否まれる。…

 これも、パウロは殉教を想定していると思います。

 しかし、マタイ福音書25章31節以下の譬え話こそ、殉教よりも現実的で大事かも知れません。

 この譬え話を引用したら、とても長くなります。要約したら、元の迫力をなくすだけです。多分、トルストイ『靴
屋のマルチン』の話の原典ですと言った方が、早いでしょう。


◇ 13節前半。

 … わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。…

 これは難しく考えたら、際限なくどんどん難しくなると思います。それも大切なことかも知れません。『キリストは
常に真実であられる』この言葉を、毎朝晩繰り返して、唱えたら良いかも知れません。

 これを神学的にキチンと説明しようとしたら、読むべき本が10冊以上もあるでしょう。

 難しい本を引用して説教を始めたら、欠伸で、礼拝堂が膨らんでしまうか知れません。

 私の、一聖書読者としての方針です。難しい箇所は、難しく考えないで、なるべく簡単に読みます。読みが
浅いと批判されても仕方がありません。


◇ 前置きが長くなりました。もう一度読み直します。

 … わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。…

 一番表面の言葉をそのまま読めば、人が誠実さを見失ったとしても、神は変わることがない、でしょう。

 『わたしたちが誠実でなく』とは、キリストを否定すること、キリストの教えを捨てることでしょう。

 パウロさんたちが、裏切るようなことはないかも知れませんが、人間です。分かりません。他のパウロの手紙に
は、教会を、信仰を裏切った人のことに触れられています。例外ですが、その人の実名まで挙げられています。

 しかし、どんな時にも、『キリストは常に真実であられる』、真実が真実でなくなることはありません。真理は変
わりません。変わるようなら、それは真理ではありません。


◇ その理由は、13節後半に述べられています。

 … キリストは御自身を 否むことができないからである。…

 これは、表面だけを読んではなりません。『キリストは〜できないからである』と読んだら、キリストは神ではなく
なってしまいます。しかし、このような読み方は、言葉の遊び、しかも悪意をもった遊びでしかありません。

 そんなことを言いたい人には、もっと簡単な効果的な言葉があります。

 「神は自分の存在を否定することが出来ない。つまり全能の神ではない。」

 こんな理屈だって成り立ちます。

 ある人が、『神は存在しない』言い、これに反論します。

 『あなたが今、神と呼んだのは、どんな神さまですか。』

 『神は存在しない』と言う人は、自分が頭に描く神を否定しているだけです。存在しない神を心に描いていま
す。存在しない神がいないのは、当たり前です。


◇『キリストは御自身を 否むことができない』

 あまり深追いすることはありませんが、あまりにも表面をなぞってもなりません。

 もっと単純に読みましょう。当たり前に読みましょう。

 信者がどんなに否定しようとも、キリストの教えは変わりません。変える事情や能力がないからではありませ
ん。真理は、変えようとしても、変わらないからです。変わらないからこそ真理です。


◇ 昔、ソビエトの機関誌は『プラウダ』と言いました。真実は隠されて、党に都合の良い記事ばかりが載ってい
ました。その『プラウダ』は、真理という意味です。

 『オウム真理教』もありました。これについては、説明無用でしょう。真理など一欠片もありません。

 『物見の塔』の機関誌、彼らの新しい聖書も、真理でした。彼らが、終末だとか輸血禁止などか、勝手なこと
を言うのは止められませんが、聖書本来の教えとは、全く関係ありません。これだけは言わなくてはなりません。
彼らは聖書と無関係な団体です。

 まして統一協会となったら、その存在を黙認することは、既に犯罪に荷担することです。

 未だ未だあります。真理とはほど遠い者こそが、真理と言う言葉を使いたがるようです。


◇ 9節をもう一度読みます。

 … この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように

  鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。…

 現代日本のキリスト教会にだって、いろいろと迫害はあります。教会に対して牙を?く人はいます。様々な制約
があります。しかし、福音は縛られてはいません。キリストを心に持つ人を縛ることは出来ません。縛ったとして
も、その信仰を縛ることは出来ません。