◇ 松江北堀教会の礼拝堂が新しくなってから間もなくだったと思います。なにしろ30年以上が経ちましたの で、何時だったかは、あまり正確な記憶ではありません。 しかし、この記憶は鮮明です。 ある朝、何時ものように牧師室で仕事をしておりますと、教会玄関で、騒がしい声がします。言って見ますと、 30歳くらいの女性が、立っていました。そして、何やら叫んでいます。 「ここには悪魔がいる。ここは汚れている。」そう言っているようです。 私一人しかいませんから、「ここには悪魔がいる。」と言われてもちょっと困ります。 「どうしましたか。」と声を掛けますと、何やら意味不明なことを叫んで、去って行きました。 ◇ この女性は、一週間後にまたやってまいりまして、この時は、自分の書いた詩を、『信徒の友』に掲載してく れと頼みます。私は、この時点では、教団出版局とは何の関係もありません。手づるなんてありません。そのよ うに断りますと、また、「ここには悪魔がいる。ここは汚れている。」と言って帰って行きました。 その次は電話でした。何とかと言う本と、お菓子を持ってきて欲しいと言います。電話は、精神科の入院病棟 からでした。 その病院のお医者さんとは、ちょっとした知り合いでしたので、仕方がなく、差し入れを持って、面会にまいりま した。教会に見えた時よりは、落ち着いた感じでしたが、矢張り、支離滅裂な話に終始します。そんなことが何 回か続きました。 ◇ 電話もなくなり、半年ばかりが経ちました。最初の時と同じように、玄関前に立ち、 「ここには悪魔がいる。ここは汚れている。」と叫ぶ声がしました。顔を出しますと、何も言わずに、そのまま帰って 行きました。その次は、全く無言でした。それが最後でした。 一度、町中で見掛けました。私のことは全く気が付かないかのように、通り過ぎて行きました。その後の消息 は知りません。その人の名前も忘れてしまいました。 ◇ この体験が、一番劇的だったと言うわけではありません。似たようなことを何度も体験しました。大曲の時に は、真夜中に礼拝堂で一人祈っている少女の姿を見ました。この子は、「私はサタンだ。」と叫び、気絶するよ うにバタッと床にうつ伏せになります。それから立ち上がり、「私は天使だ。」と叫びます。これを何度も繰り返して いました。 後で分かったことですが、この子は、教会の隣にある高校の看護科の生徒で、受験を控えて、進路に悩んで いたようです。毎夜のように、2回の勉強部屋で騒々しい音がするので、父親が部屋を開けてみると、先ほど の光景でした。この子は、父親に気付くと、裸足のまま外に掛け出してしまいました。 いろいろと心当たりを探したあげく、「天使とかサタンとか言っていた」ことに思い当たり、教会に来てみたと言 い、父親は娘を引き取って行きました。 ◇ 他にも一杯あります。殺人を犯した人の面会にも、3件、まいりました。しかし、もう充分でしょう。何故こん な話をしているのかは、後で解ります。23節から読みます。 … そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。… 『会堂に』です。これを見逃してはなりません。会堂とは、ユダヤ教の集会所で、エルサレム神殿ではありませ んが、それにしても、神聖な場所です。聖書の教えが説かれ、讃美がなされ、祈りがある場所です。神殿のよ うな犠牲奉献はありませんが、神さまの名前で集まる神聖な場所の筈です。会堂は、直接的に教会の源流だ と考えられます。 会堂=シナゴーグ、シュナゴーゲー、集まる所、これが教会=エクレーシア、呼び出された所になります。神さ まによって集められた者が集う所、神の民が集う所です。 そこに『汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。』のです。 ◇ 何と叫んだのか。24節。 … ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。 正体は分かっている。神の聖者だ。」… 学者に言わせれば、サタンでさえ、イエスをキリストと認識しているとの意味になります。そういう文学的表現だ となります。その通りでしょうが、もっと単純に受け止めてよろしいと思います。 『汚れた霊に取りつかれた男』が、会堂にいたのです。会堂に住み着いていたのかも知れません。居心地が 良かったのでしょうか。教会はどうなのでしょうか。教会に、『汚れた霊に取りつかれた男』が、存在していては堪 りません。しかし、いるかも知れません。そのことが、私たちが、真剣に問わなくてはならない点でしょう。 教会をサタンの居心地が良い場所にしてはなりません。 ◇ 最初にお話しした女性が、「ここには悪魔がいる。ここは汚れている。」と叫んだ時、会堂が新しくなり、若い 女性、それも結婚準備の女性が礼拝に集まるようになり、松江北堀教会が、盛んになった時でした。と言って も、今の玉川平安教会と人数的には、そんなに変わりませんが。 会堂新築後間もなく、結婚式があり、そこに列席した人が、私もここで挙式したいとなり、若い人が増え、礼 拝が何とはなく、若やいで、魅力的になったと思います。 そこに、「ここには悪魔がいる。ここは汚れている。」と叫ぶ女性が登場したのです。良い警告だったのかも知れ ません。会堂が新しくなり、人も新しくなりました。そこは、サタンにとっても、居心地が良いのかも知れません。 そういう時にこそ、教会とは何かという本質を忘れてはなりません。表面的なことで浮かれていてはなりません。 新しい会堂は、新しい気持ちで、聖書に聞き、讃美する場所でなくてはなりません。 ◇ もう一度24節を読みます。 … ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。 正体は分かっている。神の聖者だ。」… 悪霊には居心地が良かった所に、『ナザレのイエス』が現れました。途端に、悪霊は滅びの危機を感じます。 教会はイエス・キリストを迎えなくてはなりません。他の者を迎えてはなりません。 教会にキリストがいれば、迎え入れていれば、悪霊は滅びの危険を感じて、耐えられなくなり、そこから、逃げ 出さなくてはならなくなります。 悪霊が留まり続けるようならば、そこは神の教会と言えないでしょう。 ◇「ここには悪魔がいる。ここは汚れている。」と叫んだ女性は、結局玄関先だけで、礼拝堂に入ることは一度 もありませんでした。 礼拝堂に入れるべきでした。そうしたらどのように反応したでしょうか。この人が悪霊に取り憑かれていたとして も、礼拝堂なら、この女性から出て行ったかも知れません。 ◇ 25〜26節。 … イエスが、「黙れ。この人から出て行け。」とお叱りになると、 26:汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。… 私は、そのようには言いませんでした。悪霊の仕業かどうかは知れませんし、勿論、言いませんが、「礼拝にい らっしゃい」とは言うべきだったのでしょう。 牧師としての責任上、「黙れ。この人から出て行け。」と言わなければならない局面でも、教会を守るために は、「黙れ。この人から出て行け。」と言うべき時にも、私は、言いません。言ったことがありません。 それは、多分間違いでしょう。むしろ、無責任なのでしょう。 優しいように見えていて、実は、本当の思いやりがなかったのかも知れません。 ◇ 21節に戻ります。 … 一行はカファルナウムに着いた。 イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。… この出来事は、『安息日に会堂』で起こったことなのです。私たちに当て嵌めれば、日曜日に教会で起こった ことです。 しかも、それは礼拝の最中です。イエスさまの説教を聞いていた時の出来事です。 ◇ 22節。 … 人々はその教えに非常に驚いた。 律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。… 会衆は、ちゃんとイエスさまの説教を理解したようです。 『非常に驚いた』、つまり、感動さえしました。イエスさまの言葉に権威さえ感じました。しかし、彼らは、同じ会 堂に、悪霊が居心地良く住み着いていたことに気付かずにいたのです。彼らは、悪霊と共存していたと言った ら、批判が過ぎるでしょうか。 ◇ マルコ6章には、故郷ガリラヤの人々の前でイエスさまが説教したことが記されています。2節を引用します。 … 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。 多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。 「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。 この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。… ガリラヤの人々もまた、イエスさまの説教が優れて力のあるものだと感じました。 しかし、彼らは、3節。 … この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、 シモンの兄弟ではないか。…と言って躓いたと記されています。 イエスさまの説教を聞き、ある程度まで理解し、その力を感じていても、全く逆に反応し、躓く人が多いので す。マルコ6章の舞台も会堂です。 ◇ 27節。 … 人々は皆驚いて、論じ合った。… イエスさまの言葉に、驚くことも、それを巡って論じ合うことも結構でしょう。 深く考えて、自問自答することも大切かも知れません。 しかし、先にお話ししました女子高校生のようになってはなりません。深い内省の結果の自問自答、時には良 いことかも知れません。 しかし、信仰者には、より大切なことがあります。内省、自問自答、要は自分に聞いています。自分の中に、 答えを探しています。それが見つかれば結構ですが、なかなか難しいことです。事柄によっては、誰か、相談相 手が必要です。 ◇ ここで、私の十八番をお話しします。何度もお話ししています。 人には、迷った時に、誰か、相談相手が必要です。「こんばんのおかずは何にしようかと、相談出来る相手が いたら、それは素晴らしいことです。取るに足らないようなことを、相談出来る相手は、良き友人です。」 しかし、事柄によっては、この友人に話せないこともあります。話してはならないこともあります。そこを間違え て、深刻な事柄をこの友人に相談したら、良き回答など得られないのは当然、友人を失うことさえあります。間 違い、関係を間違えてはなりません。 深刻な事柄を相談出来るのは、限られた人だけに絞らなくてはなりません。それは、親友です。何でも相談 出来る親友を持ったら、悩みを打ち明けることが出来る人がいたら、それは、豊かな人生になります。 ◇ その親友にも、相談すべきではないことが起こります。 親友でも、親友だからこそ、お金の話は止めた方がよろしいでしょう。お金の貸し借りは、友人を失います。 お金の相談まで出来る相手がいたら、それは、素晴らしいことです。本当に信頼出来る人になら、相手を巻 き込み共倒れにならない相手なら、お金の相談も貸し借りも許されるかも知れません。しかし、ここでも、関係 を間違えたら、大変なことになります。 ◇ もっともっと深刻なことも起こります。親友にも、家族にも話せないこと、話してはならないことだってあります。 私も、牧師ならではの秘密を、心にしまい込んでいます。妻にも話せません。その中には、何十年の年期物も あります。時々、ロバの耳が欲しくなります。 そんな時には、相手は神さましかありません。それが、祈りです。と申しますか、いろんな祈りがありますが、最 も大事なこと、誰にも言えないこと、言葉に出せないことこそ、沈黙して、神さまに祈るしかありません。 自問自答に終わってはなりません。それを聞いているのは、サタンかも知れません。悪魔の魔は、本来隙間の 間だそうです。心の隙間に、悪魔は入り込みます。人への恨み、そねみ、妬み、これらは心の隙間です。悪魔 が狙っています。 一方、神さまに今晩のおかずを相談することはどうでしょうか。人とも、神さまとも、関係を間違えてはなりませ ん。間違えたら、悪魔が聞いているかも知れません。 |