◇ 2節前半から読みます。 … 王たちやすべての高官のためにもささげなさい。… 使徒パウロは、『王たちやすべての高官のためにも』祈りを『ささげなさい』と明言しています。王たちや高官た ちのために、今日ならば、天皇家のために、政治家のためにとなりますでしょうか。 これには、反感を覚える人が少なくないでしょう。逆に当然のことだと考える人もあります。多様な受け止め方 があって当然です。イギリスだったら、他のキリスト教の王国だったら、そういう観点もあるでしょう。議論があるの は、当然です。 ◇ ところで、2節の前には、先ず1節があります。 … そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とを すべての人々のためにささげなさい。… これが大前提です。2節も、『王たちやすべての高官のためにもささげなさい』、『ためにも』です。『すべての 人々のためにささげ』るのであって、ですから、当然そこには、『王たちやすべての高官』も入ります。『すべての 人々』が第一、優先です。 ◇ なんだかんだと言っても、『王たちやすべての高官』を特別視しているという指摘もあるでしょう。そうかも知れ ません。しかし、使徒パウロの時代が、どんな時代であったかということを考慮すれば、『王たちやすべての高官 のためにもささげなさい』、『ためにも』は、反感を覚える人の見方とは、むしろ、真逆だと考えます。 この時代の感覚だったら、先ず『王たちやすべての高官のために』祈り、そして、一般民衆のためにも祈り、場 合によっては、更に、貧しい人々のためにも祈りなさい、それが普通の感覚だったと思います。良いとか悪いとか ではなく、そういう観点だったと思います。使徒パウロは、むしろ、時代の常識とはかけ離れたことを言っているの です。 それを、体制迎合的と呼ぶのは、見当違いも甚だしいと思います。 ◇ 真ん中にいる人を、左から見れば、右にいるとなりますし、右から見れば、左にいるとなります。また、前方を 指さしているのに、前方からその指の位置を見て、後ろに下がらなくてはならないと考えるのは、あまりにも愚か です。 我が家の犬は、ここに来なさいと言えば、理解できますし、言うことを聞きます。しかし、あっちに行きなさいと指 さしても、それは分かりません。何度も言うと、指の所に来てしまいます。前方を指さしているのに、前方からその 指の位置を見て、後ろに下がらなくてはならないと考えるのは、あまりにも愚かです。 ◇ ところで、1節の中身をきちんと見なくてはなりません。 … そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とを すべての人々のためにささげなさい。… 中身とは、『願いと祈りと執り成しと感謝』です。『すべての人々のために』『願いと祈りと執り成しと感謝』を『さ さげ』るのです。 誰に、勿論、神に捧げます。『すべての人々のために』、むしろ、「すべての人々を覚えて」でしょうか。 ◇『願いと祈り』とは、分かったような分からないような、言葉です。少し説明が要りますでしょう。エペソ6章18 節。 … どのような時にも、"霊"に助けられて祈り、願い求め、すべての 聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。… 『祈り、願い求め』祈り願う、願い祈る、そういう表現です。 エペソ6章18節は、テモテのちょうど裏返しです。エペソでは、教会員皆が、主のご用に当たる聖なる者たち のために、その働きのために、祈り願っています。テモテでは、主のご用に当たる者たちが、人々のために、その 救いのために祈り願っています。 ◇『執り成し』の祈りとは、主のご用に当たる者たちが、自分では祈ることの出来ない者のために、代わりに祈り ます。代理祈祷・代祷と言う人もあります。 自分では祈ることの出来ない者、そういう人が存在します。病気や老いがあります。祈りの言葉を失う程の苦 悩を抱える人があります。 未だ、信仰に至っていない家族や友人もありますでしょう。 ◇『執り成しと感謝』の『感謝』は、ギリシャ語では、ユーカリステオー、これは今日聖餐式の意味でも使われま す。もう一つ『感謝』と訳される言葉はカリスです。これはカリスマのカリスです。ここでは、カリスではなく、ユーカリ ステアが使われています。このことだけでも分かります。単なる感謝ではありません。極めて信仰的な意味です。 聖餐式、礼拝と、直接に結び付いています。 イエス・キリストの十字架の血への感謝です。贖い、救いの事実への感謝です。十字架の血による『願いと 祈りと執り成しと感謝』です。礼拝そのものです。 ◇ 2節に戻ります。特に後半、 … わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るため… これが高官のために祈る理由です。ここだけ読みますと、『王たちやすべての高官の』救いのために祈っている のではないことが、分かります。 まして、彼らの繁栄を祈願しているのでもありません。『わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着い た生活を送るためです。』 つまり、キリスト者の信仰生活が守られるように祈っているのです。 このことは文脈から離れても大事なことです。『信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活』これが、あるべき キリスト者の生活です。 そして、これを実践することは、実際にはなかなか困難なことです。 ◇ 話を元に戻します。 1節に言われていることと、2節に言われていることと、両方です。更に、3〜4節では、1節に戻ったような格 好で、全ての人の救い、だから当然、『王たちやすべての高官の』救いのためにも祈ることが言われています。 … これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。 4:神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。… ◇ 1節。『全ての人々のためにささげなさい』 4節。『すべての人々が救われて』 6節。『全ての人の贖いとして』 こんなふうに、『全ての人の救い』が繰り返し言われています。その中での、『王たちやすべての高官の』救い が上げられています。 使徒パウロを、まして、学問的には使徒パウロの著作ではないという説もあるテモテ書を、体制迎合的だとし て批判する人がいます。私には聖書のここがいけないなどという感覚そのものが、理解出来ませんが、少なくと もここでは、体制迎合的なのではなくて、 4節。 … 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。… これに基づくことです。 ◇ 5節以降をあらためて読みます。5節。 … 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、 人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。… 使徒パウロは、『全ての人の救い』のために祈ります。しかし、その祈りによって、神と人との間を仲介することに よって、人が救われるのではありません。人が神の代理人となって他の人を救うことは出来ません。 逆に言えば、人が神の代理人となって他の人を裁き罰することも出来ません。 その辺を間違えている人は少なくないと思います。 私たちは祈って祈って、祈りの力で自分や人を救うのではありません。それは出来ません。祈祷の力を、人間 一個の能力と理解した時に、その瞬間、祈りは祈りではなくて、魔術になってしまいます。 ◇ 初代教会の教会会議で、アウグスティヌスなどによって、異端として退けられたペラギウス主義という思想が あります。 これは、簡単に言えば、個々人が自分の救いの鍵を持っているという思想です。自分の、救済への努力、祈 り、それが肝心なことで、イエス・キリストの十字架による贖いという思想は弱くなっています。当然ながら、ペラ ギウス主義は、原罪という信仰を否定します。 要するに、罪も、救いも人間次第です。今日、このペラギウス主義が形を変えて、教会の中に入り込んでい るように思います。大変、危険な異端思想です。 ◇ 形を変えて、それは、例えばヒューマニズムという形を取ります。また、例えばペンテコステ派という形を取りま す。ヒューマニズムもペンテコステ派も、それ自体結構なものかも知れません。しかし、ややもすると、救済への 努力が救いをもたらす、熱烈な祈りが救いをもたらすとなって、十字架の血が要らなくなってしまいます。大事な のは、人間の力になってしまいます。 それが、ペラギウス主義です。ヒューマニズムも、ペンテコステ派にも、同様の危惧を覚えます。そうでなければ よろしいのですが。 ◇ 6節。 … この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。 これは定められた時になされた証しです。… 救いの根拠は、イエス・キリストの十字架による贖いにしかありません。自分の努力で自分を救うことは出来 ません。それがパウロの思想の中心です。 ◇ 7節。 … わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、 すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。 わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。… この箇所は大変に大事です。これが、8節以下の具体的な教えの、根拠だからです。 『異邦人に信仰と真理を説く教師』、それが使徒パウロです。 『異邦人』、今は、この言葉自体が差別的だとして退けられますが、この時代の『異邦人』です。 逆を考えれば良く分かります。キリスト者が、キリスト者だというだけの理由で、投獄され処刑された時代で す。キリスト教的な倫理が全く通用しない、民族差別、男女差別どころか、奴隷制度があった時代のことで す。 ◇ 8節。 … だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、 清い手を上げてどこででも祈ることです。… 9節以下は、今日の日課からは外れています。これを一緒に読むと、読者の関心は、全部そっちの方に行っ てしまって、7節までは埋没してしまいます。 あくまでも、8節に限定して読みます。 ◇『だから』とは、既に申しましたように、6節が根拠です。イエス・キリストは『すべての人の贖いとして御自身を 献げられ』のだから、『男は』短気になって人の弱さを裁き、争ってはなりません。 逆に、迫害する者のためにも、『清い手を上げてどこででも祈』ります。他人を弾圧し叩きのめすためではな く、祈るために、『手を上げ』るのです。 そして、体制迎合的どころか、『王たちやすべての高官』こそが、パウロの宣教団を、教会を迫害し、殺す者 たちでした。 このことを忘れてはなりません。これを前提としないで、体制迎合的だなどと言うのは、全く見当違いです。 『王たちやすべての高官のためにもささげなさい』とは、体制に迎合しても、社会的信用を得なさい、そのこと が伝道に繋がります〜というような意味ではありません。 教会を迫害し、殺す者たちのために、祈りなさいと言う教えです。 十字架の上で、十字架に架けた人々を赦した人の教えです。 ◇ … 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。… これに基づくことです。『すべての人々』に強調があります。その中には、身分の上下を含めて、あらゆる人が いるという意味です。何しろ、教会に害する者も含まれています。 このことの意味、重大さを考えないで、「王や貴族政治家のために祈るのは、体制迎合的だ」と批判するの は、まるっきり間違いです。勿論、「王や貴族政治家のために祈るのは、当然だ。」と唱えるのも、聖書とは関 係ない思想です。 |