◇ 未だ教会に通っていない昔のこと、初めてこの箇所を読んだ時に、どうして彼らが、弟子に選ばれたのかと、 考てしまいました。 何故に、この二組の漁師たちが、最初の弟子として、呼び出されたのだろうか。疑問に思う人は少なくないと 思います。彼らにはどんな能力があったのか、どんな資格があって弟子にされたのか。それが不思議でなりませ ん。 ◇ 多くの昔話に、同じようなことが語られています。グリム童話にもあります。黒澤明監督の『7人の侍』もそう ですし、数多くの映画でも、同様です。それぞれに何かしらの取り柄があって、いかにも役に立ちそうだという人 が、順番に取り立てられて行きます。 当初は、そんな力は何の役にも立たないとみなされていたのに、思いもかけない局面で、大きな力を発揮す る、そんな人が必ず混じっています。例えば、大飯食らいだとか。 ◇ 彼らにどんな能力が有ったかを知るためには、後々彼らがどんな活躍をしたかを見ればよろしいかと思いま す。映画ならば、物語が展開し、この人ならではという出来事が起こり、そこで、彼らが大活躍します。 しかし、聖書の場合には、成る程と思い当たるような記事はありません。 ペトロについてならば、これが該当するかなと、受け止められる出来事が、ないでもありません。しかし、むし ろ、この人ではまずかったのでは、と思わされるような出来事の方が、数多く記されています。 ヨハネについては、何か有りますでしょうか。ヨハネについても、むしろ思い浮かぶのは、欠点の方です。他の弟 子たちも似たり寄ったりです。 イスカリオテのユダに至っては、『生まれなかった方が良かった』とさえ言われています。それならば、最初から、 弟子に選ばれなかった方が、良かったのではないでしょうか。 ◇ また、彼らはどんな思いで、イエスさまに従ったのだろうということにも、興味を持たないではいられません。特 に、洗礼を前にした者や、神学校に入るかどうかで迷っている者にとっては、これは、実に真摯な問です。 福音書の僅かな記述から、必死に、彼らの心を探らずにはいられません。 たった一つの単語を、そのギリシャ語本来の意味まで調べずにはいられません。しかし、そこにも、答えらしきも のは見当たりません。 ◇ ポール・ギャリコの『ポセイドン・アドヴェンチャー』は、繰り返し映画化されました。超ロングベストセラー小説 です。転覆した豪華客船が舞台、主人公の元オリンピック金メダリストの牧師に率いられた、15人が、船底に 上る苦難・冒険を描く小説です。 牧師が群れを率いて、船底に上る旅をするという設定だけでも、これが極めて聖書的・信仰的な物語である ことは、察していただけると思います。ポール・ギャリコには、深く信仰生活を洞察する小説が他にもたくさんあり ます。 だからこそ引用するのですが、この『ポセイドン・アドヴェンチャー』では、客船が転覆する前に、登場人物15 人が、それぞれどのような生活をしていたか、どんなことを考え、何故に、この船に乗り込むこととなったのかが、 かなりの頁数で描かれています。 映画の方でも、随分時間を費やしてこれを描写していたように思います。 当然でしょう。そうでなければ、読者は、登場人物に、思い入れを持ち、ハラハラドキドキして、物語を読み 進めることは出来ません。 ◇ 何故、この人たちが弟子として選ばれたのか。 それ以上に、彼らは、どんな思いを抱いて、イエスさまに従ったのか。 私は、ちょっと大げさに聞こえるかも知れませんが、初めて聖書に触れてから50年以上、このことを考え続け て来ました。 しかしながら、これがそうだと言って、皆さんに紹介できるようなことには、未だに、思い至りません。 ◇ いろいろと想像をたくましくして、考えてしまうところですが、結局、私たちは、マルコ福音書に記されていること を、読むべきではないでしょうか。それだけを読むべきではないでしょうか。 つまり、何も記されていないという事実をです。何も記されていないという事実をこそ、読まなくてはなりませ ん。 『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』、もっと省けば『わたしについて来なさい』これだけです。 何故、何を目的として従ったのか、招きを受けた弟子たちには、その時に、どんな思いがあったのか、マルコに とって、それは一番大事なことではないようです。マルコは何も記していないのですから。 ◇ ただ、『わたしについて来なさい』というイエスさまの言葉が与えられた、それが全てです。それで、十分です。 何故とか、何を思ったかとかは、マルコの考えでは、無用なのです。 その時に、弟子たちが何を思ったか、それは、良い動機に基づくものであれ、逆であれ、本質的なことではあ りません。 イエスさまの言葉が示された。イエスさまの、み心が示された。それ以上のことはないと、何も記さないことで、 マルコは、雄弁に語っているのです。 ◇ 私たちには、人には知られたくない過去があります。逆に、人に知っていて欲しいことや、自慢したいことがあ ります。私たちには、人に隠し育て、自分だけの宝物にしておきたいものがあり、人に隠したまま捨て去ってしまい たい傷があります。 しかし、それが宝でも、傷でも、それに拘泥する時に、宝や逆に傷は、一種の偶像になっているのではないで しょうか。 まるで奴隷のように、過去に捕らえられているのです。そこから自由になれません。 ◇『わたしについて来なさい』というイエスさまの言葉によって、私たちは、これらの過去から自由にされます。自 由になることが出来ます。 クリスマスの物語と復活の場面に頻出する『恐れるな』も、同じです。この言葉は、人間が脅えて当然な時 に、不安になって当たり前の時に、天使やイエスさまによって語られます。恐れをなくす根拠は、人間にはありま せん。それは、天使の言葉だけにあります。 人間の不安を拭う根拠は、人間の側にはありません。財産があっても、ちゃんと年金があっても、高額の医療 保険に入っていても、それでも、人間が人間であるが故に、逃れる手立てがない、根本的な不安が残ります。 しかし、イエスさまが、『恐れるな』とおっしゃるのです。恐れを免れる根拠はイエスさまの側に存在します。だか ら、私たちは、客観的にはどんなに絶望的な状況にあっても、安心していられます。平和に生きることが出来ま す。 もう一度言います。『わたしについて来なさい』との言葉によって、私たちは、過去から自由にされるのです。未 来からも自由にされます。もう奴隷ではありません。 ◇ ここで、ちょっと角度を変えて、考えたいと思います。 玉川平安教会では、讃美歌ですから、献金の祈りはありませんが、多くの教会で、献金当番の人が、こんな 風に祈ります。「今、捧げましたものを、御国のご用のために、清めてお用い下さい」。これで何も間違いはあり ません。 しかし清められなければならないのは、お金ではないと思います。 お金ならば、溶剤で洗えば、ピカピカになります。お札だって、洗ってからアイロンをかければ、新札同様です。 そもそも、銀行で新しいものに替えて貰えます。 清めていただかなければならないのは、人間の方です。 献金の時のお祈りは、厳密には、「今、私を捧げます。御国のご用のために、清めてお用い下さい。」なので す。 ◇ 40年も昔のことです。年配も似通った或る牧師と親しくなりました。いろいろと身の上話なども聞くようになり まして、この人が、献身する以前は、ラッパ吹きだったと言うことを知りました。ラッパ吹きとは、自分でそう言った のです。正しくは、キャバレーなどを主な仕事の場とする楽団で、トランペットを吹いていました。 演奏家を目指したのですが、なかなか容易なことではありません。キャバレーなど、お酒が出るようなお店での 演奏が大半でありました。紅白歌合戦の舞台で、トランペットを吹くのが、彼の人生の目標でした。〜 あまり 売れていなくとも、プロだったのです。 ◇ 彼は献身するや、トランペットを捨てました。トランペットを捨てて、献身したと言った方が正確でしょうか。こ の話を聞いて、私は、彼を誘惑しました。 「献身のために楽器を捨てたのは、成る程と思います。偉いとも思います。しかし、今は、これを神さまから与 えられたタラントとして、伝道に用いることが出来るのではないでしょうか。是非、聞かせて欲しい。」と、誘惑しま した。 彼はかなり抵抗したのですが、何しろ、根が好きな道ですから、結局、再び楽器を手にしました。 教会に、まして牧師の世界にプロのトランペット吹きは、ざらにはいません。他には、一人も知りません。どんな 楽器でも、牧師にプロ気取りの人はいても、プロはいません。 彼のラッパは、大いに脚光を浴びるようになりました。キャンプの湖畔で演奏すると、中学生や高校生は、その 音に圧倒され、夢中になって聞き入ったものです。 何しろ、プロですから。 ◇ この人は、その後、突然の病に倒れ、帰らぬ人となりました。彼の伝道者・牧会者としての時間は、本人や 周囲の者が思ったより、ずっと短いものだったのです。 その限られた時間の一部を、再びトランペットに奪われたのかも知れません。 私はとんだ誘惑者、サタンだったのかも知れません。 しかし、私は間違ったことをしたとは思いません。 彼は、ひとたび捨てたからこそ、それを手にすることが出来たのです。 何も、楽器や、他の特別な能力のことだけではありません。 私たちは、『わたしについて来なさい』というイエスさまの言葉に聞き従って、それまでの自分というものから自由に なった時に、初めて、本当の自分を与えられるのではないでしょうか。もしその人に固有の能力があったとすれ ば、それを捨てた時にこそ、その能力が用いられるのではないでしょうか。 ◇ 今日礼拝に出席している一人ひとりにも、きっと、人には知られたくない過去があると思います。逆に、人に 知っていて欲しいことや、自慢したいことがあるだろうとも思います。人に隠し育て、自分だけの宝物にしておきた いものがあり、人に隠したまま捨て去ってしまいたい傷があろうかと思います。 過去の失敗や罪について、穴があったら、入りたいと言う言い回しがあります。私などは、穴がなかったら、穴 を掘ってでも、埋めたいと思います。しかし、出来ないことです。隠すことは出来ませんし、なかったことにはなりま せん。 しかし、『わたしについて来なさい』というイエスさまの言葉に聞き従って、その全てから、自由になることが出来 ます。例え忘れられなくとも、恥ずかしさや罪意識に苦しむことはありません。赦しが与えられているからです。 しかし、宝であれ、傷であれ、これにこだわり続けるならば、これらと一緒に滅びることになります。全てを失うで しょう。 ◇ 私たちが歩む日々の道は、平坦なものではなく、私たちが日々歩まなければならない道には、数々の試練 が立ちふさがるかも知れません。しかし、その旅路が、どんなに苦難に満ちたものであれ、栄光へと続く道である ことを信じることが出来ます。何故なら、『わたしについて来なさい』というイエスさまの言葉が与えられているから です。 ◇ 最後に、『人間をとる漁師にしよう。』と言う言葉について、考えます。『人間をとる』、あんまり響きは良くあり ません。新興宗教の信徒獲得を思わされます。 そんな話ではありません。『人間をとる』とは、魚を獲るのではなくとの意味です。魚を獲るのは、生活のためで す。魚を獲って御殿を建てる人が、日本には、かつていたかも知れませんが、ガリラヤでは、多くの漁師は、 日々の生活のために、生き延びるために、この仕事を強いられています。貧しく不自由な仕事です。奴隷的な 生活です。 『人間をとる漁師にしよう。』とは、そこから解放する言葉です。食べるためでも、養うためでもなく、魚を掬い 取るように、人間を救う業に付くことが勧められています。 ◇ 漁師たちは、『人間をとる漁師に』なって、豊かな生活を約束された訳ではありません。むしろ、より貧しくな ったでしょう。ガリラヤ湖は、小さい湖ですが、突然として嵐が起こる危険な湖だそうです。小舟での漁は、常に 命がけです。イエスさまに従って、安全になった訳ではありません。むしろ、よりあぶない世の嵐に出遭います。し かし、彼らは、最早、生活や他の人間の奴隷ではありません。イエスさまの奴隷になったのですから。 イエスさまの奴隷になることが、真に自由を得ることです。 |