日本基督教団 玉川平安教会

■2025年1月18日 説教映像

■説教題 「安息日とは」

■聖   書  マルコによる福音書 2章18〜27節 


 普段は、1節ずつ、或る程度詳しく説明し、論拠を上げてから結論を導き出すということを心がけています。
今日の箇所では、この手順を踏んでいると時間がかかり過ぎますし、却って難しくなるかなと思います。結論か
ら申します。その方が分かり易いし、納得もして貰えるものと考えます。

 ここに記された三つの教えに共通していることは、ずばり、形式主義への批判です。外見と中味との違いと言
っても良いでしょう。


 先ず18〜20節です。断食とは何か、最低限必要な説明を申します。断食は、旧約聖書では本来「身を
悩ます」という意味の動詞で、新約聖書でも、「食を断つ」という動詞から生まれた名詞が用いられています。

 日本の断食のイメージと全く同じです。聖書でも、日本でも、断食は、敢えて苦痛を受けることで、懺悔、謙
虚、悲しみ、などを表現するものでした。今日でも同じでしょうか。今日の日本では、健康、美容という面の方
が大事かも知れません。


しかし、預言者イザヤやエレミヤは、断食に伴う偽善性を鋭く批判しています。

 少し長いのですが、イザヤ58章4節と7節を引用します。

 … 4:見よ お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし 神に逆らって、

  こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては

  お前たちの声が天で聞かれることはない。

 7:更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え さまよう貧しい人を家に招き入れ

  裸の人に会えば衣を着せかけ 同胞に助けを惜しまないこと。…

 断食を行うことで、表面は、謙虚、無欲、柔和に見せかけているが、内実は、傲慢、貪欲、そして闘争的、
つまり、本来の目的とは真逆だと批判しています。


エレミアはもっと厳しい調子です。14章12節。

 … 彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。

  彼らが焼き尽くす献げ物や穀物の献げ物をささげても、わたしは喜ばない。

  わたしは剣と、飢饉と、疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす。」…

 断食も含めて、祭司たちの偽善的で中味のない供え物は要らないと、退けられています。

 断食に象徴されるような、形式主義・偽善は、『剣と、飢饉と、疫病によって』滅ぼされると、明言されていま
す。


 ユダヤ教では、ユダヤの歴史的な記念日に当たる4つの日が、断食日として決まっていました。制度であり、
慣習に過ぎません。だから、預言者はこれを否定しました。

 今日のイスラム諸国のラマダンに立ち会ったこともありませんので、迂闊には言えないかも知れませんが、例え
ばインドネシアでは、日中には摂れない食事を日没後にまとめていただくものですから、ラマダンの期間、かえっ
て食料の消費が増えると聞きました。制度化された断食には、やはり偽善性を感じます。

 ある県で植樹祭が行われ、そのために、200本の木が切り倒されたと、その県の責任者自身から聞きまし
た。断食について、聖書が冷淡に記述しているのは、マルコでもイザヤでもエレミヤでも、要するに、内容の伴わ
ない形式は無意味だと言う意味です。


 肝心の19〜20節は後回しにして、21〜22節について、若干のことを申します。常套的に言われているこ
とですから、何度もお聞きになられたと思いますが、是非必要なことでもありますので改めて申します。

 21節。

 … だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。

  そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、

  破れはいっそうひどくなる。…

 新しい布と古い布とでは、洗濯した際の収縮率が違うので、結果、丈夫な新しい布が古いものを破ってしまう
のだそうです。本当にそのようになるのかどうかは分かりませんが、ともかく、このような意味で語られていることは
間違いありません。

 22節。

 … また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。

  そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。

  新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」…

 新しい葡萄酒は、発酵を続けているので、炭酸ガスを出します。密閉しておけば、どんどん膨らんで爆発を
起こすという訳です。これは紛れもない事実です。

 この比喩で語られていることは、新しい内容物にはそれにふさわしい新しい容れ物・形式が必要だと言うことで
しょう。新しい容れ物・形式が必要だと言うことよりも、古い入れ物・形式では間に合わないということにより強調
があります。

 そしてここでも、古いものの革新ということが述べられていると同時に、それ以上に、内容と中味のことが述べら
れています。内容と形式という点で、18〜20節と共通項を持っています。

 この譬え話は、内容を新しくするためには、容れ物も新しくしなくてはならないという教えが、元々の意味だった
のかも知れません。しかし、マルコ福音書は、中味と容れ物との矛盾の方に、焦点を当てています。

 

 23節以降の話も、前の二つと共通していることに絞れば、形式と中味になります。

 ここに言及されている出来事は、勿論旧約聖書の記事によるものですし、また、申命記に該当する律法規
定がありますが、厳密なことに触れますとかなりややこしくなりますので省略します。

 難しいことを考えなくとも、前の二つの話との共通点を見れば自ずと解ります。それでよろしいと思います。27
節にだけ触れておきます。

 … そして更に言われた。

  「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。…

 詳しく申し上げていると別の主題に流れてしまいますので簡単に申します。そもそも安息日の規定が生まれた
のは、神さまから人間に与えられた恵みです。

 安息日は文字通りに休息の日であり、主に感謝し讃美する日です。人間の休息を神さまは祝福してくださ
る、むしろ、奨励してくださるという主題です。

 何故安息日が存在するのかという根本を忘れて人間の生活に律法として適用すると、この根本的な意図と
は全く逆に、人間の上にのしかかる重荷となってしまうでしょう。今日でも、法律が、人権や働く者の権利を守る
建前で、実際には苦しめる場合があります。


 さて以上概観しましたように、この三つの出来事に共通するものは、内容と形式です。このことは、新約聖書
の随所に出て来る事柄と言えます。

 マルコ福音書でも、12章のやもめが全財産であるレプタ一枚を投じた話、〜 表面的に見えることと中味は
一緒ではないという話になっています。

 それに続く、エルサレム神殿崩壊の預言、これも同じ主題であり、見た目が立派だから、確かさがあるのでは
ないと言っています。この辺りは、後日詳細に学ぶ機会が与えられますので、その時に譲ります。

 また、パウロ書簡でも、同様の主題が取り上げられます。一番代表的なのは、土の器の話でしょうか。土の
器というと安価だとか粗末だ壊れ易いという印象が第一にします。その通りで、だからこそ使徒パウロは自らを土
の器と呼んだのでしょう。

 しかし、それだけではありません。ガラス・レンズのない当時では、何の飾りもない土の器が結局一番明るいの
です。ごてごて装飾を付けて美しく飾っても、結局肝心の明るさを損ねるだけです。そのような意味合いを込め
て、土の器と自称しています。パウロの福音には、混ぜものがない純粋だ、例え見栄えしなくても、本物だと言う
ことなのです。


 内容と形式という主題については、いろいろと申し上げたいことがあります。また、この主題を実に巧みに表現
した、菊池寛の『かたち』という小説に触れたい誘惑に駆られます。しかし、これ以上、このことに踏み入ること
は、避けなければなりません。何故なら、今日の箇所に於いて、忘れてはならないもっと肝心なことが存在する
からです。

 それは、19節・20節です。先ず19節。

 … イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。

  花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。…

 結婚を特別の事柄として重んずるユダヤの社会で、結婚、花婿は、喜びの象徴でした。婚礼の客とは、新
郎の友人であり、結婚式万端を整える役を持っています。彼らは、婚礼の期間中は断食の義務を免除されて
いました。

 そして言うまでもありませんが、キリストは、しばしば花婿に準えられています。

 つまり、今は結婚式の時のように特別の時、特別の喜びの時なのです。悲しみの時、嘆きの時、断食の時
ではありません。

 神の時、救いの時、…福音の始まり、神の国の時なのです。


 ここで断食について若干の補足をします。パリサイ人は、従来の四つの断食日に加えて、モーセが十戒を得
るために山に登った木曜日と下山した月曜日とを断食の日として守っていたそうです。また、マタイ4章2節、即
ち荒野の誘惑の中に、主イエス自身の断食について記されています。興味深いことには、モーセの十戒もイエス
さま自身の断食も、食べ物=御言葉との関連で述べられているのです。

 更に言うならば、使徒言行録13章2〜3節、14章23節をみますと、初代教会にも使徒の派遣、長老の
任命に結び付いて断食が行われたことが分かります。

 断食と食べ物のことが結び付いて語られるのは当然ですし、聖書で食べ物のことと神の御言葉とはしばしば
重ねられて語られますから、別に不思議ではありません。

 しかし、これらの箇所から、イエスさまの時は、婚礼に準えられるべき喜びの時、特別の時、新しい事柄の始
まりの時であることが改めて教えられます。

 今日の箇所で、形式と中味ということが問題になっていることは間違いありませんが、それは、一般的なことで
はなく、主義主張のことではなく、福音宣教のこと、神の国の始まりのことを指しているのです。

 今は特別の時、主が共にいて下さる時、婚礼のご馳走のように、主の御言葉が豊に与えられている時、それ
が強調されています。


 20節。

 … 花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。…

 ここでは主の十字架が預言されています。この表現からは二つのことを聞かなくてはなりません。一つは、『花
婿が奪い去られる時が来る。その日には、彼らは断食をする。』今の特別の時は、何時までも続くのではない
からこそ、特別の時として大事にしなければならないと言うことでしょう。今の内に、イエスさまに触れ、御言葉を
いただき、心を養われなければならないということでしょう。

 しかし別の角度から見れば、この十字架の出来事こそが福音の核心なのですから、『花婿が奪い去られる
日』も含めて、特別の時、主が共にいて下さる時、婚礼のご馳走のように、主の御言葉が豊に与えられている
時なのです。


 今こそが特別の時、主が共にいて下さる時、として語られているのです。そして同様に、私たちにも、2000
年前の既に過ぎてしまった出来事として語られているのではありません。

 私たちは、マルコの時代の教会員と同様に、婚宴の時に生き、同時に、『花婿が奪い去られる日』に生きて
います。

 断食は、今日普通の教会の行事にはありません。復活させる必要もありません。今日の教えから私たちが、
省みるべきは、聖餐式のことであり、礼拝のことでしょう。


 聖餐式に於いて私たちは、私たちと共にいて下さるキリストの時を生き、命の御糧を与えられ、同時に、主の
十字架の時に生きています。その死に、その血に与ります。

 主の日、日曜日は、そのような時です。主の日、日曜日に、私たちは喜びの時を生き、共に食卓に与りま
す。婚宴のように喜ばしい時です。しかし、それは単なる喜びの宴ではあり得ません。主の十字架に与る時でも
あります。

 そもそも主の十字架が起こったユダヤ人の過越の祭りは、イスラエルが血で贖い取られた記念であり、イスラエ
ルの民に血が注がれることによった契約が成った出来事であり、同時に、御言葉が与えられた記念すべき喜び
の時なのです。


 内容と形式は矛盾が多いでしょう。しかし、聖餐式では、これが一致するのです。一致しなくてはなりませ
ん。勿論、礼拝そのものに当て嵌まります。

 それだけに、聖餐式や礼拝の、形式だけに関心を持つのはどうかなと思います。単なる所作ならば、それは、
どうでも良いことです。争うほどのことではありません。

 それよりも、聖餐式の意味、礼拝の意味が大事です。聖餐式の意味とは、贖罪、罪の赦しです。これを忘
れたら、そもそも、聖餐式を持つ理由がありません。

 礼拝の意味は、讃美であり、感謝であり、罪の悔い改めであり、何よりも、自分自身を神に捧げることに意
味があります。それを忘れて、形式にだけ拘っていたら、預言者たちは、私たちの礼拝を蔑み、否定するでしょ
う。