◇ 10節後半から1節ずつ順に読みます。聖書研究じみますが、この箇所を読むには、その方が分かり易いと 考えます。 … キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。… これがキリスト教信仰の、そして聖書の中心的使信です。『死を滅ぼし』『福音を通して』『不滅の命を』この 言葉そして出来事を、様々な仕方で説くべく、表現しているのが聖書だとさえ言えます。 ◇ 11節。 … この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。… パウロの務めは、ここにあります。ここだけにあります。そして、弟子であり後継者であるテモテにも、ただ、ここに 立ちなさいと勧めるのが、テモテ書であり、今日の箇所の意味です。 現代は多様化複雑化していますから、教会も信仰も、当然牧師も多様化し、牧師はいろんな仕事をしなく てはなりません。しかし、牧師であるかどうかを決定づける仕事の内容は、10節を宣べ伝えることにあります。そ れだけにあります。 私の友人は、元気な時は東京の一等地にある大きな教会で働いていました。各界の著名人や芸能人まで 出入りする教会です。彼の働きも実に多様で、NHK大河ドラマの時代考証までさせられていました。彼にはそ ういうタラントが有ると見え、楽しそうでした。 その後、病気になり、いろんな働きが出来なくなりました。地方の教会に転じ、最後は、車椅子で、説教だけ に当たっていました。 説教しか出来なくなった、神さまがそうして下さったのだと、彼は言っていました。それも隠退しましたので、今は どうしていますか。 ◇ 12節の前半。 … そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、 それを恥じていません。… 今、パウロは獄中にあります。新しい教えを説く、治安を乱す者だという嫌疑を掛けられています。ローマ帝国 の価値観、秩序を守る立場から観れば、その通りなのでしょう。ローマにとっては不都合な教えであり、存在で す。 ◇ 12節の後半。 … というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、 わたしにゆだねられているものを、 その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。… 『自分が信頼している方』とは、イエス・キリストのことであり、神の国の王です。ローマ皇帝は、現人神を自称 し、人々に我が偶像を拝むことを強制しましたが、パウロは、本当の王はキリストのみと知っています。ローマとし ては具合の悪い新しい思想です。 だから、パウロは牢屋に入れられました。宣教を禁じられました。 しかし、パウロは、たとえパウロが死刑になろうとも、福音は守られ、伝えられると信じています。 ◇ ですから、13節後半。 … わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。… ローマにとっては、不健全な教えでも、実は、『健全な言葉』です。イエス・キリストの教えは、愛と平和を説く、 『健全な言葉』です。それがローマには、不健全なのです。そうしたものでしょう。この世の権力にとっては、『健 全な言葉』こそが不健全なのです。 戦争の時代に平和を説いたら、それは不健全なのです。『汝の敵をも愛せよ』と説いたら、戦争を続ける国 家にとっては、不健全なのです。 日本でも、戦時にあっても、愛と不戦を説いた牧師たちがいました。勿論、それが聖書の教えだと説きまし た。残念ながら少数でした。むしろ、戦争勝利を祈った牧師が少なくありません。そういう教会は、健全な教会 だと見做されました。 ◇ 13節前半。 … キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって… 14節の『守りなさい』、これは、戦争の時代に於ける平和の戦いです。この戦いを、『キリスト・イエスによって 与えられる信仰と愛をもって』『守りなさい』、戦いなさいとパウロは言います。自分が獄中にある者だけが言える 言葉でしょう。 ◇ 14節。 … あなたにゆだねられている良いものを、 わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。… 『良いもの』とは、愛であり、信仰です。これを守り続けることこそが戦いです。 そしてその武器は、愛そのものであり、信仰そのものです。 戦争の時に、愛する家族のためにと信じて戦った人たちがいました。愛する国や故郷のためにと信じて戦った 人たちがいました。 そこには嘘はなかったと思います。誰も、これらの人を責めることなど出来ません。 しかし、聖書は、武器を持って戦うことを勧めてはいません。ただ、愛と信仰だけを武器にしなさいと教えていま す。それが、聖書的な意味での『健全な言葉』です。 ◇ これを非現実的な理想主義だと笑い、真の理想実現のためには、平和実現のためには、武器を持つことも 必要になると主張する人がいます。世の中の大部分の人がそうです。その通りなのかも知れません。世の現実 は、その通りなのかも知れません。 しかし、それは聖書の教えではありません。だからこその、『霊』です。 この教えを聞くには、守るには、『わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守』るしかありません。ここでこそ、 『霊』を持ち出すべきです。『霊』を頼りとすべきです。 『霊』を日常会話にも乱発し、それが信仰的だと考える人がいます。その人が、このイザと言う時に『霊』を頼 りとするのなら、それで大変結構です。しかし、乱用しすぎて、イザと言う時には訳に立たない、むしろ錆び付い てしまっているようなら、それは、『霊』への冒涜と言われても仕方がないでしょう。 ◇ 15節。 … あなたも知っているように、アジア州の人々は皆、わたしから離れ去りました。 その中にはフィゲロとヘルモゲネスがいます。… 何があったのか、正確なことは分かりません。『フィゲロとヘルモゲネスが』誰かも知れません。 単に憶測ですが、パウロがローマに捕らえられたことによってパウロから離れたのでしょうか。単に怖くなったのか も知れません。ローマの市民であることが大事で、パウロを非国民と思うようになったのかも知れません。そんな 人が戦中には大勢いました。 多くの人は、警察に捕らえられたら、そのことが、そのこと自体が悪だと考えます。捉まえられたから悪人なのだ と考えます。仕方がないかも知れません。警察を信頼出来なかったなら、私たちの日常生活は成り立ちませ ん。 しかし、冤罪は今日の日本にさえ存在します。戦争が起これば、反戦を唱えることが、則ち、法律違反にな り、犯罪とされます。 ◇ それと並べて、次のようにも記されています。16節。 … どうか、主がオネシフォロの家族を憐れんでくださいますように。… これは15節と対照的なこととして置かれているのでしょう。 オネシフォロは、パウロを捨てず、一緒に行動したようです。そのために、『オネシフォロの家族』は、苦労を強い られたのかも知れません。容易に想像出来ます。 ◇ 17節。 … ローマに着くとわたしを熱心に探し、見つけ出してくれたのです。… 何だか映画の一場面のようです。この当時は、公報もありません。パウロがどこに閉じ込められているのかも 分かりません。オネシフォロは、可能性がある所、一つ一つを当たって捜したのでしょう。それ自体が危険な行為 です。官憲に睨まれるでしょう。 それに、彼はローマ在住ではないようです。どこかの地で、18節からしますとエフェソで、パウロ逮捕の噂を聞 きつけ、ローマまでやって来て、パウロを捜索したのです。勿論、大変な手間ですし、何より危険です。エフェソ は今日のトルコの西海岸、そこからギリシャを経てローマまでは大変な旅です。 こういう設定そのものに異論があるようです。テモテ書が、何時誰によって執筆されたのかも不確かです。しか し、解釈の根本は変わりません。ですから、その異説の詳細には触れません。不必要と考えます。 ◇ 18節。ここも二つに分けて読まなくてはなりません。前半。 … どうか、主がかの日に、主のもとで彼に憐れみを授けてくださいますように。… どうも、オネシフォロはパウロを見つけ出して、その世話をした、目出度し愛でたしではないようです。その後、 何かしら不幸に見舞われたかのような推測をさせられます。はっきりとはしません。 16節の、『主がオネシフォロの家族を憐れんでくださいますように。』という言葉からは、何か良くないことが起 こったのかと考えさせられます。 そうだとしたら当然ですし、そうでなくとも、パウロは今なお獄中にあって、『オネシフォロの家族を』心配していま す。これも愛の故です。獄中にあって、何も具体的な手立てはないからでしょうか、まず、神の裁きの時に、オネ シフォロに『憐れみを授けてくださいますように』と祈ります。そして、テモテに対しても、パウロの恩義をオネシフォ ロの家族に報いて下さいと、願っています。 ◇ 18節後半。 … 彼がエフェソでどれほどわたしに仕えてくれたか、 あなたがだれよりもよく知っています。… 先ほど、テモテ書については、何時どこで誰が書いたのかという緒論的な問題があると申しました。この箇所か らも、いろいろと想像させられますが、一番肝心な解釈は変わらないと思いますので、詳しくは触れません。 ただ、注目したいのは、パウロが、オネシフォロの働きを恩義のように思い、彼の家族にまで配慮していると言う 点です。 このことからだけでも分かります。パウロが説く愛と信仰とは、決して観念的なことだけではありません。具体的 なことです。私たち一人一人の信仰も、勿論同じです。同じでなくてはなりません。 ◇ 愛と信仰を説くけれども、自分の指一本も動かさないなとどいうことはあり得ません。 信仰と具体的な行いについて論ずる箇所は沢山あります。一番典型的な箇所を引用します。どなたもご存 知でしょうが、皆で読み、皆で確認するためです。 マタイ福音書23章2〜5節。 … 2:「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 3:だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。 しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。 4:彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、 自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。 5:そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、 衣服の房を長くしたり する。… ◇『信仰と愛』こそ、人に見せびらかすものではありません。隠しなさいとは言いません。しかし、その言動を通じ て、自ずと見えて来るものでしょう。 私は何度か経験しました。葬儀の際に、参列した人が、「あの人がクリスチャンだったとは知りませんでした。で も、成る程そうだったのだと思います。」こういう言葉を聞くと牧師としても慰められます。 勿論、この人が生前から、クリスチャンであることを公にして、友人を教会に誘ってくれたら、こんな嬉しいことは ありません。隠さない方が嬉しいです。 その逆は、あってはなりません。「あんな人がクリスチャンなの」と言われてしまったら、何年がかりの伝道が、一 遍で無駄に終わります。 ◇ 12節。燃え一度読みます。 … そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、 それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、 わたしにゆだねられているものを、 その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。… 世の評価がどうであれ、『神の言葉』、『健全な言葉』を信じて生きることが出来るなら、幸福です。戦争の 前後で180度変わるような言葉は、救いの根拠にはなりません。世の中が変わっても変わることのないもの、そ こにこそ聖霊の言葉を聞かなくてはなりません。 |