◆13〜16節は、ピラトが、客観的な証拠に基づいて、無罪を宣告したのに、人々は、それを不服として、どう しても死刑にしろと主張したという話です。 ピラトについては、聖書に記されていることしか分かりません。随分後の時代になってから、いろいろなことが書 き加えられますが、それらは歴史的には何ら根拠がありません。ピラトの出自、性格、思想、人物については、 何も知られていません。 分かっていることで重要なことは、彼はローマから派遣された総督で、イエスさまの十字架の出来事が起こった 時に、その任期中だったということだけです。 そしてほぼ確実なのは、総督に任じられるくらいですから、ローマ人だったろうと思われます。しかし、絶対では ありません。 彼は、ユダヤ教に帰依してはいません。親近感も持っていないようです。これは、ほぼ確実です。絶対と言って も良いかも知れません。しかし、絶対ではありません。 総督ですから、この頃評判のイエスについて、何かしら聞いていたでしょう。騒動の元になりそうだという危惧も 抱いていたかも知れません。しかし、全く想像に過ぎません。 ◆マタイ福音書27章19節にこのように記されています。 … 一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。 「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、 夢で随分苦しめられました。」… 悪夢だったようですが、その内容には全く触れられていません。想像力を刺激されるエピソートですが、確かな ことは何も分かりません。 このたった2〜3行の記述だけを元にして、後の時代に、伝説的な物語が描かれました。私は、直接読んで いません。今では手に入らないようです。〜 読んでいなくとも、断定出来ます。それらの小説には、歴史的根 拠、文献的な根拠はありません。 ◆誤解が多い箇所ですから、厳密にするために、くどくど申しましたが、要は、この時のピラトの審判は客観的 なもので、正しい判断だと言うことです。利害のない人物により、正当な裁きがなされました。但し、16節は不 当でしょう。15節後半から読みます。 … この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。 だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。… 『死刑に当たるようなことは何もしていない』のに、『鞭で懲らしめて釈放しよう』、妙な審判です。『死刑に当 たるようなことは何もしていない』けれども、『鞭で懲らしめ』るのに相当する罪はあったと言うのでしょうか。 これは、明らかに、イエスを連行してきた祭司長たちに対する斟酌です。ピラトの人物について確かなことは何 も分からないと申しましたが、聖書は、ピラトを、正義よりも、自分の利害を優先して考える人として描いていま す。 十字架について、ピラトは無罪ではありません。 しかし、逆に言えば、そういうピラトが下した判決ですから、これは、全く客観的なものです。イエスさまは地上 の方に照らしても、全く無罪なのです。 ◆それならば何故と、次の疑問が湧いてまいります。『人々は』、何故、18節のように声高に叫んだのでしょう か。 … しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。… その理由についても、聖書に記されていることだけを根拠にして想像を巡らすしか術はありません。他に、客観 的に事実を記した文書など、全く存在しません。諸説語られていますが、全て後の時代のもので、歴史的資 料としては、何ら価値がありません。 ◆『人々は』、『バラバを釈放しろ」と叫んだ』とありますから、当然、『バラバ』とは誰かが問題です。 『バラバ』に関しては、いろいろと文献が存在します。何しろ、ラーゲルクヴィストの『バラバ』、短い小説です が、傑作と評価されます。ノーベル文学賞作品です。 いろいろなSF小説にも、バラバが登場します。文学的価値はともかく、私は大変面白く読みました。しかし、 小説に過ぎません。歴史的価値は全くありません。 ◆バラバについて確かな資料は、19節の補足的説明だけです。 … このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。… マタイ福音書では、27章16節。 … そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。… これだけです。 マルコ福音書15章7節。 … さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、 バラバという男がいた。… ヨハネ福音書18章40節。 … すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。 バラバは強盗であった。… これだけです。 4つの福音書を重ねても、殆ど何もわかりません。 ◆極めて乏しい記述から、バラバは、政治犯、テロリストだったのではないかと、想像する人が多いようです。ロ ーマに敵対した人ならば、ローマに恨みを抱く当時の民衆が、『バラバを』と叫ぶのも分かります。一種の英雄と さえ言えます。 この場合、民衆は、『バラバを』救いたかったので、 … その男を殺せ。バラバを釈放しろ… と叫んだに過ぎず、『その男』、つまりイエスさまには、大きな関心がないことにもなります。その通りかも知れませ ん。 しかし、疑問も残ります。 先ず、『都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていた』人物を、これが、テロ行為だったのならば、ピラトの 立場からして、釈放できないでしょう。反逆罪は、当時のローマにあって、極刑に値する大罪です。 単に死刑に処するだけでは足りず、目鼻をくり抜く、手足を切断する、八つ裂きにするなど残虐な刑罰が下さ れます。それが当たり前です。 これを赦す権限など、ピラトにはありません。 そもそも、17節は、当時の法になかったと言われています。 … 祭りの度ごとに、 ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらなければならなかった。… 特赦ですが、それは歴史的事実ではないそうです。聖書に記してあるのですから、悪戯に否定してはなりませ んが、どうも、事実ではないようです。 17節と言いましたが、新共同訳聖書には、17節がありません。 有力な写本には存在しない箇条なのです。 ◆長々と記しましたが、人々が『「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。』理由は不明なのです。いろい ろと疑問があり、逆に興味深く、ややこしい箇所ですが、全く確かなことは、この一点だけです。 人々が『「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。』、この一点だけです。 つまり、イエスさまに死刑判決を下したのは、イエスさまを十字架に付けたのは、祭司長でもなければ、ヘロデ でもない、ピラトでもなく、『人々』だったのです。 このことが強調されています。このことだけが強調されています。 ◆私は常々思います。福音書は、特にマルコ福音書は、推理小説と同じ構造を持っています。推理小説、犯 人捜しです。 推理小説と言えばアガサ・クリスティーの名前が上げられるでしょう。その中でも、代表作の一つが、『そして誰 もいなくなった』です。 ネタばらしになりますが、およそ推理小説を読む人なら誰でも知っていますから、よろしいでしょう。これは、 次々と犯人候補が移っていくが、その人がまた殺される、『そして誰もいなくなった』、犯人がいなくなった。結 局、最初に殺された筈の人が犯人だったという筋立てです。 もう一つの代表作は、『オリエント急行殺人事件』これも、ネタばらしですが、よろしいでしょう。『そして誰もい なくなった』とは真逆で、この列車に乗り合わせ、関わりを持った全員が犯人だったという落ちです。 ◆福音書は、アガサ・クリスティーの作品と、しかも二作品と、全く同じ構造です。 誰がイエスさまを十字架に追いやったのか、ファリサイ派か、サドカイ派か、ヘロデか、大祭司か、それともピラト か。次々と犯人候補が登場します。 この物語が進行する中で、イスカリオテのユダが、クローズアップされます。しかし、この有力候補は、物語が終 わらない内に、自ら退場します。 次にペトロが照明を浴びます。他の弟子たちも無罪ではありません。皆、逃げ出してしまいました。 そして、今日の箇所の『「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。』人々こそが、犯人に擬されるでしょ う。 更に、来週の箇所ですが、キレネ人シモンが登場します。彼は、文字通りに、十字架を担ぎました。しかし、 それだけの存在に過ぎません。 更には、直接イエスさまを十字架に付ける役割を担ったローマの兵士たちが、犯人として上げられます。彼ら も、決して無罪ではありません。 しかし、誰がイエスさまを十字架に付けたのか、真犯人は誰かとなると、曖昧です。 ◆20節。 … ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。… 22節。 … ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。 この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。 だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」… ピラトが何故イエスさまを助けたかったのかは、分かりません。いろいろと憶測を呼びますが、確かなことは分か りません。 強調したいことは、ルカが言いたいことは、21節、23節でしょう。 … しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。… … ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。 その声はますます強くなった。… ピラトをイエスさまを十字架に付けた真犯人だとは言えません。『「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び 続けた』のは、『人々』です。 その叫び声は、段々と大きくなります。ピラトが庇う毎に、いっそう声を大きくして『「十字架につけろ」と叫び続 けた』のです。 ◆24節。 … そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。… ピラトは正しい裁きよりも、治安を重んじたのでしょうか。そういう綺麗事ではないかも知れません。ローマから 派遣された地方役人にとって、無事に、何事もなく、任期を勤め上げることが何よりも大事です。蓄財し、賄賂 を贈って地位を買うのが、地方役人の大事です。日本の歴史でも、それが何とかの守の実態だったと言われて います。 結果、治安を重んじると言うよりも、事なかれ主義に陥ります。特にイスラエルでは、大きな手柄を上げるチャ ンスなどありません。逆に、足下を掬われる危険は一杯あります。 結果的に、イエスさまを十字架に付けた最終責任は、ピラトのものとなりました。 今日まで、『ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け』と、使徒信条に記されることになりました。 ◆25節。 … そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、 イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。… ローマに反逆した者を赦すことなど考えられません。そのこと自体、ピラトにとっては、致命的な落度になるでし ょう。歴史的な事実とは考えられないと言う人もいます。 そうしますと、バラバの罪状は、矢張り、ローマに対する反逆罪ではなく、聖書が記している通りに、単に、強 盗、殺人なのでしょう。これならば、特赦の対象になる可能性があります。 『イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。』 このことに注目すべきです。『好きなようにさせた』のです。つまり、ここでまた犯人が入れ替わります。イエスさま を殺したのは、結局、『彼ら』つまり『人々』となります。 聖書は、二転三転しているように見えて、一貫して、犯人を『人々』としています。 これがまた、最大のどんでん返しです。『人々』は十字架に責任があります。十字架の血を浴びることは、救 いの徴です。ユダヤ教では契約の徴です。イエスさまを殺した犯人『人々』こそが、イエスさまの救いの対象であ り、十字架の苦難の目標なのです。 |