日本基督教団 玉川平安教会

■2025年2月22日 説教映像

■説教題 「種を蒔く人」

■聖   書  マルコによる福音書 4章1〜9節 


私は、小学校3年生の時に、生まれて初めて、海を見ました。どんなに感動的だったか、その時の海を描写す
る必要はないでしょう。〜 この瞬間に、誰かが、「神はおられる」と言ったならば、私は、その瞬間に、理屈なし
に神を信じたと思います。

 小学校の校舎は、長い坂の向こうにありました。長い上り坂の間、その建物は全く見えません。毎朝毎朝、
校庭の坂を上りきったら、そこに、海が見えるような気がしました。勿論、そんなものは存在しません。毎朝毎
朝、期待は裏切られます。それでも、毎朝毎朝、海の波が見得るような気がし、潮の香りがする気がして、坂
道を上り続けました。

 もし、海への憧憬がなかったなら、海の幻ががなかったなら、私は登校拒否になっていたかも知れません。


湖は、海に負けず、もしかしたら海以上に、神秘を感じさせられる所です。松江北堀教会の時代、毎日のよう
に、宍道湖のほとりを散歩しました。特に夕焼け時、湖に浮かぶ『嫁が島』の背後に、陽が沈む景色は、美し
いと言う表現さえ超えています。涙が滲んできます。

 松江は出雲の国です。出雲、つまり、雲出る(くもいずる)国です。何時でも、低い雲が垂れ込めています。
雪舟は出雲の出だと、出雲の人は思っています。実際は、備中かも知れませんが、出雲は、正に水墨画の世
界、雪舟と結び付けられるのは、むしろ当然です。モノクロ、そこには余計な色彩はありません。

 だからこそ、夕日の色が冴えます。そして、日中には、低い雲の切れ目から、幾筋か、光が射します。所謂レ
ンブラント光線です。『フランダースの犬』の、ネロとパトラッシュを天国に誘う、光です。

 この光を常に浴びている出雲の人が、信心深いのは、むしろ自然だと思います。理屈や神学を超えて、「神
おわす」と思わされます。


徒に長くなっているかも知れません。

 イスラエルの人にとって、ガリラヤ湖は、神秘の湖でした。そこで魚を獲り、暮らしを立てている人もいますが、
多くの者にとって、「神おわす」所でした。

 近隣に住む人は、かつての北王国の僅かに残されていた末裔と、ギリシャからの移住者ですが、人口は多く
ありません。都エルサレムからは遠く離れた静謐な場所です。

 だからこそ、神秘を感じさせられます。

 海でも、湖でも、静寂こそが必要でしょう。静寂の内でしか、神の声は聞こえないかも知れません。イエスさま
は、常に、静寂な湖の畔、もしくは丘の上で祈られました。

 イエスさまに、雑踏の祈りはありません。むしろ、街中での祈りを、批判しておられます。人々に聞こえる、聞か
せるためのファリサイ派の祈りに批判的です。律法学者による、教養と信仰を見せびらかすための祈りを、退け
られます。


1節。

 … イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。

  おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、  湖の上におられた
が、群衆は皆、湖畔にいた。…

 『再び湖のほとりで』、舞台は、再び湖畔です。たまたまではなく、好んで、何かしら意味があってのことです。
やはり、静寂を求めてのことでしょう。

 しかし、そこに群がったのは、『再び』、群衆、オクロスです。これまで見たように、福音宣教を妨げる存在であ
り、何よりも、イエスさまを十字架に架けよと叫ぶことになる群衆と同じ群衆・オクロスです。

 しかし、この群衆こそが、福音宣教の対象です。

 舟に乗ってとは、イエスさまと民衆との距離を表していると考えます。全く遠ざかったのではありませんし、しか
し、民衆の中におられるのでもありません。


かつて、日本にも一大キリスト教ブームがありました。戦後間もなく、私がいた大曲教会でも、白河教会でも、
礼拝堂から人が溢れる程だったと聞きます。

 大曲教会も、戦後はにわかに盛んになりました。このブームの推進役だった一人、賀川豊彦師の伝道集会
が行われました。荒井源三郎牧師が駅まで迎えに出ますと、そこに社会党の代議士がいました。矢張り、賀川
豊彦師の出迎えです。この二人が握手する様子を見た荒井源三郎牧師は、代議士にではなく、賀川豊彦
師に噛みつきました。

 「あなたは、何しに来たのか。伝道集会の講師ではないのか。政治運動のために来たのなら、直ぐに帰って欲
しい。」

 この代議士は、戦前、大曲教会で洗礼を受けましたが、戦中は、愛国青年団のリーダーとなり、教会に石を
投げ込んだこともあったそうです。戦後は、共産党員になり、その後、社会党に鞍替えし、衆議院議員に当選
した人でした。

 

君子豹変すという言葉がありますが、豹変するのは、むしろ、大衆です。オクロスです。群がって、教会に石を
投げた人はどこに行ったのでしょうか。礼拝堂に溢れるばかりに集まった人々は、どこへ行ったのでしょうか。

 一大キリスト教ブームの定着率は悪かったようです。ビリーグラハムなどの大衆伝道も同じです。何万人も集
まり、同時に何千人も洗礼を受けたそうですが、この洗礼体験者を、私は数人しか知りません。殆どの人は、
教会から離れてしまいました。オクロスですから。

 『舟に乗って、湖の上から』、これはこのような群衆との距離だと私は考えます。

 群衆に飲み込まれない距離を保ちます。しかし、言葉は届きます。

 この場面だけではありません。随所に、同様の表現が見えます。


2節を読みます。

 … イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。…

 譬えで教えられたとあります。つまり、直接的ではありません。

 譬えの方が、分かり易いと言う人がいます。〜 嘘です。分かり易い譬えもありますでしょう。しかし、それなら、
敢えて譬えを用いる必要もありません。

 大体の場合、譬えは、聞く者の解釈が分かれ、分かり難くなります。

 次週の箇所12節を読めば、このことを誰も否定出来ません。

 … それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、

  こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」…

 この言葉自体は、寓話ではありませんが、譬えではあります。その意味を取ることが非常に難しい譬えです。
そもそもは、預言者イザヤの言葉です。


言葉も、文字も、人が他の人に気持ちを、或いは情報を伝えるための手段・道具です。しかし、全く逆の目
的で使われることも少なくありません。

 符牒と呼ばれるものがそうです。寿司屋の符牒、元々は、値段・勘定を隠すために、寿司職人だけの間で
用いられたそうです。値段・勘定を意味する符牒さえ複数あります。他にも、「おあいそ」、これは、そもそもは、
客が帰る際の遊郭の隠語です。客が花魁・もてなしに、もう愛想が尽きたという意味で、勘定を指しました。こ
れを客本人が言ったら、「こんな店には二度と来ない。」文字通りになってしまいます。

 むらさきも、しょうばんも、差し替えも、上がりも、本来は符牒・隠語です。符牒を客が使うこと自体が間違い
です。今は、意味も間違って使われることの方が多いようです。


聖書世界でも同じです。そもそも、言葉・文字、これは、ごく一部の専門家に独占されていました。自分たち
だけが知る言葉・文字を持つことで、そこから得られる物も独占出来ました。

 エジプトの神聖文字がそうです。特に暦、これを持つことが、神官や王族の権威の根拠でした。皆がそれを
持ったら、権威は無くなります。

 中世の教会も同じです。教会では、ラテン語だけが用いられました。一般信徒は、そもそも、聖なる礼拝堂
の中で、声を出すことさえ禁じられていました。勿論、讃美歌も歌えませんし、お祈りさえ出来ません。ラテン語
が、祭司の権威の根拠でした。


イスラエルでも、祭司だけが神の言葉を独占し、後にも、ファリサイ派や律法学者だけが、神の言葉を独占し
ていました。その時に、イエスさまが、譬えでお話しされました。

 それには、二重の意味があると考えます。

 一つには、一般大衆にも届くのが目的です。とても大事なことでしょう。神の言葉が一部の人の専有物になっ
てはなりません。

 宗教改革は、正に、その目的を持っていました。ラテン語の聖書が、それぞれの国語に翻訳され、誰もが、聖
書を、神の言葉を読むことが出来るようになりました。聖書は、祭司の独占物ではなくなりました。

 これに逆行するようなことが、あってはならないと思います。

 神学的と言えば、聞こえは良いのですが、学問がなければ、聖書は分からない、専門的な技量がなければ
讃美歌を歌えないと言ったら、宗教改革とは、逆行です。


しかし、おうおう逆が好まれます。オクロス自身が、それを好むからです。

 この点については、マルコ福音書よりも、マタイ福音書の方が、分かり易くそして詳しく述べています。引用して
いると長くなりますので、要点だけ申します。

 イエスさまは、ファリサイ派の信仰姿勢を鋭く批判しています。彼らが、人に聞こえるように、大道りの辻に立
ち、説法したり、祈ったりするのを、徹底的に批判しています。何故、ファリサイ派は、そのようにするのでしょう
か、何故イエスさまは、それを強く批判するのでしょうか。偽善者と呼んで、退けるのでしょうか。

 群衆がそれを好むからです。

 マタイ福音書の『山上の垂訓』で、イエスさまがあんなにも明確に述べておられるのに、今日の信仰者も、そ
れを全く聞きません。受け入れません。逆のことを言います。

 ここだけは、引用します。5章7〜8節の一部です。

 … あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。

   異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。

  8:彼らのまねをしてはならない。…

 こんなにもはっきりと教えられているのに、真逆が横行します。

 牧師にも信徒にもです。長い祈り、着飾ったような祈りが、好まれ、敬われます。


肝心な譬え話の意味、その解釈については、次週の箇所に譲ります。次週の箇所自体が、今日の箇所の解
釈になっています。今日は、このことだけ申します。

 新共同訳聖書の小見出しは、『「種を蒔く人」のたとえ』、そして、『「種を蒔く人」のたとえの説明』となってい
ます。この小見出しが既に解釈です。

 この譬え話は、『「種を蒔く人」のたとえ』、ではないと考える学者もいます。『種を蒔く人』に焦点があるのでは
なく、『蒔かれた種』が大事だと考える学者もいます。この人なら、『蒔かれた種の譬え』、になりますでしょう。

 『種蒔かれた地』だと主張する人もいます。この場合、大事なのは、畑そのものです。


イエスさまの譬え話は、決して分かり易くはありません。学者の間で論争があるような譬え話を、私たちは、どの
ように受け止め、解釈したら良いのか、戸惑うばかりです。 12節そのままです。『見るには見るが、認めず、聞
くには聞くが、理解できず』。

 私は、これらのどの説も一理あると思います。有益だと考えます。

 「だから、どれが正しいとも言えない。」と言う意味ではありません。「どの説も一理あると思い、有益だと考
え」、いろいろに読んだら良いと思います。考えることそのものが、思いを巡らすことそのものが、有益だと思いま
す。

 昨日と今日とで、読み方が変わってもかまわないと、私は思います。牧師が、先に紹介した3つの立場の、ど
れを前提として説教しても、間違いとは言えないと、私は思います。

 今週と来週とで、違ったことを言っても、誤りではないと、私は考えます。自分で読み考えることこそが、宗教
改革がもたらしたもの、成果です。


それだからこその、譬え話ではないでしょうか。聖書に向かい合い、聞き、考え、そして祈る、その繰り返しが信
仰生活です。ファリサイ派の人のように、もう全部分かってしまって、教え、諭し、それなら未だしも、強制し、虐
げるのが信仰ではありません。

 しかし、群衆・オクロスこそがそれを求めます。権威を求めます。

 話の流れですし、伝統的な解釈については、次週触れますので、聖書学者には馬鹿にされるだろう、全く個
人的な解釈を申します。

 聖書時代の畑は、静かだったと思います。機械の音が響く現代とは違います。ですから、昔の農民は、畑
で、いろいろと思いを巡らし、神の業なる自然のただ中で、神の声を聞くことが出来たかも知れません。羊を飼
う人も同じです。動物や鳥の鳴き声は、思索の妨げにはなりません。そのような畑に種が蒔かれました。種こそ
が農民ではないでしょうか。

 イエスさまの時代、従来型の農耕牧畜は、終焉を迎えていました。ローマに圧迫され、エルサレムに人口が集
中し、都に入りきれない人々が、難民化しました。

 これらの人々こそが、ここに登場する群衆・オクロスだと考えます。彼らは、蒔かれる種の如く、方々に散らされ
ました。この時代、故国に暮らすユダヤ人は、10%に過ぎず、90%は、地中海世界に散っていました。これ
が、キリスト教が瞬く間に地中海世界に拡がった大きな要因、多分最大の理由となります。種蒔かれる時、種
散らされる時です。