日本基督教団 玉川平安教会

■2025年11月23日 説教映像


■説教題 「共に喜び祝いなさい」 

■聖   書 申命記 26章5〜11節 

◇ 今日は教団の暦で『収穫感謝日』に当たります。私たちの教会員に農家の人はいませんし、あまり縁がな
い教会行事のようにも思えます。実際、関心は極めて薄いようです。私の経験では、最初の任地大曲教会だ
けが、『収穫感謝日』の記念礼拝を守っていました。しかし、それは、11月第4週ではなく、9月の第1週でし
た。

 大曲は、米所です。そして寒冷地、雪も降ります。ですから、11月末では、田畑からの収穫は何もありませ
ん。果物も終わっています。そこで、9月の『収穫感謝祭』となりました。大曲から、車でも電車でも45分かか
る神代・柏林という、クリスチャンだけの17件の集落から、この日には、大勢がやって来ます。普段の礼拝は3
0名弱なのに、この日には、その倍近くになります。


◇ 何故17件のクリスチャンだけの集落があるのかを話ししますと、とても長くなりますので、今日は省略しま
す。しかし序でに、このことだけ申します。大曲教会の礼拝開始時間は、季節で変わります。

 普段は10時00分なのですが、時期によって、10時30分になります。それは、神代・柏林から電車でやっ
て来る人たちの都合、列車時間に合わせた結果でした。これも詳しい話となると面倒なので割愛しますが、農
家、特に家畜を飼っている農家にとっては、朝の時間はとでも大事です。少しも無駄に出来ませんから、列車
時間に合わせて貰いたいのです。帰路も同じことです。


◇ この日には、お米は勿論、いろんな野菜や茸の類いなど、あらゆる収穫物が、講壇の前に並びます。鶏も
あります。

 礼拝が終わると、これで秋田名物のきりたんぽ鍋を作ります。とても楽しい時でした。


◇ 5節を読みます。

 … あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。

 「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、 そこに寄留しました。しか
しそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。…

 この箇所は、神代・柏林の人々にとっては、正に我がことでした。満州から、身一つで引き上げて来た人たち
が、荒地を開墾して出来た集落です。

 彼らは、自分たちが住む家もなく、テントやバラック住まいだった時に、先ず、礼拝堂を建てました。勿論、小
屋程度の些末な建物です。17件全部が新しい家に建て替えられたのは、丁度私が赴任した年でした。開拓
から、30年以上経っていました。


◇ この話を続けたいのですが、時間的にも無理です。他の機会に譲ります。兎に角、申し上げたいのは、かつ
て、特に東北の田舎教会などでは、収穫感謝は大事な教会行事であり、単なる秋祭りではなかったということ
です。勿論、アメリカ開拓民は、自分たちの苦悩と、出エジプトの民とを重ね、その分、喜びが大きかったのだと
考えます。

 そして、1番強調しなくてはならないことは、玉川平安教会も同じだと言うことです。玉川平安教会は、農家と
は無縁でしょうが、開拓によって生まれた教会には違いありません。最初の会堂を建築する際には、日野原善
輔先生が、アメリカにまで出掛けて資金を作ったと聞きます。


◇ 6節は省き7〜8節を読みます。

 … わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、

  わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、

   力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもって

  わたしたちをエジプトから導き出し、…

 玉川平安教会88周年の間には、このような思いを抱く人、この御言葉にアーメンと言う人が少なくないと思
います。教会のために、懸命に働いた人、苦労した人ほど、その思いは強く深いでしょう。そうしたものです。苦
労がなくては喜びも感謝もありません。

 「神さまが何をしてくれた。」と不満を持つ人もいますが、そういう人は、案外に、傍目には恵まれた環境に生
まれ育ち、今も豊かな生活している人です。神さまに恨み言の一つも持って良いような、苦悩を味わった人は、
勿論、その苦悩が去ってから、落ち着いてからでしょうが、「神さまが支えくださった。」と、感謝します。


◇ 神代・柏林の人もそうでした。一番苦労した人が、一番感謝が多いのです。あるご婦人などは、満州開拓
と引き上げ後の生活苦で、教育を受けることが出来ませんでした。彼女は、孫と一緒に聖書を読むために、平
仮名から勉強しました。 

 彼女は言います。「今はとても幸せだ。聖書は全部ふりがながあるから、自分でも聖書が読める。孫と一緒
に、神さまの言葉が聞ける。」

 そしてこのようにも言いました。「それでも、あの苦労した開拓時代が懐かしく、今よりも幸せだったように思
う。」


◇ 9節。

 … この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。…

 神代・柏林は、切り株を人力で除き、子どもたちまで畑の石を拾わなくてはならない荒れ地でした。決して、
『乳と蜜の流れる … 土地』ではありませんでした。

 しかし、苦労は無駄にはなりません。長い年月をかけて、畑が潤うほどの汗と涙を流して、田畑が生まれまし
た。

 勿論、カナンの地でもそうでした。歴史的・客観的に見れば、『乳と蜜の流れるこの土地』は、必ずしも、『与
えられました』と言える程の土地ではなかったと思います。しかし、ユダヤの民が、『乳と蜜の流れる … 土地』に
変えました。それは、結局、『乳と蜜の流れる … 土地』に変えることが出来る土地だったとも言えますでしょう。


◇ そして10節前半。

 … わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。」… 実りの時を得たのです。

 聖書研究祈祷会では、イザヤ書を読み始めました。先週読んだ箇所では、神さまが何もかも備えて下さった
ぶどう園を、エルサレムの人が台無しにしてしまう話が語られていました。

 案外にそうしたものでしょう。良いものに恵まれて、それを大事に育て増やし、大きくする人もいますが、逆が
多いでしょう。僅かに与えられたものを感謝して受け止め、それを苦労して育て、感謝する人もいます。何しろ、
農家の人が蒔くのは、小さい種です。その種を蒔く人だけが、収穫の喜びを味わい、感謝することが出来ま
す。

 「こんな小さいものでは」とため息をついた人には、実りも収穫もありません。


◇ 玉川平安教会にも、土地が与えられ、教会が植えられました。土地そのものは、入手した時の何倍どころ
か、何十倍、それ以上の価値を持っているかも知れません。

 しかし、大事なのは、この畑に、何が実ったかでしょう。イザヤ書では、ぶどう園に、アザミやイバラが生え育った
と批判されています。私たちの教会は、何を植え、何を収穫したのか、何を取り入れるのか、何を目指している
のか、改めて問われています。


◇ 10節後半。

 … あなたはそれから、あなたの神、主の前にそれを供え、

  あなたの神、主の前にひれ伏し、…

 私たちが礼拝で備えるのは、自分が種蒔き育てた収穫物です。愛、信仰そのものです。種蒔き、育み、そし
て収穫しなくては、神さまに捧げることなど出来ません。

 イバラやアザミの種を蒔いてはなりません。それを育て刈り取ってはなりません。


◇ 11節。

 … あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、

  レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい。…

 ここが、今日の箇所で肝心な所です。これを読み逃してはなりません。

 前半はよろしいでしょう。後半です。

 先ず『レビ人』、ユダヤ人の中の祭司階級の人々です。収穫を、『レビ人』と分かち、そして喜びなさいと命じら
れています。『レビ人』、今でしたら教会になりますでしょう。そこで働く牧師かも知れません。収穫は、教会にも
捧げられなくてはなりません。ユダヤ人は、これを「神からに与えられたものを、神にお返しする」と考えていまし
た。

 一番は、命そのものです。

 『神は与え、神は取り給う、神の御名は褒むべきかな。』です。

 収穫の感謝・喜びのない者は、神に、具体的には、教会に捧げることは出来ないでしょう。人生そのものに、
感謝・喜びのない人は、教会のために、働くことは出来ないでしょう。逆に言えば、畑仕事と同じで、教会の働
きのために労苦した人だけが、涙ながらにも祈った人だけが、信仰生活の感謝・喜びを持つことが出来ます。


◇ 11節でも後半の方が大切かも知れません。

 … あなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい。…

 『寄留者』です。余所人です。もしかしたら、難民です。決して豊かな人ではないでしょう。むしろ、飢えた人で
はないかと思います。

 大きな喜びがあれば、それを、誰とも分かち合いたいと考えるのが、自然なのです。

 お祭りとはそうしたものでしょう。収穫感謝のお祭りならば、尚更です。喜びの大きさが、感謝の大きさが、その
ようにさせます。それが出来ないのは、収穫が足りないからでしょうか。人に分けるほどの富がないからでしょう
か。

 そうではなくて、足りないのは、感謝、喜びそのものでしょう。人に分かち与えることが出来ない人は、感謝、
喜びが足りないのです。

 何故、収穫を得ながら、感謝、喜びが足りないのでしょうか。多分、苦労が足りないのではないでしょうか。汗
水を充分流していないからではないでしょうか。


◇ 限られた紙数の中で、無駄なことを言うかも知れません。聖書解釈上は脱線かも知れません。しかし、どう
しても、私の頭の中では重なってしまいます。

 『乳と蜜の流れるこの土地』、現在のイスラエルは、この表現に当て嵌まるかも知れません。それは主に、イス
ラエル建国後の開拓による結果です。かつて、荒廃していた土地に、ユダヤ人が入植し、荒れ地を開墾し、灌
漑し、ナイル川など大河の岸辺にしかないような、周囲の中東諸国には全く見られないような、豊かな農場を
設けました。

 あのホロコーストを体験させられたユダヤ人がです。

 もう一度読みます。

 … 主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、  力ある御手と御腕
を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもって

  わたしたちを…

 現代イスラエル建国に、全く当て嵌まります。入植そのものを悪と言う人もいますが、公平な判断ではないと
考えます。どうも、ユダヤ人は、世界史を通じて、根拠なく批判・否定され、それが現代にまで続いているように
思えてなりません。


◇ ドイツのみならず、欧米各国で、ナチズムが復活していると聞きます。ホロコーストは忘れられています。ユダ
ヤ人批判・差別だけが、今も継続しています。

 しかしそのこととは、話が違います。

 聖書の信仰が、それに基づくイデオロギーが、歴史上有り得なかった、イスラエル再建を、今の繁栄をもたらし
ました。2000年ぶりです。2000年の間に滅び去った国家は、現存する国家よりも遙かに数が多いそうです
が、その中で、イスラエルの他には、再建出来た国は一つもありません。正に、信仰だけが、これを可能にしまし
た。

 ならば、聖書の、しかも、彼らが最も大事にするモーセ五書、その中でも、最も中心的なものであり、律法そ
のものと重なる申命記を、おろそかにしてはならない筈です。

 もう一度読みます。… すべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさ
い。… 共に喜ぶことが平和です。収穫を分かち合うことが平和です。

 

◇ ここに言われる寄留者とは、パレスチナ難民のことではないかも知れません。しかし、理屈も信仰も同じこと
です。寄留者・パレスチナ難民と共に、収穫感謝を祝うことがなければ、平和はありません。イスラエルという言
葉の意味は、神の平和です。

 私たちも同様です。例えばクリスマス、これを多くの人々と共に祝うことが出来なければ、それはクリスマスでは
ありません。『インマヌエル〜神共にいます』それが、クリスマスの意味です。

 世の人は、クリスマスをお祭りとしてしか、贅沢なイベントとしてしか、見ていないかも知れません。それでもで
す。もし世の人々が、真のクリスマスを知らないとしたら、それも、教会の伝道力の足りなさです。

 私たちが伝道するのは、教会を守るためではありません。世の人々と共に、収穫感謝、つまり、信仰と愛の実
りを喜ぶためです。「教会にしか、本当のクリスマスはない。」と言うのは、傲慢です。間違いです。

 真のクリスマスの意義を伝え、一緒に感謝し、一緒に祝うのが、教会の役割です。