● 詩編51編19節。 … 神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。… 詩編34編19節。 … 主は打ち砕かれた心に近くいまし 悔いる霊を救ってくださる。… イザヤ書57章15節。 … 高く、あがめられて、永遠にいまし その名を聖と唱えられる方がこう言われる。 わたしは、高く、聖なる 所に住み 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり へりくだる霊の人に命を得させ 打ち砕かれた心の人に命を得させる。… ● 聖書中、他にも、『砕かれた心』という言葉が沢山あります。 その中でも最も良く知られているのが、最初に上げた詩編51編19節でしょう。 交読文15に採用されています。 しかし長くて、週報の1ペイジに収まり切れませんので、礼拝で読んだことは、これまで一度もありません。その 末尾部分を引用します。 讃美歌付録の交読文15をご覧いただければ分かり易いかと思います。 … 神よ、わが救いの神よ、血を流しし罪より我を助けいだしたまえ、 さらばわが口なんじの義をうたわん。 主よ、わが唇をひらきたまえ、 さらばわが口なんじのほまれを表わさん。 汝は供物(そなえもの)を好みたまわず、もし然(しか)らずは我これをささげん、 汝また燔祭(はんさい)をもろこびたまわず。 神の求めたもう供物は砕けたる魂なり、 神よ、汝は砕けたる悔(く)いし心を軽(かろ)しめたもうまじ。… ● 罪の告白であり、深い懺悔の歌です。 罪を犯した自分の心を自ら切り開いて、その心を、心臓といった方が良いかも知れません。心を、心臓を、懺 悔の徴の捧げ物、罪の贖いのための、捧げ物とする歌です。 それは、則ち、深い深い信仰告白です。 讃美歌第2編177番を連想させられます。 … あなたも見ていたのか 主が木にあげられるのを ああ、いま思い出すと、 深い深い 罪に わたしはふるえてくる … 2節目の末尾は、『手足がふるえてくる』、3節目は『からだがふるえてくる』 最後の節では、『こころがふるえてくる』 もっとも有名な黒人霊歌の一つです。深い深い信仰の讃美歌です。 彼らがどんな罪を犯したというのでしょうか。罪などは、何も犯していません。逆に、罪を犯す人々に苦しめら れ続けて来ました。しかし、『主が木にあげられるのを』、我が罪のように受け止め、罪を告白、と言うよりも、信 仰を告白しています。 ● ヨハネ福音書9章41節。 … イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。 しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。 だから、あなたたちの罪は残る。… 罪がないと言いはる者に罪がある、そういう言葉です。逆に、罪を告白する者は、その罪を贖われ、赦されま す。それが、十字架の贖罪です。 主の十字架を見上げて、罪を告白する者は、深く主の十字架と結び付けられます。そして、罪を贖われ、赦 されます。 罪がないと言いはる者は、「イエスさまの十字架は、私には何の関係もない」と言う人であり、当然、罪を贖わ れ、赦されることはありません。 ● もう一度、詩編51編19節。 … 神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。… 『いけにえ』です。捧げ物です。 先日、孫がテレビでディズニーの映画を見ていました。後ろから覗いただけなので詳細は分かりませんが、マヤ 文明を舞台としていました。当然の如くに、犠牲が捧げられる場面、心臓が取り出される場面がありました。 マヤ文明と言うと直ぐにそんな話になるのは偏見かも知れません。しかし、事実は事実です。マヤだけではなく 多くの古代宗教に、人身御供・人身犠牲があったようです。 聖書世界にもそれがあり、聖書時代にも、残っていました。聖書が忌み嫌う、バアル宗教がそうですし、特 に、子どもを犠牲とするモロク神信仰は徹底的に批判されています。 創世記にイサクが捧げられる場面があります。それを、聖書が人身犠牲を肯定していると理解する人がいま すが、とんでもない、あの物語の結論を考えれば分かることです。結局イサクは殺されることはありません。あの 物語は、むしろ、当時の聖書世界に見られた人身犠牲を否定する物語です。 ● 聖書は、原始的でおぞましい人身犠牲を否定し、神さまが求めるものは、肉である心臓ではない、心臓に 宿ると考えられていた心・魂であると主張します。更に、心・魂、人を愛し、励まし、慰める美しい心こそ、神さ まが喜ばれる捧げ物だと、言います。 更に、新約聖書の時代になりますと、 〜 ローマ12章が典型でしょう。引用します。 … こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。 自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。 これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。… この言葉をも、人身犠牲のように理解する人があります。全く、誤解です。 『聖なる生けるいけにえ』です。 つまり、犠牲は、特に心臓ならば、殺されて、体から取り出され、そして、捧げられます。当然、犠牲の動物 は死にます。心臓が捧げられた時には、死んでいます。 パウロが言うのは『生けるいけにえ』です。死んだ肉体ではありません。 私たちが捧げる礼拝は、祈りであり、讃美であり、何より信仰の告白です。これ全て、生きていてこそ出来る ものです、捧げることが出来ます。 ● 冒頭に上げた詩編やイザヤ、他にも無数にありますが、これらは、新約聖書と矛盾しません。むしろ、新約 聖書で、その根本的な意味が明らかになります。 未だに、人間の犠牲を要求する思想は、イエスさまの十字架を軽視する思想です。 十字架の贖いの意味を否定する思想です。 およそ、どの時代のどの宗教も、犠牲を捧げる儀式がなくては成り立たないようです。儀式がなければ、それ は宗教ではありません。 私たちのキリスト教も、そこで行われる礼拝もまた、犠牲を捧げる儀式です。その点は、他宗教と同じです。 但し、捧げるべきものが違います。その違いです。 キリスト教では、『砕けたる悔いし心を』捧げるのです。 ● さて、以上のお話しをするのに、詩編147編は、必要ない、触れる必要がないかのようです。詩編51編で 充分かも知れません。実際そのようにお話ししています。 しかし、今日の礼拝では、一年で最初の礼拝では、詩編147編を読みたいと思いました。 2〜3節を読み ます。 … 主はエルサレムを再建し イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。 打ち砕かれた心の人々を癒し その傷を包んでくださる。… 『打ち砕かれた心の人々』です。 この言葉の意味は、『砕けたる悔いし心』と全く同じでしょうか。単語の意味は同じかも知れませんが、意味 合いが違うと考えます。 『打ち砕かれた心の人々』とは『イスラエルの追いやられた人々』です。 ● 旧約聖書に描かれる歴史を観ますと、何かしら、罪があり、不信仰な行いをし、その果てに、『追いやられ た人々』、つまり、神の刑罰を受けた人なのでしょう。或いはその子孫なのでしょう。しかし、彼らは、心『打ち砕 かれ』ています。 傷つき、弱り果て、滅びようとしています。 彼らは、悔い改めて、神にふさわしい民になったのでしょうか。清い民になったのでしょうか。分かりません。 し かし、 … 主はエルサレムを再建し イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。 打ち砕かれた心の人々を癒し その傷を包んでくださる。… そのように預言されています。歌われています。 ● 2024年は、元旦の能登地震から始まりまり、その後も災害が相次ぎました。世界に目をやれば、ウクライ ナでの戦闘は止まず、イスラエル周辺での争いはエスカレートし、お隣の韓国も、何だかおかしなことになって来 ました。日本だって、他国のことを笑うことは出来ません。坂道の下りが始まったのではないか、この先どんどん 傾斜が激しくなるのではないかと、多くの人が不安に思っています。 教会は、ご多分に漏れずと言いたいのですが、教会こそ、この坂道にいます。 私がこれまで、何らか拘わった教会だけ見ても、弱り、問題が起こり、問題を抱え、悲しい状態になった所が 少なくありません。 事例を上げてお話ししたら切りがありません。省略しますが、惨憺たるものです。 どうして、何か悪いことしたの、と言いたくなります。思ってしまいます。 ● 6〜9節まで、もう一度読みます。 … 主は貧しい人々を励まし 逆らう者を地に倒される。 感謝の献げ物をささげて主に歌え。 竪琴に合わせてわたしたちの神にほめ歌をうたえ。 主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え 山々に草を芽生えさせられる。 獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば 食べ物をお与えになる。… 決して、神は見放してはいないと、神は守ってくださると歌われています。 ● そして10節。 … 主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく 人の足の速さを望まれるのでもない。… ここには大胆な信仰があります。 先ほど、いろんな教会が弱り、人数が少なくなり、惨憺たるものだと申しました。しかし、これは不信仰な物の 見方です。より根本的に問わなくてはなりません。どうして、弱ってはならないのか、どうして人数が少なくなって はならないのか、人数少ないことが、惨憺たる様なのか。〜それは、馬の力を崇拝する信仰です。 詩編33編16〜17節。 … 王の勝利は兵の数によらず 勇士を救うのも力の強さではない。 馬は勝利をもたらすものとはならず 兵の数によって救われるのでもない。… 肝心なことは、礼拝を守り続けることです。人数ではありません。礼拝を守っているのに、他の教会から、同 情されたり、まして見下されたり、そんな話ではありません。 ● 肝心なのは11節です。 … 主が望まれるのは主を畏れる人 主の慈しみを待ち望む人。… これがあれば充分です。これがなければ、他のことがどんなに充実していようとも意味をなしません。12節。 … エルサレムよ、主をほめたたえよ シオンよ、あなたの神を賛美せよ。… 私たちは、ただ、このことを命じられています。私たちは、ただ、このことを果たすことが出来ます。このこと、命じ られていることを果たすのに、一体、何が足りないと言うのでしょうか。軍馬ですか。兵士ですか。軍資金です か。 ● 13〜14節。 … 主はあなたの城門のかんぬきを堅固にし あなたの中に住む子らを祝福してくださる。 あなたの国境に平和を置き あなたを最良の麦に飽かせてくださる。… 教会が信じるべきはこのことです。このことだけです。 15節。 … 主は仰せを地に遣わされる。御言葉は速やかに走る。… これは福音宣教です。このことが充分に出来なかったならば、嘆きも必要でしょう。 ● 2024年、悲しい出来事を体験した教会員が少なくありません。「どうしてこんな目に遭うのか」と叫んだ人 もあるでしょう。正に『心砕かれて』しまった人があります。 しかし、そのような人にこそ、詩編147編は、語りか けています。『心砕かれて』『砕かれて〜しまった心』で、十字架を見上げようと、語りかけています。 この時にこそ、砕かれた心を捧げて、礼拝を持つことが出来ると、詩編は言うのです。 |