◆この詩編の背景にある歴史上の事件は、サムエル記上21〜22章に物語られています。時間が足りなくなりますから、その粗筋を紹介することはしません。後で読んでいただければ充分と思います。必要なことだけ、その都度、付け加えてお話しします。 ◆3節から順に読みます。 … 力ある者よ、なぜ悪事を誇るのか。… これが、この詩編の主題です。 『力ある者』とは、本来は神さまのことです。エルと言う字が使われています。イスラエルのエルです。自分を『力ある者』だと自己認識している者は、己を神とする人です。「自分には力はない、力は神にある」と告白するのが、信仰者の姿であり、自分に力があると考えることこそが、不信仰です。 ◆最初から脱線かも知れませんが、ここで申し上げるべきでしょう。「自分には力はない、力は神にある」と告白するのは、決して、自信がないからではありません。何事をなすにも、自信は必要でしょう。自信がなかったら、大抵失敗の道を辿ります。 ただ、その根拠は「自分には力はないが、神に力がある」と言うことにあります。 この大前提、根拠のない自信は、そのまま神への不信でしかありません。 ◆『なぜ悪事を誇るのか』、『力ある者』、おそらくはサウル王のことです。サウル王は、神の力に依って戦に勝利し王権を高めて行きますが、やがてそれを自分の力・手柄と理解し、傲慢になってしまいます。 ついには神の御旨に逆らうことを行い、それをこそ自分の手柄として誇るようになりました。全ては自分の力と考えます。それこそ自慢です。神の助けを得て勝利したのでは、自慢になりません。 勝利を重ねるにつれて、神さまは要らなくなります。それどころか、神さまが邪魔になります。全ての手柄を自分のものにしたくなります。つまりは、自分が神さまになっていきます。この次第はサムエル記上22〜23章に描かれています。 聖書だけではありません。中国でも日本でも、英雄豪傑が勝利を重ね、王と呼ばれ、仕舞いには、自分は神だと僭称し、人に礼拝を強いるようになります。 ◆3節の後半を見ます。 … 神の慈しみの絶えることはないが … それが原則です。神さまは、約束を契約を守る方です。契約の相手が、契約を破っても、神はあくまでも契約を履行されます。これは、ホセア書のテーマであり、他の預言書でも、根底には、これがあります。 神さまの慈しみは変わることがありません。しかし、4節。 … お前の考えることは破滅をもたらす … 神によらず、ただ自分の道を歩むことで、自ら滅びの道を選んだのです。そこには『神の慈しみ』は及びません。自ら拒否したのですから。 『神の慈しみの絶え』たのではなく、自らこれを拒絶し、自ら破滅への道を選んだのに過ぎません。 ◆そうなりますと、4節後半。 … 舌は刃物のように鋭く、人を欺く … これは、元々の意味合いは「悪意をもって偽証し非難すること」です。『舌は刃物のように鋭』さをもって、相手が気づきもしない内に、傷付けてしまいます。 何しろ、自分が神よりも力強く、神よりも正しいのですから、敵対する人の言い分など聞こえません。聞く気はありません。邪魔する者は、ただ切り捨てるだけです。 つまり、独裁者です。神の言葉に従わない者は、この道を歩むことになります。この道しか歩む道はなくなります。 ◆待降節以来の礼拝説教を聞いた方は、もうお気付きでしょう。今までの話は、全て、ヘロデ王にこそ当て嵌まります。 5節。 … お前は善よりも悪を、正しい言葉よりもうそを好み … この表現は、サムエル記上22〜23章に照らして、必ずしもサウル王の現実とは重ならなりませんが、ヘロデ王にこそ、ぴったりと当て嵌まります。 また、サウル王も結果的にはダビデを偽り、陥れたのですから、この批判を免れることは出来ないでしょう。 ◆5章の下に、ト書きのように『セラ』とあります。これは音楽記号で、小休止の意味を持つそうです。音楽的効果と、ここで沈思黙考せよとの意味でしょうか。 私たちも、ここで小休止しても良いのかも知れません。ちょっと首や背筋を伸ばしてもかまいません。 私がそのようにしたいくらいですが、続けます。 ◆6節。 … 人を破滅に落とす言葉、欺く舌を好む … 5節と同様、サウル王は懊悩し逡巡したあげくとはいえ、結果的にはダビデを偽り、陥れました。過剰な自信と、逆に疑心暗鬼が、サウル王の特徴です。自信と、疑心暗鬼、全く裏腹のように聞こえますが、同じ根っこから生え出て来る二つの芽です。このことも、マタイ福音書のヘロデ王を連想させられます。 福音書には、ヘロデ王が行った良い業など、何も記されていません。ちょっと不公平かも知れません。彼は、軍人として優れていたのは勿論、なかなかの政治家であり、文化的事業にも貢献したそうです。 ◆この点でも、サウル王とヘロデ王は似通っています。 否、全ての独裁者に共通することなのでしょう。現代だってそれは当て嵌まります。独裁者の支持率は結構高いのが、現実です。傍から見たら、とんでもない奴だとしか映りませんが、国民の中には、熱烈に支持する人がいることも事実なのです。 クリスマス前から、説教で政治のことに触れているかも知れません。このくらいで止めますが、歴史上そして現代の政治家、特に独裁者の姿を見ることは、キリストを見ることに繋がります。ヒントを与えてくれます。 真逆だからです。 ◆7節。 … 神はお前を打ち倒し、永久に滅ぼされる … 『打ち倒し』は、口語訳では『砕き』と訳されています。自分の周囲を固め守っている城壁や人垣などが、砕かれ丸裸にされるという意味です。何かしらの持ち物で自分を守ろうとすることが、神への不信であり、滅亡へとつながって行きます。 独裁者は、実は自己保身者なのです。要するに自分だけが可愛いのです。 ◆7節の続き。 … お前を天幕から引き抜き … 天幕は安全で豊かな住まいを象徴しています。そこから引き抜かれるとは、彼が持っている財産や全ての物から切り離されることを意味します。 諄く聞こえるかも知れませんが、ヘロデ王がそうでした。自分の周囲にいる者、自分を育て上げてくれた筈の人に不信を抱き、粛正しました。妻も子も、旗下の将軍も次々と殺しました。そして丸裸になってしまいます。 ◆7節の残り。 … 命ある者の地から根こそぎにされる … 本来は天幕たるこの地上そのものから、引き抜かれ、切り離されるという意味を持ちます。自らそのようにしてしまったのです。 ◆8節。これを見て、神に従う人は神を畏れる … 恐怖を覚えると言うよりも、全ては神の経綸の中にあるということを思い知らされるということでしょう。 … 彼らはこの男を笑って言う … 『笑』うとは、馬鹿にするとか、小気味よく思うとかという次元を超えた強い表現です。全否定です。イエスさまの十字架の出来事で、イエスさまを『笑った兵士たち』にも当て嵌まります。 『笑』うとは、小さい罪ではありません。むしろ、逆らうとか裏切るよりも、ずっと罪深いことです。 教会を『笑』う。小馬鹿にするような人には、赦しも救いもありません。教会を笑うことは、逆らうとか裏切るよりも、ずっと罪深いことです。 ◆9節。 … 見よ、この男は神を力と頼まず自分の莫大な富に依り頼み … 必ずしもサウル王には当て嵌まらなくとも、世の為政者の陥りがちな罠でしょう。イスラエル・ユダの歴史の中で繰り返されたことでもあります。 現代でも繰り返されています。 ◆9節の後半。 … 自分を滅ぼすものを力と頼んでいた … 同様に、世の為政者の現実です。 何度も読んでいますが、イザヤ46章1〜2節を引用します。 1:ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ お前たちの担いでいたものは重荷となって 疲れた動物に負わされる。 2:彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず 彼ら自身も捕らわれて行く。 金で造られた偶像を頼みとして生きて来た者は、イザと言う時に、これを担いで逃げます。しかし、その重さの故に逃げ足が遅くなります。 また、敵は、この金を、金だからこそ、諦めずに、どこまでも追いかけて来ます。偶像は頼みとならないばかりか、滅びへと導きます。 ◆10節。 … わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります … 10節以降は、それまでとは全く調べが変わります。詩編には良くある展開です。9節までのことを踏まえて、神に逆らう物とは全く別の道を歩きます、という決断を述べ、また、その道が与えられていることを感謝しています。 それは、『世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます』 力を誇り頼りとする者とは、真逆な生き方です。 ◆11節。 … あなたが計らってくださいますから とこしえに、感謝をささげます … 人間の計画や、まして野望に生きることには限界があります。必ず挫折が待っています。神の計画を信じ委ね◆るところにしか、真の救いはありません。 神の道を選ぶことが出来ること自体が、感謝です。 ◆以上の原稿は、クリスマスの前に書き上げていました。クリスマスと31日の原稿よりも早く書きました。正月は休みたかったからです。そうでもしなければ、牧師には休みはありません。どんな時でも、日曜日と水曜日は、決まって巡って来ます。 新年の原稿を書き上げていれば、3が日は休むことが出来ます。準備万端でした。 そこに、能登の地震が起こりました。ずっとテレビの前にいました。体は休めたかも知れませんが、気持ちは滅入りました。 何と言う新年のスタートでしょう。被災地の方々にとっては勿論ですが、私たち日本の国に住む者には、依って立っている足場を失う体験です。地震だけではありません。今、私たちの足下が揺らいでいます。これまで頼りにして来たものが、崩れようとしています。しかし、これが現実です。むしろ、人の世の変わらない現実です。 ◆私たちも、新しい年の歩みを、ただ神を頼りとして、『神の家にとどまり』、そのことを感謝しながら、歩み続けたいものです。 私たちの教会は、かつてに比べたならば、弱っているかも知れません。力が足りなくなっているのかも知れません。しかし、私たちは、自分の力を頼みとするのではなく、 … 御名に望みをおきます … 主の御名だけが私たちの根拠です。主の御名を根拠とするならば、私たちは、自信さえ持つことが出来ます。主は、『あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い』からです。 輪島教会は、もはや礼拝堂が使えないだろうと聞きました。今後の支援が求められるでしょう。できる限りのことをしましょう。他の教会を支援出来る、そのことを感謝して、取り組みましょう。 |