日本基督教団 玉川平安教会

■2025年1月5日 説教映像

■説教題 「打ち砕かれた心を」

■聖   書  詩編 147編1〜20節 


● 詩編51編19節。

 … 神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を

  神よ、あなたは侮られません。…

 詩編34編19節。

 … 主は打ち砕かれた心に近くいまし 悔いる霊を救ってくださる。…

 イザヤ書57章15節。

 … 高く、あがめられて、永遠にいまし その名を聖と唱えられる方がこう言われる。  わたしは、高く、聖なる

所に住み 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり

  へりくだる霊の人に命を得させ 打ち砕かれた心の人に命を得させる。…


● 聖書中、他にも、『砕かれた心』という言葉が沢山あります。

 その中でも最も良く知られているのが、最初に上げた詩編51編19節でしょう。

 交読文15に採用されています。

 しかし長くて、週報の1ペイジに収まり切れませんので、礼拝で読んだことは、これまで一度もありません。その

末尾部分を引用します。

 讃美歌付録の交読文15をご覧いただければ分かり易いかと思います。


 … 神よ、わが救いの神よ、血を流しし罪より我を助けいだしたまえ、

  さらばわが口なんじの義をうたわん。

   主よ、わが唇をひらきたまえ、

  さらばわが口なんじのほまれを表わさん。

   汝は供物(そなえもの)を好みたまわず、もし然(しか)らずは我これをささげん、

  汝また燔祭(はんさい)をもろこびたまわず。

   神の求めたもう供物は砕けたる魂なり、

  神よ、汝は砕けたる悔(く)いし心を軽(かろ)しめたもうまじ。…


● 罪の告白であり、深い懺悔の歌です。

 罪を犯した自分の心を自ら切り開いて、その心を、心臓といった方が良いかも知れません。心を、心臓を、懺

悔の徴の捧げ物、罪の贖いのための、捧げ物とする歌です。

 それは、則ち、深い深い信仰告白です。

 讃美歌第2編177番を連想させられます。

 … あなたも見ていたのか 主が木にあげられるのを 

  ああ、いま思い出すと、 深い深い 罪に  わたしはふるえてくる …

 2節目の末尾は、『手足がふるえてくる』、3節目は『からだがふるえてくる』

 最後の節では、『こころがふるえてくる』

 もっとも有名な黒人霊歌の一つです。深い深い信仰の讃美歌です。

 彼らがどんな罪を犯したというのでしょうか。罪などは、何も犯していません。逆に、罪を犯す人々に苦しめら

れ続けて来ました。しかし、『主が木にあげられるのを』、我が罪のように受け止め、罪を告白、と言うよりも、信

仰を告白しています。


● ヨハネ福音書9章41節。

 … イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。

  しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。

  だから、あなたたちの罪は残る。…

罪がないと言いはる者に罪がある、そういう言葉です。逆に、罪を告白する者は、その罪を贖われ、赦されま

す。それが、十字架の贖罪です。

 主の十字架を見上げて、罪を告白する者は、深く主の十字架と結び付けられます。そして、罪を贖われ、赦

されます。

 罪がないと言いはる者は、「イエスさまの十字架は、私には何の関係もない」と言う人であり、当然、罪を贖わ

れ、赦されることはありません。


● もう一度、詩編51編19節。

 … 神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を

  神よ、あなたは侮られません。…

 『いけにえ』です。捧げ物です。

 先日、孫がテレビでディズニーの映画を見ていました。後ろから覗いただけなので詳細は分かりませんが、マヤ

文明を舞台としていました。当然の如くに、犠牲が捧げられる場面、心臓が取り出される場面がありました。

 マヤ文明と言うと直ぐにそんな話になるのは偏見かも知れません。しかし、事実は事実です。マヤだけではなく

多くの古代宗教に、人身御供・人身犠牲があったようです。

 聖書世界にもそれがあり、聖書時代にも、残っていました。聖書が忌み嫌う、バアル宗教がそうですし、特

に、子どもを犠牲とするモロク神信仰は徹底的に批判されています。

 創世記にイサクが捧げられる場面があります。それを、聖書が人身犠牲を肯定していると理解する人がいま

すが、とんでもない、あの物語の結論を考えれば分かることです。結局イサクは殺されることはありません。あの

物語は、むしろ、当時の聖書世界に見られた人身犠牲を否定する物語です。


● 聖書は、原始的でおぞましい人身犠牲を否定し、神さまが求めるものは、肉である心臓ではない、心臓に

宿ると考えられていた心・魂であると主張します。更に、心・魂、人を愛し、励まし、慰める美しい心こそ、神さ

まが喜ばれる捧げ物だと、言います。

 更に、新約聖書の時代になりますと、 〜 ローマ12章が典型でしょう。引用します。

 … こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。

  自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。

  これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。…

 この言葉をも、人身犠牲のように理解する人があります。全く、誤解です。

 『聖なる生けるいけにえ』です。

 つまり、犠牲は、特に心臓ならば、殺されて、体から取り出され、そして、捧げられます。当然、犠牲の動物

は死にます。心臓が捧げられた時には、死んでいます。

 パウロが言うのは『生けるいけにえ』です。死んだ肉体ではありません。

 私たちが捧げる礼拝は、祈りであり、讃美であり、何より信仰の告白です。これ全て、生きていてこそ出来る

ものです、捧げることが出来ます。


● 冒頭に上げた詩編やイザヤ、他にも無数にありますが、これらは、新約聖書と矛盾しません。むしろ、新約

聖書で、その根本的な意味が明らかになります。

 未だに、人間の犠牲を要求する思想は、イエスさまの十字架を軽視する思想です。

 十字架の贖いの意味を否定する思想です。

 およそ、どの時代のどの宗教も、犠牲を捧げる儀式がなくては成り立たないようです。儀式がなければ、それ

は宗教ではありません。

 私たちのキリスト教も、そこで行われる礼拝もまた、犠牲を捧げる儀式です。その点は、他宗教と同じです。

但し、捧げるべきものが違います。その違いです。

 キリスト教では、『砕けたる悔いし心を』捧げるのです。


● さて、以上のお話しをするのに、詩編147編は、必要ない、触れる必要がないかのようです。詩編51編で

充分かも知れません。実際そのようにお話ししています。

 しかし、今日の礼拝では、一年で最初の礼拝では、詩編147編を読みたいと思いました。 2〜3節を読み

ます。

 … 主はエルサレムを再建し イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。

  打ち砕かれた心の人々を癒し その傷を包んでくださる。…

 『打ち砕かれた心の人々』です。

 この言葉の意味は、『砕けたる悔いし心』と全く同じでしょうか。単語の意味は同じかも知れませんが、意味

合いが違うと考えます。

 『打ち砕かれた心の人々』とは『イスラエルの追いやられた人々』です。


● 旧約聖書に描かれる歴史を観ますと、何かしら、罪があり、不信仰な行いをし、その果てに、『追いやられ

た人々』、つまり、神の刑罰を受けた人なのでしょう。或いはその子孫なのでしょう。しかし、彼らは、心『打ち砕

かれ』ています。

 傷つき、弱り果て、滅びようとしています。

 彼らは、悔い改めて、神にふさわしい民になったのでしょうか。清い民になったのでしょうか。分かりません。 し

かし、

 … 主はエルサレムを再建し イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。

  打ち砕かれた心の人々を癒し その傷を包んでくださる。…

 そのように預言されています。歌われています。


● 2024年は、元旦の能登地震から始まりまり、その後も災害が相次ぎました。世界に目をやれば、ウクライ

ナでの戦闘は止まず、イスラエル周辺での争いはエスカレートし、お隣の韓国も、何だかおかしなことになって来

ました。日本だって、他国のことを笑うことは出来ません。坂道の下りが始まったのではないか、この先どんどん

傾斜が激しくなるのではないかと、多くの人が不安に思っています。

 教会は、ご多分に漏れずと言いたいのですが、教会こそ、この坂道にいます。

 私がこれまで、何らか拘わった教会だけ見ても、弱り、問題が起こり、問題を抱え、悲しい状態になった所が

少なくありません。

 事例を上げてお話ししたら切りがありません。省略しますが、惨憺たるものです。

 どうして、何か悪いことしたの、と言いたくなります。思ってしまいます。


● 6〜9節まで、もう一度読みます。

 … 主は貧しい人々を励まし 逆らう者を地に倒される。

  感謝の献げ物をささげて主に歌え。

  竪琴に合わせてわたしたちの神にほめ歌をうたえ。

  主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え 山々に草を芽生えさせられる。

  獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば 食べ物をお与えになる。…

 決して、神は見放してはいないと、神は守ってくださると歌われています。


● そして10節。

 … 主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく 人の足の速さを望まれるのでもない。…

 ここには大胆な信仰があります。

 先ほど、いろんな教会が弱り、人数が少なくなり、惨憺たるものだと申しました。しかし、これは不信仰な物の

見方です。より根本的に問わなくてはなりません。どうして、弱ってはならないのか、どうして人数が少なくなって

はならないのか、人数少ないことが、惨憺たる様なのか。〜それは、馬の力を崇拝する信仰です。

 詩編33編16〜17節。

 … 王の勝利は兵の数によらず 勇士を救うのも力の強さではない。

  馬は勝利をもたらすものとはならず 兵の数によって救われるのでもない。…

 肝心なことは、礼拝を守り続けることです。人数ではありません。礼拝を守っているのに、他の教会から、同

情されたり、まして見下されたり、そんな話ではありません。


● 肝心なのは11節です。

 … 主が望まれるのは主を畏れる人 主の慈しみを待ち望む人。…

 これがあれば充分です。これがなければ、他のことがどんなに充実していようとも意味をなしません。12節。

 … エルサレムよ、主をほめたたえよ シオンよ、あなたの神を賛美せよ。…

 私たちは、ただ、このことを命じられています。私たちは、ただ、このことを果たすことが出来ます。このこと、命じ

られていることを果たすのに、一体、何が足りないと言うのでしょうか。軍馬ですか。兵士ですか。軍資金です

か。


● 13〜14節。

 … 主はあなたの城門のかんぬきを堅固にし 

  あなたの中に住む子らを祝福してくださる。

  あなたの国境に平和を置き あなたを最良の麦に飽かせてくださる。…

 教会が信じるべきはこのことです。このことだけです。

 15節。

 … 主は仰せを地に遣わされる。御言葉は速やかに走る。…

 これは福音宣教です。このことが充分に出来なかったならば、嘆きも必要でしょう。

 

● 2024年、悲しい出来事を体験した教会員が少なくありません。「どうしてこんな目に遭うのか」と叫んだ人

もあるでしょう。正に『心砕かれて』しまった人があります。 しかし、そのような人にこそ、詩編147編は、語りか

けています。『心砕かれて』『砕かれて〜しまった心』で、十字架を見上げようと、語りかけています。

 この時にこそ、砕かれた心を捧げて、礼拝を持つことが出来ると、詩編は言うのです。