◆ 地震など大きな災害が起こると、テレビ・ニュースの画面に、崩壊した神社や、倒壊した、その鳥居などが 映し出されます。お寺は神社よりも頑丈なのでしょうか、あまり見ません。一方、お寺は火事に弱いらしく、歴史 のある古寺で、一度も、消失したことのない寺の方が珍しいくらいでしょうか。 津波が神社の直ぐ手前まで迫ったとの報道もありました。神社の立地が、津波が到達する危険域を示して いるとすれば、避難所にもなります。昔の人の知恵なのかなと思います。 ◆ 神社やお寺が倒壊・消失すると、町並よりも優先して、再建されます。私などは、順番が違うのではないか と思ってしまいますが、案外に大事なことのようです。神社やお寺は、その町や村のシンボルです。神社やお寺 を、他の何よりも早く再建することは、町や村の再建を目指す決意を示す覚悟のようです。大事なことです。 神社やお寺なんか二の次だと考える人は、結局、被災した町や村を捨てる人でしかないのかも知れません。 ◆ 私が牧師として働いていた秋田県や島根県は、日本でも最も過疎化が進む地域です。今は、福島県がそ れに続くでしょうか。赴任する先々が過疎化する地域でした。 そこには限界集落と呼ばれる所があります。住民が減りすぎて、村が機能しなくなってしまいます。これを維持 しようとすると、住民一人当り年間幾らという莫大な税金を注ぎ込まなくてはならないそうです。日本経済の観 点から見たら、赤字村落です。 限界集落の、これがなくなれば最早集落として存在出来ない分岐点は、お寺、神社だそうです。お寺、神 社に、お坊さん、神主さんが例え出張でも来ている内は未だ耐えられます。お坊さんが通えなくなると、集落は 終焉を迎えます。 ◆ 私は根性が悪いのでしょうか、つい、考えてしまいます。阪神大震災の時にペチャンと潰れてしまった神社を みて、「神社は自分さえ守れないのだ」と、思いました。江戸の大火は、お寺が火元だった場合が少なくないと 聞きました。それでは、自分を守れないばかりか、人々に迷惑を掛けてしまいます。 集落が、そこに住む人々が、お寺、神社を守ります。お寺、神社が、集落を、そこに住む人々を守るのでは ありません。その点、教会はどうでしょうか。そこで礼拝する人々の信仰を守れないなら、教会の存在理由はな くなってしまいます。 ◆ 35節から読みます。 … 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。 「他人を救ったのだ。 もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」… ハタと気付きました。私は、「神社は自分さえ守れないのだ」と思いましたが、これは、イエスさまを十字架に付 けた人々の言葉と同じでした。 「神も仏もあるものか」と言いますが、それよりも強く、「神は自分さえ守れないのだ」と強く否定する言葉で す。 ◆ 36〜37節。 … 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。 「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」… 災害や事故、病気で、大事な人を失い「神も仏もあるものか」と嘆くのは仕方がないかも知れません。しか し、兵士たちの言葉は、そうではありません。正に『侮辱して』言う言葉です。とても強い否定です。 ◆ 38節。 … イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。… 勿論、『侮辱』です。『侮辱』から更に一歩進んで、激しい悪意が感じられます。単なる悪ふざけではありませ ん。兵士たちは、何故、かくも激しい悪意を持ったでしょうか。 34節にヒントがあります。 … 人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。… ルカ福音書では、『人々』と記されていて『兵士たち』ではありませんが、マルコ福音書では、兵士たちの仕業 です。マルコ福音書では、ルカよりも遙かに詳しく兵士たちの所業が描かれており、服を分けたのも兵士たちで す。 … 17:そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、 18:「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。 19:また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。 20:このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。 そして、十字架につけるために外へ引き出した。… ◆ ドイツの有名な牧師・学者が説教で、こんな意味のことを言ってます。とても長い説教なので、引用には限 界があります。端折って端折って、障りだけ紹介します。 〜兵士たちの姿と、学生運動の様子とが重なって見える。彼らは、『自分が何をしているのか知らない。』彼 らには怒りがある。置かれている状況への不満がある。〜 兵士たちは、おそらくはローマ人ではありません。ローマによって侵略された地の出身でしょう。その意志に反し て辺境の地に連れてこられ、十字架刑の見張り番をさせられます。頑強な者は、三日三晩、喚き叫んだそうで す。助け出そうとする者に、襲われるかも知れないので、兵士たちは不寝の番になります。彼らには不満と怒り があります。 ◆ 兵士たちは、ローマ皇帝の兵力の末端の末端です。ローマの経済は略奪経済です。ローマの略奪によっ て、彼らの母国も苦しめられました。親兄弟が殺されました。しかし、彼らの王は、ローマ皇帝です。彼らの存在 自体が、ローマの暴政によるものです。 彼らは、『「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」』と蔑み、叫ばざるを得ないのです。 しかし、この叫びは、何とも不思議なことに、イエスさまを『これはユダヤ人の王』と言っています。十字架の出 来事の登場人物は、自分の意志を超えて、結局、「イエスはキリストだ」と言っています。 ◆ 39節。 … 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。 「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」… 兵士たちと同じです。彼は、自分の犯した罪の結果、今、十字架に架けられています。間もなく、苦悶の末 の死の時を迎えます。彼の手や足は、既に太い釘で打ち抜かれています。釘が、彼の全体重を支えていま す。掌、足首は、神経が集まる場所ですから、悶絶する傷みです。この苦痛を目的としたのが十字架刑です。 彼は、そのやり場のない苦しみを、傷みを、イエスさまにぶつけているのに過ぎません。イエスさまが、自分を救 ってくれるなどとは、全く思っていません。 ◆ 40節。 … すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、 同じ刑罰を受けているのに。… もう一人の死刑囚には、罪の自覚があるようです。今の苦痛は、自分が蒔いた種から生まれたものだと、承 知しています。イエスさまを罵った死刑囚のように、他人に転嫁することはありません。もがき苦しみながらも、自 分の罪の現実を見つめています。 ◆ 41節。 … 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。 しかし、この方は何も悪いことをしていない。」… 自分の罪と向かい合っています。現実を受け止めています。 そうして、何故だか、彼はイエスさまを見ています。 これは、たまたまではありません。イエスさまを見ることと、十字架を見つめることと、自分の罪を見ることとは重 なります。 自分の罪を見ること、罪を自覚することなしには、イエスさまを見ること、十字架を見つめることは出来ません。 また、イエスさまを見ること、十字架を見つめることなくしては、自分の罪を見ることは出来ません。 ◆ 以前にお話ししました。十八番(おはこ)ですから、何度もお話ししました。 自分の近くには、自分の目では見ることの出来ない人がいます。それは、幽霊でも神さまでもありません。自 分自身です。誰もがそうです。人が見る自分の姿とは、他人の目に映った姿でしかありません。他人の瞳に映 った姿は、鏡と同様に、左右が逆です。決して、自分の本当の姿ではありません。 本当の姿を見るためには、神さまの目が必要です。神さまの目に映さなくては、決して本当の姿は見えませ ん。 自分では見ることの出来ないものが他にもあります。それこそが、自分の罪の現実です。罪とは、自分自身 です。誰もがそうです。 人は自分の罪を、他人の目に映ったもので見ていますが、他人の瞳に映った罪は、決して、自分の本当の罪 の現実ではありません。だから納得出来ないし、真に悔いることも出来ません。神さまの目に映さなくては、決し て本当の罪の姿は見えません。 ◆ この死刑囚は、自分の罪の姿を、イエスさまの瞳の中に見ました。イエスさまが隣にいたから、自分の罪の姿 を見ました。 罪の現実を直視した男は言います。42節。 … そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、 わたしを思い出してください」と言った。… 罪の現実を直視した男は、罪を悔い、自分を断罪したかも知れません。『自分のやったことの報いを受けてい るのだから、当然だ。』とも言いました。しかし、全く絶望して、裁きを受け入れているわけではありません。むしろ 絶望しきれません。 『わたしを思い出してください』、この男は、イエスさまの心の中に自分の居場所を求めました。全く絶望し、全 く滅び潰えることを、無に帰することを、願ってはいません。 ◆『わたしを思い出してください』、当人が自覚していたとは思えませんが、これは、イエスさまの命の中で生きた いと願う言葉です。これは、既に信仰の告白です。『わたしを思い出してください』、これは、信仰告白です。 だからこそ、この言葉、この信仰告白を聞かれたイエスさまは、43節。 … するとイエスは、「はっきり言っておくが、 あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。… これは、大変な言葉です。イエスさまから天国を約束された人は他にはありません。それを推測させられる言 葉はありますが、こんなにはっきりと天国を約束された人は、他にはありません。 ◆ 43節から、『今日』という表現に関心を持つ人がいます。つまり、天国は、何時開かれるのか、今既にある のか、それとも、イエスさまの再臨の時に、初めて開かれるのか、それまで、信仰を持って死んだ者は、その時を 待って眠っているのか、それとも今、天国にいて、地上の人間を見ているのか。昔から続く議論です。 それが、永眠者と呼ぶのか、召天者と呼ぶのかにも関わって来ます。玉川平安教会は召天者と呼びますが、 教団では永眠者です。重大な関心事です。しかし、その明確な答えは与えられません。少なくともこの箇所か ら読み取ることは出来ません。 『今日わたしと一緒に楽園にいる』とは、今、この時に、罪は赦され、永遠の命に預かったのだという強調で す。今日なのか明日なのかではありません。 また、天国と神の国、更に楽園の違いを、ここに求めても無理でしょう。 ◆ 確かなこと、そして、重要なことは、この男が、自分の罪を告白し、そしてイエスさまに救いを求めた、この事 実です。それ以外ではありません。 話を最初に戻します。世の中には、寺社が災害を受けてた様子を見て、「自分も救うことが出来ないのか」と あざ笑う人がいます。しかし、「何とか、寺社を建て直さなくては」と考える人もいます。どっちが正しいのでしょう か。私たちはどちらに着くのでしょうか。 ◆ 今日のこの説教を観念的で、私たちの現実からは遠いと思う人もいるかも知れません。しかし。私にはそん なつもりはありません。私たちは、幸いにして、大災害に直面しなくて済むかも知れません。しかし、誰もが、老 い、病を得、そして死んで行きます。つまり、十字架の死刑囚と同じように、死に定められています。 その時に、「神も仏もあるものか」と絶望する人もいますが、この死刑囚のように、『あなたの御国においでにな るときには、わたしを思い出してください』と言う人もまたいます。この言葉が言えるのは、イエスさまの瞳の中に自 分の姿を見た時です。 我が身を振り返り、『自分のやったことの報いを受けているのだ』と告白し、『わたしを思い出してください』と祈 る者が、祈る者だけが、楽園を約束されているのです。 |