† 3月31日イースター、同時に年度末の日に、マタイ福音書を一先ず読み終えました。丁度切りが良いので、しばらくの間は、教団、正確には教団出版局の日課を聖書個所として読んでまいりたいと思います。 年度途中であっても、諸準備を終えた所で、つまり、私の勉強を終えた所で、いずれかの使徒書を読み始めることにしたいと考えています。 † 今日与えられた箇所は決して分かり易い所ではありません。だからこそ、あんまり神学的なこと、学者の間で論争があるようなことではなく、私たちの日常生活にも照らしながら、一つ一つ、読んで行きたいと願っています。 † 先ず4節を見ます。 … あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、 しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。… 『朽ちず、汚れず、しぼまない財産』、これ自体、何を意味するのか、良くは分かりません。なるべく身の回りにあるような具体的なことで考えた方がよろしいでしょう。 私たちは、時間が経てば朽ちてしまい、汚れてしまうような物を一杯持っています。食べ物には賞味期限があります。冷蔵庫の中でも、何時までも保存できるものではありません。しかし、冷蔵庫がスカスカだと、不安になります。別に、やがて必ず来る大地震に備えるためではなくとも、冷蔵庫を一杯にしています。かなりのものが賞味期限を過ぎてしまうでしょう。 † 全てのものは時間と共に汚れて行きます。 松江で会堂建築を経験しました。時間もかかり、大きな苦労も要りました。ですから、完成した時には嬉しくて嬉しくて、ちょっとの汚れも嫌で、一所懸命に掃除しました。ごく最初の内は、掃除するとピカピカになります。掃除も楽しかったものです。しかし、やがて、丁寧に拭いても取れない汚れが見えてきます。誰かが、礼拝堂の床に傷跡を付けようものなら、その人を睨みつけてやりたくなりました。 だんだんだんだん、汚れが重なっていきます。 玉川平安教会でも同じで、耐震リフォームした教育館を、当初は丁寧に掃除していましたが、この頃ちょっと諦め気味です。 むしろ、人が大勢出入りすれば痛むのは当たり前ですから、床の傷跡こそ、教会にとっては勲章ではないかと、思い … 思うことにしました。 ? 『朽ちず、汚れず、しぼまない財産』、とてもぴったりの良い物があります。金製品です。金は、朽ちることがありません。汚れが付いても、簡単に完全に拭き取れます。今は、どんどん値上がりしています。 しかし、7節をご覧下さい。 … あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、 火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて… ここには、金もまた朽ちると書いてあります。金が朽ちるかどうかは、持ったことがないので分かりませんが、『金よりはるかに尊くて』とあります。つまり、『朽ちず、汚れず、しぼまない財産』とは金銀のことではありません。 それは、信仰のことです。 † 3節に戻って順に読みます。 … 神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、 死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え… これこそが、『金よりはるかに尊くて』、『朽ちず、汚れず、しぼまない財産』です。 人間は、自分の将来に不安を持っています。心配です。私のように70歳を過ぎても、過ぎたからこそ、心配になります。自分のことだけではありません。子どもや孫のことが心配です。愛する者が多ければ多いほど、心配は増えてしまいます。 健康不安があるから、お医者さんにも行きます。薬を貰います。それでも足りなくてサプリメントを買い求めます。しかし、そこには本当の安心はありません。 間もなく、薬やサプリメントを飲み過ぎる人のためのサプリメントが発売されるのではないでしょうか。もしかしたら、既に存在するかも知れません。 † 聖書に登場する大昔の人も、同じ心配を持っていました。否、今とは比較にならない不安がありました。何時、隣の国が攻撃してくるかも知れません。自分や家族が奴隷にされるかも知れません。 そこで、人々は、敵が攻めて来たら何時でも持って逃げられるように、金を、財産にしていました。金の首飾り指輪は勿論、金の偶像を造りました。金で出来た神さまです。金の神が自分たちを守ってくれると考え、金なら逃げていった先で、家や食べ物などに換えられると思いました。 ところが、イザヤ書46章1〜2節に、このように記されています。 … 1:ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ お前たちの担いでいたものは重荷となって 疲れた動物に負わされる。 2:彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。 その重荷を救い出すことはできず 彼ら自身も捕らわれて行く。… 偶像が金で出来ているからこそ、敵の兵隊は、これを奪うためにどこまでも追いかけてくる、そして、金の神を奪い、人間は奴隷として捕まえると、イザヤは言います。 これが、この時代の現実でしょう。 そして、現代だって同じことです。何も変わりません。せっせと、金を溜め込んで、溜め込むために働いて、奴隷のようになってしまっている人が少なくありません。 † 5節を読みます。 … あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、 神の力により、信仰によって守られています。… 私たちを守ってくれる力は、信仰です。信仰しかありません。 信仰なんて、誰にも見えないし、ややもすれば自分にも見えないし、何の頼りにもならないと思われるかも知れません。困った時に売ることも出来ません。しかし、金銀よりは、頼りになるのです。 そして、言わなくてはなりません。信仰は、本当に困った時になってから買うことは出来ません。信仰こそ、普段から蓄えて置かなくては、イザと言う時に、間に合わないかも知れません。 † 6節前半。 … それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。… 信仰を持った人は、『心から喜んでいる』ことが出来ます。本当に安心出来ます。銀行にたっぷりと貯金があり、セコムと契約している人よりも、安心出来ます。 流行の質の良い睡眠を謳うサプリメントよりも、安心して安眠できます。 話は脱線しますが、睡眠に関するサプリメントがとても多いようです。私も、欠かせません。睡眠導入剤では足りずに、いろいろと、結構値段の張るものを常用しています。 勿論、持病があり、是非とも必要な人もあります。眠剤を控えた方が良いなどとは申しません。しかし、一番の眠剤は、サプリメントではなく、信仰だと考えてもいます。 私の孫たちも、睡眠に良いヨーグルトを飲んでいるそうです。4歳で飲んでいます。一本150円もします。 これには、不眠、ストレス、腸内環境改善に効くと書いてあります。不眠はなくとも、保育園に通っていますから、それなりにストレスはあるのかも知れません。 ? 6節後半 … 今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、… 『心から喜んでいる』のに、『試練に悩まねばならない』のは、矛盾だと聞こえます。辻褄が合わないかも知れません。しかし、それが世の現実であり、信仰者にも現実です。 『心から喜んでいる』のに、『試練に悩まねばならない』のが実際です。 これを逆に読むことも出来ます。『試練に悩まねばならない』のに、『心から喜んでいる』。これも間違いなく現実のことです。 † 7節。 … あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、 火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、 イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。… 現在のことは知りませんが、聖書時代には、繰り返し金属を溶かし、金属毎に溶解温度が違いますから、溶かす毎に溶けないものを取り除く仕方で、精錬し、純度を高めたそうです。つまり、溶かす回数が多いほど、純度が高くなります。 このことから、信仰の純度を高めるためには、試練が必要だと言われています。 勿論、信仰を磨き上げるためには試練が必要だと言いたいのではなく、試練に出遭った時に、それが無駄な体験ではないと慰めているのです。 基本、裁きではなく、慰めを語っているのだということを間違えてはなりません。 † 8節前半。 … あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、… この時代、教会員の中で、直接イエスさまに会ったことのない人が増えていたのでしょう。多分、殆どいないでしょう。誰一人いない可能性の方が高いでしょう。 「なあんだ」と思われる方もあるかも知れません。しかし、私は、この事実にむしろ励まされます。 イエスさまに直接会ったのなら、信じるも信じないもありません。福音書に依りますと、会ったのに信じない、愛さない人の方が圧倒的に多かったようです。それならば、直接会ったことは、決定的に大きい出来事ではありません。 † 「直接お顔を見れば信じられたのに」とつぶやくことは不要です。今の時代に「私は顔を見て、言葉を聞いた」と言う人は、唯の嘘つきです。 私たちも『キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれ』ることが、つまりは信仰に生きることが可能だからです。 もっと別の言い方も出来ます。私たちは、聖書を通じてイエスさまの声を聞き、話を理解し、感動することが出来ます。聖書時代の人は、福音書も、書簡も見たことがありません。私たちの方が、その点、よくよくイエスさまを知ることが出来ます。何しろ、繰り返し、聖書を読むことが出来ます。 『すばらしい喜びに満ちあふれ』ることが、出来ます。 † 9節。 … それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。… 『魂の救い』、本当には分からない言葉です。安心とか、平安、満足とかと翻訳してはならない言葉でしょう。私たちには、安心、平安、満足の延長でしか考えることが出来ません。それ以上のものです。 それが『朽ちず、汚れず、しぼまない財産』です。 金銀でも買うことが出来ないものであり、決して偶像が与えてくれない財産です。 † 4節の後半。 … 財産を受け継ぐ者としてくださいました。… チャールズ・ディケンズに『大いなる遺産』という小説があります。正しくは『遺産相続の見込み』です。粗筋を紹介することは出来ません。しない方が良いでしょう。『クリスマス・キャロル』は誰もが知っていますし、『オリバー・ツイスト』は、今でも読み続けられています。しかし、私は『大いなる遺産』と『二都物語』が好きです。一言だけ言いますと、矢張り『大いなる遺産』ではなく、原題通り『遺産相続の見込み』です。 そして、4節の後半 … 財産を受け継ぐ者としてくださいました。… 遺産相続の見込みなのです。 『大いなる遺産』の主人公は、貧乏を、裏切りを、挫折を体験します。長い長い回り道をしなくては、本当の宝を発見することも、手に入れることも出来ません。主人公ピップにも、ヒロインのエステラにも、それだけの時間、試練が必要だったのでしょう。 † 私たちも同様です。私たちにも、『いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが』、しかし、希望があります。『死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望』が与えられています。 昔むかし、夢中になってディケンズを読みました。中学1年の時でしょうか。あまりどきどきするから、本の終わりを先に読んで、ハッピーエンドになるのを確かめてから、安心して読むという愚かなことをしました。ディケンズは、大抵ハッピーエンドです。主人公がギロチンに消える『二都物語』でさえも。 信仰は絶対にハッピーエンドです。もう一度4節を読みます。 … 朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。… これがイエスさまの約束です。私たちは、十字架に架けられた方の、『大いなる遺産』、確かな、『遺産相続の見込み』に生きているのです。 |