日本基督教団 玉川平安教会

■2025年3月9日 説教映像

■説教題 「自分で得たパンを

■聖   書  テサロニケの信徒への手紙二 3章6〜18節 



◇以前に読んだことがある箇所です。しかし、何故かちゃんとした原稿が残っていません。途中までの原稿が二
つありました。記憶も曖昧ですので、以前の説教や原稿には拘らず、また、混同しないように、1節ずつ順に読
んでまいります。

 … 兄弟たち、わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。  怠惰な生活をして、

  わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。…

 11〜12節にも同様の意味のことが繰り返し述べられています。特に12節は、聖書を読んでいない人も知
っている程、有名な言葉です。『働かざる者食うべからず』です。

 しかし、最初にお話しした理由から、順に読みます。取り敢えず、6節限定です。


◇『怠惰な生活』、問題になっているのはこの点です。Tテサロニケで既にお話ししましたように、テサロニケ教会
員の中には、「この世はもうじきおしまいだ。明日はないのだから、今日を楽しみ、飲み食いしようではないか。」
と言う人がいました。

 「この世はもうじきおしまいだ。明日はないのだから、ひたすらに祈り、断食し、終わりの時を待とうではない
か。」と考える人もいました。

 パウロは、どちらの立場にも立ちません。

 「この世の終わりは、明日にも来るかも知れない。だから、今日と言う日を、今日なすべきことをして過ごそうで
はないか。」これが、パウロの思想です。

 『怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。』パウロは、はっ
きりと言っています。信仰を働かない理由にしてはなりません。そんな人とは、付き合ってはならないとさえ言って
います。


◇7節。

 … あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。

  わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。…

 『わたしたち』ですから、パウロ一人だけではありません。パウロの伝道団の人たちは皆、誰もが、勤勉に働い
ていました。

 一つには、伝道・牧会の仕事そのもののことでしょう。毎日を、忙しく、その日になすべきことをなしていました。

 

◇勤勉に働いていたのは、伝道・牧会の仕事だけではありません。8節。

 … また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。

  むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。…

 食べるための仕事、生活するための仕事もしていたようです。

 このことは、誤解されないように丁寧な説明が必要なのですが、今日の主題からは外れますので、簡単に説
明します。Tテサロニケでお話ししました。コリント書にも述べられています。献金の扱いについて、パウロを疑う
人がいました。エルサレム教会の生活困窮者のために集めた献金を、パウロが誤魔化しているのではないかと、
言う人がいました。

 パウロは、「ならば、テサロニケ教会からの献金は、パウロの伝道団のためには、一円も使わない。」とこれに反
発しました。しかし、エルサレム教会への献金は止めませんでした。その辺りは、Tコリント書の末尾に詳しく述
べられています。今日は省略します。


◇この箇所を読んで、「牧師には謝儀は要らない、教会に献金は要らない。」と考える人もいます。そのように
言う人もいました。無教会のように、牧師がいない教会もあります。アーミッシュのように、教会員の中から、クジ
や当番によって説教者を選び、限られた期間だけ、牧師の仕事に当たる教派もあります。

 実際にあるのですから、これが間違っていると言ってはならないでしょう。いろんな考え方があります。しかし、教
団では、玉川平安教会では、現在の制度があります。どうしてもそれが間違いだと考えるなら、別な制度の教
会に移って貰うしかありません。


◇パウロは、どう考えているのでしょうか。9節。

 … 援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、

  あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。…

 この言葉だけで、もう充分でしょう。パウロの考えは分かります。そして何事についても、キリスト教の教えで、
パウロの言うことは、基本です。何もかもパウロの考え通りではないかも知れませんが、少なくとも、ここが基準
点です。これを基として、時代や教会の状況を重ね合わせれば、自ずと結論は出て来るでしょう。

 そういうことさえ否定するのは、反パウロ主義者であり、そして、おそらくは、パウロによって『怠惰な生活』を批
判されている人たちの現実です。


◇10節。

 … 実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、

 「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。…

 これが「働かざる者食うべからず」の語源です。素直にその通りと考えますが、年金生活の人など、抵抗を覚
えるかも知れません。勿論、パウロが言うのは、諸事情あって、現在働くことが出来ない人のことを指しているの
ではありません。老人や子ども、病気の人や、その他いろいろと働けない事情があります。学生だって、アルバイ
ト程度で、「食べる程」には働いてはいません。

 厳密には、パウロの言葉も『働きたくない者は』です。「働かざる者」ではありません。

 また、働きにもいろいろとあります。お金を稼いでくるだけが働きではありません。

 そんなことは、当たり前のことであって、このパウロの言葉を聞いて噛みついたり、逆に、これを論拠にして現在
働いていない人を貶めるなどは、話にもなりません。

 当たり前です。パウロは当たり前のことを言っているのに過ぎません。


◇11節。

 … ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、

  少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。…

 『怠惰な生活をし〜余計なことをしている』、ここが問題です。

 怠惰とは、必ずしも、何もしないことではありません。何もしないで、ノラクラしているだけなら、害は大きくない
でしょう。ノラクラしていても、それ以外何もしなければ、問題は小さいでしょう。放って置いても済む程度の問題
です。

 自分は何もしないで、しかし、他人に不平不満を言っている人には、「働かざる者食うべからず」と言いたくな
ります。当たり前です。しかし、これとてさほど害は大きくありません。害が大きいのは、役にも立たないこと、むし
ろ、邪魔なこと、害あることを話したり行ったりして、必要な仕事を妨げる人です。

 あまり言いたくないことではありますが、そんな人が教会にいたら大変です。

 私も、50年近い間には、そのような人と出会いました。


◇不平不満で生きている人は少なくありません。私も、それに数えられないように、自戒しなくてはならない一
人です。

 教会の業の邪魔をする人、これは大勢はいませんが、いないではありません。残念ながら、そういう人にも出
会いました。

 もっと困るのは、純粋な信仰に生きている人に、不信仰をつぶやき、囁き、自分の方に引き寄せる人です。こ
れこそ、『少しも働かず、余計なことをしている者』です。

 何とも悲しい辛い現実ですが、そんな人にも出会いました。

 この話は、次週、イスカリオテのユダの所でお話しします。


◇12節。

 … そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、  勧めます。自分で得たパ
ンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。

   13.そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。…

 『自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。』

 この意味が良く分かりません。いろいろと考えさせられます。

 単純に、『自分で得たパンを食べるように』しなさい、まじめに『落ち着いて仕事をしなさい。』なのでしょうか。
それとも、自分の生活のために、こつこつ働いているように、教会の仕事も、『落ち着いて』、こつこつと『仕事を
しなさい。』の意味なのでしょうか。

 明確になっていないのなら、両方の解釈共に許されると考えます。

 私は、牧師としての自分の立場からは、後の解釈を採りたいと思います。

 地味であっても、華々しい成果はなくとも、なすべきことを日々行っていく、それが信仰者としての、牧師として
の働きなのだと、受け止めます。


◇13節。

 … そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。…

 これも、当たり前のことです。しかし、テサロニケ教会には、パウロがこのように言わなくてはならない現実があっ
たのでしょう。容易に想像出来ます。

 地味にこつこつとご用をしない人がいたのでしょう。目立つこと、人に命令し、従えることは好きだけれども、自
分では働かない人がいたのでしょう。

 これは、言ってはならないことかも知れませんが、牧師にはそんな人が多いと思います。幸か不幸か、私はそ
のようなタイプではありません。人に命令などしません。と言うより、出来ません。これは、教会を預かる牧師とし
ては、指導力が足りないということで、欠点でしょう。自慢気に言うことではありません。


◇14節。

 … もし、この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、

  その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。

  そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。…

 随分きつい言葉です。「拘わるな」です。

 「拘わるな」ですから、話し相手になってはいけません。その人の、不平不満つぶやきを聞いてはなりません。
一緒になって、不平不満つぶやきを言わなくとも、聞くだけでも、駄目です。

 確かにそうだと思います。不平不満つぶやきを聞くことは、則ち、加担することです。

 この辺りは、微妙な、心理の問題ですから、専門的な勉強をした人に学んだ方が良いでしょう。私には、その
方面の知識はありませんから、これ以上は申しません。

 ただ、これだけは言えます。不平不満つぶやきを聞くことは、則ち、その人に加担することです。まして、不平
不満つぶやきを聞くことが、大事なこと、教会のためになると思ったら見当違いです。大間違いです。

 これは言わない方が良いことかも知れませんが、教会にはそんな人が多いと思います。

 パウロははっきりと、「拘わるな、聞くな」と断言しています。パウロ自身が、このような人に苦しめられたのでしょ
う。コリントやテサロニケを読めば推察できます。


◇15節。

 … しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい。…

 私は正直なところ、この15節を読んでがっかりしました。おいおい、と躓きました。

14節までなら、その通りだと受け止めます。自分の経験上、似たようなことがあったからです。「拘わるな、聞く
な」とパウロに言われたら、アーメンと答えることが出来ます。

 しかし、『その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい。』とあります。

 パウロが言う言葉です。抵抗を覚えながらも、聞かなくてはなりません。ここも聖書の1節ですから、この通りに
行わなくてはなりません。〜しんどいことです。


◇一方、振り返って見れば、これもパウロ自身のことでしょう。

 一言で言えば、パウロはテサロニケ教会員に、随分と酷い批判を受けました。一部の人でしょうが、お金のこと
まで持ち出して、パウロを非難する人がいました。コリント教会でも、同じようなことがあったようです。

 パウロの業績、名声があれば、この人を断罪し、正に、他の教会員に、「その人には拘わるな、その人には聞
くな」と命令することも出来たでしょう。破門だって出来たでしょう。その方が、伝道牧会の能率が上がったことで
しょう。

 しかし、パウロは『その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい。』と教えます。

 これが教会です。

 教会は、特に日本では、信仰心深く、かつ寛容・柔和で、教養があり、世間の人に尊敬されているような模
範的人間が集まる所と考えられて来ました。事実、その通りだったかも知れません。そのことは、教会の誇りで
す。信仰心深く、かつ寛容・柔和で、教養があり、世間の人に尊敬されているような模範的人間が集まってい
れば、牧師が何もしなくとも、その教会は盛んになります。かつて、玉川平安教会もそうだったと思います。

 しかし、教会はそのような人だけに開かれているのではありません。世の中には、そうではない人もいます。少
なくありません。これらの人にも、教会は開かれているのです。

 ルカ福音書5章

 … 31:イエスはお答えになった。

 「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。

 32:わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、

  罪人を招いて悔い改めさせるためである。」…

 その人の健康が弱いからと、その人を退けるようなことは、あり得ないことです。信仰についても同じです。その
人を退けることは出来ません。

 しかし、不信仰そのものを、受け入れてはなりません。不信仰に聞いてはなりません。