日本基督教団 玉川平安教会

■2024年3月3日 説教映像

■説教題 「信仰によって義とされる」 竹澤潤平協力牧師

■聖書   ガラテヤの信徒への手紙 2章11〜21節 


今日の聖書箇所は、日本基督教団で出している聖書日課から選んでいます。まず、この聖書箇所で問題とされているところの背景を確認していきたいと思います。

ペトロやパウロ、バルナバなどが多くの者が福音を伝道し、イエス・キリストを信じる者たちが起こされました。イエス様を信じた人々の中にはユダヤ人が多くいましたが、多くの異邦人も信じました。

 その異邦人たちと、ユダヤ人であるパウロやバルナバ、ペトロも一緒に食事をするという事がありました。ユダヤ人と異邦人が一緒に食卓の席を囲む。しかし、ユダヤ教では原則的に異邦人と一緒に食事をすることは避けられるべき事柄でありました。ユダヤ人は外国人を訪問したり、交わったりすることは許されていなかったのです。

けれど、神が造ったものに清いもの汚れたものだとか、そんなことはない、異邦人にも伝道しなさいとの幻を見て、主のご命令と確信し、ペトロたちは異邦人にも伝道し、交わりを持ちました。主イエスの十字架の救いは誰にでも開かれていると信じ、その中で異邦人の家で食事も一緒にし、宿泊もしていたのです。

けれど、ヤコブがいる教会から、ある人たちが来た時に、それをやめてしまったと今日の聖書箇所で指摘されています。これまでは異邦人と一緒に食事をしていたのに、割礼を受けている者たちを恐れて、一緒に食事をしなくなったと。福音書には、イエス様が食卓を囲んでいる姿を見た敵対者が非難する場面があります。マタイによる福音書9章11節<ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。>そのような、罪人と食事をしてはいけない、という強いユダヤ教の慣習がある中で、ペトロたちは異邦人たち一緒に食事をすることを拒否するようになってしまった。元々あるユダヤ教の慣習に従ってしまったのです。

ペトロたちは、割礼を受けた者、すなわちユダヤ人キリスト者の一部から、律法に背く罪人だと思われたくなかったのでしょう。その人たちから非難されたのかもしれません。異邦人と一緒に食事をする、そんな律法違反をしていいのか、と。あの異邦人たちは割礼も受けていない罪人ではないかと。

たまたまではありません。ペトロ、バルナバなどは、自発的に食事をしなくなった。見かけ上の律法尊守です。そうすることによって、異邦人は食事という交わりに参加できなくなってしまいます。それは暗に、異邦人にユダヤ教の規定を守るよう仕向けているのと同じです。共に食事をとることの他にも一緒に礼拝できなくなる、訪問すらできなくなる、そういった縛りも出てくるでしょう。ペトロの行動は、それをするためには異邦人もユダヤ教の人と同じように生きなければならない、との示しに繋がるのです。それは具体的には、異邦人は割礼を受けなければならない、ということになるでしょう。割礼を受けていない異邦人は罪人だ、そのような考えがユダヤ人キリスト者の中に残っていたのです。

確かにユダヤ人たちにとって、割礼は神様との救いの約束ですから、とても大事な事です。しかし、キリストを信じる信仰を与えられた者は、新しい救いの契約の中にいるのです。パウロはこれとは別の聖書箇所で、これまでのユダヤ人が守ってきたのは肉の割礼であって、イエス・キリストによってなされたのが心の割礼だといったことを述べています。キリスト者にはもう割礼は必要ないのです。キリストのみが、救いの根拠となるのです。

ユダヤ人にとっての大事なルール、現代のわたしたちにはその重要度がピンとこないかもしれません。土着信仰の影響がある家庭で育った方には実感があるのでしょうか。

ともかくも、度々聖書の中で、律法を守らなければいけない、ということが問題になっています。特にパウロが言及しています。言い換えれば、イエス・キリストを信じていても、「律法に定められた割礼を行わなければ救われない」と考えている人々が多数いたのです。

 いや、現代でもいます。確かにイエスは素晴らしい、その教えは素晴らしい、けれど、足りないと。イエスは現代にいないけれど、今はこのご教祖様がその生まれ変わりだから、その人に従わないと救われないですよ、だとか。〜をしないと救われない、〜を買わないと救われない、これはキリスト教系カルトの手口です。まあ、今はこんな明らかな胡散臭さは隠して詐欺を働いているでしょうが。キリストでは十分ではない、他に別の何かが必要だと言ってくる、それがキリスト教系カルトでしょう。

そこまでハッキリとしたものではなくとも、人が作り自らを縛っているむなしい教えもあるかもしれません。それは、そもそもは神様に真摯に祈り、聞いて、獲得したものですらあったかもしれません。〜を覚える日、記念日。しかしそれが形骸化すれば、人を縛るものになりかねません。

今はレントの期間です。主イエス・キリストの十字架の苦しみを覚え、過ごす期間だと言われます。この時期には、酒好きな人が、断酒するということもあります。酒が好きではない人は、何か自分の大好きな物を我慢する、ということをするキリスト者もいるようです。大事なことかもしれません。楽しいもの、好きな事に没頭していると、その中ではなかなか主の十字架の出来事に思いを馳せる事できないということもあるでしょう。けれどもそれが逆の意味での誘惑になりかねないのです。自分は出来た、苦しい思いをして守った、私はやっている、守っている、あなたもしろ。そうして他の人を制限しだします。何か自分が素晴らしい徳を得たかのように思ってしまう人がいるのです。私はやれた、あなたもできるはず、できないのは信仰が足りないからだ、と。若干乱暴な説明ではありますが、これと似たようなことが起きるのです。

自分の誇りとなって、他人に強要するようになっているところで、一度立ち止まって考えなければいけないのではないでしょうか。それはその人にとって、主イエス・キリストの十字架を覚えるために、主が用意してくださった恵みかもしれませんが、他の人にはそうではないかもしれない。他人に強要し、まして、それをしなければ信仰がない、なんてことは言えないはずなのです。

因みに私は一度、ある年の受難週に断食をしましたが、始めてから1日目の夜に断念しました。頭がクラクラして、眩暈がして、とても説教準備はできないし、倒れるのではないか、とも思い、とても仕事にならないと考えてやめました。まあ、改めて自分の弱さを知る良い機会となりました。しかし、逆に出来てしまっていたらどうだったのかなのかな、とも思います。自慢気に披露していたでしょうか。

パウロは割礼の問題において、異邦人に割礼を受けさせようとしている人たちは肉の行いを誇るために割礼を受けさせようとしているのだと述べています。更には、自分自身の不信仰を隠す手立てにしているに過ぎない、とも。今日の聖書箇所ではありませんが、割礼を異邦人にもさせなければいけない、と言っているユダヤ人キリスト者は、結局のところ主イエス・キリストの十字架による迫害を避けるためにそう言っているのだと、パウロは暴露しています。

人は洗礼を受け、救いに与っても罪を犯します。皆さんの中でも「私はキリストによってから救われてから、全く罪を犯していません」と言える方は少ないでしょう。むしろ、キリストによって救われたにも関わらず、なんて私は罪深い人間なのだろう、なぜ私は善い行いをたくさんすることができないのだろう、と悩んでしまう方もおられると思います。

そのような悩み、迷いがある時、「救われた実感なく苦しいですか。そんなあなたはこのレントの時期、あなたの一番大好きなことを我慢すれば、主の十字架への歩みをリアルに覚え、救いを実感できます。」なんて言われたらどうでしょうか。少し胡散臭い言い方になってしまいましたが、そうかもしれない、と思わないでしょうか。実際、それによって、恵み豊かな時を過ごす人もいるでしょう。決して馬鹿に出来たものではありません。けれど、それによって救われるのではないのです。むしろ、それがなければ救われた実感がない、というのなら、あなたが救われたとは何だったのか。行いによって救いを充足する、それは、わたしはキリストによる救いだけでは救われない、不十分だ、と宣言していることではないでしょうか。

キリストによる救いだけでは不十分だ、としてしまう事はこれまでのキリスト教の歴史でも多くありました。キリスト教系カルトがその典型でしょう。これをすれば救われる、と表面的な行為だけに注目するから混乱するのです。イエス様の教えにも、とても守り切れない、と思わされることが多くあります。実際、「敵を愛せ」だとか、「みぎの頬をぶたれたらひだりの頬も向けなさい」とおっしゃっています。たとえ、表面的に何か一つ守れていても、全部は守り切れません。イスラエルが数千年をかけ、旧約聖書を通して証明してくれています。主イエス・キリストによって義とされる、それしか罪の赦しはないのです。救いはないのです。

さて、ペトロたちの見せかけの行いに対してパウロは皆の前ではっきりと反対しました。争いはすべきではありませんし、自身の主張を通したいがために、自身の都合のために相手を批判、裁いたりすることはあってはなりません。けれども、特に話が通じるはずの同じクリスチャン、兄弟姉妹に対しては、同じ主を信じる者として、大事な事は言わなければならない時があります。面と向かって、皆の前で言わなければならないこともあるのです。福音の真理にのっとって歩んでいない、それは外すことのできない大問題です。その福音の真理とは、キリストへの信仰によって義にされたこと、です。特に指導的立場のペトロがそれを外してはそれについて行ってしまう人が大勢出てしまう。

主イエスに出会うまで、パウロは律法にすべて心むけて生きてきました。しかし、主イエス・キリストを通して、主イエスの父なる神に心向けた時、律法の実行によっては救われない、つまり律法の下では罪の中にあるままであり、死ぬしかない。そんな私は死んだのだと、パウロは理解しました。そのパウロは、今は、キリストと共に十字架につけられています。キリストによって義とされた、救われたと信じている、つまりその救いの根拠である十字架につけられている。その信仰を外すことは出来ない。そしてそれは初めから使徒たちが宣べ伝えて来た福音でもあります。ゆえに、主イエス・キリストの十字架によって苦しむことになろうと、それはむしろ喜びでさえあると、パウロは別の聖書箇所で述べるほどです。

さて、16節をお読みします・・・。この箇所単体で見ると、結局イエス様を信じるという行為によって人は救われる、と受け取りかねません。しかし、その信仰さえも、聖霊によって与えられたものだと、別の聖書箇所で述べられており、それをわたしたちは信じているのです。信じる信仰を与えられているのです。

わたしたちはとても都合の良いものを信じています。イエス・キリストを信じる信仰によって義とされ、救われる。その信じる信仰さえ、与えられたのだ。一方的な神の恵みなのだ。見方によればなんともおめでたい考え方です。そのような中、漠然とした不安に陥る、などということもあるでしょう。

そのような時、行い、というのが魅力的になるものではないでしょうか。目に見える実績、行為、成し得たもの、それがないと心もとないと考えてしまいます。実際に何か自分が漠然と考える「キリスト者らしい」ことを成していれば、安心である。

主に応える、ということさえ、おかしな道に行くこともあるのではないでしょうか。主に応えるにあたり、主の御言葉に聞く、ということをしていないという根本的な問題が勿論あります。結局自分本位になる事がらをなしているのでしょう。

ならばその時にどうするか。20節をお読みします・・・。

もう私がどうとかではない。私が何を成したか、「私が」というところから自由になり、キリストがこの身に生きておられる、働いておられる。パウロが今生きているのはすべて、イエス・キリストの十字架によっているのです。

わたしたちは何時も、信仰をもって、ただ、キリストがこの内に生きて働いてくださると信じて歩む。でも、それが様々要因によってズレかねないから、自分に固執せず、主の御声に聞く。そこではもはや自分本位ではなく、この身にキリストが生きて働いておられるのだと。

それは大いに怖い事かもしれません。成功体験など、存在しなくなります。私で言えば、説教を聞いて感動してくれた人がいたとか、わたしのお陰で生徒が良い方向へ行ったとか、そのような功績は存在しなくなるということです。結果的な事実は存在するでしょうが、それは私の功績ではない。

いや、それならばまだ、私たちは受け入れられるかもしれません。教勢が上がらない、新しく信徒になる方もなかなか出ない。玉川平安教会が、良い目で見てもらえない。それすらも受け入れなければならないのではないでしょうか。それすらも、私たちの行いではない。それは神様が責任をとってくださるという安心でもあり、同時に怖い事ではないかと思うのです。

私のせいならば、何か努力が足らない、やり方が悪い、ここに理由がある、となれば受け入れられるかもしれない。しかし、そうではなく、私の努力や何かではどうしようもない範疇が大きくある、それすらも受け入れなければならないということではないでしょうか。

割礼を強制しようとしていたのは、十字架を背負うことから逃げていた、ユダヤ人キリスト教徒だったと申しました。無理解、罵倒、差別、偏見、他にも色々とイエス様が十字架への道のりで受けた苦難、試練、それをも私たちは同じ十字架を背負うゆえに、受け入れます。

私たちの行いによって誰かが救われるなら、たとえば私が今日この説教で素晴らしい説教をしたから誰かが信じる事になるというのなら、それでこそ救われるとなるなら、キリストの死は無意味です。私たちの行いによって誰かが救いからもれるなら、私が今日この説教で下手くそな説教をしたからこそ誰かが信じなくなってしまうのなら、キリストの死は無意味です。

全く逆のことでも、私ではないということころで表裏一体の面があるのではないかと思うのです。その結果も、現状も、主にあって担うのです。今私たちに与えられている十字架を担うのです。

21節をお読みします・・・。律法の実行によって義とされるなら、何のためにキリストは十字架に架かって死んだのか。他で救われるなら、主の十字架は無意味です。

今日の説教は一ヶ月前から準備して、黙想に黙想を重ねました。けれども、悶々とした時間を過ごしました。どう考えても、準備しても、なんだかピントこないのです。ふと思い出したのですが、東京神学大学の神学生だったとき、夏期伝道実習でこの聖書箇所で説教させていただいていたのでした。当時の6,7年前の説教原稿を見たのですが、内容的にはほとんど変わらないものでした。結構ショックでした。それなりに成長してきたつもりでしたが、何も成長していないのかと。このままでは嫌だな、何かひねり出さなければ、と励みましたが、これといったものが出ない。納得いかない。でも特段素晴らしい話などでてこない。それは自分のエゴだとも気付いています。でも、どうしても何かあれば、と考えてしまいます。7年前とほとんど同じか、と考えてしまいました。一方、二度と同じようにできないような説教ならしなければいい、とある牧師に言われたこともありました。まあ、この聖書箇所を完璧に釈義し、説教できているとも思っていませんが、7年前と変わらないのも、よきことか、とも思います。

当時だって、確かに主の導きを祈り、また祈られて、取り次いだ言葉でした。むしろ今日の方が余計な贅肉が増えているかもしれない。でも、全てひっくるめて、救いはこの私にあるのではなく、主のもとにある、その中で、今ここに立つ務めを与えられているのだから、伝えたいと思います。主イエス・キリストを信じる信仰によって、わたしたちは義とされ、罪赦され、もう救いの中に入れられている。何度も聞いている、同じ事柄、変わらない信仰です。それが確かなことであり、ここで受け取るべきことであり、感謝すべきことであり、他に根拠を付け加える必要がない真理なのでしょう。

 共に祈りましょう。