◆ 9節と11節を先ず読みます。 … そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。… … 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。… 「主が復活された」と天使から伝えられた婦人たちは、その知らせを、11弟子に伝えますが、弟子たちは全く 信じません。それどころか、『この話がたわ言のように思われた』と記されています。聖書がそのように記していま す。聖書そのものの証言です。 とうてい信じられないことが起こりました。信じられないのが当たり前です。弟子たちでさえ信じられないことです から、他の人間が信じないのは当たり前です。 ◆ 1節。 … そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。… 『週の初めの日』ですから、日曜日です。土曜日は安息日ですから、律法の規定によれば葬儀に関したこと は、何も出来ません。土曜日は日没と共に終わりますが、当時の夜は真っ暗闇です。『明け方早く』とは、可 能な限り早い時間にという意味になります。 今日でも、『婦人たちが』夜中にお墓に出掛けることはないでしょうが、当時は、獣も盗賊も出ます。当たり前 のことを、わざわざ強調して記しています。 埋葬のための『香料を』日曜日の朝一番に調達したとも考えられますが、『準備しておいた香料を持って』とあ ります。土曜日には出来ないことですから、金曜日の内に用意していたと解釈するのが妥当でしょう。つまり、イ エスさまの十字架が午後3時として、それから数時間の内に用意していたことになります。 非常時なのに、出来事に直ちに対応しています。『婦人たち』は、そのようになすべきことを知っていたし、その ように行動出来たのでしょう。 一方、弟子たちは、逃げ出して、どこか1箇所に集まっていたようです。 今日でも見られることです。非常時に、『婦人たち』は、忙しく立ち働き、男どもは狼狽して、ややもすれば酒 を飲んでいます。 ◆ 2〜4節を読みます。 … 2:見ると、石が墓のわきに転がしてあり、 3:中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。 4:そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。 復活の出来事の目撃者は『婦人たち』です。1節に描かれていますように、ごく当たり前、ごく常識的に行動 する『婦人たち』です。 ですから、5節。 … 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると… 当然の反応、当たり前の反応です。『輝く衣を着た二人の人がそばに現れた』ならば、『恐れて地に顔を伏せ る』のは、当然の反応です。 ◆ ちょっと面倒臭いことを言っているかも知れません。もっと簡単に言います。この『婦人たち』は当たり前の人 です。常識人です。緊急時に、現実的に対処しています。だからこそ、十字架の出来事の最初の目撃者とさ れたのではないでしょうか。 8〜9節を読みます。 … 8:そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。 9:そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。… 『婦人たち』は、単に目撃しただけではなく、天使の告げたメッセージを理解し、それを他の者に伝える証言 者ともなりました。実に、十字架と復活の出来事の最初の目撃者、そして理解者そして証言者、これが『婦人 たち』です。 ◆ 10節後半と11節を読みます。 … 婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、 11:使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。… 聖書の証言に依れば、十字架と復活の出来事の最初の目撃者、そして理解者そして証言者、これが『婦 人たち』であり、しかし、弟子たちは、これを信じなかったのです。 ◆ 5節を読みます。 … 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。… 日本の信仰では、神様は大抵神社の中にいます。一言で言えば、死んだ人です。神様でなくとも、仏様は 墓の中です。つまり、死んだ人です。 つまり、日本の信仰では、神様仏様を『死者の中に捜』しています。 ◆ 6節。 … あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。 まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。… 聖書の神さま、キリストは、『死者の中に捜』しても見つかりません。『復活なさった』方は、生きておられるから です。 この天使の言葉を聞いた時、『婦人たち』は、『恐れて地に顔を伏せ』ました。当たり前です。受け止められる ことではありませんし、真っ正面に向かい合うことも出来ません。 しかし、天使は『お話しになったことを思い出しなさい。』とも言いました。この言葉に、婦人たちは反応しまし た。目を上げて向かい合いました。 ◆ 8節。 … そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。… 『イエスの言葉を思い出し』ました。思い出すべき言葉・出来事がありました。 その内容が7節です。 … 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、 三日目に復活することになっている、と言われたではないか。… この7節こそが、福音の内容です。私たちが信じる信仰の内容です。私たちが信じるキリストは『十字架につ けられ、三日目に復活』した方です。 ◆ 創世記の4章で、『恐れて地に顔を伏せ』ていた人物がいました。カインです。 … 4:アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。 主はアベルとその献げ物に目を留められたが、 5:カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。 6:主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。… カインが弟アベルを殺したのは、この後です。『激しく怒って顔を伏せた』カインが罪を犯しました。 私たちも、神さまの前に額ずき礼拝を捧げます。しかし、神さまの言葉を聞いて、顔を上げ、神さまを見なくて はなりません。『恐れて地に顔を伏せ』た『婦人たちも』、顔を上げて、天使を見ました。そうして『イエスの言葉を 思い出した』のです。 ◆ しかし、10節の末尾と11節。 … 婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、 この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。… 何度も申しますが、信じられないのが当たり前です。しかし、弟子たちが信じられなかったのは、復活の事実だ けではありません。『婦人たちを信じなかった』のであり、つまりは、7節の言葉を信じなかったのであり、イエスさま の言葉を信じられなかったのです。思い出さなかったのです。彼らだけで、部屋に閉じ籠もっていたからです。 ◆ 最初に話を戻します。 十字架と復活の出来事を信じられないのは当たり前でしょう。信じられない事柄だから、奇跡であり、神さま の業です。常識で受け止め、理解出来ることなら、奇跡ではありません。信仰の事柄ではありません。信じら れない事柄だからこそ、信仰です。 しかし、イエスさまの言葉を思い出さなかったら、思い出すべき言葉を持っていなかったら、これは、信仰者で はありません。 ◆ 最初に十字架と復活の出来事を目撃し証言したのは、何度も申しますが、『婦人たち』です。弟子たち は、復活だけではなく、十字架も目撃していません。 十字架を目撃していたら、生々しく見ていたならば、復活を信じられないのではありません。むしろ、十字架を 目撃していなかったから、十字架の生々しい様を見ていなかったから、復活を信じられないのではないでしょう か。 復活など信じられないと言う人は多いでしょう。それは当たり前です。しかし、その人は、復活など信じられな いと言うよりも、十字架を知らないのではないでしょうか。『婦人たち』が『思い出した』イエスさまの言葉を聞いて いないからでしょう。 ◆ イエスさまの言葉を聞いた人皆が、イエスさまを信じる訳ではありません。信じない人の方が多かったようで す。イエスさまの言葉を思い出さない人の方が多いようです。それは、今日でも同じです。聖書を読んでも、信 じない人の方が多く、聖書の言葉を思い出さない人の方が多いようです。聖書の言葉が心に残らない人の方 が多いようです。 それは記憶力の問題ではありません。人間誰しも、毎日毎日、無数とも言える情報に接しています。その中 で、思い出すことと、思い出さないこととがあります。記憶力の問題ではなく、何に関心を持ち、何に無関心か だけです。 ◆『婦人たち』よりも弟子たちよりも早く、復活のイエスさまを信じた人がいました。先週読んだ箇所です。23章 42〜43節。 … 42:そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、 わたしを思い出してください」と言った。 43:するとイエスは、「はっきり言っておくが、 あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。… 『思い出』すが、今日の箇所と重なっています。偶然である筈がありません。 『思い出』すことよりも重要なのが、『わたしを思い出してください』です。 ◆ さっきまでと違う解釈に聞こえるかも知れませんが、イエスさまの言葉を『思い出』すことよりも重要なのが、 『わたしを思い出してください』と言う信仰です。 イエスさまと一緒に十字架に付けられた男に、『思い出』すことの出来るイエスさまの言葉などありません。しか し、彼には『あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と約束が与えられました。ただ、『わたしを思い出してくださ い』と言ったからです。 ◆ もう一度5節の後半を読みます。 … なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。… 『死者の中』にではなく、どこに探すのでしょうか。『生きておられる方』の中に探すしかありません。『生きておら れる方』とはイエス・キリストそのものです。 ここで、使徒信条末尾の『我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみが へり、永遠の生命を信ず。』を思い出していただきたいと思います。 『生きておられる方』、イエス・キリストを捜すべき場所は、『聖なる公同の教会、聖徒の交はり』です。だか ら、『教会、聖徒の交はり』が生きていなくてはなりません。 ◆ 飛躍かも知れませんが、ローマの信徒への手紙12章1節を引用します。 … こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。 自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。 これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。… 旧約聖書の世界では、礼拝とは則ち『いけにえ』を捧げる儀式です。『いけにえ』とされる動物は、殺されて、 その肉が、或いは血が捧げられます。 パウロは、死んだ『いけにえ』ではなく、生きたままに自分を捧げることこそが本当の礼拝だと主張しています。 『いけにえ』は殺され、その一部が取り出されて捧げられます。一部ではなく、生きたまま全てを捧げることこそ が、本当の礼拝だと主張しています。 ◆ 私たちの礼拝は、このパウロの勧めの上に成り立っています。私たちの礼拝は、生ける『いけにえ』を捧げる 儀式です。 私たちの教会は、生きている人間の中におられる、生きた神を礼拝するものです。その教会にはイエスさまの 命があるから、生きた『教会、聖徒の交はり』なのです。 ファリサイ派的律法主義や、今日の根本主義者は、かくあらねばならないと、人間を一つの型にはめ込みま す。それは生きた人間の心を奪う考え方です。礼拝するのに、かくあらねばならないと要求するのは、『いけに え』を殺す考え方と一緒です。 それは、『生きている方を死人の中に捜す』のと同じ考え方です。 |