日本基督教団 玉川平安教会

■2024年4月14日 説教映像

■説教題 「生き生きとした希望」 

■聖書   ペトロの手紙一 1章13〜25節 



†  15節後半を先に読みます。

  … あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。…

 著者のペトロは、「信仰者は聖なる生活をなすべきだ」、と勧めています。

 聖なる生活という表現、考え方に、反発する人もあるかも知れません。逆に、とても魅力を覚える人もあるでしょう。私などは、『聖何とか』という表現には、違和感を感じますし、聖人と言うと、人間の神格化ではないかと、疑問を覚えてしまいます。

 しかし、ペトロ書は『聖なる者となりなさい』と言い切っています。しかも、『生活のすべての面で』と言っていますから、これはもう聖人かも知れません。


†  ぺテロ一が聖書でないならば、反発、違和感も許されるでしょうが。しかし、ペテロ一は聖書です。聖書を神さまの言葉と信じる者は、原則、素直に聞くべきでしょう。

 このことを前提として読んで行きたいと思います。違和感を感じる人も、ちょっとの間、反感・違和感を押さえて、先ずは一緒に読んでみましょう。

 聖なるという表現は、具体的にはどのような意味で用いられているのでしょうか。

 勝手にイメージしてはなりません。それでは、ペテロ書を理解することには繋がらないでしょう。聖という言葉に魅力を感じる人も、逆に違和感を覚える人も、自分のイメージで聖を考えないで、ペトロが何を言っているのかを聞かなくてはなりません。

 多くの人の反発も、それぞれの勝手なイメージに依った結果ではないのでしょうか。

 具体的に、聖なる生活として何が上げられているのかを見ます。


†  13〜14節です。

  … いつでも心を引き締め、身を慎んで、

  イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

  無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり …

 『いつでも心を引き締め』、『身を慎んで』、『ひたすら待ち望みなさい』、『欲望に引きずられることなく』、『従順な子となり』、以上が直接的に上げられています。

 少し解説的に言えば、聖なるとは、俗、汚れ、欲望の逆の言葉として使われるのが普通かと思います。ここでも、大体、それに合致しています。

 但し、このことは、何か精神的な修練として上げられているのではありません。もっと、具体的です。それは、13節です。

  … イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。…

 特に、『待ち望みなさい』これが重要です。

 目標があって、だからこそ身を慎みます。つまり、一つの目当てに集中します。そして、それ以外のものは、誘惑として退けます。それが、ペトロが使っている聖なる生活という言葉の意味です。聖なる、つまりは、純粋な、つまりは、一つのことに集中することです。

 

†  14節。

  … 無知であったころの欲望に引きずられることなく …

 ペトロが語りかけている人々は、かつては、無知で、真の目標を持っていませんでした。勿論、信仰上のことです。

 しっかりとした目標がなければ、誘惑に引きずられるでしょう。目標が曖昧な受験生のようなものです。目標が曖昧な受験生は、いろいろな誘惑に負けて、第一志望校でなくてもいいやと考えてしまい、次には、第二志望校でなくてもいいやと、どんどん目標を下げてしまうでしょう。

 聖なるとは、必ずしも仙人のような生活をすることではありません。むしろ、救いを待ち望む信仰的な生活をすると言う意味です。


?15〜17節は難しいので後回しにします。18節。

  … 知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、

  金や銀のような朽ち果てるものにはよらず …

 ここは、私たちには、何か漠然としたことに聞こえますが、実は、極めて具体的なことを指摘しています。

 『先祖伝来のむなしい生活』とは、つまり偶像崇拝であり、拝金主義です。シモーヌ・ヴェーユのローマ帝国論に著されているような、力崇拝かも知れません。

 ローマは、その武力によって、周辺諸国民族を攻略し、虐げ、簒奪して、富み栄えました。外に対してだけではありません。ローマの市民一人に対して、奴隷は12倍だったと言われます。20倍という人もいます。周辺民族を押さえ込み、自国内でも、多くの人間を抑圧し、富を簒奪するのが、ローマの力です。ローマの繁栄は、略奪にありました。略奪する軍事力です。そもそも、偶像崇拝も、拝金主義も、詰まるところは、力を崇拝すること、力を神とすることでしょう。


†  その観点から言えば、聖なるとは、偶像崇拝、拝金主義、権力志向とは真逆です。ですから、聖なるという言葉から、仙人を連想するのは、あながち間違いとは言えないでしょう。しかし、ペトロが勧めるのは、隠遁生活ではありません。

 ペトロが説く聖なる生活の真反対のものが、『金や銀のような朽ち果てるものに』頼り切った生活です。このことは、先週の説教で、イザヤ書46章を引用し、強調してお話ししました。

 ペトロが説く聖なる生活の真反対のものが、虚しいものの奴隷となって生きる生活です。

 未来への希望がないから刹那的に生きる生活です。

 こういうことをふまえれば、15〜17節にも頷けます。


†  15〜16節。

  … 召し出してくださった聖なる方に倣って、

  あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。

  16:「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」

   と書いてあるからです』…

 ここでも、隠者のような生活、浮世離れした隠遁生活のことを言っているのではありません。そうではなくて、物質主義的ではない、もっと精神的なことを大事にした生活、信仰的な生活のことを言っています。

 少なくとも、ローマの価値観に染まっていてはなりません。力が正義、つまりは、身分やお金や贅沢が正義であってはなりません。ペトロは、そのように言っています。


†  現代日本は、日本人の価値観は、ローマのそれと全く同じなのではないでしょうか。力が正義、身分やお金や贅沢が、つまりは力が正義になっているのではないでしょうか。

 日本人には奴隷はいないと反発されるかも知れませんが、私はいるのではないかと考えます。何も、貧しい外国からやって来て、きちんとした身分保障もなく働いている労働者のことではありません。

 30年くらい前でしょうか。「バナナやエビを食べてはならない、割り箸を使ってはならない」という運動がありました。教団の牧師の間では盛んでした。バナナやエビを育てているのはタイやフィリピンです。「これらを生産し、輸出するために、従来地元の人が食べていた食料が生産されずに、輸出・換金作物が作られ、土地の寡占が進み、地元の人は主食に不自由しなくてはならない」と言うのが、反対の理由でした。

 所謂プランテーション農業です。今は、コーヒー、カカオ栽培が、攻撃の標的になっているようです。


†  バナナやエビを食べてはならないか、割り箸を使ってはならないか、私には分かりません。いろんな立場からの、いろんな異なった意見があるようです。一言でプランテーション農業などと切り捨ててはならない、雇用を生み出し、豊かさをもたらすと言う人もいます。そうかも知れません。違うかも知れません。

 しかし、現代の日本でも、同じ図式の弊害が生まれていることは、事実ではないでしょうか。日本には、プランテーション農場はないでしょう。バナナやエビを、コーヒー、カカオを生産してはいません。

 しかし、同じようなことが行われているように思います。

 グローバルと言えば聞こえは良いのですが、観点を変えれば、プランテーション農場の国と同じように、輸出によって経済が成り立ち、逆に食料は自前では叶わず、輸入に頼り切っています。プランテーション農場の国と変わりません。全く同じです。一部の、財力を持った人だけが富み栄え、多くの者は、土地や家、財産を持たない、持てない、この点も、そっくりです。何も変わりません。


†  政治や経済の時間ではありませんし、私は、そういう方面に、大した知識もありませんから、これ以上は申しませんが、昔からの素朴な生活が脅かされ、自然が失われ、多くの貧しい人は、自分が住むための家さえ、容易には持つことが出来ない、この結果だけは歴然と存在します。

 江戸時代よりも深刻な、老後の不安が存在します。

 その不安は、何れも、偶像崇拝、拝金主義、権力志向が生み出したものではないでしょうか。これらは、預言者イザヤやミカが警告した内容です。力と富は、人間を滅ぼすという思想です。今日は、イザヤやミカに触れる時間的余裕がありませんが、イザヤやミカは、間違いなく、これを預言しています。換金作物である葡萄・葡萄酒の生産のために、大地主によって土地が寡占され、農民は小作から、やがて農奴に堕ち、更に難民となってエルサレム周辺に寄せ集められていったことが、預言者ミカの説く、悪です。

 聖なるという言葉は、これらの反対物を意味します。


†  17節。

  … また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、

   「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、

  その方を畏れて生活すべきです。…

 ここでも、国が正義、権力が正義、お金が正義という生活の否定こそが、主張されているのです。神さまだけが、正しい裁きを行い、苦しむ者を救って下さいます。

 究極の幸福は、神さまの許にあります。それを信じて生きることが、聖なる生活です。


†  19節。もう一度18節から読む必要があります。

  … 知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、

   金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、

  19:きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。…

 ただ十字架こそが救い、安心・平和の依り拠です。

 何もローマ帝国だけのことではありません。今の世界だって、日本だって同じことです。

 

†  20節は後回しにしまして、21節。ここは、18節と同じことです。

  … あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、

   キリストによって信じています。

  従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。…

 キリスト者の希望は、私たちの希望は、ただ神に、信仰にかかっています。勿論、老後の安心・平和も、ここにかかっています。

 

†  22節。

  … あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、

  偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。…

 ここで、ペテロ書の真の執筆動機・目的が見えてまいります。

 結局こういうことなのです。このことが、教会に於いてこそ、実現されなければなりません。そうでなければ、13節以下で述べられていることと、矛盾を来します。

 逆に言えば、聖なる生活とは、このことに尽きます。

 何も、特別に、仙人暮らしをすることではありません。そうではなくて、互いに許し合い、自分を言い張らないこと、我よりも、姉妹の思いを大事にすることこそが、聖なる生活なのです。それは、イエスさまが手本として示して下さったことです。

 

†  23〜25節は、先ほど省略した20節と重ねて読めばむしろ分かり易いかと思います。

 20節。

  … キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、

   この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。…

 難しく言えば、終末論的な生き方であり、この世の終わりを見つめた生き方、だからこそ、過ぎゆくものに捕らわれない、そういう生き方です。

 神の正義は、この地上でなされなくとも、神の国でなされると信じるのが信仰です。

 ですから、私たちにとって緊急のことは、世間の人が考えることとは、少し別のことになります。力が正義ではないし、逆に不正を糺す革命が正義ではありません。      

 神の国に入れられるためになすべきことは何か、と問い続け、行うことが、聖なる生き方です。

 自分の思想や哲学、まして、自分の欲望に忠実にならずに、神さまの御心はどこにあるのかと、と問い続け、行うことが、聖なる生き方です。