◇13節の最後の部分から読みます。 … 神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。… この部分、中でも、『初穂』という言葉に、気持ちが惹かれます。『初穂』、その年の、或いはその畑の最初の 実成です。一番最初に採れた収穫です。イスラエルですと麦の穂でしょう。これは特別な物です。 最近はそのような習慣は絶えてしまったでしょう。私の子ども時代には、未だ色濃く残っていました。その年に 初めていただく食べ物は、先ず仏壇・神棚に捧げました。初物です。ご先祖様、神さまに捧げてから、人間がい ただきます。 異教の習慣でも、意味があったと思います。何をいただくにしても、先ず感謝から、これは大事なことです。生 かされていることへの感謝です。食べ物が与えらていることへの感謝です。 米所・秋田だけの習慣なのか知りませんが、幼稚園で、昼食の時には、「仏様、ありがとうございます。お百 姓さんありがとうございます。」と唱えさせられました。あそか幼稚園というお寺の幼稚園です。仏教のアショカ王 に由来しています。 ◇異教の習慣と申しましたが、イスラエルにも全く同様の決まりがあります。初穂は神さまに捧げます。多分、ど のような宗教にも似たような言い伝えがあると思います。 初穂とは、則ち、来年の種籾です。これは聖別された存在です。どんなことがあっても、時来たるまでは手を 付けられません。たとえ飢饉に襲われたとしても例外ではありません。古代社会では、干魃などで、餓死者が 出ることもあったでしょう。それでも手を付けてはなりません。手を付けてしまったら最後、次の年は全員が餓死 を免れられません。 そのような意味合いでの、初穂です。聖別です。絶対にこれを犯してはなりません。 ◇戻って、13節の中程を読みます。 … あなたがたを聖なる者とする"霊"の力と、 真理に対するあなたがたの信仰とによって、… 常に申します。聖書中でも、"霊"という言葉、霊という存在ほど、理解するのに困難なものはありません。 『霊』とはかくかくしかじかと言ったら、どんなに言葉を並べても、不十分ですし、むしろ、不正確、嘘にさえなって しまいます。 聖書辞典を開けば、『霊』の項目は、ちゃんとあります。しかし、それを読んで理解出来るのか、甚だ疑問で す。 ◇聖書語句字典というものがあります。例えば、『霊』が、聖書の何書の何章何節に使われているか、網羅さ れています。言ってみれば、用例集です。昨年大変話題になりました。『舟を編む』ですか、辞書編纂の話が、 ドラマにもなりました。優れた辞書とは、優れて適切な用例が上げられている辞書のことです。 聖書辞典は、本来が用例集です。どんな場面でどんな意味合いで、この言葉が使われているのか、それ が、聖書を調べると言うことでしょう。 ◇悪戯に長くなっているかも知れません。結論を急ぎます。 … あなたがたを聖なる者とする"霊"の力と、 真理に対するあなたがたの信仰とによって、… これは、『霊』を知るのに適切な重要な用例です。『"霊"の力』が、人間を『聖なる者とする』のです。他の力 ではありません。勉強や手柄功績ではありません。『"霊"の力』が、人間を『聖なる者とする』のです。 『霊』という言葉をやたらと口にしたがる人は、ここの所を弁えていないと、とんでもない不敬になると思います。 マタイ福音書12章。 … 31:だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、 "霊"に対する冒涜は赦されない。 32:人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、 この世でも後の世でも赦されることがない。」… 『霊』を、自分の都合良く解釈したり、ましてこれを操ることを考えるようならば、『この世でも後の世でも赦さ れることがない。』それほどの大罪です。 ◇また脱線しています。もとに戻します。 人間を『聖なる者とする』のは、ただ、霊の働きだけです。そのことと、 … 神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになった … このこととは、全く重なります。聖なる者と初穂とは、ここで、全く重ねられて描かれています。 つまり、初穂とは、とっておきです。特別です。聖別された存在です。 初穂とされた理由は、13節の前半にあります。 … 主に愛されている兄弟たち … これが根拠です。これだけが根拠です。 自分には霊能力がある、そこまで言わなくとも霊感が強いと、平気で言う人がいます。私には、そんな力はあ りませんから、その主張を全く否定することは出来ませんが、平気でそのように言える人は、本当には霊の力を 知らないから言えるのではないでしょうか。 まあ、断定はしません。 ◇もう一度13節前半を読みます。 … しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、 わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。… 感謝すべきことなのです。『救われるべき者の初穂としてお選びになった』こと、『あなたがたを聖なる者と』して くださったこと、何より『主に愛されている』こと、ただ感謝すべきことです。 自慢げに思ったり、まして、これを根拠に他の人を軽んじたりするようなことではありません。 ◇しかし、この言葉も見逃してはなりません。 … 真理に対するあなたがたの信仰とによって … これも救いの根拠です。何もかも神さまが選び与えてくださるから、人間には何も要らない、何の働きもない、 それは極端な考えです。 『真理に対するあなたがたの信仰』、これは大事です、なくてはなりません。 マタイ福音書7章。 … 7:「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。 門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 8:だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。… 求めない者には、与えられません。当たり前です。 真理を求める者にだけ、真理が与えられます。神の国を求める者にだけ、天国の門は開かれます。それは、 当たり前です。 ◇14節。 … 神は、このことのために、すなわち、 わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、 わたしたちの福音を通して、あなたがたを招かれたのです。… ここには、パウロの伝道の意図、何故パウロが命がけで働くのか、その意図が、簡潔に述べられています。 『主イエス・キリストの栄光にあずからせるために』 いろんな拡がりを持つ言葉ですが、一番簡単に言えば、天国の門から、そこに入れられるためにです。 誰を選んだのか、『あなたがたを招かれたのです。』 他の誰でもない、テサロニケの教会員を招かれたのです。 パウロは、言ってみれば、そのメッセンジャーです。 「神さまの招待状がここにあります。」と告げ知らせるのが、パウロの仕事です。 ◇招待状とは、聖書そのものです。 確かに、招待状にしては、かなりの分量です。読解が大変かも知れません。 ですから、メッセンジャーは、求められれば、手紙、招待状の内容を、読んで聞かせることもありますでしょう。 現代はともかく、ローマの時代には、決して識字率は高くありません。読んで聞かせる必要があったかも知れま せん。 中世ヨーロッパの国々では、読み書き出来ない人が大半でした。そこで、代読したり、かいつまんで、要点を 教えたり、それが、司祭の仕事だったでしょう。 神さまからの手紙を喜ぶ人は、当然ながら、メッセンジャーをも、大切に思うでしょう。 しかし、メッセンジャーは、メッセンジャーです。配達人です。光栄ある仕事ですが、メッセンジャーです。神の 言葉を伝えるのであって、自分を披瀝するのではありません。それを間違える人がいます。メッセンジャーの中に も、受け取る人の側にもいます。これはおかしいと考えます。名説教家などと言いますが、それは間違いです。 名説教などありません。正しくメッセージが語られているかどうかだけです。 いろんな教団・教派に、本部組織があり、本部建物があります。それは、例えれば、郵便局でしょう。本局と 支局があり、建物の大小もあるでしょう。しかし、郵便局が、御殿になる必要はありません。司祭が、王さまや 貴族のような姿形を持つ必要は全くありません。それを間違えている人は少なくないようです。 ◇15節。 … ですから、兄弟たち、しっかり立って、 わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。… 『わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。』とあらためて言うのですから、多分、言う必 要があったのでしょう。、言わなくてはならない理由があったのでしょう。そのことは、Tテサロニケ書からも、Uテサ ロニケ書の中からも、想像出来ます。 Uテサロニケ書3章。 … 6兄弟たち、わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。 怠惰な生活をして、 わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。 7あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。 わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。 8また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。 むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。… ◇Uテサロニケ書2章節も引用します。 … 2霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、 主の日は既に来てしまっ たかのように言う者がいても、 すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。… この箇所については既にお話ししました。Uテサロニケ書3章6〜8節と重ねますと、様子が良く分かります。そ ういう人かいました。今もいるでしょう。 信仰生活も教会も、通常の仕事や家庭と同様で、一つ一つこつこつと果たして行くしかありません。近道も、 楽な道もありません。 『説教や手紙で伝えた教えを固く守り続け』ることが、一番確かな道です。 ◇先週、先々週の箇所で申しました。当時のローマの支配は、何とも残虐なものです。キリスト者は絶えず命 の危険に怯えていました。時に急な斜面をあえぎながら登るような道であり、急な斜面を転げ落ちるような坂道 でした。その当時からしたら、今の私たちは、平坦な道を歩いているようなものです。 テサロニケの人々には、近道の誘惑、飛び降りたい誘惑もあったでしょう。私たちもそのような誘惑を感じま す。しかし、一歩一歩歩く道だけが神の国に続く道です。 ◇16節。 … わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、 永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、 わたしたちの父である神が、… 『永遠の慰めと確かな希望』を持つことが出来るのは、いつまで続くかと思われる坂道を行く力は、信仰によっ てのみ与えられます。聖霊だけが、約束の地に導いてくれます。 つぶやきと不信に陥って、砂漠を抜け出せなくなり、放浪を強いられたイスラエルの民のようになってはなりませ ん。つぶやきと不信は、人生の道を迷わせます。 シナイ半島の砂漠の道を行くには、水が必要でしょう。人生という砂漠の道を歩き続けるには、聖霊が必要 です。聖書の随所で、聖霊と水とは、重ねられて描かれています。 ◇17節。 … どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、 善い言葉を語る者としてくださるように。… これが、パウロの願いであり、祈りです。テサロニケ教会員を思う、願いであり、祈りです。私たちも、この祈り の下にあります。『いつも善い働きをし、 善い言葉を語る者としてくださるように。』私たち自身の願いであり、祈りです。 |