日本基督教団 玉川平安教会

■2024年2月18日 説教映像

■説教題 「剣を取る者は剣で滅びる

■聖書   マタイによる福音書 26章47〜56節 


◆  順に読みます。47節。

  … イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。…

 『十二人の一人であるユダ』と記されています。先週から見ていますように、ユダは、あくまでも『十二人の一人』です。つまり、教会の一員です。しかも、『十二人の一人』指導者の一人として働いて来ました。

 このことは、49〜50節で改めて読みたいと思います。

 先ずは、47節の後半に注目します。

  … 祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、

   剣や棒を持って一緒に来た。…

 『大勢の群衆』とは、『祭司長たちや民の長老たち』に扇動されています。これは、福音書に描かれる十字架の場面に共通しています。群衆は本当には何も分かっていません。イエスという男が何者なのか、何をしたのか、本当には何も分かっていません。

 『剣や棒を持って』いるのは、漠然と恐怖を感じているのでしょう。しかし、逆に見れば、『剣や棒』で身構える程度の恐怖でしかありません。

 本当に恐ろしいのならば、もっと本格的に武装するでしょう。そもそも、扇動には乗らないでしょう。


◆  48節。

  … イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、

   その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。…

 一言で言えば、計画的でした。成り行きではありません。ユダは、ユダなりの決心をして、事に臨んだのです。

 当時は勿論写真はありません。ユダヤ教では偶像を嫌いますから、似顔絵もないでしょう。だから『合図を決めていた』とあります。

 これも見方を変えれば、殆どの者は、イエスさまの顔を知らないということになります。扇動されてやって来た『大勢の群衆』は、イエスさまの顔さえ知りません。当然、お話しを聞いたことなどありません。つまりは、『剣や棒を持って』立ち向かう根拠は、実は何もありません。群衆とはそういう者でしかありません。


◆  49節。

  … ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。…

 接吻が合図の取り決めでした。そして、実際にこれがなされました。

 第2コリント13章12節。

  … 聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。…

 『清なる口付け』、初代教会では、愛情、友情を込めた挨拶です。大事な習慣でした。これが、裏切りの合図に使われました。冒涜です。麗しいものを汚いことに使う冒涜です。

 マフィアズキッスというベストセラー本があります。未だマフィアの存在が公には認められていなかった時代に、これを暴露した本です。マフィアのボスが、裏切った子分を殺すように合図する場面が描かれています。それが、マフィアズキッスでした。

 この場面は、映画『ゴットファーザー』でも出て来ました。マフィアズキッスは、裏切り者を指し示す合図です。明らかに、今日の聖書を踏まえています。逆転です。


◆  『先生、こんばんは』も、酷い言葉です。ユダは、これまで何度この言葉でイエスさまに挨拶してきたことでしょう。その言葉を、裏切りに用いたのです。

 マタイとマルコが描いているのは、ユダの心の冷たさ、心の歪みです。

 この挨拶にイエスさまは応えます。50節。

  … イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。…

 『友よ』と応えられました。この言葉も、イエスさまとユダの間で、何度も繰り返されたことでしょう。

 今、イエスさまは、ユダの裏切りをご存じの上で、『友よ』と呼ばれました。

 何とも悲しい言葉です。『友よ』「友なのに」「友よ、お前が」、そういう言葉です。

 26章38節で『わたしは死ぬばかりに悲しい。』と言われたのは、一つには、このことではないでしょうか。そのように思われてなりません。

 ユダの口付けの意味を知っておられながら、イエスさまは、ユダに、『友よ』と言われました。『しようとしていることをするがよい』、裏切り銀貨30枚を得、十字架に送ることを、『しようとしていることをするがよい』と言われました。


◆  マタイ福音書28章8〜9節。復活の主に接した婦人たちのことが描かれています。

  … 8:婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、

  弟子たちに知らせるために走って行った。

  9:すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、

   婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。…

 今晩はも、おはようも、単なる挨拶の言葉ではありません。そこには、愛が込められている筈なのです。しかし、ユダの『こんばんは』には、毒が込められていました。

 ヨハネ福音書20章16節。復活のイエスさまとマリアが登場します。 

  … イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、

   「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。…

 この「先生」には愛があります。しかし、ユダの「先生」には毒があります。


◆  以前にも申しました。多くの神学者や文学者は、そして信仰者も、イスカリオテのユダに強い関心を持ちます。

 当然と言えば当然、イエスさまの十字架に直接関わる人物であり、12弟子の一人が、裏切って売り渡したという事実は余りにも重いものがあります。4つの福音書が、ペテロの次に、ユダのことに紙数を割いています。

 しかし、それに留まらない、異常なまでの、執着があるようです。

 アナトール・フランスは『エピクロスの園』で、歴史上のユダへの執着を並べ、イスカリオテのユダ教徒とも呼ぶべき人々の存在を紹介・解説しています。


◆  私も、原稿を書くために改めて調べていますと、つい、ユダの罪を数え上げ、逆に、彼を弁明するための、論拠を数え上げていました。

 しかし、今、ユダの裁判をしようとしているのではありません。誰も、ユダの裁判官にはなれないし、弁護人にもなれません。また、彼が赦されて天国に入るか、永遠に地獄に留まるかなどと考えても、絶対に結論は出て来ないでしょう。誰の場合でも、それは、神さまに委ねるしかないことです。

 ローマの信徒への手紙10章6〜7節。

  … 6:しかし、信仰による義については、こう述べられています。

  「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」

  これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。

  7:また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」

  これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。…

 パウロの戒めは、ユダについても当て嵌まるでしょう。ユダが救われる、救われない、私たちが決めることではありません。


◆  先を読みます。51節。

  … そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、

   大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。…

 ヨハネ福音書では、剣を抜いたのはシモン・ペトロになっています。福音書間で違いがあり、その違いがどうして生じたのか、不可解ではあります。

 しかし、何れにしても、武力が否定されていることは事実です。誰が剣を振ったのかと言う違いよりも、剣が否定されているという一致の方が大事なことです。

 マタイ福音書が、最も明確に剣を否定しています。52節。

  … そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、

   剣で滅びる。…

 ヨハネ福音書では、18章11節。マタイほど明確ではありませんが、剣がしりぞけられていることは確かです。

  … イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。

   父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」…

 ルカ福音書では、より詳しく描かれています。

  … 49:イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、

  「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。

  50:そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。

  51:そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、

  その耳に触れていやされた。…

 マルコ福音書では、大祭司の手下が耳を切り落とされたことは記していますが、剣を収めよとのと言葉はありません。


◆  十字架の物語で大事な場面なのに、少なからぬ違いが見られます。しかし、肝心なことは一緒です。そしてマタイ福音書が一番印象的です。

 少なくとも、マタイ福音書は、『剣を取る者は皆、剣で滅びる。』と言うメッセージを強調しています。

 そして、この暴力の否定は、どの福音書でも一致、一貫しています。それこそが、聖書の中心的な教えです。このことは、クリスマスの記事で、うんと強調されています。


◆  次を読みます。53節。

  … わたしが父にお願いできないとでも思うのか。

  お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。…

 その通りでしょう。ルカ福音書のクリスマス記事に見られる通りです。ルカ2章には、天の軍勢が登場しました。しかし、彼らは、武器を振るわず、讃美歌を歌いました。

 これ以上は、時間的に無理なのでルカだけに止めますが、福音書は、暴力の否定によって貫かれています。武力によって、平和が保たれるという発想は、非聖書的です。


◆  55節。

  … またそのとき、群衆に言われた。…

 これは極めて珍しい表現です。何が珍しいかと申しますと、イエスさまが直接人々に語りかけられることが既に、珍しいことです。意外に思われるかも知れません。山上の垂訓のように、大勢の人々を前にして、説教されるお姿が眼に浮かびます。が、そのような状況、表現はあまりありません。場面、状況から推測すれば、話しておられる対象が人々だと考えられる場合はあります。しかし、ごく希です。

 マタイ福音書ですと、12章46節が該当します。その中でも、『群衆に言われた』という表現は、この箇所だけです。他では、曖昧です。

 ギリシャ語の文法を持ち出して、第何格だからと説明することは出来るでしょうが、ともかく、はっきりと『群衆に言われた』という表現は、この箇所だけです。


◆  その内容は、

  … 「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。

  わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、

  あなたたちはわたしを捕らえなかった。…

 『毎日、神殿の境内に座って教えていた』と言う事実も常用だと考えますが、今日の主題から外れて、大回りになりますので省きます。『強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来た』これが重要です。

 

◆  特にマルコ福音書では、群衆=オクロスは特別な言葉です。マタイ福音書も大方これを踏襲しています。日本語で言えば、縁なき衆生ではないかと、私は考えます。仏教用語の「縁無き衆生(しゅじょう)は度し難し」です。

 イエスさまの教えに無関心で、救いがたい存在です。このオクロスこそが、イエスさまを十字架に架けた真犯人だと言うのが、マルコ福音書の主張です。そういう意味では、縁無き衆生は、縁無き衆生こそが十字架の血の当事者です。十字架の血という赦されざる罪を犯した責任があり、血を浴びた、つまり、過越の徴を与えられた者だと言う逆説です。

 ところが、この箇所でマタイ福音書は、はっきりと『群衆に言われた』とし、マルコでは『彼らに言われた』とあります。つまり、マタイの方が、群衆を強調しています。


◆  何を言いたいのかと申しますと、各福音書毎に表現に違いがあります。それが少なからぬ差異になることもあります。しかし、本当に大事なことは皆同じです。剣を抜いたのが誰なのかはっきりしません。しかし、56節、

  … このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。…

 この点は全く共通しています。ですからこれが一番大事なことです。そのように告白しなくてはならない弟子たちこそが、間違いなく教会の担い手となったのです。

 彼らもまた、十字架の血を浴びた者です。