日本基督教団 玉川平安教会

■2022年12月24日 説教映像

■説教題 「傷付いた葦を折ることなく

■聖書   イザヤ書 42章1〜10節他 


★イザヤのこの預言は、新しい、真のイスラエル王を意味するメシアを預言するものです。メシアは、単なる王ではなく、救い主とも言えます。ユダヤの民は、何時の時代にも、このメシアの登場を待ち続けて来ました。現代でも、なお待ち続けられています。

 これに対して、キリスト教とは、ナザレのイエスこそが、メシア・キリストであると信じる信仰のことです。ユダヤの民が待望するメシアは、既に誕生したと考えるのが、キリスト教です。

 ですから、クリスマスとイザヤの預言とは、全く重なると考えるのが、キリスト教の信仰です。


★メシア・キリストはどのような姿で描かれているのか、預言者イザヤは、どんなメシアを期待しているのか、順に読んでまいります。

 『彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない』

 当時、王が新しい政令を出すと、役人が大声で、街の人々に知らせたそうです。大声を出すことで、人々に知らせ納得させる、むしろ屈服させました。

 イザヤは、それを全く否定しています。『彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない』、誰にも知られないような姿で、誕生し、やがて即位すると預言しました。


★新約聖書に描かれるキリスト・イエスの誕生は、イザヤの預言に合致しています。ユダヤの人々は、殆ど誰も、キリスト・イエスが誕生したことを知りません。それを知った僅かな人数がありますが、ときの為政者は、それを無視したり、隠蔽したり、むしろ出来事そのものを抹殺しようとします。マタイ福音書はそのように描いています。

 ルカ福音書では、羊飼いたちに王の誕生が告げ知らされ、王に見えるために出掛けた羊飼いの前に天の軍勢が現れますが、彼らは都を攻め滅ぼし、新しい王を即位させるのではなく、平和の讃美歌を歌います。

 これらは、『彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない』というイザヤの預言を踏襲しています。平和の王は、ひっそりと平和の内に誕生します。戦の王は、その真逆です。


★やがて王位に就いたメシアは

 『傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく』

 その歩みを進め、政を執り行います。

 葦は少しの風にも揺れ動く、儚く頼りない植物です。まして傷ついていれば、僅かな風でも折れてしまうでしょう。

 『暗くなってゆく灯心』も同様です。その近くを人が通っただけで、消えてしまうかも知れません。まして、軍馬が駆け抜けたら、全く消えてしまいます。

 この当時のイスラエルは、『傷ついた葦』であり、『暗くなってゆく灯心』です。しかし、むしろだからこそ、王や軍人は、最後の力を振り絞ってでも、敵と戦う絶望的な戦場に若者を引き出すべく、叫び、呼び掛け、声を巷に響かせます。


★イザヤが待望するメシア・キリストは、『暗くなることも、傷つき果てることもない』

本当の希望の光を、イスラエルにもたらします。

 それを実現する力は、『裁き』という言葉で表現されています。軍隊の力ではなく、正しい政治が、裁きだけが、戦争を終わらせ、平和を実現します。戦争は新しい戦争を産むだけです。正しい政治、裁きは、イザヤ書でも、正義という言葉で表現されています。

 正義のための戦いという言葉が使われます。しかし、イザヤは、『叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく』と言います。戦争を終わらせる戦争などないと言っているのです。


★イザヤ書2章4節。

 『主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。

  彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。

  国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。』

 国連本部のビルに刻まれた言葉として知られています。

 イザヤ2章は、普通第1イザヤと呼ばれ、42章は第2イザヤ、時代も随分離れていますし、二人は別々の預言者だと言われます。しかし、その平和、非戦を説く思想は共通しています。

 正義の実現のためにと、声高に若者に呼び掛ける王は、ただ若者の屍を野に曝すことしか出来ません。そうした王の中には、後に英雄と評価される人もいます。しかし、この王の真の実績は、若者の尊い、掛け替えのない命を奪っただけです。


★『エルサレム』という小説で、女流作家最初のノーベル文学賞を受賞したラーゲルレーブに、『キリスト教伝説集』という本があり、その中に『ともしび』という短編が収められています。ベストセラー・ロングセラーですが、この頃は本屋さんの店頭でも見掛けません。

 乱暴な程ごくごく簡単に、粗筋を紹介すると、戦争で手柄を立て、富と地位を得、奥さんを喜ばせたいと願った、主人公が、ひょんなことから、小さな蝋燭の灯火を、聖地からローマの都に持ち帰ろうとする物語です。灯火を消さずに運ぶためには、盗賊と争うことさえ出来ません。優れた腕力も役立ちません。火を消さないためには、後ろ向きに馬に乗ることさえします。その先の結論は無用でしょう。

 軍勢を仕立てて都に攻め入ることよりも、一本の蝋燭を灯し続けることの方が、遙かに困難な業なのです。


★一本の蝋燭の灯火とは、一人ひとりの命であり、小さな家庭の、小さな村の平和です。大義のためには、命を賭して戦えという王は、この一本の蝋燭の灯火を消してしまう王です。そこには、本当の裁きはありません。本当の正義はありません。

 これが預言者イザヤの思想です。信仰であり、預言です。

 教会がクリスマスに、蝋燭を立てて礼拝を守るのは、このような意味合いです。ちょっとした風でも吹き消されてしまいそうな、平和の灯火を守り続けると言う意味が込められています。イザヤ書こそが、クリスマスの灯火の起源なのです。


★『主である神はこう言われる。

  神は天を創造して、これを広げ 地とそこに生ずるものを繰り広げ

  その上に住む人々に息を与え そこを歩く者に霊を与えられる。』

 この世界を創造された神さまは、『人々に息を与え』られる神です。正義を叫び、人々から命を奪うのは聖書の神ではありません。

 この世界を創造された神さまは、『霊を与えられる』神です。この霊とは、普通には、平常時には、愛と呼ばれ、平和と呼ばれるべきものです。霊のお告げと言って、戦争を起こし、命を奪う者には、霊を語る資格などありません。


★『主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び あなたの手を取った。

  民の契約、諸国の光として あなたを形づくり、あなたを立てた。』

 『あなた』とは、イスラエルのことです。『民の契約、諸国の光として』、つまり、イスラエルは他の民族の先に立ち、正義と平和に仕え、これを全世界に実現すべく、『形づくられ、あなたを立てられた』とイザヤは言います。決して、戦争で周辺国を破り、まして滅ぼし従えるためではありません。

 イザヤの時代にもイエスさまの時代にも、メシアが現れれば、イスラエルは他国を圧し、世界中の民族の上に立つと考え、期待した人々がいたようです。しかし、イザヤの預言は違います。イスラエルはむしろ平和のために立てられ用いられる民なのです。

 キリスト教信仰では、教会は新しいイスラエルです。ですから、正義と平和に仕え、これを全世界に実現するのが教会の務め、役割です。


★教会が立てられているのは、また、

 『見ることのできない目を開き 捕らわれ人をその枷から

  闇に住む人をその牢獄から救い出すために。』 … このためです。

 この言葉を文字通りに受け止めてもよろしいでしょう。

 教会は、その2000年の歴史を通じて、医療の発展に尽くして来ました。教会の元に、キリスト教の元に、現代の医学が発展したことは間違いありません。修道院は、昔から病院の機能を果たして来ました。

 現代では、人権問題や貧困問題にも取り組んでいます。不十分と考える人もありますでしょうし、批判的に見る人もありますでしょうが、少なくとも、他の宗教よりは遙かにこれに貢献して来たと自負出来るでしょう。


★しかし、イザヤが言うのは、必ずしも、医療のことでも人権のことでも、環境のことでもありません。もっと根本のこと、本質のことです。

 それが、遡りますが、

 『彼の上にわたしの霊は置かれ … そこを歩く者に霊を与えられる』

 『霊』と言う言葉に表現されています。

 これは、世界を造られた神、人間を造られた神への信仰に基づいています。

 

★創世記2章7節。

 『主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、

  その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。』

 人間は、人間のような姿形をしているから人間なのではありません。『その鼻に命の息を吹き入れられた』から、神さまと同じ息をしているから、つまり、神さまの息を呼吸して生きるから人間なのです。それが、聖書の信仰の出発点です。

 この神の息とは、私たちが知っていて、実際に感じることが出来る言葉で言えば、愛です。少なくとも、愛が、神さまの息にもっとも近いものです。人は愛を呼吸して生きる生き物なのです。

 

★神さまが人間を創造されました。神さまが、人間に命の息を、愛を下さいました。ですから、人間は人間を愛するのであり、愛することが出来るのです。これが、聖書の信仰です。

 ですから、人が人を殺す、憎む、まして滅ぼす、こんなことが許される筈がありません。これが、聖書の信仰です。


★さて、ここで話を終えた方が分かり易いかも知れませんが、イザヤに共感することが出来た人は、そういう人こそが、続けてイザヤ書43章を読むでしょうから、触れます。

 『11:荒れ野とその町々よ。ケダル族の宿る村々よ、呼ばわれ。

  セラに住む者よ、喜び歌え。山々の頂から叫び声をあげよ。

  12:主に栄光を帰し  主の栄誉を島々に告げ知らせよ。

   13:主は、勇士のように出で立ち 戦士のように熱情を奮い起こし

  叫びをあげ、鬨の声をあげ、敵を圧倒される。』

 ここには、42章と、私が注釈としてお話ししたことと、真逆とも聞こえることが語られています。11〜12節はともかく、13節は、神の名前による戦争を奨励するかのようです。

 43章は、あくまでも42章を前提としています。42章を踏まえないで43章だけを読んだら、とんでもない誤解に繋がります。


★43章の戦いの預言は、イスラエルに敵対する国を滅ぼすという話ではありません。平和の実現のためならば戦争もある、という話ではありません。長くなってはいけませんので、結論だけを申しますが、戦争を滅ぼすための戦いならあるかも知れません。平和を叫ぶ声は、戦争を唱える声よりも小さいものであってはなりません。平和への呼びかけは、隠れて、ひっそりとなされるべきものではありません。それが43章の表現です。

 神さまの義を平和を、『喜び歌い、 … 叫び声をあげ』なくてはなりません。『戦士のように熱情を奮い起こし』、平和への『熱情を奮い起こし』て、初めて『敵を圧倒』出来ます。戦争を叫ぶ者の声を、平和を叫ぶ者の声で、圧倒しなくてはなりません。

 この戦いは熾烈です。その戦いをなさったのは、つまり、平和の戦いをなさったのは、敵を赦す戦いをなさったのは、十字架の上のイエスさまです。