日本基督教団 玉川平安教会

■2022年2月6日 説教映像

■説教題 「神の掟は難しくない

■聖書    ヨハネの手紙一 5章1〜5節 

◇Tヨハネの、特に4章以降では、聖霊と愛とが重ねて論じられています。この聖霊と愛とには、共通点があります。

 何より、目には見えません。手で触ることも出来ません。

 だから、そんなものは存在しないという人もいます。そんな風に思うのは、仕方がないでしょう。人間は、目に見えるもの、手で触ることが出来るものを頼りにして生きています。目に見える、手で触れることが、確証であり、確証の無い物の上に何かを築くことは出来ません。それは、砂上の楼閣と呼ばれても仕方がありません。


◇ですから、聖霊などと呼ばれるものは、実際には存在しない、単なる自然現象に過ぎない、せいぜいで科学的には未だ解明されていない自然現象に過ぎない、と考える人は、常識的な人でしょう。

 説明も証明も出来ないことを、大げさに取り上げるのは、人を欺くことだと言う人さえいます。聖霊という言葉を聞いた瞬間に、まやかしだとか詐欺だとかいう言葉を連想する人もあります。私もちょっとその気があります。


◇しかし、こういう人は、愛についても同じことを言うでしょうか。言えるでしょうか。

 愛などというものは、単なる生理現象に過ぎない、せいぜいで科学的には未だ十分解明されていない自然現象に過ぎない、説明も証明も出来ないことを、大げさに取り上げるのは人を欺くことだと、言うでしょうか。言えるでしょうか。

 聖霊についてはいざ知らず、愛について、目に見えず、手で触ることも出来ないような、そんなものは存在しない、頼りに出来ないと言う人を、常識人とは言いません。科学的・合理的思考が出来る人とは言いません。そのような人は、ただ冷血で、非人間的な思考をする人だと嫌われるだけです。

 愛も聖霊も、同じように、目に見えず、手で触ることも出来ないことなのに、聖霊を否定する人は常識人で、愛を否定する人は、人間性を欠く人になります。不思議なことです。


◇聖霊についても、愛についても、これを受け入れない人に、その存在を説明するのは、まして説得するのは、なかなかに困難です。

 やはり、目には見えないことも、手で触ることも出来ないからでしょう。

 それでは、愛の反対側にあるものについてはどうでしょうか。

 愛の反対側、つまり憎しみです。

 憎しみも、愛や聖霊と同様に、目には見えません。手で触ることも出来ません。しかし、この存在を疑う人、軽視する人は、一人もありません。誰もがその存在を認め、その力・エネルギーを認めています。認めざるを得ません。

 憎しみについて、単なる生理現象に過ぎない、せいぜいで科学的には未だ解明されていない自然現象に過ぎないと言う人はありません。一人もありません。


◇聖書には、聖霊が語られています。愛が語られています。それ以上に、憎しみが描かれています。

 創世記1章2章の、人間の創造の場面を思い起こして下さい。あまりに頻繁に引用しますので、今日は省略しますけれども、ここでは、人間の創造が、聖霊が与えられたこと、愛に生きる者になったことと、一緒に描かれています。

 しかしそれ以降、聖霊については、それ以上詳しく描かれてはいません。神の息、即ち聖霊ですが、ここではまだ、聖霊という言葉は使われていません。


◇一方、憎しみは、直ちに登場します。その後、繰り返し描かれることになります。

 創世記4章は、カインがアベルを殺す物語です。人類最初の兄弟間に起こった殺人事件です。殺人の動機は、妬み・憎しみです。

 その後も、エサウとヤコブの争い、更に、エジプトに奴隷として売られたヨセフの物語、

全て兄弟の間の憎悪が主題になっています。

 聖霊の存在、愛の存在を否定する人も、憎悪の存在を否定することは出来ません。

どちらも、目には見えず、手で触ることが出来ないにも拘わらず。


◇Tヨハネ1章1節。

 『初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、

   よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。』

 ヨハネは、聖霊をそして愛を、『わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの』として描いています。ヨハネにとって聖霊、愛は、目に見えるし、手で触ることが出来るものなのです。ヨハネにとっては、見えないものではありません。


◇改めて、5章1節から順に読みます。

 『イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。』

 信仰そのものも、目には見えません。信仰が目に見えないのだから、その信じていると言い張る人が、『神から生まれた者』かどうか、見定めることは出来ません。

 しかし、原則目には見えないものが、人の目にはっきりと見える場合があることを、ヨハネが描き出しています。福音書のヨハネです。3章8節。

 『風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、

   どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」』

 誰もが風の存在を知っています。しかし、風を見た者はありません。風が梢を揺り動かすことは知っています。梢が揺れるのを見て、私たちは風を見たと言います。私たちが本当に見たのは風ではありません。風が動かした梢です。しかし、私たちは風を見たと言います。この言葉、この表現は、決して間違いはありません。

 私たちは、目には見えない風を目に見ることが出来ます。


◇聖霊も同様だと、ヨハネ、福音書のヨハネは言っています。

一ヨハネも同じことです。5章1節後半から2節の前半まで読みます。

 『そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。

  2:このことから明らかなように』

 兄弟を愛するかどうかです。信仰は見えずとも、聖霊は見えずとも、『兄弟を愛するかどうか』、愛するか憎むか、これははっきりと見えます。その愛が見えないようだったら、その人の心の内に愛は存在しません。つまり、信仰は存在しません。

 これは、はっきりと目に見えます。


◇2節後半にも同じことが繰り返し述べられています。

 『わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。』

 『神の子供たち』つまり、うんと具体的に言えば、血の繋がった兄弟姉妹たち、そして同じ信仰を持っている教会の姉妹兄弟たち、これを愛するかどうかを見れば、この人が神を愛しているかどうかが見える、信仰が見えると、言い切っているのです。

 ここに、ごまかしは存在できません。兄弟を憎んでいて、しかし、私には信仰がありますとは、言えませんし、言ってはなりません。


◇3節。

 『神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。』

 飛躍どころか脱線かも知れませんが、実例でお話しします。自分自身のことです。

 私には3歳年上の兄がいました。もう30年前に亡くなりました。この兄は、当時の言葉で言えば精薄児でした。今はこの言葉は使ってはならないそうです。しかし、どんな言葉に言い換えても、私には偽善にしか聞こえません。

 兄は知能もそして体格も未発達でした。小学校に上がるのが1年遅れて、その年に初めて出来た特殊学教に入りました。この特殊学教という言葉も今は使われません。当時も使われていませんでした。担任の先生の名前で、寺田学教と呼ばれるのが普通でした。小学校と中学校の特殊学教の担任は夫婦でした。ですから、どちらも寺田学教です。


◇寺田学教という言葉が、子供たちの間で最大の悪口でした。

 当時の秋田では、差別意識丸出しです。労りなんてありません。私もそのように呼ばれました。兄弟が寺田学教だと、そのように呼ばれます。

 ここで具体的に並べる必要はありませんので省きますが、ひどい差別を、同級生だけではなく、教師からも受けました。今なら、懲戒免職になるような露骨な差別を受けました。

 さて、そのような兄を、当時の私は嫌いました。このような兄がいるから、自分も苦しまなくてはならないのだと思い、兄を憎みました。このことも、ここで具体的に並べる必要はありませんので、省きますが、兄を憎んでいました。


◇これは、今の話ですが、この近所にも重度の知的障害を持った人たちの施設があります。申し訳ない言い方ですが、一目でそれと知れる様子をした人たちの散歩に出会うことがあります。また、そのような親子の姿を見ることがあります。

 他の人なら何でもないこととして見過ごすその様子に、私は、心が動揺します。何故動揺するかと言いますと、自責の念に駆られるからです。60年前、兄を憎んでいた自分を、赦すことが出来ません。何と無慈悲だったのか、障害を持って苦しむ兄を、更に苦しめていたのだと、真夜中にふと目覚めて思い出すと、自分が赦せません。


◇障害を持った兄弟を受け入れ、優しく労ることの出来る人がいます。決して少なくはないかも知れません。私には、このような人こそ、神の愛を知っている人だと思います。もし、その人が聖書の信仰を知らないとしても、神の愛を実践している人です。

 60年前の私に信仰があったなら、兄を憎むことはなかったと考えます。苦しんでいるのは自分だけではなく、両親が、誰よりも本人が苦しんでいることを理解出来たと思います。信仰があれば。しかし、当時の私には出来ませんでした。信仰がなかったからです。


◇『神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。』

 ヨハネはこう言いますが、難しい、とても難しいと思います。兄弟を愛することは困難なことです。ですから、創世記には、兄弟が憎み合う話がたくさん出て来ます。

 しかし、本当の信仰があれば、難しいことではありません。神の愛を受け入れるならば、難しいことではありません。

 

◇兄弟を愛することが神の戒めだという表現に、抵抗を覚える人は多いと思います。信仰者でなければそれが普通です。

 愛は人に強いられるものではない。その通りです。

 『愛はそのそもそもの性質からして、強制を伴うものではない』、カントの言葉です。こんな当たり前のことを言うときには、偉い人の言葉を引用するしかありません。『愛はそのそもそもの性質からして、強制を伴うものではない』、当たり前です。

 しかし、と言うことは、愛は強制されない、全く自分の意思、自分の価値観に基づくとしたら、結果、兄弟の一人を愛し、一人を憎むことになります。単なる好き嫌いです。


◇4節。

 『神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、

   それはわたしたちの信仰です。』

 『世に打ち勝つ』とは具体的に何を指しているのでしょうか。分かりません。それならば、「世に負ける」「世に飲み込まれる」ということを考えた方が良いのではないでしょうか。これならば分かる気がします。「世に負ける」「世に飲み込まれる」つまりは、信仰ならぬ別の価値観で生きることです。信仰ならぬ価値観に飲み込まれてしまうことです。


◇唐突に聞こえるでしょうが、マタイ福音書7章1〜2節を引用します。

 『「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。

  2:あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。』 

 『裁く』というギリシャ語は、重さを量るに語源があります。面白いことに、漢字も日本語も皆同じです。裁く、目方や大きさを測る、そこから釣り合いの取れる刑罰を与えるつまり裁くになります。「目には目を歯には歯を」です。更に、裁くは、裁量、つまり政治になりました。

 私はこれを点数を付ける、数字に置き換えると翻訳したいと思います。人を裁くとは、人に点数を付けることです。

 点数が低ければ疎んじ、高ければ敬うのが人間の価値観です。イエスさまは、これを否定しています。何故なら、本当には、他人の点数など分からないからです。目には見えない人の値打ちを計って、数字に置き換えてはなりません。数字にしたら、その人の値打ちが分かると思ってはなりません。


◇点数は神さまが付けます。裁くのは神さまです。神さまに代わって点数を付けるとしたら、それはとんでもない不信仰であり、傲慢です。人間が神に成り代わることです。

 神さまに受け入れられて洗礼を受けた、教会員となったということは、神さまから合格点を貰ったということです。これを人間が裁いて不合格にしたら、それは、とんでもない不信仰であり、傲慢です。