日本基督教団 玉川平安教会

■2022年6月19日 説教映像

■説教題 「地の塩・世の光として

■聖書   マタイによる福音書 5章13〜16節 


★ 2年前に同じ箇所を読んでおりますので、少し観点を変えて読みたいと思います。

 『あなたがたは地の塩である』、これが肝心な言葉だということは、直ぐに分かります。だからこそ、後回しにして、先ず次を読みたいと思います。

 『塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう』

 塩は、他の料理を味付けするためにあります。逆に何かによって味付けられることはありません。料理の専門家に聞いたら、「ありますよ」と言われるかも知れませんが、それはあまりに例外です。無視して良いと思います。


★ その次を見ます。

 『もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである』

 この箇所について、以下のような説明を聞いたことがあります。

 イスラエルには死海があり、そこでは岩塩が採れます。死海という湖の畔には、塩が固まった岩のようなものがゴロゴロと転がっています。これから、岩塩を作ります。

 岩塩には、混じり物があります。土や石がたくさん混じっています。なるべく不純物のない箇所から塩を採った後には、この混じり物が多い部分が残ります。それを、地面に捨てます。やがて雨によって、塩は溶け、不純物の土や小石だけが残ります。

 これを人々が踏みつけます。ぬかるみの道が、丁度舗装したように、歩きやすくなります。おおよそ、こんな話です。


★ 見てきたような話で、実際はどうなのか、分かりません。

 私が育った頃の秋田、特に豪雪地帯の横手では、石炭ストーブが使われていました。これを焚いた後には、殻が残ります。不純物なのでしょうか。結構な量になります。これを、道路に積もった雪の上に蒔きます。滑り止めになりますし、融雪剤にもなります。

 その体験からすると、岩塩の滓が道に捨てられるという話も頷けます。

 しかし、石炭殻の場合は、厳密に言えば『何の役にも立たず、外に投げ捨てられ』ではなく、滑り止め、融雪剤として役だったことになります。岩塩はどうなのでしょう。道路の舗装に、少しは役立つのでしょうか。分かりません。


★ 塩は他を味付けるものであって、逆に味付けられるようなものではありません。もし、塩気を失えば、その存在意味を失うことになります。

 そして、『あなたがたは地の塩である』、つまり、キリスト者は地の塩であって、他の人を味付ける、逆に味付けられることはないという意味になります。味付けは、意味付けと置き換えることが出来ます。


★ 14節も、肝心な『あなたがたは世の光である』は後回しにしまして、その次を読みます。

 『山の上にある町は、隠れることができない』

 これは、どんな意味なのか解釈に困ります。いろいろと考えなければなりません。

 日本では扇状地の裾の部分に人が住み着き、街が出来ます。湧き水が得られるからです。特に飲み水は貴重です。扇状地は畑になります。

 しかし、もっと大きな町が、山間、谷間に出来る場合があります。これは防衛上の理由です。谷の出入り口が狭いと、敵軍は容易に攻め込むことが出来ません。朝倉家の居城、一乗谷はこの代表的な例だと言われます。


★ イスラエルはどうだったのか、今までお話ししたようにして出来た町もあったに違いありません。しかし、これとは違い、山の上に町が築かれた例もあったようです。日本ですと山城になりますが、山の上の町です。理由は勿論防衛上です。日本では町そのものが山の上に出来るということはあまりないと思いますが、イスラエルにはそれがありました。いかに、戦乱が激しかったかと思わされます。防衛上の理由で山の上に町が出来ますが、しかし、『山の上にある町は、隠れることができない』。その町は、その故に別な危険を背負うことにもなります。山の上に築いた効果は、裏腹です。


★ これは何を比喩して語られているのでしょうか。その後の言葉を誘導するためのものでしょうが、それだけではありません。この比喩そのものが、教会を語っているのではないでしょうか。

 教会は、逃れの場としての役割を持っています。旧約聖書の昔から、つまり、教会が誕生する前から、逃れの町、逃れの場がありました。旧約聖書の逃れの町について詳細をお話ししている暇はありませんが、申命記19章やヨシュア記20章に記されています。心ならずも律法を犯し、追われる立場になった者が逃げ込み、安全を確保される場所です。

刑の執行を猶予されるからこそ、償いの道も開かれると言ってもよろしいでしょう。

 初代教会は、そこに逃れ留まることによってこそ、罪を悔い、贖い、新しい人生に向かう機会を与えてくれる場だったでしょう。


★ しかし、『山の上にある町は、隠れることができない』

 教会は逃れの場として、この世から隠れている訳にはまいりません。教会は、世の人々に福音の光を届ける灯台の役割をも持っています。そもそも、暗闇に輝く灯台だからこそ、人々はそこを目当てに、やって来ます。罪から逃れるために、迫害を免れるために、心の平安を求めるために。

 ただ隠れているだけでは、その役割を果たすことは出来ません。


★ 15節。

 『また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。

   そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである』

 福音の光は、世を照らし明るくするものです。隠されているだけでは、その役割を果たすことは出来ません。

 

★ 今日の主題からは脱線かも知れませんが、旧約聖書の時代から、正しい神の言葉を、福音を守るということは大事なことです。当たり前です。そのためには、時に、隠すことも必要になりす。一番顕著なのは、預言者エレミヤが、壺を地面に埋めた行為でしょう。32章に描かれています。土に埋めてでも守らなければならない場合があります。

 しかし、その壺も時が来たれば掘り出され、明るみに出され、その契約の有効性が証明され、履行されます。それを前提として、今は、地面に埋められるのです。

 

★ 16節の前半、

 『そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい』

 マタイ福音書は、今がその時、光を掲げる時だと主張します。今までは、消さないように守ることが大切で、そのためには、升の下に隠していたとしても、土に埋もれていたとしても、今はそれを表に出し、高く掲げようと言うのです。


★ 牧師は、今日礼拝で与えられた聖書の言葉を、わが教会に当て嵌めて読んでしまいます。やや牽強付会に聞こえようとも、そうしてしまいます。牧師の習い性ですし、それも牧師の役割でしょう。

 私は、玉川平安教会に赴任して以来、ここに平安を実現することを、何より大切なことと考えてまいりました。礼拝出席者が少なくなり、活気がなくなり、役員の役割を担う人数さえ揃えることが困難になりました。今年から定数を10名から8名に減らしました。

 危機的な状態と言わなくてはならないかも知れません。それでも、現状を大きく変えることは模索せず、何とか旧来のものを守ることを第1としてまいりました。


★ しかし、今、『あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい』と言われているのかも知れません。升の下に隠して置くな、と言われているのかも知れません。

 先週の説教の末尾で、原稿にはない話を付け加えました。おさらいします。

 聖書研究祈祷会で読んでいるヤコブ書から、3章18節を引用します。

 『義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです』

 平和でなくては、種まきなど出来ません。種を蒔くためには、先ず平和を実現しなくてはなりません。

 ウクライナの戦争を伝えるニュースで、盛んに言われています。世界有数の穀倉地帯であるウクライナが戦場になっていることで、穀物の運搬、輸出が出来ず、ために世界中で穀物が不足し値上がりしている、特にアフリカでは飢餓が迫っていると。

 

★ その通りなのでしょう。ことは深刻です。しかし、戦火の下でも、収穫はなされているようです。目の前の実りを収穫しないではいられません。自分たちが食べるためにも、命がけで収穫するでしょう。

 しかし、何故かニュースにはありません。種蒔きはどうなっているのでしょうか。今、ウクライナで種が蒔かれなければ、確実に半年後1年後に、食糧危機が起こります。アフリカでは餓死者が出るかも知れません。それは、確実です。

 戦乱の中でさえも、種が蒔かれなければ、必ず飢餓が迫ってきます。


★ このことが、教会にも全く当て嵌まります。

 平和でなければ、種蒔きは出来ません。しかし、完全な平和を待っていたら、何時までも種蒔きは出来ません。少なくとも、春に蒔かなくては、秋の収穫はありません。秋に蒔かなくては、春の収穫はありません。

 作物によっては、何年も待たなければ、実はなりません。私の友人は、甲府の愛宕町教会時代に、檜を植えました。100年後の会堂建築のための備えだそうです。

 教会も、そのくらいの長期的展望を持たなくてはなりません。

 

★さて、農作物の話をしていることが、既に脱線ですので、元に戻ります。

 先ほどのヤコブ書3章17節。さっきの直前の箇所です。

 『上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。

   憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません』

 平和がなければ、種蒔きは困難です。ただ種を蒔けば芽が出るのではありません。『純真で、更に、温和で、優しく、従順』、こんな土壌がなければ、豊かな実りはありません。


★これも脱線の一部でしょうか。もっと戻ります。マタイ福音書5章13節と14節、抜き出して引用します。

 『あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。』

 マタイは、『塩』と『光』に共通性を見ています。両者に共通しているものを探れば、マタイの主張が聞こえてきます。

 それは、小さいこと、しかし、決定的に重要な役割を持つことです。

 この点は、2年前の説教で諄いほど、具体例を上げてお話ししましたので、結論だけ申します。

 塩がなければ、どんな高価な食材を集めても、何にもなりません。集めた食材が無意味になります。何しろ無味です。無味乾燥の無味です。

 光がなければ、どんなに着飾っても意味をなしません。見えません。


★『あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。』

 つまり、教会は世のためにこそ、是非とも必要な存在であると言われています。次週の礼拝箇所を借りて言えば、『天の国で大いなる者と呼ばれる』存在です。決して『小さい者』ではありません。


★この箇所のお話しをすると、つい、塩や光の小ささを強調してしまいます。分量的には小さいに違いありません。その小さいように見える存在が、決定的な意味を持つことに違いありません。

 しかし、塩は本来小さい存在ではありません。良く知られている話です。

 サラリーマンとは和製英語で、英米語ではないそうです。正しくは、サラリード・マンだそうです。まあ発音の違いだけかも知れません。この英語の語源は、ラテン語です。つまり、塩です。ローマでは塩が、サラリーとして与えられたのだそうです。それほど貴重なもので、決して、安価で、粗末な存在ではありません。

 光も同様です。土の器の話がありますので、これも安価で粗末なものという印象があります。しかし、時代が遡れば遡る程に、光は貴重なものです。光を灯すための、油も灯心も、とても貴重なもの、大事なものです。


★『あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。』

 つまり、教会は決して、安価で、粗末な存在ではありません。むしろ、とても貴重な存在です。教会が世に対して謙遜で柔和なことは素晴らしいと考えます。かつてのローマ・カトリックのように、威張りくさっている必要はありません。しかし、教会が教会である誇りを忘れたら、それは、神さまそのものを貶めることです。謙遜・柔和とは、この世に対して卑屈なことではありません。むしろ、その内にある塩を、光を、誇りとしなくてはなりません。勿論、教会の内に塩が、光が、あるのかと問われています。