日本基督教団 玉川平安教会

■2022年6月5日 説教映像(未配信)

■説教題 「平和を実現する人々

■聖書   マタイによる福音書 5章9〜10節 


★『平和を実現する人々は、幸いである』

 大変分かり難い言葉です。これが、「平和を享受する人々」、もっと平易な表現で「平和に生きる人々」なら、良く分かりますし、頷けます。

南海の気候温暖な島で、毎日をのんびりと過ごす。憧れます。人生の晩年をそんな所で過ごすことが出来たら、どんなに幸いでしょう。昔、『南の島の大王は』という子どもの歌がありました。何十年経っても、歌詞を覚えている数少ない歌の一つです。その3節。

  … 南の島の大王は、子どもの名前もハメハメハ、学校嫌いな子どもらで、風が吹いたら遅刻して 雨が降ったらお休みだ ハメハメハ ハメハメハメハ …


★ しかし、『平和を実現する人々は』です。平和に生きる人はではありません。あくまでも、『平和を実現する人々は』です。

 途端に、全然別の光景が浮かびます。インターネットのニュースに、岡本公三が公の場に登場したということが、映像付きで放映されていました。その数日前には、重宗房子が釈放されたと言うニュースを見ました。岡本公三、テルアビブ空港乱射事件の犯人です。空港で乗客26人が、日本人3人の過激派によって射殺されました。

 何とも理解出来ない事件です。そもそも、過激派は反戦という旗印の下に、創設されたものです。反戦・平和が目標だった筈です。何時の間にか、仲間同士が殺し合う、内ゲバを引き起こし、企業に対する爆破テロに走りました。


★『平和を実現する』という大義の下に、殺戮が繰り返されて来ました。戦国武将も、それぞれに『平和を実現する』という旗印の下で、戦い、大量殺戮を繰り広げました。織田信長も、徳川家康も、戦によって平和を現実にすると言いました。

 聖書の時代も同じです。アッシリアの帝王も、ローマも、『平和』をお題目としました。 イエスさまが、このような意味合いで『平和を実現する人々は、幸いである』と教えたとは、到底信じられません。


★疑問を残したまま、10節を読みます。

 『義のために迫害される人々は、幸いである』

 これも、分かり易い言葉ではありませんが、9節よりは具体的です。そして、9節との関連が深いことは、直感でも分かります。

 『義のために』、これが権力・体制と戦う思想・行動に結び付くのかも知れません。

 かつて、過激派が企業テロを引き起こした時に、当時の日本基督教団の指導的立場にいた牧師たちが、このような声明を出しました。ネットに未だに残っています。日本基督教団の恥だと、私は思います。

  … 圧倒的な権力・暴力を前にした必死の抵抗は、暴力ではない …

 日本基督教団の総会決議ではありません。しかし、当時の教団幹部も、名前を連ねている声明です。日本基督教団の恥だと、私は思います。聖書から、いろんなイエスさまの言葉を引用して並べる必用さえありません。イエスさまが、戦争を肯定したことが、まして殺人を肯定したことがあったでしょうか。

 1箇所引用すれば十分です。マタイ福音書ならば26章51〜53節。

 『 51:そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、

    大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。

  52:そこで、イエスは言われた。

   「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。

  53:わたしが父にお願いできないとでも思うのか。

   お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。』


★『義のために迫害される人々は、幸いである』

 『迫害される人々』です。義のために戦う人々ではありません。抵抗する人々でさえありません。あくまでも、『迫害される人々』です。

 来週の箇所にはみ出しますが、

 『わたしのためにののしられ、迫害され、

  身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。』

 『迫害され … 悪口を浴びせられるとき … 幸いである』とあります。

 普通には、真実が明らかにされ、汚名が晴れ、名誉が回復されることが、その時が、『幸いである』と思います。しかし、イエスさまは『迫害され … 悪口を浴びせられるとき … 幸いである』とおっしゃっているのです。


★『義のために迫害される人々は、幸いである』

 この末尾に改めて注目します。

 『天の国はその人たちのものである』

 3節と同じです。

 『「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。』

 『天の国はその人たちのものである』と言われているのは、3節と10節だけです。

 3節を読んだ時に申しました。イエスさまが天国を約束したのは、この3節と10節と、イエスさまの十字架の横に架けられた強盗への約束だけです。計3度だけです。

 ルカ福音書23章29節以下、長い引用をします。

 『 41:我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。

    しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

  42:そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、

   わたしを思い出してください」と言った。

  43:するとイエスは、「はっきり言っておくが、

   あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。』

 ルカ福音書であって、マタイにはありませんから、脱線かも知れませんが、この箇所こそが、マタイ5章3節と10節の一番有力な説明ではないかと考えます。


★ イエスさまに『楽園』を約束された強盗には、何らの知識も功績もありません。信仰さえなかったかも知ません。『楽園』に入る何の資格もありません。どんな事情で強盗にまで身を持ち崩したのかは分かりませんが、しかし、悔いていました。何より、自分には『楽園』に入る資格などないと自覚していました。

 他の人と比べて自分が優れているなどとは、微塵も思っていません。これこそが、『心の貧しい人々』の意味ではないでしょうか。

 謙遜・柔和、これは信仰的にも美徳です。しかし、困ったことに、これを自己理解として、自分は謙遜・柔和だという誇りを持ち、そうではない人を見下す人がいます。これは矛盾でしかありませんが、自分では気付きません。謙遜を誇ることは、傲慢でしかないのに、自分では気付きません。


★ この矛盾は、自分が平和のために戦っていると自己認識する人の勘違いと似ています。義のために、他の人を苦しめています。人の命を奪い、生活を脅かし、若者を、子どもをさえ戦場に送り出すことが、正義だと誤った解釈をしています。

 自分の財産を誇る人を、普通の人は軽蔑します。半分羨ましいとしても、やはり軽蔑します。財産しか誇る物がないのだろうと、軽蔑します。

 自分の学歴や家柄を誇る人を、普通の人は軽蔑します。半分羨ましいとしても、やはり軽蔑します。学歴や家柄しか誇る物がないのだろうと、軽蔑します。

 義や信仰についてだって同じことです。自分の義や信仰を誇る人を、普通の人は軽蔑します。半分羨ましいとしても、やはり軽蔑します。義や信仰しか誇る物がないのだろうと、軽蔑します。


★ 6節を振り返ります。

 『義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。』

 『義に飢え渇く』のです。自分の中には義が充ち満ちていて、これを他の人にも伝えなければならない、他の人を、自分と同じものに作り変えなければならない、と考えることではありません。まして、義を人に強いることではありません。義を実現するためには、殺人もやむを得ないなどというのは、論理の破綻です。それは、そもそも義ではありません。何とか原理主義の間違いは、ここにあります。


★この箇所で使われている義という言葉は、他の大部分の義と訳されるのと同じ字です。元のヘブライ語について、客観的に説明するために、辞書を引用します。新聖書大辞典には、このような記述があります。

  … 「義」一本槍では訳出に不十分で、正義、公義、公平など同義語は別として、「勝利」、「救い」、「助け」、「繁栄」などとまで訳されている …

 極めて聖書的で、聖書を下敷きにしてしか理解出来ない言葉です。

 一方、同じ項目に同じ人が、このようにも記しています。

  … その特異性を強調するあまり、一般の義の意味と全く異なった独自の意味を持つように言う向きがあるが、これは行き過ぎである …


★ 義と言う言葉を本当に理解するためには、聖書全体を読まなくてはならないし、今日の箇所に出て来る義を考える時にも、少なくともマタイ福音書の全体から、義を考えなければならないのですけれども、しかし、私たちが日常使っている義という日本語と、全くかけ離れたものでもないということです。

 3節の時に、義理と人情という表現を上げて、歌謡曲まで引用しましたが、それも、決して見当違いではありません。

 今日の箇所でも同じです。義理と人情が矛盾するようなら、それは本当の義ではありません。『義に飢え渇く』ことがテロの理由にはなりません。むしろ、そのような憎しみの連鎖を断つことこそが、『義に飢え渇く』ことであり、かつ、『平和を実現する』ことでしょう。


★ 説教の冒頭に、『平和を実現する』という表現は難しい、「平和を享受する人々」、もっと平易な表現で「平和に生きる人々」なら、良く分かります、と申しました。南海の気候温暖な島で、毎日をのんびりと過ごすことに憧れます、人生の晩年をそんなところで過ごすことが出来たら、どんなに幸いでしょう、と申しました。

 これこそが『平和を実現する』ことだと言ったら、間違いでしょうか。決して間違いではないと信じます。

 

★ むしろ、教会が、この南の島の楽園のようでなくてはならないと考えます。ハメハメハ大王の家族のように、ぐうたらである必要はありませんが、彼らのように、おおらかで、互いに受け入れ、互いに許し合うことは、是非必要だと考えます。


★ 一方、この独善に陥ってはならないでしょう。自分たちだけが豊かで幸福ならば良いと言うのではありません。

 4節。

 『悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。』

 7節。

 『憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。』

 自分たちが平和に暮らす島の、その外にいる人々の貧しさを思い、出来るだけの援助をし、その外にいる人々の悲しみを思い、憐れみ、涙を流す、慰めの言葉をかける、4節、7節は、そのように言っていると思います。


★ 自分たちが平和に暮らす島に、他の人を受け入れ、平和を共に味わい喜ぶことが、3〜10節、全体の教えです。

 これは、言い換えれば、地上に置かれた神の国である教会に、人を受け入れるということです。

 神の国という字は、本来のギリシャ語の意味からすれば、神の領域です。神の国の版図です。ローマも、現代のロシアも、これを拡げることが義だと考えます。

 聖書も教会も、平和な愛に満ちた領域を拡げることを目標としています。それが伝道です。その伝道が、武器でなされる筈ありません。

 神の国の言葉の意味、領域、神の国を世界中に拡げる、それが伝道です。ローマや、現代のロシアと同じ図式かも知れません。しかし、その目的のためにどんな武器を使うのかが決定的に違います。

 教会の武器は、このマタイ福音書5章3〜10節に上げられたことです。一言で言えば、イエス・キリストの愛です。


★ 先ほどのルカ福音書の終わりだけもう一度引用します。

 『するとイエスは、「はっきり言っておくが、

  あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。』

 『わたしと一緒に』です。主の十字架と共にいた者が、『一緒に楽園にいる』のです。

 教会の武器は、『わたしと一緒に』です。主の十字架と共にいる者が、『一緒に楽園にいる』のです。主の十字架と共にいる者が、教会にいるのです。