日本基督教団 玉川平安教会

■2022年2月27日 説教映像

■説教題 「選ばれた婦人とその子たち

■聖書   ヨハネの手紙二 1〜13節 

◇先ず1節をご覧ください。

 『長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ』

 『選ばれた』のは『婦人』なのか『婦人とその子たち』なのか、ギリシャ語に当たって確かめますと、などという解説は無用と思います。文法的にどうとか難しいことを言う必要は全くありません。『選ばれた』のは『婦人とその子たち』の両方と読むべきでしょう。

 それでは『選ばれた』とは具体的にはどのような意味なのか、これも難しいことを言う必要はありません。神さまから『選ばれた』にしても、教会から『選ばれた』にしても、『長老』からにしても、肝心なことは変わりません。


◇『婦人とその子たち』は『選ばれ』て、救いの道を歩いています。神の国への道を歩いています。

 『選ばれた』の意味についても、面倒くさいことを考える必要も、言う必要もありません。何故、神さまはある人を選び、ある人を選ばないのかという問いも無用です。少なくとも、この個所で、この文脈で考えることではありません。

 二ヨハネで語られていることは、私たちが心に刻むべきことは、初代の教会には、『選ばれた婦人とその子たち』がいたということ、その事実こそが大いに注目すべきことです。


◇イエスさまは、その伝道活動のごく初めに、12弟子を選ばれました。しかもその内でも最初のペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネについては、伝道活動の直後、むしろ開始と同時に選ばれました。この4人を弟子としたことが、伝道の開始と行った方が、むしろ正確かも知れません。

 選ぶことが、そのまま伝道なのです。イエスさまの伝道活動は、弟子を選ぶことと共に始まったと言えます。


◇これは現代の教会にとっても大事なことでしょう。

 礼拝に通っている誰かが、決意して、受洗を申し出ます。役員会で諮問会を持って、是非を判断し、気持ちが確かだと見たならば、洗礼式を執行します。洗礼式の時にも、神と会衆の前で、信仰を言い表して、洗礼を受けます。

 このように、受洗志願者の覚悟が問われます。それは結構なのですが、その時に『選び』が忘れられてはなりません。当事者の自覚とか決意とか、そこに至るまでの学びとか体験とかが重んじられますが、もっと肝心なことは、選びがあったかどうではないでしょうか。これが、現代の教会では、案外に軽視されているのではないでしょうか。


◇ちょっと脱線かも知れませんが、以上のことは役員の選挙、つまり、役員を選ぶことについても当て嵌まると考えます。役員として教会で働く、決意があるかが問われます。当然です。能力も問われるでしょう。しかし、もっと肝心なことは、選ばれているかどうかです。この場合の選びとは、必ずしも、他の教会員が投票で選ぶと言う意味ではありません。神さまから選ばれているかどうかです。


◇最初に申しました。神さまから『選ばれた』にしても、教会から『選ばれた』にしても、『長老』からにしても、肝心なことは変わりません。そのように申しました。

 選び方が、肝心なことではありません。教会によっては、役員会が次の役員を指名します。牧師が選ぶ教会もあります。私たちの教会では、日本基督教団の殆どの教会がそのようにしていますが、教会員が総会で選挙して選びます。どのような方法手段をとろうとも、肝心なことは、それが神さまの選びかどうかという一点です。どのような方法手段をとろうとも、それは、神さまの御心を問うことなのです。

 使徒言行録では、イスカリオテのユダの脱落によって欠けた12弟子の欠員を、くじ引きで選びました。くじ引きというと何だか、でたらめな印象がありますが、神の御心を問う業です。人間的な物差しで判断して選ぶよりも、正しい選び方かも知れません。


◇最もこの時も、候補者二人が選ばれ、その二人の内、どちらが良いかが、くじで決められました。候補者二人を選んだのは『人々は』とあります。今日ならば総会です。

 今日とは順番が逆です。教会によっては、長老会が倍数の候補を挙げ、総会で選挙して選びます。玉川平安教会も、数年前まではそのような手続きでした。しかし使徒言行録では、皆で候補を挙げ、最終的にはくじで決めました。

 どのような方法手段をとろうとも、神さまの御心を問うことが肝心です。選ぶのは神さまだということを忘れてはなりません。選ぶ側も、選ばれる側も同様です。


◇大脱線だったかも知れません。元に戻ります。

 初代の教会には、『選ばれた婦人とその子たち』がいました。これは、キリスト教の歴史を通じて、ずっとそうだったのではないでしょうか。

 12弟子は全員男性です。しかし、福音書を見ますと、12弟子ではない女性たちが、大事な局面で大事な役割を果たしています。誕生の場面では勿論、十字架の時、数々の印象的な出来事でも、主役は多く女性です。

 12弟子で圧倒的に登場場面が多いのはペトロですが、それに比べて他の弟子たちは大した役割ではありません。大きな役割を果たすのは、イスカリオテのユダです。

 ペトロの躓きが描かれています。女性の裏切りなどはどこにもありません。


◇現代の教会も同じです。

 牧師の大多数は男性です。日本基督教団でも女性が多くなって来ましたが、未だ未だ男性が大多数です。しかし、会員数、礼拝出席者で見ますと、多くの教会で、男性1に対して女性2、それ以上です。玉川平安教会も1対2です。

 多くの教会で、母と子ども、親子で会員という例が多いようです。母系で2代3代はありますが、男系はあまりありません。牧師家族、一族くらいです。この場合でも、必ずしも男系ではなく、女系です。つまり、牧師よりも牧師夫人です。

 つまり、子どもを産むのは女性ですが、信者を産むのも女性なのです。つまり、伝道の実績を上げているのは、男性ではなく、女性なのです。

 友人や隣人を教会に導くという例も、統計を取った訳ではありませんので、正確には言えませんが、圧倒的に女性の業です。

 私の牧師としての経験でも、伝道の力があるのは、圧倒的に女性です。


◇5〜6節をご覧ください。

 『さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。

  わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、

  つまり互いに愛し合うということです。

  6:愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、

  この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです』

 これこそが、伝道の力があるのが、圧倒的に女性だという理由だろうと考えます。

 伝道は、理屈ではありません。神学で、聖書の知識で伝道するのではありません。伝道するのは、愛の力です。その愛の力に於いて、女性は男性に勝っているのではないでしょうか。

 ですから、男性だって、伝道を志すなら、何よりも必要なのは、愛の力であって、神学や、聖書の知識ではないでしょう。勿論、男性の中にも伝道の力を持った人がいます。それはアッシジのフランシスのように、愛の力がある人です。

 そういう力を持った男性を、私も知っています。大曲教会にも、白河教会にも、松江北堀教会にもそのような男性が存在しました。その力は大きなものです。勿論、玉川平安教会にもそのような人が存在しました。


◇4節をご覧ください。

 『あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、

   真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました』

 『子供たちの中に〜真理に歩んでいる人がいる』、『中に』です。全員ではありません。

 大変に悲しい事実ですが、事実です。これも現代の教会に共通しています。とても優しい愛情に溢れ、かつ熱心な信仰を持っている母親の、その子どもが全員信仰を持つわけではありません。悲しいかな、事実です。

 しかし、悲観することはありません。孫の世代、曾孫の世代に期待できるでしょう。


◇大曲教会には、神代柏林という伝道地がありました。何度もお話ししていますが、17件全部が教会員です。この集落全体が、正に大曲教会の檀家です。私の前の伝道師の中には、檀家であって教会員ではないと、これを批判する人もいました。確かに本当に礼拝を守っている人は僅かでした。

 しかし、時々大曲の週報を見る機会があります。そうしますと、この神代柏林の人が洗礼を受けたり、役員に選ばれたりしています。

 単に檀家だと批判すれば、批判は外れていないかも知れません。しかし、その檀家の中から信仰を持つ人が、高い比率で現れるのもまた事実なのです。


◇ヨハネの手紙二を読みます。私も何時の間にか牧師として40年以上が経ちました。44年です。この間、日曜日朝の礼拝説教だけで、2000回以上説教して来たことになります。休んだことは殆どありませんし、朝の礼拝説教以外にもありますから、2500回くらいになるのではないかと思います。もっとかも知れません。

 その間、このヨハネの手紙二で説教した記憶がありません。2000回説教していれば、新約聖書で取り上げていない個所は、ほぼほぼないはずですが、ヨハネの手紙二では、多分1回もしていないと思います。聖書日課に基づいて礼拝を守っていた時期も20年ばかりあります。つまり、聖書日課にも殆ど取り上げられていないようです。ヨハネの手紙三も、この数少ない例外で、一度も読んでいません。


◇7節をご覧ください。

 『このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。

   彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。

   こういう者は人を惑わす者、反キリストです』                                   あまり詳しい解説は止めておきます。難しくなって、主題から外れてしまいます。要は、この初代教会の時代に、もう教会の中に異端思想が生まれていました。

 新しい思想・信仰とは『イエス・キリストが肉となって来られたことを』否定するものでした。詳しいことは省略しますが、ドケチズム・仮現論という異端思想です。こういう人は、今のままでは古いと、教会を批判します。

 『こういう者は人を惑わす者、反キリストです』

 その通り、異端です。新しいから真理とは限りません。むしろ怪しいと思います。


◇8〜9節。

 『気をつけて、わたしたちが努力して得たものを失うことなく、

   豊かな報いを受けるようにしなさい。

  だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、

   神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、

   御父も御子もおられます』

 新しい思想は全部異端だとは決めつけられませんが、新しいことよりも遙かに大事なことは、一ヨハネ1章1節です。

 『初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、

   手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について』

 『その教えにとどまっている人』、これをつまらないことのように考えてはなりません。これこそが、最も尊いことです。

 教会の歴史2000年を通じて、これを守り伝えて来ることが出来たのには、婦人の力が大きいのだと思います。『その教えにとどまっている人』が大切です。個々の教会もそうです。


◇10節。

 『この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。

   挨拶してもなりません』

 『この教えを携えずに』と記されています。異端思想を携えて来る者は、ではありません。『この教えを携えずに』です。異端を退けることと同程度に肝心なことは、『この教えを携え』て教会に通うことです。『この教え』とは、一ヨハネ1章1節です。

 『挨拶してもなりません』とは、随分きつい表現です。

 更に11節。

 『そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わるのです』

 とても強い表現です。福音を守ることについては、ここまで厳密でなければなりません。


◇13節。

 『あなたの姉妹、選ばれた婦人の子供たちが、あなたによろしくと言っています』

 とても優しい愛に溢れた婦人たちこそが、この厳密な福音の担い手です。福音を送り出すのも、受け取るのも、婦人たちの業だったのです。