日本基督教団 玉川平安教会

■2022年5月15日 説教映像(未配信)

■説教題 「悲しむ人々は幸いである

■聖書   マタイによる福音書 5章1〜4節 

3節から読みます。

 『心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。』

 この3節に限らず、何々は『幸いである』と言われている8つの教えは、どれも、分かったと言えば、分かったような気がしますし、分からないと言えば、分かりません。分かったような気がしても、ではどんな意味なのか説明しろと言われれば、返答に窮します。分からないと言えば、分かりませんが、しかし、何かしら心に響いて来るものがあるのも確かです。

 ちょっと禅問答じみた印象があります。理解するよりも味わうことが大事なのでしょう。


玉川平安教会説教 『心の貧しい人々』、これがルカ福音書を見ますと、単に『貧しい人々』となっています。ルカの方が、ずっと分かり易いと思います。『貧しい人々』、この地上の生活で報われない人も、神さまの憐れみを受けて救い出され、天の国に入れて貰える、そこにはもう貧しさはない、食べ物にも住むところにも困ることはない、だから、『貧しい人々』は『幸いである』、こういう理屈です。これなら理解出来ますし、納得も行きます。

 しかし、『貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。』

 これがルカです。『天の国』が『神の国』になっていますが、これは違いとは言えません。違うのは、ルカには『心の』という字がありません。『貧しい』であっても、心が貧しいとは書いてありません。


玉川平安教会説教 『心の貧しい』とはどのような意味なのか。日本語の響きは良くありません。最低の人間性を表現しているとさえ感じられます。

 財産がなくとも、地位がなくとも、しかし、心まで貧しいわけではない、卑しくはない、貧乏人の矜持があります。『心の貧しい』とは、この矜持さえないことを言います。日本人ならば、そのように受け止めますから、『心の貧しい人々は、幸いである』という表現には大きな違和感を覚えます。


玉川平安教会説教 単に『貧しい』となっているルカ福音書の方が原型で、マタイ福音書の方が、『心の』付け加えられて『心の貧しい』になっていると考えるのが、学問的には定説のようです。逆に言えば、マタイ福音書は、何かしらの意図をもって、わざわざ理解が困難に見える『心の』を付け加えて『心の貧しい』としました。

 ではマタイ福音書が言う『心の貧しい』とはどのような意味なのか。後半の『幸いである、天の国はその人たちのものである』から推しても、他の7つの『幸いである』と比べても、『心の貧しい』が、卑しいとか、貪欲だとか、品性がないとかという意味ではあり得ません。


玉川平安教会説教 話をこれ以上ややこしくしないために、結論を急ぎたいと思います。

 『心の貧しい』の逆を考えます。『心の豊かな』、これではありません。『心の満ち足りている』でもありません。

 『心の貧しい』の逆は、心に一杯に物が詰まっていて、もう新しい物が入り込むことが出来ないような心根のことだと考えます。心が満足しきっていて、足りない物はない、何も他には必要がない、豊かと言うよりも、むしろ、傲慢な思いだと考えます。

 自己満足です。自分ほど偉い者はないと思い込むことです。自分ほど熱心な信仰者はないと思い込む傲慢です。


玉川平安教会説教 話が飛躍するように聞こえますでしょうが、少しお付き合い下さい。

 神沢利子という童話作家に『はらぺこおなべ』という作品があります。

 ずっと他人のために料理を作り続けて来た「おなべ」が、その生活と仕事に嫌気がさして家出します。これまで毎日料理して来たジャガイモを自分で食べ、次に出遭ったものを食べて、いったんはお腹が一杯になります。しかし、その栄養でからだがぐーんと大きくなり、何しろ「おなべ」ですから、中の空洞もぐーんと大きくなります。つまり、空腹が増します。

 一層お腹が空いたので、次々と出遭ったものを食べて、また、ぐーんと大きくなり、ますますお腹が空きます。

 とうとう、空に浮かぶ月を目掛けて飛んでいきます。


玉川平安教会説教 普通の食べ物は、食べたら満腹になります。食べても食べても満足しないのは、良いことではないかも知れません。

 聖書研究祈祷会で学んでいるヤコブ書に、こんな言葉がありました。1章15節。

 『欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます』

 欲望は欲望を産みだし、果てることがありません。満足を知りません。

 ヤコブ書が言うように、これは真実です。私たちは満足を知らなければなりません。

 しかし、一方で、満足しきってしまうことにも問題があります。


玉川平安教会説教 食べれば一時的にお腹が膨らみますが、やがてまたお腹が空きます。食べ物を消化して、からだが大きくなれば、その分、空腹も大きくなります。ならば、いっそ食べない方が良いのか、そうはまいりません。食べなくてはなりませんし、食欲も大事です。食欲がなくなれば、生き物はもうおしまいです。先がありません。

 食べなくとも良くなるのは、消化出来ないからです。食べたものが消化出来ずに、胃袋や腸の中に溜まっているからです。

 信仰も、御言葉も同様です。これは食べ物と違って、口からではなく耳からかも知れません。溜まるのは、お腹ではなくて心でしょう。これも、消化出来ないと溜まるばかりです。そして、次の御言葉を口にする、耳にする気持ちにはなれません。


玉川平安教会説教 食べ過ぎてかつ消化出来ずに、ゲップしたり、吐き出したりします。御言葉も、消化しないと、つまり、身に付かないと、喉まで一杯に詰まってしまい、満腹どころか、吐き出したりします。こういう羽目に陥っているのに過ぎないのに、自分は信仰深いと自己満足してはなりません。

 逆に、聖書を読んでも読んでも、説教を聞いても聞いても、満腹しない、もっと知りたくなる、もっと欲しくなる、と言う人がいます。無駄を繰り返しているのだろうかと悩むことはありません。大いに結構なことです。ちゃんと消化しているからでしょう。信仰が大きくなっているからでしょう。

 御言葉に飢え渇くことは、大いに結構なことです。素晴らしいことです。


玉川平安教会説教 『心の貧しい人々は、幸いである』とは、こんな意味ではないでしょうか。自己満足しない人です。偉ぶらない人です。謙虚な人です。そして、何よりも御言葉に飢え渇く人です。

 大いに飢え、大いに渇き、御言葉を求め、口に入れ、耳に入れ、心に入れ、そして消化すべきです。その結果、もっと御言葉を求めるようになり、いつまで経っても、満足はないかも知れません。しかし、それが信仰者の姿でしょう。信仰者は旅人です。目的地に着かないのに満足してはなりません。


玉川平安教会説教 このことは、6節にも通じます。

 『義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。』

 『飢え渇く』ことが評価されています。『義に飢え渇く』ことです。

 これも逆を考えて見れば分かります。もう満腹している人がいるかも知れません。世の中には不正が溢れていて、正直者が馬鹿を見るようなことが少なくありません。しかし、そのことに慣れっこになってしまって、今更、疑問も怒りもありません。世の中そんなものだよと満足しきっています。我が身に被害が及ばなければそれで善し、何ら痛痒はありません。こんな人は、こんな情景は私たちの身の回りにもあります。

 テレビで盛んに報道されるような不条理な戦争だって、ある程度の時間が経てば、ニュース価値を失って、問題が解決したかのようになります。初めから何もなかったかのようになります。人のことは言えません。いつの間にか、ミャンマーのことなど忘れていました。ソマリヤなど、遠い遠い国の話です。中南米も、アフリカも何と遠いことか。


玉川平安教会説教 逆に言えば、この6節に照らして読むと、『心の貧しい人々は、幸いである』の意味が良く見えてまいります。

 心が金持ちにならないことです。心が、満腹しきって、何も求めなくなってはならないことです。6節を一緒に読めば、9節を重ねて読めば、10節を照らして読めば、『心の貧しい人々は、幸いである』の意味が理解出来ます。


玉川平安教会説教 4節を読みます。

 『悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。』

 3節よりは、素直に読めます。しかし、そんなに単純な話ではありません。辛い出来事に遭っても悲しまないのが信仰ではなかったでしょうか。

 シュティファン・ツヴァイクの『カルヴァン』にこんな場面が出て来ます。かつて、宗教改革、カルヴァン主義の牙城だったジュネーブ教会の墓地で、一人の婦人が泣いていました。絶望に陥っていました。幼い我が子を亡くし、墓に葬ったからです。子どもの墓の前で泣き暮らしていました。

 この婦人が逮捕されました。悲しむのは、神への信仰が足りないからで、泣き暮らしている姿は、他の人の信仰を傷付け、悪へと誘惑する好意だというのが、逮捕の理由でした。


玉川平安教会説教 この時のジュネーブ教会は明らかに間違っています。そんなものは信仰ではありません。人は、子どもを失ったら泣き喚きます。それを禁じる法律も信仰もありません。

 聖書は何と言っているか。

 『悲しむ人々は、幸いである』悲しむことを聖書は否定していません。

 イエスさまも、ヨハネ福音書11章35節。

 『イエスは涙を流された』とあります。イエスさまはラザロの墓で涙を流されたのです。これは、愛の印、憐れみの印であって、不信仰の印ではありません。


玉川平安教会説教 『悲しむ人々は、幸いである』。

 悲しむことこそが、人間性の証で、印です。『心の貧しい人々は、幸いである』と読んだばかりです。矛盾したことを言うようですが、悲しむことこそが、人間性の証です。悲しみが入り込む心を持っていることが、『心の貧しい』ことで、悲しみの入り込む余地のない心が、逆説的な、心の豊かさではないでしょうか。

 

玉川平安教会説教 『弟の戦争』と言う児童小説があります。ロバート・ウエストール、数々の名作を残した作家です。

 語り手の弟は、時々、心が遠くに飛んでしまいます。イラクの戦場にいる一兵士の中に心が飛び移ってしまいます。平和なイギリスに暮らしながら、弟は同時にイラクの戦場にいて、人の死を間近に見ているのです。

 この設定こそが、私たちに語りかけていると思います。

 私たちは戦場から遠い安全な場所にいて、テレビの画面で観て、戦争を嘆いたり、戦争犯罪に憤ったりしています。嘆きも憤りも、偽物ではありません。しかし、遠いのです。

 身近では、決してありません。やはり、他人事なのです。


玉川平安教会説教 チャールズ・ディケンズの小説には、ロンドンの貧しい子供たちの姿が描かれます。大人に搾取され、健康を損ね、乞食やスリにまでさせられ、何ら希望を抱けずに日を送る、むごたらしい様子が描かれています。『オリバー・ツイスト』『大いなる遺産』、多くの作品に描かれます。

 イギリス女王が、これを読んで心を痛め、役人に解決策を求めたそうです。流石に女王様の命令、この光景は直ちにロンドンから無くなりました。ロンドンの街から、乞食の少年も、大人も浮浪者も一人もいなくなりました。

 女王の意に適うように新しい法律が定められました。それは、浮浪罪です。乞食をしてはならない、宿無しつまり孤児・ルンペンは、ロンドンの街にいてはならないという法律です。違反者は逮捕されますから、ロンドンから貧しい少年も乞食も姿を消しました。

 

玉川平安教会説教 笑うことも、批判することも出来ないかも知れません。私たちも同じことをしているのかも知れません。私の視野から問題が消えれば、私の関心の外に片付ければ、もう解決なのかも知れません。

 目を瞑るという表現があります。自分が目を瞑れば、醜い光景も残酷な出来事も、目の前から消えます。しかし、何も問題は解決していません。


玉川平安教会説教 『悲しむ人々は、幸いである』を『悲しむことが出来る人々は、幸いである』と書き換えたらどうでしょう。趣旨を少し曖昧にするかも知れませんが、この方が、分かり易いでしょう。他人のために悲しむことが出来るのは、人間の能力でしょう。それも、神さまに与えられた祝福される能力でしょう。一言で言えば、愛です。

 同様に、『心の貧しい人々は、幸いである』を『心を貧しく出来る人々は、幸いである』と書き換えたらどうでしょう。趣旨を少し曖昧にするかも知れませんが、この方が、分かり易いでしょう。一言で言えば謙遜です。