日本基督教団 玉川平安教会

■2022年5月8日 説教映像

■説教題 「人間をとる漁師に

■聖書   マタイによる福音書 4章18〜22節 

◇・ 何度も繰り返し読んでいる箇所です。しかもマルコにもルカにも平行した記事がありますから、この出来事を読む機会はとても多くなります。逆に言いますと、三つの福音書で繰り返し読みなさい、と言うことでしょう。


◇・ 順に読みます。

 『イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき』

 『湖のほとりを歩いて』、何だかのんびりと散歩していたかのように見えます。イエスさまにもそんな時があったのでしょうか。だったら、良いなあと思います。神の子が人間の姿になられたのですから、少しは人間ならではの楽しみや慰めがあっても良いように思います。 … しかし、多分そんなことではないでしょう。

 マタイ福音書8章20節。

 『イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。

   だが、人の子には枕する所もない。』

 

◇・ 『ガリラヤ湖のほとりを歩いておられた』のも、やはり、目的があってのことです。目的とは、その次に記されています。

 『二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、

  湖で網を打っているのを御覧になった。』

 これも何だか、散歩していたら偶然、出遭ったみたいに聞こえますが、そんなことではありません。


◇・ 今日の箇所の直前にこのように記されています。17節。

 『そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、

   宣べ伝え始められた。』

 『そのとき』とは、先週読んだ荒野の誘惑の出来事があったときです。

 しかし、荒野の誘惑から今日の箇所までに、イエスさまの言動はも全く記されていません。ただ、この一行だけです。『「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。』

 詳しいことは何も記されていません。


◇・ むしろ具体的な宣教活動の最初が、弟子の召命です。このことは四つの福音書で大差ありません。何れも、宣教活動の最初は弟子の召命です。つまり、弟子の召命こそが、宣教活動だとさえ言えます。

 このことは、教会の宣教活動と同じです。宣教と言ったり伝道と言ったり、また、その活動の仕方も随分多様かも知れませんが、詰まるところ、人を集めることです。人を集めることは、教会の活動の目的です。


◇・ 黒澤明監督の『7人の侍』ですと、ある目的のために、一人ひとりと、侍が召し出されて行きます。その侍一人ひとりの特徴、持っている得意業が紹介されて行きます。

 しかし、イエスさまの宣教でも教会の伝道でも、人を集め、事をなすのに十分な数になって、いよいよ肝心な事に取りかかるのではありません。

 人を集めることそのものが、目的です。


◇・ いやらしい新興宗教でも、人を集めることが、その活動の目的かも知れません。しかし、厳密には、新興宗教は、人を集めることではなく、人を集めて金儲けをすることが、本当の目的です。

 本当の教会の目的はそんなことにはありません。人を集めるのは、その人を救い出すためであり、平たく言えば、神の国へと招くためです。


◇・ 19節。

 『イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。』

 その前には、『彼らは漁師だった。』とあります。

 魚を獲る漁師を、『人間をとる漁師にしよう』と言われます。

 人を集めることこそが、イエスさまの宣教の目的だと申しましたが、人を集めること、弟子を集める目的もまた『人間をとる』ためです。人間を集めるため、人間を救い出すためです。


◇・ 良く言われますように、魚を獲るとは、救い上げること、救い出すことです。日本語の救うと掬うは、同じ音です。ギリシャ語では、救うと掬うは、別の字、別の音ですが、意味内容では共通点があります。詳しい言語学上のことは分かりませんが、多分、日本語でも、ギリシャ語でも、内容的に類似性を見ています。掬い上げることは、救い出すことです。ですから、魚漁師が人間を救う宣教の業へと召し出されたのでしょう。


◇・ さて、『人間をとる漁師』という表現に匹敵する程、多くの人の関心・共感を集め、また同じくらい反発を買うのは、『網を捨てて』という表現です。20節。

 『二人はすぐに網を捨てて従った。』

 『網を捨てて』、つまり、それまでの生業を捨てて、生活を捨てて、ということになりましょうか。これには、大変な魅力があります。誘惑の言葉です。

 多くの者が、自分の置かれている現状に不満を持っています。『自分がなすべきことは他にあるのではないか、自分はこれで終わるような人間ではない、自分の居るべき場所は他にあるのではないか』、そういうことを、多くの人が思っています。

 特に若い人には、そういう思いが強いと思います。

 それは良く分かります。昔風に言えば、古希を過ぎた私だって、そのような思いに捕らえられることがあるからです。

 現状に不満がある、どのように変化するかは分からなくても、兎に角変わりたい、何にでも良いから変えたい、そういう思いはあります。


◇・ そのような次第ですからこそ、ここは、厳密に考えなければなりません。

 22節。

 『この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った』。 

 『捨てて』と『残して』と、何か違いがあるのでしょうか。あるのかも知れません。『捨てて』とは、もう一度帰る可能性を否定している。『残して』は、もう一度帰る可能性を前提にしてる、そんな解釈もあるでしょう。しかし、ギリシャ語から結論は得られません。聖書全体からならどうでしょうか。あり得るかも知れませんが、まあ、ここでそのことを強調することは乱暴です。


◇・ 漁師という職業そのものはどうでしょうか。漁師とは、当時の最下層の職業の一つだったと言われています。そのことに大きな意味があるでしょうか。

 決してエリートではない者から、弟子が選ばれたことには意義があります。それは間違いありません。しかし、イエスさまがそれを意図して選んだのかどうかは、分かりません。少なくとも断言は出来ません。

 一方で魚は、イクスースであり、ノアの洪水を生き延びた生物です。

 そこに大きな意味を見出すというのなら、否定は出来ません。

 しかし、イエスさまがそれを意図しておられたかどうかは、分かりません。少なくとも断言は出来ません。


◇・ 結論は保留して先を読みます。

 21節。

 『そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、

   父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、

   彼らをお呼びになった。』

 幾つかの注目点があります。

 『別の二人の兄弟』、召されたのは二組の兄弟です。このことに意味がありますでしょうか。ないかも知れませんが、私はちょっと立ち止まります。兄弟のうち、どちらか一人にしたらと、思ってしまいます。

 二人とも、漁師を止めて去って行ったら、後に残された家族が困らないでしょうか。


◇・ それでなくとも、聖書、旧約聖書には兄弟たちの中から、一人が、一人だけが選ばれる話がたくさんあります。創世記は、その繰り返しです。新約でも、ルカの『放蕩息子』の話があります。

 このような解釈には、根本的な間違いがあると考えます。つまり、この出来事は、所謂出家物語ではありません。家を捨てて、仏門に入る話ではありません。

 そうではなくて、『彼らをお呼びになった』とあります。名前を呼んだとは書いてありませんが、それに近いと考えます。名前を呼ぶのは、この人の存在を認める時です。そして、招く時です。


◇・ この二組の兄弟は、名前を呼ばれ、招かれたのです。どこに、何に招かれたのか。

 既に読みました。17節です。もう一度読みます。

 『そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、

   宣べ伝え始められた。』

 『天の国は近づいた』です。天の国、神の国に招かれたのです。勿論、結果的には、この4人はイエスさまの弟子として、働くことになります。その働きは困難なものだったかも知れません。この4人はやがては殉教したかも知れません。しかし、彼らは、神の兵士として或いは奴隷として招集されたのではありません。

 彼らは、神の国へと招かれたのです。


◇・ 3章17節に遡ります。同じ見開きの右の頁です。つまり、ほぼほぼ連続している出来事です。

 『そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、

   天から聞こえた。』

 イエスさまの体験と似通っています。名前を呼ばれ、神の国へと導かれるのです。

 旧約聖書にも、同様の話があります。例えば、サムエル記上3章4節。

 『主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、

  05.エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。』

 これが三度繰り返されます。

 

◇・ 基本、同じ出来事です。

 『私について来なさい』と言われ、「ここにいます」と答えて、ついて行きます。

 二組の漁師たちが、何故イエスさまの後に従ったのか、方や『網を捨てて』、方や『舟と父親とを残して』、それは神さまの呼びかけであり、神さまの招きだからです。神の国への招きだからです。それ以外に理由も経緯もありません。


◇・ マタイ福音書22章に、人々が王の婚礼に招かれたのに、それぞれ最もらしい理由をつけては、これを断ってしまう話があります。

 私たちは、何故二組の漁師は、『私について来なさい』と言われただけで、のこのこついて行ってしまったのだろうと考えます。ついて行くべき理由を見つけようとします。これが、そもそもの間違いです。人々が王の婚礼に招かれたのに、それぞれ最もらしい理由をつけては、これを断ってしまう話は、実際にはあり得ないでしょう。王の招きならば、理由もヘチマもない、招きに応えるでしょう。しかも、喜び勇んで。

 しかし、神さまが神の国へと招いて下さるのに、理由を欲しがるのはどうしたことでしょう。損得を計算するのはどうしたことでしょう。


◇・ 一組は『湖で網を打っている』時に、もう一組は『舟の中で網の手入れをしている』時に、声を掛けられました。呼び出されてついて行きました。仕事の真っ最中です。彼らこそ、待って下さいという理由があります。しかし、四の五の言わずについて行きました。神の招きだからです。神の国への招きだからです。


◇・ 先ほど引用したマタイ福音書8章2節の続き、

 『ほかに、弟子の一人がイエスに、

  「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。

 22:イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、

   自分たちの死者を葬らせなさい。」』

 私たちは、神さまの招きに応えられない理由ならば、幾つでも数え上げることが出来ます。だから、ペトロたちのように、何も尋ねず、直ちに従った人を、不可解に思い、何故、どうしてと問い、最もらしい理由を見出したいと考えます。

 しかし、それがそもそもの間違いです。神さまに従うのに理由がなくてはならないと考えることが、それがそもそもの間違いです。何か下心があって、人を愛したり、結婚する人を、私たちは不純だと考えます。ペトロは不純ではないから、従ったのです。