日本基督教団 玉川平安教会

■2022年7月31日 説教映像

■説教題 「汝の敵を愛せよ

■聖書   マタイによる福音書 5章38〜48節 


★2020年の5月に、この箇所で説教しています。未だ2年ちょっとしか経っていません。聖書は勿論、2000年間、一字一句も変わりませんが、これを読む私たちの状況は、その都度、大きく変化します。

 何より、ウクライナでの戦争が起こり、今も続いています。何時止むとも分かりません。 2020年の5月と、今日とでは、とても同じ説教は出来ません。

 『しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。

   だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。』

 ウクライナの人たちは、とても素直な気持ちでこの言葉を聞くことはできないでしょう。 『わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。』

 この教えにアーメンと言えるウクライナ人は、殆どいないのではないでしょうか。


★政治を、まして戦争を論じるつもりはありません。しかし、この状況の中でこそ、改めて、この教えを聞きたいと思います。戦争を論じるつもりはありません。マスコミの報道を通じて、殆どの日本人はウクライナの人々に同情し、ロシアに対して、疑問どころか強い反感・嫌悪を抱いています。

 しかし、人間関係を通じて、ロシアに理解を持つ日本人もいるようです。私たちは、戦争については、どちらの陣営に義があるのかなど、本当のところは分かりません。情報はマスコミを通じてのものだけですから、100%の確信はありません。

 あくまでも、聖書が語っていることに聞きたいと思います。


★そのためにも、順に読みます。なるべく客観的に読みます。38節から。

 【「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。】

 良く知られているように、この戒めは、ハムラビ法典にあります。世界最古の法律かも知れません。しかし、その意味を多くの人は誤解しています。全く逆に理解しています。

 『目には目を、歯には歯を』とは、このように仕返ししなさいという法律ではありません。逆に、『目には目を、歯には歯を』を超える復讐をしてはならないという意味です。


★日本にもそんな風習がありました。簡単に言えば倍返しです。家が受けた屈辱・恨みは、倍返ししなくては面目が立たないと考えられていました。家族の一人が殺されたり、辱めを受けたなら、犯人の家族を二人殺さなければならないと考えられていました。

 これを繰り返したならば、二つの家族間での皆殺しの戦いになります。

 それを戒めるのが、止めさせるのが、『目には目を、歯には歯を』でした。

 争いをエスカレートさせてはならないという法律です。


★44節。

 『しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。』

 イエスさまの教えは、『目には目を、歯には歯を』の精神を、もっと徹底させるものです。何故『目には目を、歯には歯を』なのかと考えさせるものです。

 この点、ちょっと脱線かも知れませんが、最近読んだばかりの5章17節以下に通じます。17節だけ読みます。

 『「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。

   廃止するためではなく、完成するためである。』

 イエスさまはハムラビ法典を否定しているのではありません。むしろ、徹底しています。


★39節。

 『しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。

   だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。』

 イエスさまはこのようにおっしゃったから、ウクライナもロシアと戦ってはならないなどと言うつもりはありません。

 この限界状況の下で、イエスさまの言葉に聞きたいと思います。

 イエスさまは相手を『悪人』と言っています。この人にも利があるかも知れないとか、人それぞれの義があるとかとは言っていません。『悪人』です。

 悪と断定した上で、『悪人に手向かってはならない』とおっしゃっています。


★今日の教えを読む上で、勘定に入れておかなくてはならない歴史的背景があります。難しい話ではありません。ローマ帝国のことです。この当時の誰が、ローマもやがては滅び行く存在に過ぎないと考えたでしょう。誰が、弱小なキリスト教が、ローマを飲み込み、覆い、これを超える存在になると考えたでしょうか。一人もいないと思います。

 もし、歴史に、もしはないと言われますが、もし、当時の教会がローマを悪と見做し、これと戦えと教えていたらどうなったでしょう。徹底的に殲滅されたかも知れません。少なくとも、教会員は、より悲惨な目に遭ったでしょう。


★私はなるべくSF小説は読まないようにしていますが、それでも、ハックスリーとかザミャーチン、オーウェル、チャペクなどは読まないわけには行きません。これらのSFには、未来社会の姿が描かれています。独裁者の支配する大国が、世界を二分または三分すると描かれています。そこには、日本の姿はありません。大抵、中国に飲み込まれています。この人たちは、大作家ですが、SF小説専門家ではありません。

 何を言いたいかと申しますと、時代の預言者のごとき優れた小説家も、ソビエトの崩壊は予言していなかったという点です。もっと悲観的でした。

 しかし、ベルリンの壁が崩され、ソビエト連邦は崩壊しました。後になってから、その兆しがあった、必然の成り行きだったと、専門家なる人は言いますが、実際には、あのソビエトがなくなるとは、その20年前には、まともな人は誰も考えませんでした。

 ローマ以来の歴史に学べば、永続する国家など一つもありません。独裁者は、案外に短く息絶えます。それが事実です。


★40節。

 『あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。』

 泥棒ではなく、訴訟を起こす人のことですが、何しろ、人の『下着を取ろうとする』など、一言で言えばケチな人間です。つまらない人間です。言葉の悪戯になるかも知れませんが、下着泥棒並みにケチな犯罪で、ケチな人間です。極端な言い方をすれば、殺人よりもみっともない犯罪です。

 近い親族の中に、殺人犯が出たら、世間に恥ずかしいし、隠したくなりますでしょうが、下着泥棒はもっと嫌です。私はそう思います。

 しかし、戦時下では、起こるようです。下着泥棒ではありません。ケチな犯罪です。ロシア兵が、民家を略奪することが報じられています。恐ろしい犯罪とも言えますが、ケチな犯罪です。十字架の上のイエスさまも、こんなケチなローマ兵に虐められました。

 私たちは、このようなケチな犯罪を憎みますが、イエスさまは、

 『あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。』

 このようにおっしゃっておられます。


★41節。

 『だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。』

 これこそ、ウクライナの人が聞きたくない言葉でしょう。ウクライナ東部の人が、シベリヤや、果ては日本の北方領土に強制連行されているという話が伝えられています。かつてソビエトが、スターリンがやったことを考えれば、事実なのでしょう。

 とんでもない悪行です。しかし、歴史の上では繰り返されて来たことでもあります。ジュノサイドよりはましでしょうか。

 何より、ユダヤ人は、この強制連行を何度も体験した民族です。捕囚です。エジプトに、アッシリアに、バビロンに連行された歴史を持っています。勿論、イエスさまはそのことをよくよくご存じです。

 今日は普段に増して、イエスさまの言葉に聞くことが大事ですから、これ以上は申しませんが。それにしても、イエスさまは、この非道にも抵抗するなと言われます。


★42節も読みます。

 『求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。』

 ここだけを読みますと、ここは納得できると受け止めてしまいます。しかし、それは前の事例が酷いからです。『目には目を、歯には歯を』、こんな事件に遭遇する人は希でしょう。『右の頬を打つなら、左の頬をも』、これはあるかも知れませんが、普通の人の体験では、数も少ないし程度も低いでしょう。『一ミリオン行くように強いる』人もいますが、無理やり飲み屋に誘われる程度の話でしょうか。

 下着を盗まれた人はいるでしょうが、下着を巡って裁判にかけられた人はないでしょう。

 しかし、不条理に『求める者』はいます。『借りようとする者』もいます。


★深刻な話をしているのに、突然トーンが違うかも知れませんが、多くの牧師にとってはなかなか深刻な問題です。私は100回はないでしょうが50回は体験しました。一言で言いますと寸借詐欺です。

 ある日、突然見知らぬ人が訪ねて来ます。なんだかんだと理由を言って、お金をくれと言います。小は、朝から食べていないので、晩飯代を1000円でもいいから貸してと言います。大は、遠方の母が死にかかっているが、汽車賃がないからと言います。まんまと1万円取られたこともあります。全部詐欺です。

 警視庁にお勤めの方の、牧師向け講演を聴いたことがあります。1000円を断ると、イヤーな気持ちが残ります。1000円を断るくらいなら、欺された方がましかと考えます。そこにつけ込んで、専門に教会を渡り歩く寸借詐欺あります。お金を渡してしまうことは、その次の被害者を産むことだから、絶対にしてはならないと戒められました。


★それ以降、原則断ることにしました。食べていないと言う人には食事を出しますが、現金は渡しません。しかし、1000円がなければ今晩は食べられないのかも知れないと思うと、これを蹴るのは、本当に辛いものです。

 ある時、老夫婦と見える人が、小学高学年と見える子連れでやって来ました。いろいろと身の上話を聞かされました。ご飯は出しましたが、お金は出しません。ちょっと太めの子どもはパクパク食べて、帰って行きました。

 妻と目を交わし、「10中8・9、嘘だろうけれども」と言いながら、駅の方に追いかけて、お札を何枚か上げました。

 10年以上前の話ですが、今でも思い出します。そして、欺されてでも良いから、あの親子を泊めてやるべきではなかったのかと、悔やまれます。イヤーな気持ちが残ります。


★43〜44節。改めて読みます。

 『43:「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。

   44:しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。』

  … 嫌です。

 『自分を迫害する者のために祈』れますか。合点承知と祈る人は、本当に、真剣に祈ったことがあるのでしょうか … とさえ思います。

 しかし、イエスさまは、間違いなく、そのように命じておられます。

  … 嫌です。しかし、イエスさまの言葉を聞かない訳にはまいりません。


★45節。

 『あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、

   正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。』

 ここが、38節以降で語られて来たことの論拠です。このような神さまだからこそ、あなたもこの神の愛の内に生きることが出来るのだと言っています。もしそうでないならば、つまり、無限の赦しが神さまになければ、あなたもまた、神の刑罰から免れられないだろうと言います。そうかも知れません。全く罪のない者はいないと、聖書に書いてあります。


★46〜47節。

 『自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。

   徴税人でも、同じことをしているではないか。

  47:自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。

   異邦人でさえ、同じことをしているではないか。』

 理屈は簡単ですが、本当に納得して、行うことは困難です。


★48節。

 『だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、

   あなたがたも完全な者となりなさい。』

 完全な者とは、完全な愛の人ということのようです。『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』、これが『完全な者』です。

 自分を愛してくれないもののために、むしろ迫害され人のために祈る、そんなことは出来ません。しかし、そのようになさった方がありました。

 それらの者のために十字架に架けられた方がありました。