日本基督教団 玉川平安教会

■2022年9月4日 説教映像

■説教題 「何を求めて生きるのか

■聖書   マタイによる福音書 7章7〜14節 


★神学校の先輩に、4つ葉のクローバーを見つける名人がいました。一緒に散歩していますと、ひょいとしゃがみ込み、すっと手を伸ばすと、そこにはもう四つ葉のクローバーがあります。

 私も真似して見ますが、しゃがみ込んで一本一本調べるようにしても、なかなか見つかるものではありません。ここには一本もないと断定すると、先輩は、私が探し尽くした筈の所から、簡単に見つけ出します。同じ要領で、5つ葉も取り出します。さながらマジックでした。

 しかし、マジックではありません。種も仕掛けもありません。先輩は言います。「君が4つ葉のクローバーを見つけられないのは、4つ葉のクローバーを探してはいないからだ。君は、三つ葉のクローバーを探しているんだよ。一本一本見たり触ったりして、これも三つ葉だ、これも三つ葉だ、と言い、4つ葉のクローバーを探してはいないからだ。」

 

★この指導を受け、秘訣を伝授して貰い、私なりの勉強や経験もまし加わり、やがて、私は、4つ葉のクローバーを見つける名人になりました。4つ葉などは、直ぐに見つかります。5つ葉もざらです。6つ葉も、何十本と摘みました。七つ葉は流石に少なくなりますが、それでも、20本くらいは採ったと思います。最高は、8つ葉です。

 8つ葉を見つけた時は、ちょっと自慢で、教会に持って行きましたら、一人の老婦人が、「すごい、すごい、素晴らしい」と言って、私の手から取り「ちょうだい」、それっきりでした。

 それで、私はクローバー採りを止めてしまいました。

 今も、クローバーが生えているのが目に留まりますと、つい、探してしまいますが、見つかりません。元に戻ってしまいました。今は、三つ葉のクローバーを数えているのでしょう。


★7節。

 『「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。

   門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。』

 本当にこの通りなら良いのにと思います。しかし、なかなか、求めても与えられません。それなりに、工夫もし、努力もしているつもりでも、なかなか、与えられません。教会のことは特にそうです。思い通り、願い通りにはまいりません。もしかすると、四つ葉のクローバーを探さず、三つ葉のクローバーを探しているからかも知れないと考え込みます。


★お祈りの時に、ないものねだりをしてはならないと教えられています。ないものねだりをするよりも、今与えられているものに感謝しなくてはならないと思います。先週の箇所は、正にそのように教えていますし、私もそのように説教したと思います。しかし、それはもしかしたら、四つ葉のクローバーを探さず、三つ葉のクローバーを探していることかも知れません。

 私たちの教会には、今、大抵のものが揃っています。壊れたり古くなったりして、更新しなくてはならないものもあります。しかし、大抵のものが揃っています。これがなくては、礼拝出来ない、これが足りないから伝道出来ないということはありません。しかし、三つ葉のクローバーは茂っていても、四つ葉のクローバーがない状態なのではないでしょうか。


★そもそも何故、四つ葉のクローバーが珍重されるのか、それは、珍しいからであり、幸福の印だから、希望の象徴だからです。実際には、四つ葉のクローバーには何の力も無いことは誰でも知っています。本気になって、ご利益があると信じている人は、先ずいないでしょう。しかし、四つ葉のクローバーを喜びます。誰もが、幸福に預かりたいから、希望を持ち続けたいからです。


★もう一度7節。

 『「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。

   門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。』

 神学校に、こんな伝説がありました。伝説めいてはいますが、実話だそうです。

 ある人物が、入学試験に、引っ越し荷物と共にやってきました。学生寮に、荷物を持ち込み泊まり込んで、試験を受けました。しかし、残念ながら不合格になりました。

 彼は、北海道まで戻るお金がない、荷物も運べないと頑張り、結局は、再試験を受けさせて貰い、入学が許されました。

 当時は、大学ではなく、専門学校ですから、そんなことも可能だったのでしょう。

 こと神学校に入る話なら、他のどんな試験に合格する学力よりも、この人の切実な求め、願いこそが、合格にふさわしいでしょう。

 今は、こんな融通は効きません。融通が効いたら大問題です。不正です。

 

★8節。

 『だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。』

 7節と同じ内容を、繰り返して強調しています。

 本当にこの通りなら、よろしいのですが、現実社会は、そうはまいりません。特に、コロナ禍にあって深刻な問題です。救急車で運ばれても、受け入れてくれる病院がない、100箇所に断られたというニュースがありました。そもそも救急車に来て貰えないそうです。

 それが世界でも最も高医療、高福祉の国に数えられる日本の話です。そうではない国は一体どんな有様なのか、あまりテレビの報道もありません。


★このことからの連想で、考えさせられることがあります。日本は、所謂先進国の中で、ごく例外的にお医者さんの数が少ないそうです。看護婦さんも同様です。

 白河教会におります時に、白河医師会の准看護婦養成学校で、西洋史の受業を受け持っていました。9年間、看護婦さんの先生をしました。この時に、大きな議論になっていました。看護婦さんが足りないから、看護学校を増やし、人を養成しなくてはならないのに、なかなかそれが出来ません。いろんな規制があるそうです。

 また、正看護婦さんの組織は、準看護婦学校の制度そのものに反対していました。理由は、粗製濫造すると、看護の質が落ちるということです。その通りかも知れませんが、自分たちの既得権を守るためかも知れません。

 準看護婦さんは、町医者のところで働く場合が多く、小さい開業医には、便利な存在なのですが、これが看護婦さんそのものの、待遇や労働環境には、悪く働くそうです。安く働く人がいては、自分の待遇に跳ね返ります。


★同じことが、医学部そのものにも言えます。確かに、粗製濫造されたら、患者はたまりません。しかし、どんなに質が高くとも、お医者さんの絶対数が足りないことには、病人の益にはなりません。過疎地で、本当に高度最新の医療が必要なのか、疑問です。無医村だったら、医師免許を持っている人なら誰でも大歓迎でしょう。

 先進国では、医師免許を持っていても、それだけでは豊かな生活ができる保障にはならないそうです。イタリアでは、医師免許を持った人が、タクシー運転手をしているというニュースもありました。


★このことが現代の教会にも全く当て嵌まります。現在、無牧師の教会が急速に増えています。過疎地のみならず、東京でさえ、少なくありません。地方では、一人の牧師が二つ三つの教会を担当するのが当たり前になりつつあります。

 ただ、医学部とは大違いなのは、神学校には入学志願者がありません。定員割れが起こり、文科省からの助成金も貰えなくなります。このまま推移すれば、日本基督教団の教会数は20年以内に半減、その後20年で更に半減するでしょう。


★どんどん話が脱線に向かいますので、元に戻します。クローバーまで戻します。

 今お話ししたことこそが、三つ葉のクローバーを探すことではないでしょうか。四つ葉のクローバーを探さなくてはなりません。四つ葉のクローバーは、なさそうに見えて、しかし、あります。簡単に見つからないからこそ、求め、探さなくてはなりません。

 閉じてしまっているようにしか見えない、教会の未来という門を叩かなくてはなりません。


★9〜10節。

 『 9:あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。

  10:魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。』

 この譬えは、現代では、解釈が難しくなっています。私たちは、子どもが欲しがらないものこそ、是非とも子どもに必要なものだと考えて、無理強いしても、上げたいと思います。

 先週の朝ドラでも取り上げられていました。今の子は、野菜を食べません。何とか食べさせたいと勤めます。是非必要な栄養だからです。非行問題も、野菜を食べないことに起因すると指摘する学者もいます。要するに野菜不足だと切れやすくなると言うのです。本当かどうかは分かりませんが、野菜が不可欠なことは誰でも知っています。


★野菜に関しては諦めてしまった親も、勉強となりますと、話が違います。どんなに子どもが嫌がっても、脅してでもすかしてでも、勉強させます。塾にもやります。それが絶対に必要なものだと信じているからです。どんなに嫌がられても子どものためになると信じているからです。

 9〜10節は、現代の日本では、このように翻訳した方が適切かも知れません。

 『 9:あなたがたのだれが、パンが必要な自分の子供に、石を与えるだろうか。

  10:魚が必要なのに、蛇を与えるだろうか。』


★11節。

 『このように、あなたがたは悪い者でありながらも、

  自分の子供には良い物を与えることを知っている。

  まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。』

 『子供には良い物を』、『求める者に良い物を』と言い換えられています。当然でしょう。子どもが望むことは、どんなことでも全て叶えて下さる、ではありません。そんなことになったら大変です。偏食で健康を損ねる子どもが、増えてしまいます。意味合いからしても、やはり欲しいものではなくて、良い物です。神さまは、良い物を下さいます。必ずしも欲しいものではありません。


★教会こそが、これに当て嵌まります。神さまは、教会に良い物を下さいます。必ずしも欲しいものではありません。良い物よりも、欲しいものを求めるならば、教会は健康を損ね、弱ってしまうでしょう。

 この点で、余計なことかも知れませんが、私の個人的な見方・意見かも知れませんが、この機会に申します。

 所謂「荒野の40年」と呼ばれた、教団紛争の期間、伝道が停滞どころか、後退し、教会から若い人の姿が消え、今や奉仕者が減り、献金が減り、多くの教会が財政的にも危機的状態を迎えています。これにコロナが追い打ちをかけました。軒並み、礼拝出席者が半分、三分の一、それ以下に下がっています。 

 これは、コロナが終熄しても取り戻せないと考える牧師が大多数です。

 「荒野の40年」もはや50年を、教会が何もして来なかった50年だと考えるのは、間違いです。確かに伝道しなかったかも知れません。

 しかし、教会は実にいろんなことをして来ました。伝道よりも礼拝よりも、祈祷会よりも大事だと考えていろんなことをして来ました。社会運動、環境への取り組み、市民活動、いろんなものが教会に入り込みました。

 一例として上げますと、ゴスペルのグループが、全国に3000あるそうです。教団の教会数は1700です。教団の教勢が停滞むしろ減少している時に、ゴスペルのグループは100倍に増えました。しかし、それで日本の伝道が進んだかと言うと、0です。


★12節。

 『だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。

   これこそ律法と預言者である。』

 教会は伝道、礼拝、祈祷会以外は何もするなと言いたいのではありません。これは、先週既に申し上げたことです。マタイ6章33節。

 『何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。

  そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。』

 中心がしっかりとしていれば、いろんなことが加えられ、それは豊かさになります。『神の国と神の義』が教会の中にしっかりと存在するならば、無駄と思えることさえも豊かさになります。


★北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』か、『船乗りクプクプの冒険』か忘れてしまいましたが、四つ葉のクローバーのことが描かれています。なかなか見つからなかったのに、1本見つかったら、そこら中から見つかり、何だか安っぽくなってしまったという場面です。

 教会も、クローバーが象徴する1本の希望を夢を見つけることが出来たら、その周囲に、やたらと、うるさいほどに、新しい希望が夢が出て来るでしょう。  


★さて、この説教ももう終わりですが、聴いていて、釈然としない方があるのではないかと思います。私自身もそう思います。つまり、私たちは三つ葉のクローバーを探し、大事にすべきなのか、それとも4つ葉のクローバーを探すべきなのかという点です。

 結論は、あまりに平凡な答えかも知れませんが、これしかありません。三つ葉のクローバーを粗末にしてはなりません。しかし、その中に4つ葉のクローバーがあります。これを見逃してはなりません。私たちの教会生活も平凡なことが大部分です。しかし、そこに与えられた、宝物、大きな恵みに、気付かずに通り過ぎてはなりません。