日本基督教団 玉川平安教会

■2022年7月17日 説教映像

■説教題 「誓ってはならない

■聖書   マタイによる福音書 5章33〜37節 


★テレビドラマで、こんな場面を目にします。結婚式の誓約の時、牧師が、「富める時も貧しき時も、健やかなる時も、病める時も、あなたは彼女を愛することを誓いますか」。すると、新郎は考え込み、「それは分かりません。誓えません。」と答えます。

 ドラマによっては、会集席の他の男性が「僕なら、誓えます」 と立ち上がり、そして、花嫁の腕を取り、新たな結婚式になります。

 似たような場面を複数観たように思います。最初に観た時は、曾野綾子の原作ドラマだったように覚えていますが、石坂洋次郎だったかも知れません。そもそも、アメリカの小説にもありますから、誰が最初の作家なのか分かりません。

 いろんなドラマで似たような場面が繰り返されるのですから、どこか人を考え込ませるような力を持っているのだろうと思います。


★松江北堀教会で会堂建築が終わったら、途端に結婚式を挙げたいという申し込みがありました。「礼拝に5回以上出席することが条件です」 と言いますと、彼女は、それから結婚式まで、ほぼ一年間休まずに出席し続けました。残念ながら、結婚式後は東京に移り、洗礼にまでは至りませんでした。その後も、帰省の度に教会を訪ねて下さいました。

 また、この結婚式に列席したお友達の女性が、自分も教会で結婚式を挙げたいと、礼拝に出るようになり、一番多い時には、3組もの人が、礼拝に連なりました。もともと若い人のいなかった教会が、にわかに華やぎました。


★ある人は、どうしても直ぐに結婚式を挙げたいと言います。そこで、このように答えました。「5回以上の礼拝出席は絶対の条件ではありません。しかし、信じてもいない神さまの前で、愛を誓い結婚することは、嘘で結婚生活を始めることにはなりませんか。」

 この人は、男性でしたが、「信じているとは言えないかも知れません。でも、神道の神さまや、他の神さまに誓約する気にはなりません。」

 それで十分と判断し、この人の場合には、うんと早く、結婚式を挙行しました。


★やはり松江の時に、同じ市内の牧師から、結婚式場での司式に加わらないかと誘われました。この牧師が言うには、「結婚式は伝道の機会になる。教会に人を集めて伝道集会を持つには大変な手間暇もお金もかかるが、結婚式なら、全部式場が準備してくれて、しかも、謝礼が貰える。」

 「なるほど」とも思いましたが、5回以上の礼拝出席を条件とする教会での結婚式との整合性が尽きませんので、お断りしました。何しろ、「信じてもいない神さまの前で、愛を誓い結婚することは、嘘で結婚生活を始めることにはなりませんか。」 ということが、抵触しました。


★この牧師は、長く結婚式牧師をし続けましたが、式場が、「説教は短く」と注文を付け、遂には「説教なし」でと言ったことから、止めてしまいました。

 何とか宣教団という組織が、この仕事を引き継ぎました。聞くところでは、司式者の中には、本物の牧師ではなく、欧米系の外国人青年がいたそうです。単なるバイトです。

 普通の牧師は、式場としては稼ぎ時の日曜日に、結婚式などしていられません。多分、多くが偽牧師だと思われます。

 ただし、私の知り合いに、うんと貧しい教会なために、日曜日に、結婚式をして、礼拝は夕方から行うという仕方で、小さい教会を守り続けた人がいますから、一概には決め付けられません。伝道のためにと頑張る人もいるでしょう。


★話は変わります。

 「嘘ついたら 針千本飲ます」という、童歌は、今日でも伝えられているようです。地方によって大分違いがありますが、元は一つだそうです。

 昔の遊郭で、女郎が客に真心を伝えるために、自分の指の先を切って送ったのが起源だと言われています。「卵の四角と女郎の誠」、勿論あり得ません。

 子どもたちには、本当の意味も分からず、伝えられてきました。多くの子どもは、既に針を知りません。「針千本飲ます」とは、あのふぐの仲間のハリセンボンを飲ますだと思っているそうです。ならば尚更、出来る筈がありません。出来もしない約束を、出来もしないことで誓約するのですから、つじつまが合っているのかも知れません。

 このような習慣で育った子どもが、大人になって、信じてもいない神さまの前で誓約して結婚するのは、何ら矛盾はないと言えるかも知れません。


★5章33節。

 『「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。

   主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。』

 これは、理屈全くその通りですが、しかし、『必ず果たせ』と言われても出来ないのが現実でしょう。誓約は、事実上、努力目標になってしまっています。ユダヤ人でさえそうです。日本人なら、せいぜい言葉の綾でしょうか。誓約する人もそれを聞いた人も誰も本気には受け取りません。だからこそ、何でも言えます。自分の言葉に責任を負いません。責任を負わないことが、当たり前になっています。


★5章34節。

 『しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。

   天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。』

 『天にかけて』とは、背景がある言葉かも知れません。ヘブライ書が一番良く分かりますが、初代教会の時代、星晨信仰が盛んでした。イエスさまの言葉よりも、星や月の運行に基づいた託宣の方を、ありがたがる人がいました。ヘブライ書はこの思想を否定しています。マタイの教会にも星晨信仰が入り込んでいたのかも知れません。

 それにしても耳に残るのは『一切誓いを立ててはならない』という言葉です。『主に対して誓ったことは、必ず果たせ』ではなく、『一切誓いを立ててはならない』です。


★35節。

 『地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。

   エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である』

 ここも趣旨は同様です。やはり歴史的名背景を思わされますが、必ずしもそういうことを踏まえなくとも、何しろ『誓ってはならない』です。

 36節も同様です。

 『また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。

  髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。』

 これをそのままに聞きますと、「誓約を破ったなら、頭が全く禿げてもいい、全部白髪になっても仕方がない」と誓ったのでしょうか。

 『髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである』、その通りです。これは、「嘘ついたら 針千本飲ます」と同じことでしょう。

 嘘を前提とした誓いとさえ言えます。


★創世記15章9〜10節。

 『 9:主は言われた。「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、

   山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。」

  10:アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、

   それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。』

 17節。

 『日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、

  煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。』

 創世記15章ですから、神さまがアブラハムに与えられた恵みの約束と結び付いて、語られている出来事です。

 この儀式めいたことは、要は、誓約が果たされないなら、『真っ二つに切り裂』割かれるという意味です。誓約は、それほどに絶対のことだという意味です。

 先ほど例、女郎が指の先を切って送るということと共通性があります。しかし、比較になりません。指先が切られる話ではありません。体全体が真っ二つに裂かれる話です。


★『一切誓いを立ててはならない』とは、このような前提に立って解釈されなければなりません。誓約が悪なのではありません。誓約が軽んじられていることが悪なのです。

 37節。

 『あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。

   それ以上のことは、悪い者から出るのである。」』

 何々に賭けて誓うと言うのは、本当には守ることが出来ないと分かっているから言う言葉ではないでしょうか。『指切りげんまん』と唱える子どもと変わりません。誓う前に必要なことは覚悟です。覚悟もないのに誓うことは、やはり悪でしょう。


★ヤコブ書5章12節。

 『わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。

  天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。

   裁きを受けないようにするために、

  あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。』

 マタイ福音書5章37節とそっくりです。

 先週の聖書研究祈祷会の箇所でした。マタイ福音書とヤコブ書には、この他にもいろいろと共通点が見つかります。


★マタイとヤコブの共通点として上げられるのは、信仰の証としての実践が強調される点です。これをパウロの信仰義認論とは違うと解釈する人もいます。確かに大きな違いがあるかも知れませんが、単純に考えれば、実践のない信仰などあり得ません。実践なくして、イエスさまの言葉に従いようもありません。汝の隣人を愛しなさいという教えを、実践なくしてどのように守るのでしょうか。奇妙な話になってしまいます。

 隣の奥さんなり娘さんなりを、密かに愛して、何も行動には移さないけれども、日夜心に浮かべて、悶々としているのでしょうか。何だか訳の分からない話になってしまいます。 むしろ、『みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。』の方がすっきりとします。

 信仰義認論を、行いは伴わないけれども、ただ、心の中では誰にも負けずに熱心だと意味に解釈する人がいます。自分は、他の誰よりも、家族を愛している、けれども、働いて、お金を家に入れることはしない、そんな熱心はありません。そんな人は、世間からは紐と呼ばれるだけです。


★ローマの信徒への手紙10章6〜10節。長い引用になります。

 『6:しかし、信仰による義については、こう述べられています。

  「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」

  これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。

  7:また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」

  これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。

  8:では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、

   あなたの口、あなたの心にある。」

  これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。

  9:口でイエスは主であると公に言い表し、

  心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、

  あなたは救われるからです。

  10:実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。』

 内容的に今日の箇所と重なるかと思います。


★私たちが誓約するのは、結婚式の他には、受洗の時です。これこそ、『心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる』ことです。本質、結婚式も同じです。生涯続く愛を誓約できないのは、誠実で嘘がないからとは逃げられません。誓約出来ない人は結婚式を挙げてはなりません。覚悟が出来ていないだけです。また、自分の気持ちだけを重んじて、結婚相手の心を重んじていない証拠です。それならば、結婚しない方がよろしいでしょう。


★洗礼も同じことです。自分の気持ちだけを見つめるならば、誰も誓約できず、何時までも、洗礼は受けられないでしょう。

 誓約は、単なる努力目標ではありません。「神さま、導いて下さい。一生涯、神さまと共に歩ませて下さい」 という祈り願いです。

 ヤコブ書4章8〜9節。

 『8:神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。

  罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。

  9:悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。』

 人間の心・感情も大事です。これに執着してはなりませんが、これを神さまに委ねることが大切です。それは、パウロの信仰義認論と矛盾しません。むしろ、一致します。