日本基督教団 玉川平安教会

■2022年1月2日 説教映像

■説教題 「互いに愛し合う戒め

■聖書   ヨハネの手紙一 3章19〜24節 

★19節。

 『これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、

   神の御前で安心できます』

 先週の説教で、キルケゴールの言葉を引用し、『現代は不安の時代である』と申しました。様々な不安が、現代人を取り囲んでいます。

 それでは、この不安を解消し、安心をもたらしてくれるものは何でしょうか。

 老後の生活不安、雇用不安が大きな不安要素です。それでは、貯蓄こそが一番の安心材料でしょうか。確かに貯蓄は大事です。しかし、莫大な借金を抱えた国そのものは、国民に消費せよと、迫っています。貯蓄なんかしないで、浪費せよ、そして景気を高めよ、物価を上げよ、と言っています。確かに、そうなれば国の借金・国債は相対的に減ります。物価が倍になれば、国債は半額になったも同じです。

 もしそれが実現したら、給料も上がるのかも知れません。年金生活者はどうでしょうか。大変なことになります。実質年金は半額になってしまいます。やがてはスライドして上がるかも知れませんが、追いつかないでしょうから、年金生活者は常に尻に火が点くような羽目になるでしょう。


★経済のことなどからっきし分からない私が、経済を論じるつもりはありません。まして解決策などあろう筈がありません。

 どのようにして現代の不安を乗り切るのか、安心出来るのか、聖書に聞くしかありません。もう一度読みます。

 『これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、

   神の御前で安心できます』

 一ヨハネは、『神の御前で安心でき』るのは、『自分が真理に属していることを知』る時だと言っています。

 

★この時代、現代とは比較にならない程に不安は大きかったと思います。戦争、疫病、つまり差し迫った死の不安があります。

 この時代にも銀行の元祖みたいなものはあったようですが、果たして当てになるでしょうか。戦争、疫病があれば貯蓄はなどゴミくずになって飛んでしまいます。この時代、そもそも国そのものが、明日は存続出来るのか分かりません。

 この頃日本の治安悪化が指摘されますが、この時代は、そんな生易しいものではありません。また、キリスト者には、迫害・弾圧の不安がありました。


★そのような現実の厳しさの中で、一ヨハネは、言います。『神の御前で安心でき』るのは、『自分が真理に属していることを知』る時だと。

 あまりに信仰者の現実生活から遊離した絵空事だと聞こえますでしょうか。真理などでは、お腹は一杯にならない、不安は消えないと言われるかも知れません。

 しかし、この言葉は厳しい現実の中で語られました。そして、厳しい現実だからこそ、この言葉が必要だったのです。


★イエスさまにも同様の言葉があります。もっとも知られているのは、マタイ福音書山上の垂訓の1節でしょう。6章31〜34節。

 『31:だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、

  思い悩むな。

  32:それはみな、異邦人が切に求めているものだ。

   あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

   33:何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。

   そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

   34:だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。

   その日の苦労は、その日だけで十分である。」』

 この場に集まっていたのは、難民にも等しい人々だったと考えられています。少なくとも、そのような境遇の人が多かったようです。今日明日のパンを心配しなくてはならない人々に向けて、『何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい』と語られています。

 これは、『神の御前で安心でき』るのは、『自分が真理に属していることを知』る時だと言うのと全く同じだと考えます。


★私の最初の任地大曲教会には、神代柏林という出張伝道地がありました。ここには17件の開拓農家があり、全戸クリスチャンホームです。満州から命からがら無一物で引き上げて来た人たちが、かつての軍の放牧場を貸与されて出来た開拓部落です。木を切り倒し、石をどけて開墾する、とてつもない重労働と貧しい生活に耐えるには、強烈なイデオロギー、信仰が必要だと考えた農民運動の指導者がリーダーとなって、ちょっと表現はややこしいのですが、信仰を持つことを条件に仲間に入れ、開拓事業に当たりました。

 最初はテント生活、その後、バラックで各自の家を建てましたが、その中で、教会・礼拝堂を建設しました。小屋程度のものですが、経済的にも時間的にも全く余裕がない中での礼拝堂建築は、並大抵の努力で出来ることではありません。しかし、これを成し遂げ、毎夜、そこに集まって集会が持たれました。


★礼拝堂建築の努力を、毎夜の聖書の学びを、もったいないと思うかも知れません。開墾に向けた方が良かったでしょうか。休養に充てた方が良かったでしょうか。しかし、それが有ったからこそ、彼らは、周囲の人々に、いかがわしいものを見るような目で見られ、差別されても、耐え忍び、開拓を続けることが出来ました。

 周囲も貧しい農村地帯です。後に、出稼ぎが当たり前になり、そこから蒸発者、つまり、都会の生活にふれ、村や家に戻らない人が出ました。当時は大きな社会問題でした。しかし、この神代柏林からは、一人も蒸発者は出ませんでした。飛行に走った子どもも一人もいません。彼らには、『何よりもまず、神の国と神の義を求め』たという自負、『自分が真理に属している』という誇りがあったからです。


★21節。

 『愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、

   神の御前で確信を持つことができ』

 人間には誇りが必要です。これを失ったならば自滅してしまいます。

 誇りとは、預金の残高のことではありません。『何よりもまず、神の国と神の義を求め』たという自負、『自分が真理に属している』という誇りです。


★22節。

 『神に願うことは何でもかなえられます』

 『何でも』とは、無条件に何でもということではありません。当たり前です。似たような表現は他にもあります。そこでも、『御心に適った祈りは』というように、必ず条件があります。当たり前です。

 ここでは、『わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。』とあります。『神の掟を守り、御心に適うことを行っている』ことが、『願うことは何でもかなえられ』る条件です。当たり前です。一ヨハネ5章14節。

 『何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。』

 神さまは、アラジンの魔法のランプの巨人、奴隷ではありません。『神の掟を守り、御心に適うことを行っている』ことが、祈りが聞かれる条件です。


★聖書では、神さまに祈ること、願うことは、契約です。祈り願いには必ず条件があります。この条件を果たさなければ、契約は無効になります。

 その契約条件が、明確に挙げられています。二つあります。

 23節前半。

 『その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ』

 これは全く当たり前です。『イエス・キリストの名を信じ』ないならば、契約は成立しません。契約の対象者となることさえ出来ません。全く当たり前です。


★「神も仏もあるものか」と言う人がいます。そうでしょう。これは厳密に言えば、「私が信じる神はいない、私が帰依する仏はいない」と言うのに過ぎません。ですから、このように言う人には、「ああ、そうですか」と応えるしかありません。この人には、信じる神、帰依する仏がいないだけのことです。

 信じ、契約を結び、「しかし、契約は果たされなかった。神も仏もあるものか」となって、初めて、正しい文章が成立します。しかし、この人は、本当に契約したのでしょうか。条件を履行したのでしょうか。


★23節後半。

 『この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。』

 23節前半は厳密には条件ではありません。条件以前の前提です。

 本当の条件は、『互いに愛し合うこと』これだけです。

 

★牧師として聖書を説き証しをするには、なかなか困難があります。聖書は2000年もそれ以上も前に、遠い遠い、文化も言葉も異なる地で記されました。読むには、勉強もしなくてはなりません。何度も繰り返し読んで、先ず、自分自身が理解しなくてはなりません。自分が理解出来ないで、説き証しをすることは出来ません。

 しかし、特に現代は様々な注釈書もあります。辞書もあります。デジタル化されていますから、どんなことでも、容易に調べられます。一昔前の牧師に比べたら、そういう仕事は大分楽になったかも知れません。

 本当に困難なのは、牧師でなければ、読むことが出来ないような言葉、事柄ではありません。本当に説明困難なのは、誰でもが知っている言葉、事柄です。

 『互いに愛し合うこと』

 誰でも知っています。誰でも理解出来ます。これを解き証すことは、実に困難です。

 分からないことを教えることは出来ます。しかし、分かっていることを教えることは困難です。


★24節前半。

 『神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、

  神もその人の内にとどまってくださいます。』

 このままに読んでもよろしいでしょうが、23節と重ねて、掟を、『互いに愛し合うこと』に置き換えて読むと、より具体的になるでしょう。

 『互いに愛し合う人は、神の内にいつもとどまり、

  神もその人の内にとどまってくださいます。』

 もっと置き換えれば、

 『互いに愛し合う人は、神の愛の内にいつもとどまり、神もその人を愛して下さる』

 このようになりますか。


★これでも未だ観念的に聞こえて実感がないかも知れません。表現を変えてみます。「互いに愛し合うことなく、むしろ憎み合うようならば、神の内にいるとは言えません。神さまも、あなたの心の内に留まっては下さいません」。

 どこかで聞いた言葉です。

 先週の個所、3章11節。

 『なぜなら、互いに愛し合うこと、

  これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。』

 3章13節。

 『わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。

   兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。』

 今日の個所と全く同じです。

 3章15節。

 『兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、

   すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。』

 

★要するに、教会の中で、この愛の戒めを実践できないようでは、むしろ、逆のことをしているようでは、神の戒めを守り、契約に入れられ、本当の安心を心に抱くことは不可能です。人間が、心不安なのは、要するに、神の愛を信じず、その結果、兄弟を愛することが出来ず、むしろ憎んでいるからです。

 

★3章24節後半。

 『神がわたしたちの内にとどまってくださることは、

   神が与えてくださった“霊”によって分かります。』

 要するに、神の霊・神の愛を呼吸していないならば、酸素不足と同じように、愛の不足に陥ります。酸素が足りず、二酸化炭素中毒になるように、この世の憎しみに溺れて、愛が溺死してしまいます。