日本基督教団 玉川平安教会

■2022年3月6日 説教映像

■説教題 「道、真理、生命

■聖書   ヨハネによる福音書 14章1〜6節 

◇順に読みます。

 1節。

 『心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい』

 前の章に出て来る受難予告との関連で、語られています。イエスさまは、ご自分が十字架に架けられて殺されるという、何ともショッキングな預言をなさいました。このことは、全ての弟子たちにとって、あまりにも意外で、受け止められないことでした。

 この受難予告に対して、二通りの反応が生まれます。一つは、ペトロのものです。彼は、あまりにも意外で、あまりにも辛い預言だったからこそ、とことんまで、イエスさまに従うことを決心します。獄屋の中だろうと付いて行きますと、悲愴な覚悟をしました。

 一方、イスカリオテのユダ、彼はこの時から、イエスさまに従うことを躊躇し、疑問を覚えるようになります。正反対の反応です。しかし、この時の決断は別でも、結局、二人ともイエスさまを裏切ることになります。


◇全く正反対の反応に見えながら、実は、この二人の反応には、共通点があります。つまり、イエスさまの預言に、冷静に対応することが出来ません。ショックを受けて戸惑い、どのように受け止めたら良いのか、何をしたら良いのか全く分かりません。何より、どのように対応すべきかを、イエスさまに問うことが出来ません。狼狽の結果です。

 冷静に対応し、冷静に問うたのは、トマスです。

 5節。

 『トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。

   どうして、その道を知ることができるでしょうか』

 冷静です。むしろ冷徹かも知れません。この言葉には単なる質問ではなくて、批判が込められているようにも聞こえます。「私たちを見捨てるのですか」という批判です。

 このトマスこそ、同じヨハネによる福音書の20章25節で、

 『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、

  また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない』

と言った人です。

 ペトロやユダのように、過剰に反応してはなりません。大事に至った時にこそ、冷静でいること、心を騒がせないこと、これが大事です。


◇しかし、トマスは、容易に信じなかったために、

 『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである』

とも言われています。

 神を信じること、これが大事です。人生の重大事に対しては、こうでなくてはなりません。往々にして、心を騒がせ、そして信じないのが、私たちの現実です。心を騒がせないで、じっと見ていて、じっと聞いていて、そして信ずる、なかなか出来ません。

 ペトロもユダもそしてトマスも、十字架の予告を真っ正面から正しく受け止めることが出来なかったと言うべきでしょう。


◇2節に戻ります。

 『わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、

   あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか』。

 『場所』とは、天国・神の国のことです。つまり、信仰の道を歩き続け辿り着く場所です。それは、使徒たちの時代には殉教の道を意味します。殉教は信仰を貫いた結果です。

 ヨハネ福音書が記され、ヨハネの教会員に語られた頃、正確な日時は分かりませんが、ローマによる迫害の時代です。新約聖書は全部そうです。学者によって執筆年代の推定が違い、数十年の差が出ることもあります。時代が違えば、背景が違いますから、解釈にも違いが出るでしょう。

 しかし、こと、迫害・弾圧という観点で見れば、大差はありません。むしろ、パウロの初期の手紙が執筆された時代には、未だローマによる組織的迫害はありません。

 殉教、これが初代教会の前に常に存在しました。大きな壁です。落とし穴です。しかし、同時に信仰のエネルギーともなりました。殉教への道は、神の国への道であり、こんなにもはっきりと信仰の道筋が示されることは他にありません。


◇ペトロもユダもそしてトマスも、殉教が頭をよぎったのかも知れません。ペトロは、命を賭けてもイエスさまを守ろうと反応しました。ユダは見切りを付けようかと考えました。トマスは、そんなことは理解出来ない受け入れられないと拒否しました。それぞれの仕方で、殉教を意識したのかも知れません。

 しかし、彼らには、殉教が、十字架への道が、神の国への道だということは、全く念頭にありません。


◇3節。

 『行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、

   あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、

   あなたがたもいることになる』。

 これも殉教のことが強く意識されています。『あなたがたのために場所を用意したら』とは、明らかに十字架のことです。イエスさまが十字架の死を迎えられたのは、『あなたがたのために場所を用意』すること、つまりは私たちの罪を贖い、神の国に入れられる資格を与えるためです。

 十字架が神の国への道を開きます。イエスさまが十字架に架けられた時に、神殿の幕屋の垂れ幕が真っ二つに裂けて落ちました。十字架が神の国への道を開いたからです。


◇『戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える』。

 再臨のキリストが予告されています。『こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる』。神の国での命が約束されています。

 十字架への道を歩き続ける者が、神の国へと辿り着き、イエスさまのいる所に、共にいることになります。


◇4節。

 『わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている』。

 ここでは13章の出来事が背景にあります。

 13章には、所謂洗足の出来事が描かれています。イエスさまが弟子たちの足を洗い、その上で、十字架の死が予告され、更に、ユダの裏切り、ペトロの離反が預言されます。

 『わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている』とは、十字架の死の予告であり、弟子たちの躓きの予告です。


◇5節。

 『主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。

 『わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている』とイエスさまが仰るのに、トマスは『どうして、その道を知ることができるでしょうか』と反論します。これは要するに、イエスさまの十字架のことが理解できていないということです。

 理解出来ていないとは単に知識のことだけではありません。十字架の道を歩む心の用意が出来ていません。

 

◇6節が決定的に重要です。

 『わたしは道であり、真理であり、命である。

   わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない』。

 富士山に登るには、多様な道、登山道があると言われます。辿り着く目的地が同じならば、どの道を通っても良いではないかという理屈で、価値観や宗教の多様性を説く表現です。富士登山はそうかも知れません。

 しかし、神の国の信仰を貫く道は、主の十字架の道しかありません。

 他の宗教や思想では駄目だということに力点が置かれているのではありません。今日の個所の文脈で言えば、十字架の道を避けたら、そこには救いはないということです。

 ペトロもユダもそしてトマスも、それぞれの反応で、十字架の道を避けようとしています。短絡的に言えば、イエスさまの十字架を否定しています。そこには救いはありません。


◇7節。

 『あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。

  今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている』。

 不思議な論理展開です。『わたしを知っているなら』、イエスさまを知っているなら、それは『父をも知ることになる』、つまり、イエスさまを知ることは父なる神を知ることと結局は、一つことであるという理屈です。つまりは、父なる神は子なる神と同一だと行っています。

 更に『今から、あなたがたは父を知る』、今後やがて『父を知る』ことは、その確実さの故に『既に父を見ている』ことと同じことだといわれています。

 つまり、7節が言うのは、父と子とは同一だということです。

 このことは、初代教会の大論争であったキリスト論、更に三位一体論を考える上で、決定的に重要な資料、証拠だと考えます。


◇ヒィリポも質問します。8節。

 『主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます』。

 この理屈は、6・7節と全く同じ理屈です。イエス・キリストに出会いその言葉に触れながら、なお信仰の確信を得られないから、フィリポの発言になります。これと同じことを、現代でも多くの信仰者が発言します。疑念です。

 もっと確かな証拠をください。信じるに足る確かな証拠をください。

 しかし、イエス・キリストに出会いその言葉に触れながら、なお信仰の確信を得られないなら、他の何によって得られると言うのでしょうか。

 その故に十字架の出来事が起こらなければなりませんでした。

 現代の教会でも、礼拝と聖書の他には、どんな印も与えられることはありません。礼拝と聖書の他にもっと確かな証拠がある、それを見せて上げようと言うのは、間違いなく異端です。インチキ宗教です。もっと確かな証拠をください。信じるに足る確かな証拠をくださいと願う不信仰が、異端・インチキ宗教を生み出します。


◇9節。

 『フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、

   わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。

   なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか』。

 これは、トマスとの問答と全く同じ内容を持っています。結論も同じです。『わたしを見た者は、父を見たのだ』。イエスさまと父なる神さまとは同一なのです。


◇『こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか』とのお言葉は、そのまま、現代の私たちにも向けられています。

 『こんなに長い間』、これが決定的に重要です。実績、イエスさまと一緒に道を歩いて来た実績が大事です。

 ここで話は元に戻ります。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない』、この道を歩き続けるしかありません。


◇唐突かも知れませんが、詩篇42篇を思い起こして下さい。交読文の12番です。

 前後を省略して直接関係する個所だけを引用します。

 彼らが 日ねもす我にむかいて、 汝の神はいずくにありやと ののしる間は、

 ただわが涙のみ 夜昼そそぎて わが糧なりき。

 われ昔群をなして、祝いの日を守る 多くの人と共にゆき、

 喜びと讃美の声をあげて、彼らを 神の家にともなえり。

 今これらのことを 思いおこして、わがうちより 魂をそそぎいだすなり。

 ああわが魂よ、汝 なんぞうなだるるや、なんぞわがうちに 思いみだるるや。

 なんじ 神をまちのぞめ、われに御顔の助けありて、

 われなお わが神をほめたたうべければなり。

 肝心な個所をもう一度読みます。

 われ昔群をなして、祝いの日を守る 多くの人と共にゆき、

 喜びと讃美の声をあげて、彼らを 神の家にともなえり。

 今これらのことを 思いおこして、わがうちより 魂をそそぎいだすなり。


◇弟子たちはひとり一人に若干の違いはあるかも知れませんが、多分三年もの間一緒にいました。イエスさまの言葉を聞き、その業に触れました。それに加えてどんな証拠があれば確信できると言うのでしょうか。

 私たちも同様です。信仰の道を歩き続けて来ました。その旅の中にこそ、確信があります。確信を得たいならば、歩き続けるしかありません。歩き続ける以外に確信はありません。信じるに足る証拠は他にはありません。