日本基督教団 玉川平安教会

■2022年8月14日 説教映像

■説教題 「隠れたことを見ている

■聖書   マタイによる福音書 6章16〜18節 


★事情がありまして、今日はいつもとは違ったスタイルでお話しします。事情とは、私が間違えて14日21日と、同じ聖書個所にしてしまいました。そこで、初めから短い箇所を更に二つに分けて読むことにしました。聖書釈義とかは、次回に譲りまして、今日は、説教と言うよりも証に近い形で読みたいと思います。

 こんなふうに枕から語る、舞台裏を見せてからお話しするのは、私の説教スタイルではありません。しかし、今日は、この前振りがなければ、聴いている人は一体何の話だろうと、戸惑うことが予想されますので、無駄を承知でお話しします。


★牧師はただ神さまとかみさんに頼るべきであって、教会員に頼ったら、もうおしまいだそうです。その通りかも知れません。しかし、ついつい、特定の誰かさんに頼り、結果、失敗する例が多いようです。しかし、ここで紹介する角さんは、頼りになりました。


★私が最初に赴任した教会は、礼拝出席平均12名中、常時出席の男性は一人だけでした。その人は、教会員ではありません。矢内原忠雄の薫陶を受け、無教会の信仰を持っていました。しかし、近隣に無教会の集会はありません。そこで、日本基督教団の教会に、30年通い続けていました。

 無教会即ち礼拝をサボっている人というような現実があります。真の無教会信仰に立つ人は決してそんなことはないでしょうが、教会を怠けている口実に、自分は無教会だと称する人は、少なくないようです。

 角さん(仮名)はそんないい加減な無教会信仰ではありません。勿論、洗礼は受けていません。客員でさえありません。しかし、礼拝出席を欠かすことはないし、月定献金も献げていました。様々な奉仕も率先して行います。


★ある日の礼拝に、10人ほどのお客さん、それも韓国の牧師さんが出席したことがありました。事前の連絡はなく、突然の訪問でした。大いに緊張しながらも、礼拝・説教を守りました。

 お客様を迎えて、急遽愛餐会になりました。韓国の教会事情のようなお話を伺い、40年前、当時は未だ情報不足でしたから、大いに驚き、圧倒されました。その中で、牧師専用車どころか専用運転手がいるという話には、私は、どうリアクションして良いか分からず、戸惑うばかりでした。と言うのは、教会に車が必要だという意見があり、しかし、その予算はなく、結局のところ、牧師が個人的に車を買うし、経費も持つということになったばかりでした。それどころか、免許が無かったので、夫婦で自動車学校に通い、その経費も自弁でした。


★韓国では牧師の社会的地位が高いという話は、教会員はあまり聞きたくないようです。食いついたのは、祈りのことでした。午前3時に起きて、名簿を開き、教会員一人ひとりのために祈る、それも毎日。

 教会員は感激します。「うちの先生にも見習って欲しい」という人もありました。

 私は正直、憤懣を抑えていました。「会員が何千人もいれば、そりゃ、名簿に添って祈るしかないだろうさ。名前も覚えられないもの。うちの教会じゃ、教会員の飼い猫が風邪をひいても、ちゃんと知っているよ」これは、全くの事実です。しかし、声にはしません。

                   

★その時、角さんが一言。

 「まあ、何時に寝るかが、問題ですな」

 韓国からのお客様も含めて、座がシラーっとしましたが、事実その通りに違いありません。夜遅くに寝て、毎朝3時に起きて、6時まで祈っていたら、健康が持つ筈がありません。遅くとも、夜8時か9時には床に入っているということでしょう。それとも、昼寝でしょうか。

 教会員は、はぐらかされた気になったかも知れませんが、私は、大いに溜飲を下げました。

 角さんが頼りになる人だったというのは、このような意味合です。


★ある朝、地方局のニュースを見ていました。画面に角さんが映っています。知人の顔をテレビで見るということ自体が、初めての体験でしたから、じっと見入りました。

 ある地方企業が5億の負債を抱えて倒産し、債権者が詰めかけた。それがニュースの内容でした。そして、債権者代表が角さんでした。

 私はとっさに計算しました。債権者が7人、単純割りしても、1件7千万円以上、債権者代表になるくらいだからもっと額は多いだろう。大変だ、彼の損失は2億かも知れない。


★取り込み中とは思いましたが、いても立ってもいられず角さんの自宅に伺い、初めて、彼の書斎に招き入れられました。

 彼はソファーに掛けて、タバコをくゆらしています。

 「ばれてしまいましたね」

 それは、タバコのことでした。

 肝心の倒産、未収金のことを尋ねますと、

 「まあ、ひどい目に遭いました。しかし、商売をしていればこういうこともあります」

 私がなおも、お見舞い慰めを言うと、

 「先生、私も一応信仰を持っていますから」

 それで、この件はおしまいでした。

 店構えは決して大きくはありませんが、1億や2億で潰れるような会社の規模ではなかったようです。

 それにしても、この状況で言える言葉ではありません。

 「私も一応信仰を持っていますから」


★数年後、またも地方局のニュース。それは交通事故を伝えるものでした。初めてバイクを手にした少年が、夜通しドライブしたあげく、早朝に自動車に突っ込み転倒、ヘルメットをしていなかったこともあり、はね飛ばされた縁石で頭を打ち、間もなく死亡したというニュースでした。その自動車を運転していたのが、角さんでした。


★私は直ぐに彼の家に向かいました。書斎に上がったのは2回目です。角さんはタバコを咥えていました。吸い終わると、直ちに次の火を点けます。何も、一言も言いません。ただ、部屋の中をグルグルと歩き回っていました。私のことも、目に入っていたかどうか。


★詳細は知りませんが、事故はほぼ一方的にバイクの少年に非があると判定されたようです。しかし、角さんの落ち込み具合はひどいものでした。

 この時は、「私も一応信仰を持っていますから」とは言いませんでした。

 

★大分時間が経ってからのことです。

 角さんが癌を患って、余命いくばくもないという話が伝わって来ました。転任していた私は、飛行機と新幹線を乗り継いで、見舞いに行きました。

 ベットの上の角さんは、

 「先生、久しぶりですね。お元気でしたか」

 そうして、新任地の様子や、土地のことをいろいろと聞きます。

 お見舞いの言葉を差し挟む余地がないくらい、饒舌でした。彼には、極めて珍しいことです。


★やっとお見舞いを言い、慰め、そして、お祈りしました。

 「大丈夫ですよ先生、私も一応信仰を持っていますから」

 その年の内に彼は亡くなりました。


★徹夜のお祈りをする。それはそれで、素晴らしいことなのでしょう。私には真似出来ません。が、そのことを自慢げに話す牧師は、今例に上げた角さんの前では、どんなお祈りをするのでしょう。明日をも知れない重篤な病の人の前で、どんなお祈りをするのでしょうか。聴いて見たい気もします。

 きっと、立派なお祈りをするのでしょう。当人も家族も涙を流して感動するような、立派なお祈りが出来るのでしょう。私にはとても真似出来ないことです。

 それはそれで、素晴らしいことなのでしょう。私には真似出来ません。


★7月31日の礼拝後に、松沢教会に出掛けました。松沢教会を会場に3日間の日程で行われている『葦の会』の修養会でお話しするためです。『葦の会』とは、東京近郊で教務教師として働いている牧師たちが集い、牧師のいない教会などを、説教応援している会です。息子が、このメンバーに入れて貰い、働かせて貰っていますので、断ることもならず、日曜日の夕方、1時間ほどの小さい講演をしました。自分が体験した葬儀についての話が中心です。

 その中で、東京神学大学教授だった故船水衛二先生から教えられた話を、若い牧師たちに紹介しました。


★「牧師にとって葬儀は仕事の一部であり、経験を積むことも出来る。しかし、故人一人ひとりにとって、葬儀は一生に一度のことなのだから、決して慣れてはならない、間違っても葬式上手になってはならないよ」

 これが船水先生の、忘れられない言葉です。

 これは、説教についても、お祈りについても当て嵌まると私は考えます。

 この辺りは、先週の説教と重なりますので、出来れば、その時の原稿をお読み下さい。


★銀座教会の牧師や富士見町教会の牧師から直接聞いたことがあります。300人〜500人も教会員がいれば、絶えず、誰かが病気になり、誰かが入院し、誰かが死にかけています。

 その10倍20倍の教会員がいたら、その一人ひとりを覚えてお祈りを始めたら、3時に起きていたのでは、とても間に合わないでしょう。1時からにしなくては、午前零時になったら始めなくては、全然も間に合わないでしょう。3時起きでは駄目です。


★やっと今日の聖書個所を引用します。16節。

 『「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。

   偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。

   はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。』

 病に苦しむ人なら、その体と心の痛みを隠しきれず、人に見せてしまうかも知れません。それでよろしいでしょう。誰もが、先ほど紹介したような、角さんのように振る舞えるものではありません。

 「一応、私にも信仰がありますから。」とは言えないかも知れません。

 誰もそのことを責めたりはしません。


★17節と18節の前半。

 『17:あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。

  18:それは、あなたの断食が人に気づかれず、』

 この箇所で言われる『断食』を、私は病に苦しむ時と言い換えて読んでしまいます。

 断食は、自ら好んで、好んでと言ったら語弊があるかも知れませんが、自らの意思で行うものです。病は、自ら好んで罹ったのではありません。

 しかし、『人に気づかれず』のように振る舞うことも大事でしょう。


★昔木下啓介劇場という番組がありました。昔風で言う孤児院の話です。『記念樹』という主題歌を、小坂和也が歌っていました。その1節と3節。

   桜の苗が 大きく育つ頃             │ 嬉しきゃ泣いて 悲しきゃ笑うんだ  

   僕らはみんな 大人になるんだ       │ 仲間がみんな 見てるじゃないか    

   あいつと こいつ あなたと私       │ それでも淋しきゃ 大きな声で      

   真赤な頬っぺは しているが         │ 呼んでみるんだ “母さん” と    

                                        │                                    

★涙を垂れ流さず、ぐっと堪えた者には、18節の後半の言葉が与えられています。

 『隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。

  そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。』

 本当に辛い時に一緒に泣いてくれる家族や友は尊い存在です。しかし、その苦しみが大きければ、家族や友をも苦しめます。家族や友にも話すことが出来ない苦悩があります。もしかしたら罪があります。それをやたらな人に話してはなりません。それは、神さまだけに話すべきです。

 韓国の牧師を批判することに意図はありません。しかし、徹夜で祈る牧師の側には、苦しむ当人はいません。


★苦しい時には、人に祈って貰いたいと思いますでしょう。勿論間違いではありません。牧師もそれに応えます。しかし肝心なことは、自分で自分の言葉で、神さまに向けてお祈りすることです。