日本基督教団 玉川平安教会

■2022年11月20日 説教映像

■説教題 「キリストはどこから来たか

■聖書   マタイによる福音書 1章1〜17節 


★先日の召天者記念礼拝で、例年のように、先に召された方々326名のお名前を、全員分読み上げました。15分ほどの時間を要します。お名前とお名前の間に、一秒弱の間を置くとしたら、それだけで5分以上かかります。一人当りの名前を読む時間は、2秒になってしまいます。実際の間は、半秒も取れません。

 説教の時間が25分見当なのに、名前の読み上げに15分も要するのはどうだろう、大方の人にとっては、退屈な、忍耐の要る時間ではないだろうかと考えて、4年前、過去50年以内になくなった方に限定し、時間は半分ほどになりました。

 そうしましたら、自分の祖父母の名前が漏れてしまって寂しいという声が、複数上がりました。翌年から元に戻しました。


★今年、直前に葬儀があったこともあり、名前を読む練習のようなことは出来ずに、言ってみれば、生本番で朗読しました。私としては、噛むこともなく、出来たと思っていましたが、名前を飛ばしたのではないかと言う指摘がありました。検証していませんので、一人漏れたのか、私の原稿で一行、4人分漏れたのかは、未だ分かりません。クリスマスが終わって、時間が出来たら、確認しなくてはならないでしょう。

 先ほど申しましたように、一人分が2秒弱です。良く気が付くものです。遺族にとっては、その2秒が、とても大事だと言うことでしょう。牧師も、もっと心して読み上げなくてはなりません。


★本日、マタイ福音書1章1〜17節が聖書朗読箇所でした。新約聖書の冒頭部分です。ほぼほぼ、人の名前の羅列です。日本人には聞き慣れない名前、発音です。司式者は苦労したと思います。

 どうして、聖書の一番初めが、退屈極まりない人名の羅列なのでしょうか。これが、一般の人から、聖書を遠ざける原因の一つになってはいないでしょうか。

 特に信仰に関心がなくとも、単に教養としても、1度は聖書を読まなくてはと考える人は多いと思います。少なくとも、音楽、文学、絵画、建築、法律を学ぶ人なら、教会を、聖書を知らないでは済まない筈です。


★しかし、初めて手にして読み始めると、その最初の頁が、マタイ福音書1章です。まいったなあと思う人が大部分ではないでしょうか。立ち止まってしまい、先に進めないのではないでしょうか。縁がないと諦める人がいるのではないでしょうか。

 何故、こんな記事を、マタイ福音書の冒頭に描いたのでしょうか。後に聖書が編纂される時に、何故、マタイ福音書を冒頭に置いたのでしょうか。ルカ福音書かヨハネ福音書の方が良かったのではないでしょうか。

 その理由が、一番の理由が、先ほど申しました召天者記念礼拝の名簿に重なります。


★話が飛ぶように聞こえますでしょうが、ちょっとお付き合い下さい。

 平家物語の冒頭 … 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。 …

 日本人なら知らない者はない、名文中の名文です。文章だけではない、内容的にも、日本人の心の原点の一つと言えましょう。

 大部な作品です。琵琶法師がこれを吟ずるとなりますと、一晩かかっても終わりません。そこで、宴会の席では、リクエストがかかります。いろいろと名場面があります。那須与一の段とか、壇ノ浦とか、暗唱出来る程に心に残ります。

 しかし、一番リクエストが多かったのは、このような名場面ではなく、何々の郎党に何々あり、そこに従いしは何々というような件(くだり)、つまり、人の名前の羅列の部分だったそうです。これは、江戸時代になっても続きます。

 聴衆は、そこに自分の先祖、縁ある人の名前を聞き取り、喝采するのです。


★人間は、自分ルーツに関心があります。拘ります。有名人のご先祖がいたら、誇りです。何と、石川五右衛門の子孫も、鼠小僧次郎吉の子孫もいるそうです。架空の人物なのに。 真田十勇士の子孫もいます。明治時代の立川文庫から生まれた英雄なのに。宮本武蔵の子孫もいます。結婚していないのに。子どもはいなくとも、曾孫玄孫は大勢います。

 先祖は何々藩の家老だったと言う人は、無数にいます。私の身近な所でも10人ほど、それを誇りにする人がいました。

 これは嘘ではないでしょう。藩の数は、幕末で大小300になります。そこに平均10人の家老がいたとして、この10人には何の根拠もないあてずっぼうです。260年の間には、家老も少しは入れ代わりますから、300×10で3000人と見積もって少なくはないでしょう。その子どもが平均5人いたとして、5代の後になりますと、900万人を超えます。取り潰された藩もあります。今、幕末から計算しましたが、それ以前もあります。多分、自分の先祖は家老だったと言って嘘ではない人が、1000万人か、それ以上になりますでしょう。ご先祖が重なる場合もありますから、もっと少ないかも知れません。しかし500万人でも20人に一人ですから、珍しいと言えば珍しいと言えます。

 更に50年、100年経てば、少子化で子ども二人としても、陪陪、2000万人4000万人になります。日本中、家老の子孫だらけです。


★ついでに申しますと、江戸時代、太平の世では、系図が一大ブームになったそうです。系図屋という専門職が生まれ、大金をかける程、立派な系図を拵えてくれたそうです。もっともらしい偽物を作るには、それなりの教養、それなりの技術が必要だったでしょうから、高価なのも仕方がありません。

 実際に家系図を残すのは、大名家など、ごく限られた家だけですから、多分、現存する家系図の大半は偽物です。


★さて、無駄に時間を費やしているかも知れません。

 肝心の聖書です。この系図は、私たち日本人の感覚と同じものでしょうか。イエス・キリストの出自を飾るものでしょうか。彩りを添えるものでしょうか。そうではありません。

 先ず何しろ、この系図は、厳密に言えば、ナザレのイエスの系図たり得ません。16節。

 『ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。

  このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。』

 これは、ヨセフの系図です。マリアの系図ではありません。つまり、マリアの子どもであっも、ヨセフの血を受け継がないイエスさまの系図ではありません。

 イエスさまがヨセフの子ではないと、今日の聖書個所の直後に、明確に記されています。ルカ福音書でも、同様です。聖書に依れば、イエスさまはヨセフの子どもではありません。


★かの有名な映画『ベン・ハー』の原作を読みますと、マリアはヨセフの姪だったと記してあります。古い文書、聖書とはされなかった文書の中に、そういう伝承があるのでしょう。当時は、叔父と姪との結婚は可能でした。しかし、聖書中、マタイ福音書にもどこにも、マリアはヨセフの姪だったとは記されていません。

 何故、『ベン・ハー』に、そんなややこしいことが描かれているのか、それは、このようにすれば、ヨセフの系図がマリアの系図になり、イエスの系図になるからです。

 それでつじつまが合い、この説は、聖書に記されたことが事実であるという、補強的証拠になるのかも知れません。そういう意図で、この奇妙な伝承が生まれたのかも知れません。しかし、こんな説を唱える人は、ちゃんと聖書を読んでいない人です。


★このことも、余計な知識かも知れません。もっと肝心なこと、この系図の意味が、系図そのものに記されています。順に見ます。3節。

 『ユダはタマルによってペレツとゼラを』

 時間の関係で詳しい話は省略しますが、タマルはユダの息子の嫁です。経緯があって、嫁が舅の子をもうけることになりました。この出来事は、創世記38章に記されています。タマルの行為には、ユダヤ人の信仰から見たならば評価すべき点があるのでしょうが、マタイ福音書の時代ではどうでしょうか。少なくとも、現代では、あまり系図に載せたい人物ではありませんし、家系の誇りにはならないでしょう。


★5節。

 『サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを』

 ラハブは、イスラエルに味方して手柄を立てたには違いありませんが、観点を変えれば自分の同胞、自分の町を売ったことになります。ヨシュア記2章6章に物語があります。しかも、ラハブは娼婦でした。タマルも、娼婦に身をやつして、舅ユダの子を得ました。

 ラハブとは海の怪物の名前でもあります。どう見ても、二人の女性とも、誇らしいご先祖ではありません。


★ルツは、『ルツ記』の物語もあります。そこでは信仰的者として描かれていますが、そもそも彼女は、ユダヤ人ではありません。この時点で、この系図には外国人の血が半分混じることになります。混血を忌み嫌うユダヤ人の系図としては、ふさわしくない人物です。


★極め付けは、6節です。

 『ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ』

 何しろ『ウリヤの妻』です。人妻です。ソロモンが生まれた時点では、ウリヤは故人ですが、彼を殺したのはダビデです。とても許される二人の関係ではありません。サムエル記下11章に、このおぞましい物語が、包み隠さず記されています。

 そもそもマタイ福音書は、わざわざ『ウリヤの妻によって』と記しています。ソロモンが生まれた時には、もう『ウリヤの妻』ではないのに、わざわざそう記しています。批判を込めているとしか考えられません。ならば、系図には最もふさわしくない名前です。


★この系図に載せられた4人の女性に触れました。何れも、訳ありです。そもそも、系図には、女性の名前が載らないのが普通です。

 日本でも、ユダヤでも、系図に女性の名前はありません。女帝くらいです。


★諄いほどお話ししました。この系図は、普通の系図ではありません。

 長い回り道でしたが、話を元に戻します。このややこしい系図は、何故、マタイ福音書の冒頭に、新約聖書の1頁に置かれたのでしょうか。

 理由は既に申し上げていることと同じです。私たちには、無味乾燥としか聞こえない、この名前の響きが、ユダヤ人には、特別な音色で響くのです。

 その名前の一人ひとりに、関心を惹き付けられるのです。


★私たちだってそうです。

 旧訳聖書を読んで、親しみを持つようになると、親しみではなく反発だっていいのですが、とにかく、旧約聖書を読み、その出来事が心に残っていますと、この系図の名前は、決して無味乾燥なものではなくなります。

 一人ひとりの名前が引き金のようになって、物語を連想させられます。

 この名前が、この系図が、正しく、ユダヤの歴史なのです。


★この系図が、ナザレのイエスの系図ではないとしても、これは、ユダヤ人の系図です。そして、ヨセフの子ではないナザレのイエスも、正しく、この系図、ユダヤ人の歴史の中に誕生しました。今年のクリスマスも、正しく、この系図に繋がっています。これが、クリスマスの源流に違いありません。


★見方を変えますと、私たちは、私たちのクリスマスは、この系図から離れてはなりません。つまり、旧約聖書の出来事から、全く、離れてしまってはなりません。

 旧約聖書は、私たちキリスト者の理解からすれば、新約聖書の預言です。特に、イザヤ書等に記されているメシア預言と、クリスマスの出来事とは直結しています。

 イザヤ書から遊離したクリスマスは、本当のクリスマスではありません。

 

★今、日本中の市場に溢れているクリスマス関連の品物、ツリー、クランツもリースだって、全部偽物です。偽物と言うのは、信仰に基づいていないし、そこから信仰が生まれて来ないからです。本来は教会のもの、教会だけのものです。

 何故、盛んなクリスマスから信仰が生まれ出ないのか、それは、この系図、つまり、旧約聖書の歴史から遊離しているからです。カーニバルも併せて、世間では、全くの、キリスト教的お祭りに過ぎません。信仰的どころか、聖書が忌み嫌うバアルの祭典に近いものになってしまっています。

 カーニバルは、十字架の出来事の前の日曜日を除いた40日間を、つまり、レントを、娯楽などなく、肉も食べず、禁欲的に過ごすために、その前の何日かで楽しみを充分に味わうという意味です。カーニバルとは肉を食べるお祭りです。レントを実践する人のためのお祭りです。

 レントを知らないカーニバルは無意味だし、冒涜的でさえあります。教会では、それは許されません。本当のクリスマスを知り、お祝いするためにこそ、聖書に立ち帰らなければなりません。今年のクリスマス礼拝は、24日も25日もイザヤを読みます。