日本基督教団 玉川平安教会

■2022年9月18日 説教映像

■説教題 「岩の上に家を建てる

■聖書   マタイによる福音書 7章21〜29節 


★3年前にこの箇所を読んだ時に、3.11の大震災のことから説教を始めました。重複しないように、その話は致しませんが、このことだけ申します。3.11が残した教訓を忘れてはなりません。あれだけのことが教訓或いは戒めにならないようならば、人はもはや何も学ぶことが出来ないということです。

 教訓の一つは、目に見えるものよりも、目には見えないことが大事だ、肝心要のことだということです。私たちは、地面の上にある物だけを見ます。見上げて感心します。しかし、本当に見なければならないのは、目には見えない地面の下にある物だと言うことを、教えられました。

 あの時に誰もが実際に目にしたことですから、これ以上詳細を申し上げる必要はありませんでしょう。


★24〜25節。

 『24:「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、

  岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。

  25:雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。

   岩を土台としていたからである。』

 建物を見て、立派なきれいな家だな、こんな家に住めたらいいなあと思うことはあります。しかし、その土台を見て、何てしっかりとした作りだろう、こんな家に住んだら安心だなあと考える人はいません。そもそも、土台から下は見えません。


★土台から下が見えるのは、見えてしまうのは、家が崩壊してしまった時です。家が崩壊して初めて、土台や更に地盤が見えます。見えてしまいます。被災した人には、悲劇ですから、ちょっと遠慮しながら言わなくてはなりません。家が崩壊し、土台や更に地盤が見えたことは、大きな教訓でした。初めて、そこに目が行ったわけです。そこで見た物を教訓にしなくてはなりません。


★最近に次々と台風が南西諸島を襲いました。いろいろと被害はあったでしょうが、テレビが大きく取り上げるような人身被害等はなかったようです。『雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても』、大きな被害は出ませんでした。

 必ずしも過疎地だからではありません。やはり、以前の出来事を教訓として学び、備えがあったからだと思います。

 突然話題を変えるようですが、同じ趣旨です。私の郷里秋田県横手市は、日本でも有数の豪雪地帯です。私自身が経験した最も早い初雪は10月10日に降りました。最も遅い雪は、5月5日でした。同じ年ではありませんが、文字通りに雪国です。降り始めから降り止むまで2昼夜、その間に2メートル降って、我が家では玄関の出入りが出来なくなり、2階の物置から出入りしたこともありました。

 しかし、小学校ら高校まで、大雪のために学校が休みになったことは、ただの一度もありません。慣れていたと言えばその通りですが、やはり備えがあったからです。心構えも出来ていたからです。


★26節。

 『わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、

  砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。』

 ちょっと筋が違うことかも知れませんが、過去の教訓に学ばない人こそが、『砂の上に家を建てた愚かな人』です。

 沖縄地方の台風も秋田の風雪も毎年のことですから、忘れようもありません。地震は、もう少し頻度が小さいから、忘れてしまうのでしょうか。


★27節。

 『雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、

   その倒れ方がひどかった。』

 拘ると『倒れ方がひどかった』とあります。他の家も、倒れなかったではありません。倒れ方が小さかったのです。台風の場合も豪雪の場合も同じことです。備えが充分なら全く被害はない、ではありません。被害が小さく済むということです。


★さて、何故このような話をしているのでしょうか。そもそも、何故イエスさまはこのような譬え話をなさったのでしょうか。

 何時でも、答えは一つしかありません。この譬え話は、単なる人生論や処世訓ではありません。まして、イエスさまの父ヨセフが大工だったから、その知識に基づいて、建築についてアドバイスしているのではありません。教会に、教会員に向けて語られています。

 私たちは、この譬え話を、我が教会に向けて語られたこととして聞かなくてはなりません。我が教会をも、台風が襲ったのです。それとも、大地震だったでしょうか。大きな樹木が根こそぎにされ、ひっくり返ってしまうような体験をしたのです。


★何故、教会を台風や地震が襲うのかと、躓づきを覚える人もあったかも知れません。実際、それが原因で教会を離れた人もあります。信仰そのものから離れた人もあります。

 その大災害を神さまの御旨から出たことだとは言いません。誰もそんな大それたことは言えません。

 しかし、肝心なことは、ひっくり返った根っこを見たと言うことです。普段は見えなかった、土台やその下まで露見したと言うことです。

 ならば、そこで見たことを、見た物を教訓とするしかありません。

 2度と同じ災害が起こらないならば、こんな良い事はありません。しかし、また起こるかも知れません。ですから、過去を教訓として、備えをして、同じような災害に襲われても、倒れないようにしなくてはなりません。それでも倒れるかも知れません。しかし、

『倒れ方がひど … くな … かった』としなければなりません。


★『信徒の友』の最新号を見ました。『日毎の糧』と言う欄があります。そこに祈りに覚える教会の最新情報が掲載されています。読むと、がっかり、むしろがっくりします。少数の例外を除いて、軒並み、教勢が下がっています。かつての勢いを知るものの目から見ますと、半分三分の一にまで、礼拝出席者が減り、祈祷会は振るわず、教会学校は壊滅に近い状態です。

 20年前30年前から指摘されていた教会員の高齢化が現実になり、そこにコロナが追い打ちをかけた結果でしょう。

 台風被害も、やがては復旧します。豪雪は春には消えます。どんな豪雪も夏までは残りません。しかし、教会を襲った嵐からの復旧はあるのでしょうか。


★21節に戻って前半だけ読みます。

 【「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。】

 『主よ、主よ』と言うのですから、直接イエスさまの元に来ているのでしょうか。現代ならば、お祈りでしょうか。そのように『言う者が皆、天の国に入るわけではない』そうです。口に唱えているだけでは駄目だそうです。

 『主よ、主よ』と言うのですから、従順そうです。イエスさまの御言葉に逆らうようには見えません。しかし、そのように『言う者が皆、天の国に入るわけではない』そうです。


★21節の後半。

 『わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。』

 『御心を行う者だけ』です。実践を伴わなくてはならないと言われています。

 口先だけではなく、実践しなくてはならないということでしょうか。実践が必要だとあるのは、当然だと言えば当然です。口先だけなら何でも言えます。誰だって言えます。

 

★22節。

 【かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、

   御名によって悪霊を追い出し、

  御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。】

 『天の国に入るわけではない』彼らは、必ずしも口先だけの人ではありません。行っています。『御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し』、更には『御名によって奇跡をいろいろ行った』とあります。

 間違いなく実践しています。本当はしていなかったなどとはどこにも書いてありません。間違いなく実践しています。

 しかも、これらの三つの業について、どれにも『御名によって』と前提が記されています。勝手にやったのではありません。自分の手柄にしたのでもありません。ちゃんと『御名によって』行いました。


★関連する聖書個所を引用します。

 使徒言行録19章11〜16節。

 『11:神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。

  12:彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、

   病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。

   13:ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、

   悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、

   「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。

   14:ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。

   15:悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。

   パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」

   16:そして、悪霊に取りつかれている男が、

   この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、

   彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。』

 形、呪文の言葉が正しければ、それで通用する訳ではありません。

 やはり、どこに立っているのかが問われています。間違った礎のうえに立っていて、その上に何を積み上げても、意味をなしません。


★マタイ福音書に戻ります。7章23節。

 【そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。

   不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」】

 何か悪いことをした人に、『不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』と言われているのではありません。何もしなかったから『不法を働く者ども』と言われているのではありません。どこに立っていたかが問われています。

 

★更に先週の箇所になります。

 7章17〜18節。

 『17:すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。

  18:良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。』 言い換えれば、間違った場所に立っていて、良い行いを成し遂げ、良い実を付けることなど、決して出来ないのです。


★長いので引用しきれませんが、使徒言行録8章に、魔術師として人々に影響を持っていたシモンという名の人物が、同じシモンつまりペトロの起こす奇跡を見て、何とかその力を手に入れたいと思います。

 その後を引用します。物語の一部ですが、それでも長い引用になります。

 『18:シモンは、使徒たちが手を置くことで、“霊”が与えられるのを見、

   金を持って来て、

 19:言った。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、

   わたしにもその力を授けてください。」

 20:すると、ペトロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。

   神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。

 21:お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。

  お前の心が神の前に正しくないからだ。

 22:この悪事を悔い改め、主に祈れ。

  そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。』


★使徒の権威を金で買うことは出来ません。そもそも信仰をお金で売買することなど、出来よう筈がありません。売買出来ると考えている新興宗教や教派がありますが、彼らは、魔術師シモンと何も変わりません。

 『お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。

  お前の心が神の前に正しくないからだ。』

 これだけが問われています。『心が神の前に正し』いかどうか、それだけが問われています。『心が神の前に正し』い、それが『岩の上に自分の家を建てた賢い人』です。

 岩の上に立てられていない偽キリスト教は、風が吹けば吹き飛んでしまいます。