日本基督教団 玉川平安教会

■2022年2月13日 説教映像

■説教題 「神を信じない人は

■聖書   ヨハネの手紙一 5章6〜12節 

◇今日の個所は大変に分かりづらい所です。初めて聖書を読んだ人には、さっぱり分からないと言われるでしょう。もし、今日初めて礼拝に見えて、最初に読んだのがこの個所だったら、「私には聖書も教会も無理だと」、二度と礼拝に見えないかも知れません。

 一方で、聖書の内、どの個所なら初めて読む人にも、理解・共感が得られて、「聖書は面白い、礼拝は興味深い」と言って貰えるでしょうか。そのような個所は、福音書の中のごく一部の記事に過ぎないかも知れません。


◇難解な今日の個所でも、最も難しいのは、7〜8節でしょう。

 『7:証しするのは三者で、8:“霊”と水と血です。この三者は一致しています。』

 何が何だか分かりません。初めて読んで理解・納得出来る人はいないでしょう。


◇何とも仕方がありませんので、今日は、聖書研究じみますが、1節1節一語一語、順に読んでまいります。

 学校のお勉強みたいで嫌だと思われるかも知れませんが、しばらくお付き合い下さい。その方が、この個所のメッセージが、正しく確実に伝わると思います。

6節。

 『この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。』

 『水〜を通って』という表現は、教会員ならば、直接的に洗礼のことを連想させられます。マルコ福音書は、イエスさまの洗礼から物語が始まります。ルカ福音書とマタイ福音書にはクリスマスの出来事が先ず記されていますが、これは大胆に言えば、序章であって物語の本筋ではありません。

 映画ではそんなことが珍しくありません。極めて印象的な序章・プロローグがあって、その後本編に入ります。物語が進んでも、印象的な序章・プロローグとは無関係にしか見えません。序章の意味が分かるのは、物語の終わりに近くなり、主題がはっきりとしてからのことです。

 ルカ福音書とマタイ福音書のクリスマス物語も、実はおんなじです。この記事の意味が本当に分かるのは、福音書のクライマックス、十字架の場面を読んでからのことです。逆に言えば、十字架の場面を読まなくては、クリスマス物語の本当の意味は分かりません。

 ですから、世の人は、クリスマスとイエス・キリストが結び付きません。イエス・キリストと無関係にクリスマスをお祝いしています。仕舞いには、クリスマスをサンタ・クロースの誕生日だと思っています。


◇難解な個所を読むために、なるべく分かり易くお話ししたいと考えたのですが、却って難しくなったでしょうか。元に戻ります。

 『水〜を通って』という表現で、教会員ならば、直接的に洗礼のことを連想します。それで間違いありません。イエスさまがバプティスマのヨハネから洗礼を受けられたことであり、私たち一人ひとりが洗礼を受けたことです。

 もう一つのことが、重ねられていると考える学者もいます。つまり、イエスさまが十字架に架けられ槍で突かれた時に、血と水とが流れ出たという記事です。そうかも知れません。『水と血を通って』と符合します。

 しかし、『水と血を通って来られた』とは、符合しません。十字架の場面で『通って来られた』は、ちょっと奇妙です。


◇6節の続きを読みます。

 『水だけではなく、水と血とによって来られた』

 ここを読んでも、聖書にこれと重なり、この場面だと思い当たるような所はありません。『来られた』という表現は、イエスさまは誕生されたという意味ではないようです。『来られた』とはもっと広く、イエスさまの全生涯のことであり、福音書に描かれている場面全部のことだと思います。

 そして、ちょっと飛躍で申しますが、キリスト者全員に重ねられているのだと考えます。


◇『水〜を通って』がイエスさまの受洗のことであり、また、私たちの受洗と重なっているならば、『血を通って』も同様で、イエスさまの十字架・受難のことであり、また、私たちの受難と重なっているのだと理解すべきでしょう。一ヨハネの時代ならば、これは殉教を意味します。

 『水〜を通って』つまり、洗礼を受けて信仰の道に入った者は、『血を通って』、つまり、殉教を経て、神の国へと入れられると読んだら、少し乱暴でしょうか。乱暴な解釈かも知れませんが、全く間違ってはいないと思います。少なくとも、この時代には現実的なことだったでしょう。


◇6節の後半部を読みます。

 『“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。』

 一ヨハネは、なかなか説明が困難なことを説明するために、“霊”を持ち出しています。理屈では納得出来ないかも知れないが、“霊”が『証しする』と言っています。

 意地悪い読み方をすれば、これは「機械仕掛けの神さま」です。昔、ドイツ当りの人形劇で、話がこんがらがって来ると、神さまやら天使やらが現れて、無理矢理にでも、勧善懲悪の結末になります。これをもじって、説教でもつじつまが合わなくなると聖霊が登場し、無理矢理に帳尻を合わせることを、「機械仕掛けの神さま」と言います。

 水戸黄門の印籠に近いでしょう。はじめっから印籠を出せば、チャンチャンバラバラは必要ありません。それまでに苦しめられる貧しくも正義の人々の苦労もありません。しかし、チャンチャンバラバラがあり、それから印籠が出ないと物語は成立しません。


◇6節の“霊”は、なかなか理解出来ることではありません。逆にこの個所を“霊”というものを理解する一つの有力な手がかりにした方がよろしいかと思います。

 先に進みます。最初に難解だと言った個所です。

 『7:証しするのは三者で、8:“霊”と水と血です。この三者は一致しています。』

 擬人的に表現されています。そもそも、“霊”は擬人的な表現です。“霊”はこんな姿形をしているなどということは言えません。聖書にそんな記述はありません。聖書に、父と子と聖霊とが並んで立っているというような表現はありません。

 聖書に全く描かれていないイエスさまの姿を、絵に描く想像力逞しい画家でも、聖霊の姿を描くことは出来ません。


◇『水と血』つまり、イエスさまの誕生と十字架までの生涯、これと、“霊”とが、『一致しています』と一ヨハネは言います。この表現からして、“霊”とは、『水と血』に比較できるものであって、ここでは擬人、つまりは人格的に描かれているのではなく、事柄・出来事として描かれています。

 父・子・聖霊では完全に人格のように表現されていますが、ここでは違います。


◇聖書の翻訳どころか、原文の表現についてとかく言うのは、僭越どころか、冒涜かも知れませんが、意味合いとしては『“霊”と水と血です。この三者は一致しています』ではなく、「この三つの事柄は、互いに関連したどころか、一つの統一した事柄です」このようなことだと考えます。


◇9節。

 『わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。』 これが、“霊”という言葉が、ここで用いられた理由です。

 ややこしいことは省略して、人間の言葉・証言よりも、神の言葉・証言が正しいに決まっています。旧約の裁判では、二人以上の証言があって有効になります。そこで、3人証人を上げられれば、その証言は確実な証拠となります。ここでも、『“霊”と水と血』の三つが証拠となり、まして神から出た証拠ですから、確実なものであると言われています。


◇9節後半。

 『神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。』

 マルコ福音書の冒頭、イエスさまの受洗の場面です。今日の個所との関連が深いので、少し長い引用をします。

 『9:そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、

  ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。

  10:水の中から上がるとすぐ、

  天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。

  11:すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、

  天から聞こえた。』

 これが『神の証し』でしょう。しかし、この言葉だけではありません。マルコ福音書全体が、『神の証し』です。

 マルコ福音書1章1節。『神の子イエス・キリストの福音の初め』

 『神の子イエス・キリスト』この言葉が、そしてマルコ福音書全体が、福音であり、『神の証し』です。


◇10節。

 『神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり』

 またまた難解な表現です。しかし、なるべく単純に読みたいと思います。

 『自分の内に … ある … この証し』とは、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という神の言葉です。この神の言葉を信じる信仰です。この言葉、この信仰は、人間の心の内にあります。

 大胆に約めて言えば、私たちの心の内にある信仰こそが、『神の子イエス・キリスト』を証ししています。それ以上の証拠・根拠、最近の流行の言葉でエビデンスは、他の場所には見つかりません。証拠があれば信じられるではなくて、信仰が証しするのです。信仰こそが証拠なのです。


◇『証し』という字と、殉教という字は全く同じギリシャ語です。殉教こそが最大の『証し』という意味でしょう。つまり、単なる言葉ではありません。信仰そのものであり、信仰に貫かれた人生そのものです。

 このことが、『“霊”と水と血です。この三者は一致しています』という難解な表現の理解にヒントを与えてくれるように思います。洗礼を受け、信仰者として歩み、やがては殉教ならずとも、神の国に召される、要するにこの信仰の生涯全体が『“霊”と水と血です。この三者は一致しています』という難解な言葉の意味です。


◇この信仰の内容について11節で再び述べられています。

 『その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと』

 これこそが、信仰者の信仰の内容です。信仰とは何を信じることなのか、いろんなことが上げられるかも知れません。使徒信条には、信仰の項目が述べられています。

 例えば『処女マリアより生まれ』これに魅力を覚える人もいますし、とても信じられないと躓く人もいます。他の項目も同様です。

 しかし、一番肝心なことは、『神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと』です。何故どのようにして、それが福音書のみならず、新約聖書に縷々語られていますが、一番肝心な信仰の項目内容は、『永遠の命を信ず』です。


◇『永遠の命を信ず』と言いましても、今度は『永遠の命』とは何か、天国とはどのような所かと、議論は止まないでしょうが。何であれ、『永遠の命を信ず』が、信仰の内容です。これを信じるかどうかが、要するに聖書の教えを信ずるか信じないかです。


◇12節。

 『御子と結ばれている人にはこの命があり、

  神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。』

 『御子と結ばれている』とは具体的にはどのような意味なのか、ここでも議論は残りますでしょう。一番簡単に言えば、ローマカトリックの言うように、教会に繋がっているかどうかでしょう。この教会という言葉にかなり幅はあるかも知れません。教会とはローマカトリックに限らないと思います。しかし、『御子と結ばれている』とは具体的に、洗礼を受け教会員として礼拝を守り続けていると言う意味ならば、ローマカトリックの言う通りだと思います。

 このことは、今日の個所の教えに全く合致します。そも、一ヨハネは、『初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。』から始まります。つまり、具体的に教会で語られてきた福音です。つまり、信仰と教会生活とは、バラバラになってはなりません。切り離すことは出来ません。


◇『永遠の命を信ず』とは、単に霊魂不滅を信じることではありません。主の十字架の贖いを信じることであり、福音に救いがあること、福音を伝えるのが教会だと信じることです。そういう意味合いで、今日のとても難解な個所を、一言で要約するならば、教会を愛し、礼拝を愛することが、即ち『永遠の命を信ず』です。つまりは信仰そのものです。