日本基督教団 玉川平安教会

■2021年12月19日 説教映像

■説教題 「命を捨てた神に

■聖書   ヨハネの手紙一 3章11〜18節 


★『タイムマシン』や『宇宙戦争』で知られるH.G.ウェルズに、『ドクターモローの島』という作品があります。これも有名な小説です。映画にもなっています。

 モロー博士が、薬物・化学療法や外科手術まで用いて、野獣を人間の姿形に造り替えます。心・精神も人間に近づけるべく、絶対に破ってはならない掟を授けます。それは「二本足で歩け」「人間の血を流すな」、もっと簡単に言えば、「仲間を殺すな、食べるな」です。途中いろいろありますが、結末は悲劇を迎えます。どんなに人間の姿に近づけても、野獣は野獣ということです。


★創世記1章27節。

 『神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。

  男と女に創造された。』

 創世記2章7節。

 『主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、

  その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。』

 今日は詳細をお話しする暇はありません。結論だけを申します。人は、神の姿に似せて創造されました。しかし、それは神と似たように目鼻口、顔・姿形をしているという意味ではありません。似ているのは、神の息つまりは聖霊そして愛を呼吸してしているということ、そのことにより、互いに愛し合うことが出来るという点です。人は、神のように愛を持つことが出来る存在として創造されました。


★しかし、創世記2〜3章に描かれているように、人間は禁断の木の実を口にしました。その結果、善悪を知りました。善悪を知ったと言うと良いことのように聞こえますが、同時に、自我を持ちました。来れも悪いことではないでしょうか。人間は神の目から逃れて自分の裸の姿を隠そうとします。これは、人間が神の目から隠れようとする、罪を犯す存在となったことを意味します。

 結果は創世記4章の出来事に繋がります。これも詳細を語る時間はありません。結論は、兄弟を殺したということです。人は愛し合う存在ではなく、殺し合う存在となったのです。

 これ以降、創世記には兄弟が兄弟を憎み、殺す場面が頻繁に登場します。


★Tヨハネ3章11〜12節。

 『11:なぜなら、互いに愛し合うこと、

  これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。

  12:カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。

   なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。』

 人は愛し合い助け合う者として創造されました。しかし、人間の現実は、互いに競争し、互いに憎み合い、互いに殺し合う者となってしまいました。それが、人間の現実です。

 隠しようもない真実の姿です。


★『なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。』この言葉は、とても強い表現です。拘って聞かなくてはなりません。カインとアベルのことを指していますが、これこそ、人間の姿だからです。

 『自分の行いが悪』いから、『自分の行いが悪』いことを自覚しているから、反省するのではなくて、相手を憎むのです。悪い者こそが、正しい者を憎むのです。


★シモーヌ・ヴェーユは、『重力と恩寵』で、「愛の反対にあるものは憎しみではなく、無関心である」と言っています。その通りかも知れません。共感します。なんだかマザーテレサの言葉として伝えられているようですが、勿論、シモーヌ・ヴェーユが先です。

 聖書にも、同様の趣旨の記事があります。しかし、今日の箇所について言えば、或いは、ヨハネについて言えば、必ずしもシモーヌ・ヴェーユは妥当しません。ヨハネについて言えば、「愛の反対にあるものは憎しみで」す。これこそが教会の戒めとしなければならないことでしょう。間違っても教会は、憎しみの上に立ってはなりません。

 そんなことは言うまでもない、 … とは、残念ながら言えません。そういう現実が歴史上かつて存在したし、今も存在するかも知れません。

 歴史上になどと言うと他人のことみたいです。私たちの教会にこそ、そんなものは存在してはなりません。


★13節。

 『だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。』

 簡単に説明すれば、世は間違っている、そしておそらくは間違っていることを自覚している、だからこそ、義や平和や愛を説く教会を憎むのだという理屈です。

 いろいろなインチキ宗教は、仮想敵と言いますか、ありもしない敵をでっち上げて、これを憎ませることで、強烈な団結や忠誠心を育てます。政治的にも利用されます。

 この言葉も、そんな風に聞こえてしま羽化も知れませんが、Tヨハネの時代は、嘘偽り何の誇張もなく、世が教会を信仰を弾圧していました。信仰者は時に命さえ奪われました。大変なことです。キリスト者は御利益を期待して教会に連なるのではありませんが、それにしても、教会に通っても良いことがないなどという生易しさではありません。命の危険までありました。


★1ヨハネはこの状況を逆手にとっています。『世があなたがたを憎』むのは、彼らが間違っているからで、あなた方は正しい、迫害されることこそ、正しいことの証明なのだと、慰め励ましています。

 これは現代の教会にも当て嵌まると考えます。義や平和や愛を説く教会を、憎み迫害する敵は多分ありません。しかし、義や平和や愛を説くことを小馬鹿にする人はいます。義や平和や愛を説くのは馬鹿馬鹿しいと思う人がいます。そんなことを大真面目に考える人のことを、嫌うのです。

 しかし、それこそが、正しいことの証明でしょう。


★まして … 11節をもう一度読みます。

 『互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。』

 世の人が何と受け止めようと、小馬鹿にしようと、これこそが、教会の最初からの教えです。教会が教会である限り変えられない、変えてはならない教えです。掟です。


★14節。

 『わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。

   兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。』

 ここは拘りをもって、厳密に読まなくてはなりません。愛を知らない者、兄弟を憎む者は、地獄に落とされるという意味合いではありません。

 何しろ、『死にとどまったまま』です。何もなければ、つまり、生まれながらのままならば、天然自然のままならば、人は死に定められた存在であり、『死にとどまったまま』の存在だと言っています。それが、愛を知ること、『兄弟を愛』することによって、『死から命へと移った』のです。

 愛さなければ、移らなければ、人は死に定められた存在であり、『死にとどまったまま』の存在だと言っています。


★『ドクターモローの島』の野獣は、本来、愛を知らない獣に過ぎません。『ドクターモロー』は、動物を人間に変える実験に失敗しました。神さまも人間創造の業に失敗したかのようです。

 15節前半。

 『兄弟を憎む者は皆、人殺しです。』

 人は人を食べてはならないというのが、『ドクターモローの島』の第1の戒律・掟です。

 人間は確かに人を食べはしません。しかし、それと同様のこと、もっとあくどいことをします。人を食い物にするという表現が、それを良く表しています。

 イエスさまの教えにも同様のことが語られています。

 マタイ福音書5章21〜22節。

 『21:「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は

  『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。

  22:しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。

   兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、

   『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。』

 『殺すな』は、『ドクターモローの島』の掟にもあります。それだけでは、野獣から人間になるための掟に過ぎないでしょう。

 

★『兄弟に腹を立てる』な、『兄弟に『ばか』と言う』な、これは、人間が神さまからその息を吹き込んで貰った者への掟です。愛の教えです。

 15節後半。

 『あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。』

 野獣だって呼吸しています。人間も呼吸します。それだけでは駄目なのです。空気だけではなく、愛を呼吸しなくてはなりません。聖霊を呼吸しなくてはなりません。神さまの息を呼吸しなくてはなりません。

 

★同じ屋根の下でとか、同じ釜の飯を食うというような言い回しをします。それ以前に、私たちは同じ空気を吸っています。同じ空の下にいるからには、同じ空気を吸っています。

 金魚鉢の中に、多くの金魚がいるとします。彼らは同じ水を吸い、また出しています。見ていて、汚いなあと思いことがあります。同じ水を吸うだけではなくて、泄排も一緒です。うんこもおしっこも、呼吸しています。

 しかし、人間だって同じことです。一緒の空気を呼吸し、吐き出しています。

 これは、環境問題の話ではありません。否、環境問題の話かも知れません。但し、大気汚染の話ではなく、人間を取り囲む人間関係という環境の汚染の話です。

 まして、私たちは同じ教会の空気を、聖霊を呼吸しています。そこにはマスクも空気清浄機もありません。何もかも、同じものを呼吸しています。


★16節。

 『イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。

   そのことによって、わたしたちは愛を知りました。』

 毎年クリスマスの度に申します。受肉、神が人間の姿になられたとは、ギリシャ神話のように、神が人間の世界で妻を娶ったり子を設けたりすることではありません。神が人間の姿になられたとは、人間と同様に、病を知り、死を知ったということです。

 かつて、神さまは、塵・芥で形だけ作られた人間に、その息を吹き込まれ、生きた者として下さいました。今、クリスマスの出来事で、神さまが人間の息を呼吸して下さったのです。私たちの金魚鉢の中に入られて、その汚染された水を呼吸して下さったのです。

 『命を捨ててくださいました』とは、そのような意味です。


★16節後半。

 『だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。』

 これは飛躍した論理ではありません。私たち人間が、自分という存在に拘泥し、ために、隣人に寛容でいられないのは、禁断の木の実を食べたからです。つまり、自我を持ったからです。これこそが、他の動物とは決定的に異なるものでしょう。最大の宝物です。

 しかし、私たちは、その宝物である筈のもので、他を自分から切り離し、愛することが出来なくなってしまいます。十字架の愛を知らなければ、そこに留まっています。


★17節。

 『世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、

   どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。』

 急に話が具体的になりました。

 多分、ここにこそ、Tヨハネの執筆理由があると考えます。これが当時の教会の現実だったのでしょう。

 当時のローマでは、自由市民一人当り、12人の奴隷がいたそうです。20人という説もあります。何が民主主義か、とんでもありません。どうしてそんなに奴隷がいたのか、隣国を攻め、その国民を奴隷として捕獲したからです。Tヨハネの時代のローマは五賢帝と呼ばれた皇帝の時代で、反映の頂点だったかも知れません。しかし、それは略奪、奴隷労働の犠牲の上に成り立ったものでした。

 日本でも、戦国時代、同様のことがあったそうです。戦に敗れた国の民衆は奴隷とされ、時に売買までされました。その奴隷売買に、ローマの宣教師が拘わっていたというのですから、話にもなりません。今日でも、貧しい労働者の犠牲の上に、繁栄があるとしたら。

 18節。

 『子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。』

 クリスマスはサンタクロースの誕生日ではありません。せめて、サンタクロースを見習ったプレゼントがなければ、主の十字架の犠牲に応えることは出来ません。