日本基督教団 玉川平安教会

■2021年5月9日 説教映像

■説教題 「サタンにつけ込まれるな
■聖書   コリントの信徒への手紙二 2章5〜11節 

$『悲しみの原因となった人がいれば』、同じ5節が、口語訳聖書では、『もしだれかが人を悲しませたとすれば』、直訳では『悲しみの原因を置いた人は』となります。

 口語訳が一番すっきりした日本語に聞こえます。しかし、直訳からは若干離れています。『もしだれかが人を悲しませたとすれば』、この口語訳では、悲しみという言葉が、小さいことのように聞こえます。悲しみという事柄が、小さいことのように響きます。そうではないでしょうか。『悲しみの原因を置いた人は』、こうだと、出来事は決して軽いことではなく、その原因を作った人の罪も重いように聞こえます。


$ 例によって、パウロは何が起こったのか、あまり具体的には記していません。コリント書全体を読めば、また、使徒言行録と対照して見るならば、何が起こったのか想像出来ないことはありません。おおよその見当くらいは付きます。

 しかし、コリント教会員への配慮もあってのことでしょうが、パウロ自身が詳しくは述べていないことを、あれこれ詮索するのには無理があります。

 起こった出来事は、決して小さいものではなく、それどころか、教会を二つに引き裂く程のことであり、パウロが、伝道者としての働きに挫折感を覚える程のことでした。

 毎回お話していますが、1章9節にこのように述べられています。


$『わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、

   死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。』

 これはアジアで起こった出来事を回想しているのであって、コリント教会での出来事ではありません。しかし、コリントでこそ、パウロは、『死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。』そのような体験をしたのです。だからこそ、コリント教会員への手紙で、このことを語ったいます。


$ つまり、『悲しみ』とは、私たちがこの言葉から連想するような、小さなことではありません。

 私は『悲しみ』と聞くと、中原中也の『汚れちまった悲しみに』という詩を連想します。

  … 汚れちまった悲しみに  今日も小雪の降りかかる

   汚れちまった悲しみに  今日も風さえ吹きすぎる

 また、フォーク・クルセダーズの『悲しくてやりきれない』というを歌を思い出します。

  … 悲しくて 悲しくて とてもやりきれない このやるせない 

   モヤモヤを だれかに 告げようか

 サトー・ハチロー作詞です。悲しい、もの悲しい、そのような響きがあります。

 しかし、この箇所の『悲しみ』は、そんなことではありません。同じ字が、苦痛と訳されている箇所もあります。乱暴、暴虐、虐待という字も元々同じ字です。


$ 5節全体の意味合いも、重要です。解釈の根拠を上げていますと無意味に長くなりますので、結論部分を言います。パウロが言いたいのは、この人物は、単にパウロを悲しませた或いは苦しめたのではなく、コリント教会全体を悲しませた或いは苦しめたのだということです。

 パウロを悲しませた人とは、神学的な見解、教会論の違いから、パウロを批判するユダヤ人キリスト者に荷担してパウロを批判した人のことです。結局、彼らは、コリント教会に分裂をもたらしました。

 コリント教会には、実に様々な問題があり、パウロは命がけの戦いをしなくてはならなかったのですが、何よりも深刻な問題は、教会員が党派に分かれ争うことでした。パウロの宣教さえ、この争いの種にされて、教会の中にパウロ派と反パウロ派とが生まれたのです。


$ コリント第一2章11へへ12説。

 『あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」

   「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。

  13:キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。

   パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。

  あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。』

 そして、その一方では、我関せずというノンセクトならまあよろしいのですが、教会がどっちに転がってゆこうと、私には利害がないから関心がないというノンポリも存在しました。

 教会のことは往々そうなってしまいます。具体的な話をする誘惑に駆られますが、パウロも我慢して押さえていることですから、我慢しましょう。


$ 6節。

 『その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。』

 これも具体的なことは述べられていません。推測する材料さえありません。特定する必要はないということでしょう。分かっていることは、処罰を受けたということです。放置されていたのではありません。いけないことはいけないと明確にされ、その上で赦されたのです。


$ 7節。

 『むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、

   赦して、力づけるべきです。』

 赦すだけではありません。『力づけるべきです』と言われています。

 罪の赦しとは、漠然としたことではありません。具体的なことです。

 観念的なことではありません。実際的なことです。つまり、処罰を含めて、ケアなのです。


$「ほっとけは、ホットケア」という言葉があります。まあ、単純な駄洒落です。駄洒落を解説するのは本来野暮もいいところなのですが、まあ、念のために説明します。

 「ほっとけ」つまり何もしないようだけれど、そっと見守ることは、「ホットケア」つまり心暖かい配慮だと、こういうわけです。そして、ホットケとは、「仏はホットケ」というくらいで、仏教的な東洋的な心配りということなのでしょう。

 パウロの姿勢はこれとは違います。先ず、キチンと処罰しなければなりません。つまり、事柄を明らかにしてシロクロを付けます。シロクロを付け、しかるべき処罰がなされなければ、罪の赦しもまたありません。

 しかるべき処罰がなされたからこそ、『罰はもう充分』だとして、刑の終わり、即ち放免、即ち赦しが宣告されます。

 この点に関しては、いろんな意見がありますでしょう。私なども、正直両手を挙げて賛成とはまいりません。しかし、パウロはそのように言っています。聖書はそのように記しています。これを否定は出来ません。


$『その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。』

 罪を犯し、処罰を受け、悔いているこの人が、悲しみに打ちのめされないように、今度は、赦して、力付けるのです。

 『悲しみに打ちのめされて』口語訳では『ますます深い悲しみに沈む』とは、『絶望に陥り』抜け出せなくなるかも知れないという意味合いです。絶望こそ、最も大きな罪だから、それを回避できるように配慮して上げなくてはなりません。

 処罰がなければ赦しがない、パウロの言う通りではないかと思います。


$ 青山学院の大学礼拝で説教を担当した時のことです。礼拝が終わってから珍しく、一人の女子学生から幾つかの質問を受けました。

 懺悔のことについてです。カトリックのサクラメントである告解のことについて、特に神父さんによって罪の赦しが宣告されることについて、強い反感を感じるということでした。

 この子のいう通りで、ローマカトリックの儀式的な告解については、100パーセントは賛成出来ません。しかし、大方のプロテスタント教会が忘れている大事な側面があります。このことも見なくてはならないでしょう。

 プロテスタント教会は、懺悔・告白を捨てた訳ではありません。勿論、懺悔・告白に伴う罪の赦しも捨てた訳ではありません。

 そうではなくて、プロテスタント教会では、告解のための特別な個室はありませんし、特別な時間もありません。牧師が、罪の告白を聞き、何らかの権威に基づいて刑罰を下し罪の赦しを宣告するということもありません。しかし、それらは、礼拝そのもので行われるのです。礼拝の中に、罪の告白、そして赦しの宣言が存在すると考えるのです。

 プロテスタント教会でも、罪の告白も、当然赦しも与えられます。勿論、プロテスタント教会でも、罪の告白がなければ、当然赦しも与えられません。つまり、いくら聖餐式のパンを食べ葡萄酒を飲んでも、罪の告白がなければ、その前提となる信仰の告白がなければ、意味がありません。

 これが聖餐式をフリーとしてはならない理由の一つです。

 

$ 8節。

 『そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。』

 『愛するように』、パウロに対して敵対した者を愛しなさいということも大変なことです。しかし、もっと違和感を覚えるのは、『愛するようにして下さい』という表現です。『して下さい』は、『進める』、『勧告する』という意味です。

 ここの『愛するようにして下さい』、『して下さい』という部分が、岩隈直訳では、『決議する』となっています。『決議するように勧告する』です。

 この字は、「法的に有効にする。決議する。貫徹する」そんな意味の言葉です。

 処罰するという点でも、うやむやにしないで、毅然と処置するのですが、その赦しにおいても、決然としています。何となくではありません。ほとぼりが冷めるのを待つなどという感覚ではありません。

 矢張り、罪の処罰がない所には、赦しもまたないし、逆に言えば、罪の処罰がある所には、赦しがなければならないのです。


$ 9節は、いかにも、パウロらしい表現です。

 『わたしが前に手紙を書いたのも、

   あなたがたが万事について従順であるかどうかを試すためでした。』

 これは、一種の洒落です。ギャグであり皮肉です。

 パウロは時々ギャグを言います。しかし、どうも私たちは、このギャグさえ必死になって聞いてしまいます。

 もう10年前にことになります。東京神学大学の学生による日本伝道会・北海道キャラバンで、私が途中から合流した時、一行の中で、駄洒落が流行っていました。自動車で長い旅行をしますから、遊びで始めたことのようです。

 ホテルに辿り付いてミーティングが始まりました。日本伝道会の会長、元教団議長の小島誠志先生が、何も発言しないで隅っこの方に座っています。誰かが、「先生、そんな隅にいないで、どうぞ」と意見を求めたら、小島先生が、「若い人に任せますよ、私は、隅のおやじだから」と、珍しく駄洒落を言いました。駄洒落を言うチャンスを狙っていたのかも知れません。これはマタイ福音書21章42節『隅の親石』のもじりです。

 しかし、真面目な小島誠志先生が駄洒落を言うと誰も思わないから、全然通じません。本人が『ギャグなのに』と完全な蛇足を加えました。

 そこで、私が、『おや、自虐ですか』と駄洒落を重ねましたが、これも誰も分かりません。


$ 肝心の聖書のギャグについてお話していませんでした。

 『万事について従順であるかどうかを試す』と言います。万事とは、パウロに敵対した人間の罪を赦すことについてもまた当てはまります。

 10節では、このように言います。

 『あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。

   わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、

  キリストの前であなたがたのために赦したのです。』

 『あなた方が赦す人は … 私も赦す』『私が赦したのは、あなたがたのためにキリストの前で』これは、パウロの万感を込めた表現です。

 パウロを苦しめた人をパウロが赦すと言うのだから、あなた方もこの人を赦さなければ、あなた方は、パウロに従順だとは言えませんよ。

 皮肉といえば皮肉です。既に申し上げておりますように、ギャグです。

 

$ 11節。

 『わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。

   サタンのやり口は心得ているからです。』

 互いに寛容になれずに、他を批判して、自分の拳が痛むまで人を殴りつける、こういうことを、サタンの策略にはまったと言います。

 更に、パウロは、『わたしたちは、彼の策略を知らないわけではない』と言います。これもギャグです。きついギャグ、ブラックジョークです。

 パウロ本人がサタンの罠にはまっていたということではないでしょうが、コリント教会を舞台に、サタンの罠にはまったとしか言いようのない争いをしてきたのです。そんなことは、もう十分だとパウロは言うのです。

 

$ パウロの赦しは、己れ一人が、義を言い立てて、他の人の苦しみや痛みを知らない者の赦しではありません。無関心・無責任に基づく、無駄な寛容さではありません。

 自分がさんざんに傷ついた体験を持つ者、充分過ぎる刑罰を受けた者の赦しです。

 『わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、

  死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。』

 そう言う体験に基づいた赦しです。