日本基督教団 玉川平安教会

■2021年11月21日 説教映像

■説教題 「神は光

■聖書   ヨハネの手紙一 1章5〜10節 


★先ずは、順に5節から見ます。

 『わたしたちがイエスから既に聞いていて』

 大変具体的な表現です。しかし、著者もしくはその仲間たちが、『イエスから聞い』たとは限りません。先週も申しましたように、イエスさまの十字架から少し時間が経っていると思われますので、間に一世代二世代、むしろ三世代以上ある可能性が高いでしょう。

 『わたしたちがイエスから既に聞いていて』とは、直接的な目撃証言だということに強調はありません。著者のグループ、もっと簡単に言えば、教会が伝承してきた教えのことです。もっと簡単に約めれば、福音です。


★もう一度5節を読みます。

 『わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、

   神は光であり、神には闇が全くないということです。』

 『わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせ』つまり、福音の内容とは、『神は光である』、になります。

 ヨハネ福音書にも書簡にも同様の表現、類似した表現があります。『神は光である』というフレーズ通りではなくても、似通ったものが多くあります。また、特に、Tヨハネ4章8節に見える『神は愛である』などが、連想させられます。


★『神は光である』そして『神は愛である』さらには、『蘇りなり、生命なり』、他にもあります。これは、勿論、半分は光であり、後のまた半分は愛であり、更に生命であるということではありません。

 これらは、重なります。『神は光であり』かつ『神は愛であり』さらには、『蘇りなり、生命なり』なのです。

 しかし、そういう話をしていると今日の主題からは外れますし、長くなりますから、もう少し絞ってお話致します。


★5節の終わり。

 『神は光である』『神には闇が全くない』。これは、説明・注釈として、述べられています。神についての唯一の説明です。

 私たちは、光と闇、これを相対的に考えます。二元的なものと考えます。当時のグノーシス的な物の考え方でも、そうでした。

 著者がグノーシス的二元論とどのように関わっているのかという点については、いろいろいと議論のあるところのようですが、少なくとも、この箇所で、著者は光と闇というような二元論的考え方・思想を否定しています。光があればその裏側には闇がある。光が生まれれば、同時に闇を産む。それでは駄目だと言っているのです。


★逆に言いますと、光だと言いながら、結果的に闇を産み出すものは、真の光ではありません。例えば、いかがわしい新興宗教、多くの若者がそこに光を見い出したと言って参加しても、同時に、家族の間には闇を産む、これは偽物だと言っているのです。この当時もそんな現実が存在したようです。

 このことも詳しく申し上げても脱線になるだけですから省略致します。


★光、その言葉の響きは、極めて神学的・神秘な響きを持って聞こえてきます。その通りでしょう。光とは、極めて神学的・神秘的な事柄です。

 しかし、一方で、ごく具体的な事柄でもあります。

 愛、これは、極めて神学的・神秘的な事柄です。しかし、これも、一方で、ごく具体的な事柄でもあります。

 6節7節に述べられていますように、『神は光である』そして『神は愛である』、光に歩むとは、ごく具体的なこと、教会員としての倫理に結びつきます。道徳的な生き方に結びつきます。


★神の光を浴びたと言いながら、この世の倫理・道徳に背く新興宗教が少なくありません。統一原理とオウム真理教を最も典型的な例として挙げることが出来ましょう。他の人が見ることの出来ない光を見た、光の中に生きていると言いながら、盗み、詐欺、殺人まで行います。

 統一原理では復帰というような言葉を使います。あらゆる富・宝は本来神さまのものです。だから、騙して人から奪うことは、神さまの物を神さまに返すこと、つまり、復帰であって、盗みではない、詐欺ではない、むしろ、欺された人を神さまの役に立たせる、ひいては神さまに近づける救済の業だというのが、統一原理の理屈です。

 オウム真理教ではポアと言う言葉がありました。殺人ですが、これは殺された人を天国に送る救済だと言うとんでもない理屈でした。

 一ヨハネはこのような勝手な理屈を否定しています。闇を生み出す光・救いはありません。人を殺すことが命を与えることだなどという、非道徳な詭弁は通用しません。


★『神は光なり』は、『神は愛なり』であり、交わりという言葉に行き着きます。

 交わりとは、必ずしも、人間的な親しさのことではありません。光に歩む者の交わり、教会員の交わりです。

 あまり先々の箇所について言わない方がよろしいのかも知れませんが、ヨハネの第1の手紙は、章を進めるにつれて、ますます倫理問題、愛の交わりという事柄について、詳しく語って行きます。


★さて、今日の箇所でも、7節後半から〜9節では、もっともっと具体的な事柄に展開されています。7節。

 『しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、

   互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。』

 『あらゆる罪から清められます』とは、罪を犯す免罪符を与えられるということではありません。

 中世のイギリスなどでは、これから戦場に向かう貴族・騎士が、教会に寄進しました。戦場では、人殺しは当たり前です。時には、女子どもまで手に掛けます。その罪を問われて、地獄に落とされるのは怖いので、予め寄進して、安堵の免罪符を貰うという考え方です。免罪符があれば、安心して殺人が出来るという考え方です。

 この考え方は、イタリアやアメリカのマフィアにも当て嵌まるようです。

 こんな考え方は、明らかに聖書に背いています。免罪符を貰う人も、与える教会も、許されるものではありません。


★8節。

 『自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。』

 免罪符を貰うのは、貰ったら罪が赦されるというのは、自己正当化です。人間の恐ろしさです。どんな罪も、殺人をも、大量殺戮をも、正当化してしまうのが人間です。

 そんなことは、明らかに聖書に背いています。

 自己正当化は、言い換えれば自己義認です。つまり、イエスさまの十字架を見ない思想です。十字架を否定する思想です。

                                       

★9節。

 『自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、

  罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。』

 罪を罪として認める者、懺悔する者に、初めて十字架の救いがあります。罪の告白、懺悔は、自分の罪の正当化ではありません。

 ここで述べられている罪の告白ということも、勿論、極めて深い信仰的な次元の話であり、ヨハネ福音書でも、その思想・神学の中核をなすものだと言って良いと思いますが、しかし、同時に、これは極めて具体的な事柄です。

 決して、ただの観念論ではありません。

 罪の告白、これは神学的な表現です。そしてまさに神学的な事柄です。しかし、もっと普通の言葉で言えば、独善的にならない、一人よがりにならないで、己の非を認めること、へりくだって、相手の立場を重んじること、こうなりますでしょうか。このような、具体的な側面も忘れてはなりません。

 神学的には、罪と罪の告白のことを信条の中心に据えながら、具体的な人間に向けては、寛容も、容赦もないというのでは、おかしいのです。

 主の祈りの一節。

 『我らに罪を犯すものを、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。』

 具体的な人間に向けて寛容である者に、神は寛容を示して下さいます。


★全部、逆に辿って見れば、良く分かると思います。敢えて、神学的な表現ではなく、人間的な表現に言い換えて見ればこのようになります。

 独善的にならない、一人よがりにならないで、己の非も認めること、へりくだって、相手の立場を考えることが大切です。自分だけが正しいようなことを言っては、話は始まりません。それが交わり、世間のつきあいというものでしょう。こんな風に辿ることが出来ます。そして、このように逆に辿っても、神は愛なりに辿り着くのです。

 

★勿論、このように人間的な側面だけで考えて、今日の箇所を本当に理解することは出来ません。しかし、あまり観念的に見ていては、光とか闇とか、罪とか、交わりとかの言葉が、一人歩きするだけだろうとも思います。

 この箇所は、教会員同士のごく具体的な人間関係というものを想定して語られているのです。

 そして、その背景には、最も肝心なこと、主の十字架が存在するのです。

 

★6節。

 『わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、

   それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。』

 詐欺や盗みを働いていて、『神との交わりを持っていると言』うなど、とんでもない話です。『神との交わりを持っている』から、自分は常人とは違う、特別な人間だ、だから、地上の法律には縛られない、これが、新興宗教、特に統一原理の論理です。

 一ヨハネに言わせれば、それは単なる嘘です。『闇の中を歩む』ことに他なりません。

 『神との交わりを持っている』から、自分は常人とは違う、特別な人間だ、だから、人を殺しても赦される、むしろ殺された人間は殺されたことで、神との交わりを与えられる、これがポアの論理です。一ヨハネに言わせれば、それは単なる嘘です。『闇の中を歩む』ことに他なりません。

 間違っても教会はそんな理屈に従ってはなりません。しかし、長い歴史を通じて、そんな理屈が通ったことが、ままあります。


★ローマカソリックだけを批判出来ません。私たちの教団でも、かつて、こんなことが言われました。

 「圧倒的な暴力・権力の前での必死の抵抗は、暴力ではない」

 そう言って、例えば三菱重工の爆破事件を正当化する声明が、日本基督教団の牧師たちの連名で出されました。未だに、この声明は撤回されていません。教団総会の決議ならば、総会で撤回し謝罪も出来ますが、有志の声明ですから出来ません。

 私は、玉川教会で、三菱重工の専務だった人の洗礼式を執り行いました。

 『神と交わりをしている』、こういう畏れを抱いているならば、『やみの中を歩』くような業など出来る筈がありません。この場合の闇とは何か、まあ、考える必要も特定する必要もありません。多様で、複雑化も知れませんが、分かる筈です。


★『神と交わりをしている』 改めて読んでてみると、大変な表現です。神さまとおつきあいしている、そんなことではありません。これは誰にでも分かります。聖霊によって一体化するとか、何か神秘的な融合を考える人もあるようですが、それは、少なくとも正統的なキリスト教ではありません。

 『神と交わりをしている』 改めて読んでてみると、大変な表現ですが、実は、教会の交わりの中に置かれているということでしょう。それ以上でも、それ以下でもありません。見方を変えれば、教会の交わりの中に置かれている、教会生活をしている、礼拝を守っているということは、それ程の大事なのです。

 聖霊によって一体化するとか、何か神秘的な融合を考えることにも匹敵する、大事なのです。日常的な事柄の延長ではありません。

 何か神秘的融合のようなこと、それだけが聖霊体験であり、神さまを知ることだと考える人があります。私には分かりません。こういう主張をする人は、礼拝の、教会の重さを知らない、認めていないだけではないでしょうか。