日本基督教団 玉川平安教会

■2021年9月5日 説教映像

■説教題 「真に値打ちある誇り

■聖書   コリントの信徒への手紙二 10章12〜18節 


★ 聖書を読む時に大事なことの一つは、キーワードを見つけ、この言葉がどんな意味で使われているかを知ることにあります。多くの場合そんなに難しいことではありません。キーワードは短い文章の中で繰り返し使われることが多いからです。

 必ずしも頻出しない場合があります。その場合でも、逆に全体の意味を正しく捉えるならば、自ずと、このキーワードが浮かび上がって来ます。

 今日の箇所では、どの字がキーワードでしょうか。

 繰り返し用いられているのは、『誇る』です。これがキーワードなのは間違いありません。しかし、もう一つ目立たないキーワードがあります。それは、『限度を超えては』『範囲内で』『定められた期間内で』『定められた範囲内で』『あなた方を超えた他の地域』『他の人々の領域』です。これを一つの言葉で表すならば、「縄張り」でしょう。

 「縄張り」が隠されたキーワードだと言ってよろしいと思います。


★「縄張り」「縄張り意識」は、普通、あまり良い意味では使われないかも知れません。了見が狭いという意味になることが多いかも知れません。テレビの刑事物などを観ますと、頻繁に、警視庁と県警との「縄張り意識」が描かれています。同じ署内なのに部署が違うと、「縄張り意識」が働くようです。会社でも役所でも同じです。

 警察の本当の姿などは、当事者・関係者ではない者には、分かりませんが、こういうドラマがあること自体が、「縄張り意識」の強さ、そして、これへの強い反発があることの証拠です。


★「縄張り」まして「縄張り意識」は、あまり印象が良くありません。しかし、聖書では大事な概念です。

 そもそも、士師記の士師とは、測り縄で土地の地境、所有を決める人のことです。日本の鎌倉時代には、ほぼ士師に相当する、地頭が、その地頭の上に立つ領主が、土地争い裁きを行います。当時はそれが政治だと言ってもよろしいでしょう。

 詩編16編6節。

 『測り縄は麗しい地を示しわたしは輝かしい嗣業を受けました。』

 『測り縄』による正しい秩序、平和、それは神の御心を表すものです。


★ 15〜16節を先に読みます。

 『わたしたちが希望しているのは、あなたがたの信仰が成長し、

   あなたがたの間でわたしたちの働きが定められた範囲内でますます増大すること、

 16:あなたがたを越えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになること、

   わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです。』

 これを「縄張り意識」と言ったらいけないでしょうか。パウロは福音宣教が進むことを願い働きながらも、「縄張り」を超えないと言っているのではないでしょうか。

 それは、12節の『自己推薦する者たち』が「縄張り」を超えてやって来ることと、重ねられて語られているものと思います。


★ コリント前書3章10〜11節を引用します。

 『わたしは、神からいただいた恵みによって、

  熟練した建築家のように土台を据えました。

  そして、他の人がその上に家を建てています。

   ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。

 11:イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、

  だれもほかの土台を据えることはできません。』

 他の人が拵えた土台に、土台を作った人の意図を超え、まして無視して建物を建てることは出来ません。それは「縄張り」を破る行為です。秩序を乱したら、必ず破綻が待ち受けています。


★ ちょっと生臭い話になります。嫌な気がする人もあるかも知れませんが、こういう機会に申します。

 まあ礼儀ですから固有名詞は隠してお話しします。日本基督教団の教会が二つに分裂しました。これは珍しいことではありますが、ままあります。片方は、日本基督教団そのものを否定して、別の教団に加わりました。それは、この人たちの信仰に照らして、ヤムを得ないことなのかも知れません。

 信仰・思想の違いもありましたが、ジェネレーションの問題でもありました。田舎でずっと教会を守り続けて来た年配の教会員は、保守的になりがちです。これに不満を持った若い人たちが、もっと積極的な伝道を目指して独立し、新しい教会を構えたのです。それは、結構なことなのかも知れません。

 問題はその後です。元の教会員に対して、引き抜きが行われます。牧師から直接聞いた話ですが、これが何十年も続いています。元の教会員の中にも、新しい教会のシンパがいて、日曜日、牧師が知らない間に、新しい教会の方の伝道集会案内が、受付に並べられたりします。古い教会の方に若い人が通うようになると、引き抜きが行われます。これでは仁義なき戦いです。


★ これは牧師の間では常識です。最も効率的な伝道、伝道と呼ぶよりは信者獲得ですが、それは、他の教会員に働きかけることです。聖書や教会のことを一から教え、理解して貰うことは大変に困難だし、どうしても時間がかかります。既に、いずれかの教会に通っている人を引き抜く方が、遙かに能率的です。

 実は、これこそ生臭い話ですが、そんな風にして教勢を上げている教会が、決して少なくありません。

 これは他の宗教についても言えます。新興宗教の信者は、いろんな新興宗教を渡り歩く事例が多いのです。そういう人は確信がなくて、フワフワした信仰だからでしょうが、こういう人を標的にした伝道が、否、信者獲得が行われているのも事実です。


★ 従来の教会のあり方に飽き足らないものを感じて、新しい形、発展を目指すのは大いに結構でしょう。聖書から教えられた愛の業を実践するために、福祉や教育、社会運動に熱心になるのも大いに結構でしょう。

 しかし、それを行うために、従来の教会を否定、まして破壊するのはどうかと思います。従来の教会を利用するのもどうかと思います。新しい葡萄酒ならば、新しい革袋に入れた方がよろしいのではないでしょうか。

 他人のふんどしで相撲を取ると言います。他人のふんどしも洗えば履けると言う人もいます。 … そんなことはありません。ふんどしこそ新しくすべきでしょう。


★ ケン・フォレットに『大聖堂』という長大な歴史小説があります。続編も含めたら、2百年を超える時代を描いています。文庫本の頁数でも3千300ペイジです。大聖堂が建てられる正に長大な歴史です。

 それが教会の姿です。大聖堂が完成するまでは、数百年ですが、建物ではない教会の方は、既に、2000年以上、建築の業が続いています。未だに完成しません。途上です。途上だからこそ、当初の設計変更などあり得ません。

 どうしても設計が好きになれないならば、別の建物に着手するしかありません。何も他人の土台に建てることはありませんし、まして、途中の階から設計変更など出来ません。

 私たちの玉川平安教会も同様です。この地に土台があります。既に300名を超える教会員が先に召されて天国にいます。この教会のはしごを昇って、神の国を目指したのに、そのはしごを外すことなど許される筈がありません。


★ 大脱線かも知れません。Uコリント10章に戻ります。

 12節。

 『わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、

   比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、

   比較し合っていますが、愚かなことです。』

 『自己推薦する者たち』、自分を少しでも偉く見せたいと考える人たちは、そういう傾向を持った人たちお互いで、比べっこをしたら良いでしょう。パウロはそんな仲間には加わりません。

 互いに比べ合うことはまた、互いに裁き合うことです。信仰者ならば、裁きは、評価は、神に委ねなければなりません。


★ 13節。

 『わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、

   つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。』

 誇りは大切です。誇りのない人間は信用できません。しかし、誇りが限度を超えれば、醜いだけです。

 パウロが誇るのは、パウロがコリントの人に福音を伝えたということです。これは、事実そのものです。

 14節。話をややこしくしないために、後半だけ読みます。

 『わたしたちはキリストの福音を携えて

  だれよりも先にあなたがたのもとを訪れたのです。』

 これがパウロの誇りです。もちろん、一番乗りしたと手柄を誇っているのではありません。神さまによって、コリントに遣わされたことを誇りとしているのです。


★ 少なくとも牧師はかくあるべきでしょう。自分の教会に遣わされたことを、光栄・誇りとしないで、その教会の牧師が務まる筈がありません。

 それは、その教会が世間の目に、大教会、優れた教会と映るかどうかではありません。 コリント教会は、いろいろと問題のある教会でした。一方で、多分、大教会と言われる教会だったでしょう。周囲からの評価も高かったでしょう。だからこそ、巡回預言者、教会を食い物にする輩もやって来ました。


★ 15節前半。

 『わたしたちは、他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません。』

 コリントに最初に伝道したのは、パウロではなく、誰か他の人が始めた伝道だったのでしょうか。それが肝心なことではありません。教会が立てられるのは一人の力に依るのではありません。多くの人の祈りによって支えられて教会は立てられます。

 玉川平安教会で言えば、先ほども申しましたように、300名を超える教会員が、この働きを担ったのです。

 牧師であっても、後からやって来て、この教会の歴史をそして設計図を変えられるものではありません。


★ 15節後半。

 『ただ、わたしたちが希望しているのは、あなたがたの信仰が成長し、

   あなたがたの間でわたしたちの働きが定められた範囲内でますます増大すること、』

 これも先ほど申しましたように、教会は建設途上です。決して完成品ではありません。後のものが、最初の設計図に基づいて、最初の土台に立って、建設を続けていかなくてはなりません。成長しなくてはなりません。


★ 16節前半。

 『あなたがたを越えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになること、』

 教会の成長は、伝道の進展を伴います。教会の塔が高く高くなり、しかし、拡がりを持たないなどということはありません。

 教会の伝道圏を、教区と言います。これは今日の東京教区という考え方とは違います。パリッシュです。パリッシュとは、本来、教会の塔に置かれた鐘の音が響き聞こえる範囲のことだそうです。塔が高くなれば、遠くにまで、鐘の音が響きます。それが、教会の成長です。


★ 16節後半。

 『わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです。』

 これは良く意味が分かりません。隠れたキーワードに照らして、縄張りのことでしょうか。縄張り、縄張り意識、垣根、聞こえは悪いかも知れませんが、大事なことです。

 『豚の死なない日』という児童文学があります。主人公の父は、隣の農園の動物が入ってこないように、壊れていた柵を修理します。それを主人公は、自分の僅かな財産を守ろうとするケチな行為のように見ます。しかし、柵を作るのは、人を退けるためではなく、その人を尊重するからだと父は言います。

 我と彼との区別をすることは差別でも阻害でもありません。互いの尊重です。縄張りを破る人は、他人を尊重しない人です。


★ 18節。

 『自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、

  適格者として受け入れられるのです。』

 『主から推薦される』、主から命じられる、だからこそ、そのご用を果たす。それが本当の誇りです。

 17節。『「誇る者は主を誇れ。」』これが本当の誇りです。自分を誇る人は主を誇っていません。本当には、主のご用をしていません。