日本基督教団 玉川平安教会

■2021年7月25日 説教映像

■説教題 「神の御心による悲しみ

■聖書   コリントの信徒への手紙二 7章5〜16節 


★ 5節には、パウロが尋常ではない苦難に出遭ったことが記されています。

 『マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、

   ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。』

 しかし、マケドニアに辿り着く以前に何があったのか、具体的には述べられていません。使徒言行録の記事から、該当しそうな箇所・つまり、出来事を拾い出すことは充分に可能です。しかし、パウロが特定していないことを、私たちが特定する必要もないだろうと思います。およそ、使徒言行録に記されているようなことは全部当てはまるとも言えましょう。


★ むしろ、パウロが何のためにマケドニアまでやって来たのか、それが問題です。今、マケドニアで何をしているのか、それが問題です。

 経緯を述べていると長くなります。結論部を、端折って申します。

 コリント教会員の多くが、パウロが宣べ伝えた福音から離れ、異端的信仰に流れてしまっていました。彼らはまた道徳的・倫理的にも問題がありました。コリント一を読みますと、そのことが、かなりの程度まで具体的に記されています。

 一例として、5章1節を挙げれば充分かと思います。

 『現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、

   しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、

   ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。』

 パウロはこうした不道徳・不信仰をたしなめるためにコリントまで出掛けますが、却って話がこじれてしまいます。対話にならず、問題が解決するどころか、パウロに反感を持つ人を増やしてしまったようです。


★ これは私の個人的な見方に過ぎないかも知れません。パウロは争論術に長けています。堂々と論陣を張り、論争相手を完膚なきまでに叩きのめすのは、得意技です。しかし、その争論術に頼らず、少しでも相手の立場を理解し、相手の土俵に立って、説得を試みます。

 しかし、それもまた、相手に敗北感を与えてしまい、反感を募らせる結果となる場合があります。なあなあまあまあとか、相手の面子を重んじるとか、真っ正面から論争せず、搦め手から攻めるとか、パウロはそういう芸当は得意ではありません。

 そこで、パウロは、人柄が穏やかな弟子のテモテを送り出したり、手紙を記したり、いろんな配慮をしますが、これが、全部裏目に出てしまいます。コリント教会では、激しくパウロを批判する勢力が生まれ、党派を構えて、ついに、教会を牛耳ってしまいました。

 ここに至り、パウロは激しい調子でコリント教会を批判し、彼らの信仰の姿勢、そして性的なことを含めた道徳・倫理を批判する手紙を出します。

 コリント教会に見切りをつけて厳しく弾劾したのです。


★ しかし、パウロ自ら最後通告を出していながら、すっきり、事柄を割り切って、コリント教会員を裁き切り捨てることが出来ません。

 悶々と苦しみ、他の事が手に着かないばかりか、自分の福音宣教のありようにも、自信を喪失してしまいます。

 その辺りのことは、矢張りコリント人への第1の手紙に詳しく述べられています。また、この時間にもしばしば取り上げてきました。

 パウロは、コリント教会にテトスを派遣しました。パウロ自身が行っても駄目、他の人でも駄目、手紙を記しても駄目、今更テトスに多くを期待しても仕方がないと思うのですが、それでも諦め切れません。テトスの返事、彼の帰りを待ちわびるようになります。

 とうとう待ちきれなくて、パウロはコリント目指して出掛けて行きます。ところが、マケドニアからアカヤに入る場所まで来ますと、パウロはそこから動けなくなってしまいました。行くもならず戻るもならず、立ち往生してしまいます。

 その辺りのことは、コリント二2章12〜13節から推し量る事が出来ます。

 『わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、

   主によってわたしのために門が開かれていましたが、

 13:兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、

   マケドニア州に出発しました。』


★ 愛とはそういうものではないでしょうか。すっきりと割り切ることなど出来ません。未練たらしいかも知れないが諦められない、それが愛というものではないでしょうか。

 イエスさまは、例えば、ぺテロに対してどうだったでしょうか、ラザロには、どうだったでしょうか、否、ユダヤ人そのものに対してどうだったでしょう。パリサイ人に対してどうだったでしょう。 … そんなにすっきりしていません。


★ ヘルマン・ヘッセの短編に、こんな話があります。多分『少年』という題だと思いますが、何しろ40年前に一度読んだきりなので正確なことは言えません。

 主人公の少年は友人のコレクションから蝶を盗んでしまいます。彼が蝶の収集マニアであって、この珍しい・美しい蝶が欲しかったからですが、それだけではありません。金持ちで、あらゆるものに恵まれている友人に対する反発・嫉妬です。

 主人公はちょっとした隙を与えられた時に、蝶を盗んでしまいます。正確に言えば、ポケットに入れようとして握りつぶしてしまいます。

 彼は、その後、罪の思いに酷く苦しむことになります。そして、とうとう、友人の元に出掛けて、自分の罪を告白します。すると、友人は、ふん、と一言言って、少年をなじりもしません。

 ただ、『君はそういう奴だったんだ』こう言います。

 これは赦しの言葉ではありません。この言葉で、友人は主人公の少年を裁き、そして切り捨ててしまったのです。


★ パウロには、そんなことは出来ません。『君たちはそういう奴だったんだ。君たちの信仰はそういうものだったんだ。』パウロがこのように言えば全ては終わりです。パウロだって忙しい、世界中にキリスト教を宣べ伝えるという大事な大事な使命があります。コリント教会員にこれ以上かまってなどいられません。本当ならば。『君はそういう奴だったんだ』これで済ませた方が能率的です。

 しかし、パウロにはそういうことが出来ません。イエスさまもそんな裁きはなさいません。むしろ、自分を裏切る人間の罪の故に苦しむ、それが、イエスさまの姿です。

 イエスさまは、ゲッセマネの園で血を流して苦しみ祈られました。自分を三度まで知らないと言って裏切ることになるペテロや他の弟子のためです。銀貨30枚でイエスさまを祭司長たちに売り渡すことになるユダのためです。バラバ・イエスの命乞いをし、ならばナザレのイエスはどうしたら良いのかと問う長官ピラトに向かって、『十字架につけよ』と叫んだ民衆のためにです。

 5節をもう一度読みます。

 『マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、

   ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。』

 これこそが、パウロがコリント教会を思う思いなのです。


★ 話を戻します。

 マケドニアまで出掛けて来ていながら、立ち往生してしまったパウロの元に、テトスからの知らせが入ります。先程引用した通りです。

 6節。

 『しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、

   テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。』

 コリント教会員は、劇的に悔い改めました。これも正確に言えば、正しい信仰に立っていた、或いは、立ち戻った教会員が、決然として、パウロに対する信頼を表明し、パウロを批判して他の信仰に立とうとする者を追放したのです。

 7節も読めば、かなり具体的なことまで分かります。

 『テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、

   そうしてくださったのです。つまり、あなたがたがわたしを慕い、

  わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、

  わたしはいっそう喜んだのです。』


★ そして、8〜9節。パウロは、この時に、かつて涙ながらに記した手紙を追憶します。

 『あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。

   確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。

   たとえ後悔したとしても、

  9:今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、

   悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、

   わたしたちからは何の害も受けずに済みました。』

 パウロの苦悩は無駄ではありませんでした。

 苦悩は避けられないものでした。避けてはならないものでした。こうして福音は、宣べ伝えられて来たのです。

 どんな時にも、真実を語ることによって、語り続けることによって、福音は宣べ伝えられて来たのです。

 遠慮と妥協とで、伝えられて来たのではありません。福音を宣べ伝えるということは、時に激烈です。熾烈です。


★ パウロは自分のやり方、コリント教会員を説得する仕方に自身を失い、自分とはタイプの違うテモテやテトスを派遣しました。彼らの方が、人当たり柔らかで、遠慮も妥協もしながら、ことを上手く調停できると考えたのでしょう。そうしなくてはならない程に、パウロはコリント教会を大切に思っていました。しかし、本当にコリント教会員を変えたのは、パウロの激しい口調の手紙だったのです。


★ 9〜11節。

 『今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、

  悲しんで悔い改めたからです。

   あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、

  わたしたちからは何の害も受けずに済みました。

  10:神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる 悔い改めを生じさせ、

   世の悲しみは死をもたらします。

  11:神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、

  あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。

   例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。』

 神の御心に添った悲しみ、その通り、これが決定的に重要です。神の御心に添った悲しみ、なのです。


★ もう一度ヘルマン・ヘッセの蝶を盗んだ少年の話に戻ります。

 友人は何の咎め立てもなしに主人公の少年を赦しました。しかし、そこに愛はありません。

 むしろ、『君はそういう奴だったんだ』と、友情をこの時点で見切ったから、愛を捨てたから赦したのです。

 それは本当の赦しではありません。本当に友情があったならば、躓き、傷つき、主人公の少年を責めるでしょう。どうしてそんなことをしたのかと問わずにはいられないでしょう。糾弾せずにはいられないでしょう。苦しむでしょう。その果てにしか、真の赦しはありません。

 愛があるかどうか。そして、神の御心に添ったことかどうかが問われるのです。

 旧約聖書の神さまは、決して寛容の神さまではありません。ひたすらに優しい、ひたすらに寛容な神さまではありません。むしろ、この神さまは、人間の背信に苦しむ神さまです。その果てにこそ、例えばホセア書の限りのない愛・寛容、さらにはイザヤ書に描かれる苦難の僕の姿が存在するのです。


★ 最後に、16節。

 『わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。』

 パウロは、コリント教会員に対する信頼を取り戻しました。つまり、コリント教会を取り戻したのです。つまり、パウロの苦悩が、無駄では無かったのです。苦悩が必要だったのです。そこまでして、コリント教会員に真実の愛が伝えられたのです。

 調停や妥協からでは、このように信頼を取り戻すことは出来ません。本当のことを言ったから、妥協ではなく、真実な愛から、厳しいことを言ったから、この言葉がコリント教会員に届き、コリント教会員は結果悔い改めました。

 悔い改めてたコリント教会員にも葛藤があったと思います。同じ教会員なのだから、事を荒立てず、庇い、結果としてパウロにはご遠慮頂いた、それがコリント教会員の良識ある人の判断だったのではないかと考えます。しかし、パウロの激しいしかし愛が込められた真実の言葉を聞いて、避けてはならない戦いを戦い、間違った信仰に立つ者を追放しました。辛い戦いでした。しかしそれを避けていては、本当の教会は立ちません。