日本基督教団 玉川平安教会

■2021年12月12日 説教映像

■説教題 「過ぎゆくもの、永遠のもの

■聖書   ヨハネの手紙一 2章12〜17節 


★今日は滑り出しから脱線することをお許しいただきたいと思います。この機会にお話ししておきたいことがあるからです。

 私の説教は普段25分程度です。これはかなり短い方のようです。私の友人に聞きますと、短い人或いは短い時で30分、普通・普段は大抵40分程度のようです。ちょっと長い人は50分〜60分になります。

 私が最初に伝道師として仕えた荒井源三郎牧師は、40〜50分、80歳台の牧師としては短い方でしょう。若い時は、1時間はおろか2時間の時もあったと豪語していました。

 戦前から戦後直ぐくらいまでは、それが普通だったと聞きます。誰もが聖書の御言葉に餓え渇いていたようです。誰もが熱心で必死でした。


★戦後、だんだん様子が変わってまいります。世の中が忙しくなりました。長い説教・礼拝は敬遠されるようになって行きます。

 白河教会に能美三郎という有名な牧師がいました。この人の説教は、2時間は当たり前、3時間に及ぶことさえあります。そのせいか、礼拝に遅れて来る人が多いし、説教が終わる頃を見計らったようにやって来る人がいます。最後の頌栄の時になってやって来る人は、「父御子」信者と呼ばれたそうです。

 ある日、礼拝時間になっても能美牧師の姿が見えません。皆がやきもきする2時間後、やっと顔を見せました。大好きな釣りに出かけていたそうです。

 釣り竿を置くと、「ではぼちぼち始めよう」と礼拝になりました。2時間遅れで始まった礼拝の説教は2時間だったそうです。その礼拝に出席していた婦人から聞いた話です。

 この婦人の感想では、礼拝に遅れて来る人、説教が長いと批判する人への、戒めだったのではないかとのことでした。言葉によらない説教、エレミヤ流の行動預言だったのかも知れません。


★若い牧師は、1回の説教で何もかも語ろうとして、ぎゅうぎゅう詰めにし、時に全く破綻してしまいます。こういう人の説教を聞くと、私は心打たれます。「一所懸命なんだな、どれだけ時間と情熱を掛けて準備したのだろうな」と感心します。見習わなくてはならないとさえ思います。破綻してはいけないかも知れませんが、ほどほどに準備して、そつなくこなす人よりも、よほど将来に見込みがあると、私は思います。


★説教の長い老牧師、2時間でも話したい人の説教を聞くと、私は心打たれます。何十年も説教し続けて、未だ未だ語り足りないことがあるのですから。それほどに、聖書を読み込み、それを人に伝えたいと思うのですから、たいしたものです。感心します。

 もっとも、ただだらだらと長い話、まして繰り返し自慢話が出て来るような説教は聞きたくもありません。


★ついでに言いますと、私の説教が短いのは、気性もあるかも知れませんが、多分、『教団新報』にコラムを書いていたせいだと思います。字数が限られています。勿論毎回同じ行数です。最初は大変苦労しました。何度も推敲に推敲を重ねなくてはなりませんでした。

 しかし、その内に習慣になり、なんとなく書いていると、何時でもその行数・字数近くになります。1字も溢れないのは勿論、一字分の余白もないように、ぴったり字数を揃えるのが、拘りになりました。今の『教団新報』で余白を見るとイライラします。

 その影響でしょう。説教も短く、字数通りになってしまいます。何時でも大体同じ字数です。


★さて、脱線があまりに長くなったでしょうか。能美三郎牧師に倣って、ぼちぼち本題に入りましょう。

 Tヨハネを書いた人は、若い人でしょうか。それとも年配でしょうか。文体や用語の研究から推測する人がいるかも知れません。私は殆ど根拠なく、あまり若い人ではないだろうという印象を持ちます。教会の伝統的な説では、12弟子の一人のヨハネ、福音書記者と同じ人が書いたことになります。これは実際にはありえないでしょう。万が一ヨハネならば、100才になっていたかも知れません。常識的には、12弟子の一人のヨハネの教会の流れを汲む人となりますでしょうか。それでも結構な年配かと思います。また、この当時の平均寿命からして、50〜60で、立派な老人です。


★もっと気になるのは、著者よりも読者・聴衆の年齢です。

 著者ははっきりとそれを意識しています。

 『子たちよ、父たちよ、若者たちよ』と段落、教え毎に呼びかけを言い換えています。これは、各年代を網羅するという意図なのかも知れません。単に言葉の語呂合わせなのかも知れません。それは対して重要なことだとは思いません。

 肝心なことは、ヨハネが各年代の人を意識して、それぞれに語りかけていることです。一方で、それぞれ別々の機会に各年代毎に分けられたグループに語っているのでもありません。若者もいたでしょう、老人もいたでしょう、みんな同じ時、同じ場所でのことです。それぞれに語りかける教えが、皆一緒の時に、同時に語られています。


★12節。

 『子たちよ。あなたがたにこれを書きおくるのは、御名のゆえに、

   あなたがたの多くの罪がゆるされたからである。』

 『子たちよ』を文字通りに受け止めれば、著者の年齢からして子に相当するような、若い人、せいぜい中年層でしょうか。もっと若いでしょうか。それとも年齢には関係なく、著者から教えを受ける人という意味でしょうか。何れにしろ、教会での信仰生活は、そんなに重ねられていない人たち、指導者ではない人たちでしょう。

 この人たちに言います。教会に集う者の罪が赦されたのは、『御名のゆえ』つまり、十字架のキリストの御名の故ですと。富める青年や若い律法学者が求めたように神秘的な知恵を探求して獲得したからでも、また、神の戒めを実践して、これをやり遂げたからでもありません。

 ただ、十字架のキリストの御名の故に赦されているのであり、赦された者が、教会に集うているのだと言います。

 若い人たちほど、信仰歴が浅い人たちほど、むしろ、自分の熱心さで、自分の努力で、信仰を獲得したのだと思いがちです。もしかしたらその通りかも知れません。しかし、そうだとしても、『御名のゆえに、あなたがたの多くの罪がゆるされたから』に違いありません。これを否定することは、主の十字架の出来事を否定することです。

 若い時の情熱、若い時の向上心はとても大切です。しかし、十字架の出来事、十字架の贖いだけが人を救うのであって、自分の力で自分を救うことは出来ません。


★13節。

 『父たちよ。あなたがたに書きおくるのは、

   あなたがたが、初めからいますかたを知ったからである』

 教会に出会って、聖書で学んで、福音を知った人たち、少し年配の人々が意識されているのでしょうか。知ったという言葉から、何か特別な知恵知識のことだと思うのは間違いです。いろんな機会に申しますように、聖書ではしばしば、知るという表現は、関係する、それも深くかかわるという意味で用いられます。ここでも、神を知った、それは神と関わったということであり、具体的には、教会の交わりの中に入れられたということです。これは、教会生活が長いということと重なるでしょう。

 ここでも、ここはこういう意味ですという言い方はなるべくしたくありません。神を知る、神に知られる、これこそ、理屈で分かるというようなものではありません。実際に聖書を読み、礼拝に出席し、祈り、賛美し、仕え、そういう具体的な信仰生活の中で初めて実感を得るものです。それには、どうしてもある程度の時間、経験が要ります。


★13節後半。

 『若者たちよ。あなたがたに書きおくるのは、あなたがたが、

  悪しき者にうち勝ったからである』

 ここは、14節の後半と重ねて読みましょう。

 『若者たちよ。あなたがたに書きおくったのは、あなたがたが強い者であり、

  神の言があなたがたに宿り、そして、あなたがたが悪しき者にうち勝ったからである』 

 この箇所は、皮肉という言い方をしたら、ちょっと歪むかも知れませんが、かなりひねった表現だと思います。普通に考えて、若者こそ、悪しきもの、悪しき誘惑に弱いのでしょう。それを敢えて、このように表現し、キリストの十字架によってこそ、赦されているということを自覚させているのだと考えます。

 救いが自分の手柄ならば、他人がやすやすと救われることを、座視する訳にはいかないかも知れません。お前も適正な対価を払え、努力しろと言いたくなります。しかし、私たちは、自分でそれに見合うだけの犠牲を支払った結果、救いに入れられたのではありません。ただイエスさまの十字架が、私たちを救ったのです。イエスさまの愛が私たちに届いたのです。

 それなのに、他の人に対して寛容になれないのは、ひいてはイエスさまの十字架を否定することです。


★14節前半。

 『子供たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、

  あなたがたが御父を知っているからである。』

 13節前半の『父たちよ』を、『子供たちよ』と言い換えているだけで、内容はほぼ同じです。結局、『父たちよ』『子供たちよ』という対象によって、副因に違いはありません。同じです。これは敢えてそうしたのでしょう。同じ内容だから対象をまとめて語るのではなく、別々の対象、受け取る側の価値観や人生経験の違いを認めた上で、同じことを語ったのです。


★14節中程。

 『父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、

  あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。』

 ここも同様です。13節と対象を入れ替えて結局同じことを言っています。

 後半は13節と対象も内容も同じことを、より強調を込めて語っています。。

 『若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、

   あなたがたが強く、神の言葉があなたがたの内にいつもあり、

  あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。』


★15〜17節は、その前とあまりにも調子が違いすぎますし、意味内容からしても、乖離が有るように見えます。もしかすると、後の人が付け加えたものかも知れません。その場合でも、今申し上げたような、若者への罪の誘惑という観点から、説明的に付け加えたものでしょう。

 15節。

 『世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、

   御父への愛はその人の内にありません。』

 『世にあるもの』を、『愛してはいけません』とは、何も厭世思想ではありませんし、反権力反体制でもありません。単純に物欲や出世欲などの、人間的な欲望のことだと理解してよろしいでしょう。

 若い人は、こういう欲が強いかも知れません。欲と言えば聞こえは良くありませんが、向上心とも言えます。しかし、この欲にとらわれると、一番大事なものを見誤ってしまいます。

 もっとも、年寄りはこのような欲から自由かと言うと必ずしもそうではありません。若者の時の欲望が、他の欲望に置き換わるだけかも知れません。名誉欲とか、支配欲とか。若者の欲よりももっと危険な欲かも知れません。


★16節。

 『なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、

   御父から出ないで、世から出るからです。』

 ここで、『世にあるもの』を、『愛してはいけません』とは何を意味するのか、少し具体的になりました。『肉の欲、目の欲、生活のおごり』と言われています。この個所はむしろ次の17節を読むと分かる気がします。

 

★『世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。

  しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。』

 欲望は限りがないと言うのではありません。決して叶えられないと言うのではありません。『過ぎ去って行きます』。一時は、それが叶えられないならば、生きている意味がないとさえ思ったことが、時と共に意味を失い、かつての自分の気持ち、感情が信じられなくなるほど、希薄になります。誰もが体験する事実です。

 『神の御心を行う』と言いますと、漠然としているように聞こえるかも知れませんが、これこそが、『永遠に生き続け』るものです。本当に人生を賭する意味があるものです。

 この話は、3章でより詳しく展開していきます。恋愛のような情熱的な愛ではなく、兄弟への愛、隣人への愛が語られています。


★ここには、Tヨハネ自身の情熱が語られています。著者が若いからか、年配だからか、結局わかりません。しかし、若者のように、年寄りのように、語るべきことが無数にあります。

 時間も紙数も限られた中で、何とか大事なことを伝えたい、これを語らずには止まないと言う思いが伝わります。その時に、時間が短いも長いも、肝心なことではありません。