日本基督教団 玉川平安教会

■2021年10月03日 説教映像(配信なし)

■説教題 「キリストに結ばれて

■聖書   コリントの信徒への手紙二 12章19〜21節 


★ 説教箇所に長い短いがあります。短かければ数節、長いと1章丸まるになってしまいます。何が主題なのか、理屈を追って読みますと長い箇所になります。

 一つの言葉、一つの主題に絞って読む場合は、短くなります。あまり極端にならないようにとは考えますが、お許し下さい。今日はたった3節です。但し、行数は結構あります。


★ 19節中半

 『わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。』

 『わたしたちは』です。私はではありません。決してパウロの個人的な見解ではありません。『わたしたちは』は、今日ならば教会と受け止めてもよろしいでしょう。世の常識、学問上の定説とも違います。教会のあるべき信仰の姿として、パウロは語ります。

 『神の御前で』とは、今日に当てはめるならば、礼拝の場でとしても良いくらいです。だからこそ、「私は」ではありません。『わたしたちは』なのです。


★『キリストに結ばれて』という表現には、様々な理解があろうと思います。文字通りにキリストと手をつないでみたいに、読み取る人もあります。霊的な一体感を強調する人もありますでしょう。

 私的見解ながら、私は、これは私たちはではなく、あくまでも私的な読み方ですが、私は、このように考えています。

 磁石と釘の関係です。釘は磁石にくっつきますと、自分も磁石のようになります。他の釘を吸い付けることが出来ます。子釘磁石、孫釘磁石も出来ます。しかし、一番根本の釘が磁石から離れますと、子釘、孫釘は磁石ではなくなります。釘は磁石に結ばれている時にだけ、磁石のような存在になります。


★ 強力な磁石は、何本も釘を吸い付け、一時的ながら磁石に変えます。キリストの力ならば、どんなに末端に流れて行っても、それでも、強い磁石の力を持つでしょう。

 コロナのみならず、様々な理由から、礼拝に出られない人がいます。それらの人とも、結び付くことが出来ます。だから、家庭礼拝や訪問や、寄せ書きが有効だし、必要です。

 今は、礼拝に出られないための工夫がいろいろとなされています。今の困難が、新しい伝道・牧会の手段を発見するかも知れません。コロナだけではありません。離島や、限界集落、崩壊集落もあります。そこにも教会を建て、牧師が常駐し、礼拝を守ることが、勿論理想です。しかし、それを実現することは、以前よりも困難になっています。何かしら、新しい考え、新しい形が必要になっています。

 今のコロナ禍が、ヒントを与えてくれるかも知れません。


★ しかし、元の磁石から遠くなってはなりません。全く離れてはなりません。

 注意しなくてはならないのは、間に立つ人が、右の手でキリストに結び付き、左手で、他の何かを握っていたら、 … 間に立つ人が多くなればなるほど、磁石の力は、半分その半分また半分と、どんどん効き目がなくなってしまうでしょう。

 葡萄は、一房で葡萄と思われています。この団結がイエスさまの譬え話に用いられた理由だと考えます。教会は一房の葡萄です。ですが、その一方で、一粒一粒が、なんと呼ぶのか分かりません。調べましたら、花穂とか支弁とか出てきましたが、それはよろしい、こういう物を通じて、更に蔓・枝を通じて、根にまで繋がっています。一粒一粒が、根にまで繋がっています。ですから、一粒が鳥に囓られても、全体が死ぬことはありません。これが、イエスさまの譬え話に用いられた理由だと考えます。

 信仰者は一房の葡萄ですが、1人1人が神さまに繋がっています。

 譬え話には限界があります。磁石では、説明出来ないこともあります。

 

★ ここで、コリント書の学びを通じて繰り返し学んでいることを、今日も申し上げたいと思います。いくつも該当箇所がありますが、一番近い、先週の箇所を読みます。

 Uコリント12章10節、今日の箇所の直前です。

 『それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、

   キリストのために満足しています。

  なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。』

 パウロの本来の意図とは違うことを承知で申します。今の教会の弱さを、ただキリストに結び付くことで、強さに変えることが出来ます。出来ると信じます。

 自分は磁石ではありません。ただ、キリストの教えを根拠として、釘に過ぎない者が、磁石になることが出来ます。自分に力がなくとも、磁石の釘に徹することが出来ます。

 伝道とは、そもそもそういうことではないでしょうか。


★ 19節前半

 『あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護をしているのだと、

   これまでずっと思ってきたのです。』

 パウロたちは、自分を証ししているのではありません。まして『自己弁護』ではありません。つまり、自分たちのどんな利益のためではありません。ただ、神の御旨を伝えています。

 何が磁気を効率良く伝えるのか、科学的なことは、私には分かりません。伝導率がよい物と良くない物がありますでしょう。人間が神さまの磁石になる時もそうです。余計なものを混ぜずに、可能な限り、元のままを伝えることが、大切です。

 昔、教会を会場にして集まりを持っていた『友の会』会員の方々から依頼されて、聖書の勉強をしました。2・3回やったら、このメンバーで教会員でもある人から、難しいから羽仁もと子先生の著書でやって欲しいと言われました。屈辱的でしたが、仕方がないので、にわかに羽仁もと子の本を読み、これに基づいて勉強会をしました。

 そうしたら他のメンバーが、この中には町で一番大きなお寺の住職夫人もいたのですが、羽仁もと子先生の本なら自分たちでも読めるから、牧師さんには聖書そのものを教えて貰いたいと要望がありました。


★ 19節後半。

 『愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。』

 神の御旨に従って、教会のために、教会員のために … これが基本・原則です。

 偉い人ほど、学問のある人ほど、これを間違えます。私のような偉くもないし、たいして学問のない人は却って間違えません。愚直に、聖書に忠実に、面白くなかろうが、学問的ではなかろうが … だと私は思っています。

 これは冗談でも、わざとらしい謙遜でもありません。人の前で誇るようなものを持っている必要はありません。まして、神さまの前で誇る物を持っていてはなりません。これは使徒パウロが繰り返し言っていることです。

 聖書には、聖書の言葉には魅力があります。力があります。それを信じられない人は、聖書を教えるなどというおこがましいことは、止めた方が良いでしょう。


★ 20節前半。

 『わたしは心配しています。そちらに行ってみると、

   あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく』

 パウロは何を期待していたのでしょう。それは、20節後半に並べられています。

 『争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などが

   あるのではないだろうか。』

 パウロが期待していたのは、この逆のことでしょう。『争い』ではなく平和、『妬み』ではなく単純な感謝、『怒り』ではなく赦し、『党派心』ではなく十字架の下で一つとなること、『そしり、陰口』ではなく、率直に語り合い理解し合うこと、『高慢』ではなく謙遜、そして『騒動』ではなく冷静で控えめな対応、こういうことが、パウロの期待することでしょう。しかし、多くの場合、この期待は裏切られます。このリストが多くの教会の現実の姿です。それは、彼らが、彼らの1人1人が『キリストに結ばれて』いないがための結果です。


★ 20節中半。

 『わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない』

 コリントの人々はパウロに何を期待したのでしょうか。

 コリントから事例を挙げ、想像出来ますが、散漫にならないように割愛します。

 一番肝心な物を求めていないから、このような不平・不満が起こります。パウロに何を求めるのか。教会に何を求めるのか。無い物ねだりと言うだけでは済みません。


★ 21節前半。

 『再びそちらに行くとき、わたしの神があなたがたの前で

   わたしに面目を失わせるようなことはなさらないだろうか。』

 これも、20節の『わたしは心配しています』の内容です。

 『神があなたがたの前でわたしに面目を失わせる』

 パウロも面目を気にしているのでしょうか。矛盾だと批判するよりも、私には何だかほっとするように思われます。パウロだって人間だし、人間的な思いから全く自由ではないのかも知れません。そんなことを言ったら、パウロを神さまの次くらいに考えている人からは、叱られるでしょう。

 しかし、私は、何だか安心します。パウロは、私はこのような光栄ある仕事に神によって任命されているのだから、必ず神さまは、パウロの面目を立てて下さるなどとは言いません。それは、パウロに信仰が、自信がないからではありません。

 パウロの面目よりも、神さまの御旨が尊いからです。また、それが『キリストに結ばれて』と言うことでしょう。『キリストに結ばれて』とは、すっかりキリストを自分の持ち物にしていることではありません。キリストが何でも、自分の言いなりになると言うことでは、ありません。


★ 21節前半。

 『以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、

  ふしだらな行いを悔い改めずにいる』

 これもパウロの心配の中身です。心配しているのです。

 悔い改めて、正しい信仰に立ち返っていて欲しい、そうすれば、またまた争わずに済みます。しかし、そういうパウロことよりも、『以前に罪を犯した多くの人々が』、再び救いの道に立ち返ることを願っているのです。

 

★ 急に卑近な例になります。私の母が良く言っていました。私の母は、実の両親ではない両親に育てられました。その義母の方に、ひどく虐められて、一日も早く家を離れたいという思いだけを抱いて少女時代を送ったそうです。実際、小学校が終わると、叔母を頼って遠い地に移り住みました。しかし戦争で故郷に戻り、また義母に虐められたそうです。

 その義母が、晩年死の床につくと、すっかり優しくなり、全くかつての姿ではなくなりました。そして、ただ、私の母を頼るようになりました。

 母は複雑な思いを抱きながらも看病し、看取りました。世話が大変な時には、過去の恨みを晴らすために、つねってやりたいとさえ思ったそうです。しかし、何はともあれ、すっかり様子が変わった義母の顔を見たことは良かったと言っていました。

 大変に卑近な例ですが、パウロも、悔い改め正しい信仰に立ち返った人々の姿を見たいと思いました。あんな奴らは悔い改めずに、地獄に直行して貰いたいとは考えません。


★ 21節後半。

 『悔い改めずにいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか。』

 やはり、パウロが心配しているのは、自分の面目ではありません。コリントの人々の救いなのです。これが『キリストに結ばれて』ということでしょう。

 『キリストに結ばれて』いるということは、イエスさまの言動を聖書で読み、可能な限り実践することでしょうが、他の何よりも、十字架のイエスさまを見上げることだと思います。

 

★ 私の説教では毎度お馴染みの引用をします。マルコ福音書15章29〜32節。

 『29:そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。

   「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、

  30:十字架から降りて自分を救ってみろ。」

   31:同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、

     代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。

   32:メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。

     それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、

     イエスをののしった。』 

 私たちが信じる神さまは、『他人は救ったのに、自分』を救おうとはなさらない神さまです。その神さまを十字架を見上げるならば、自分の義を立てること、自分の面目が保たれることが第一になる筈がありません。

 神さまに仕えること、礼拝を守ることは、最高の光栄です。私たち自身が、神の栄光に栄え輝くことかも知れません。しかし、この栄光はあくまでも神さまのものです。