日本基督教団 玉川平安教会

■2021年2月7日 説教映像

■説教題 「心が鈍くならないように」
■聖書  ルカによる福音書 21章34〜38節 



◆『放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい』

 『放縦』、最近はとんと聞かれなくなった言葉ですが、意味は分かります。普通の日本語です。しかし、具体的にはどういうことが『放縦』なのでしょうか。詳しくは述べられていませんので、良く分かりません。

 次の深酒と重ねて見れば、一体にだらしない生活のことだろうかと思わされます。

 私は、何故か一世を風靡した『スーダラ節』を連想してしまいました。

 「チョイト一杯の つもりで飲んで

  いつの間にやら ハシゴ酒

  気がつきゃ ホームのベンチでゴロ寝

  これじゃ身体に いいわきゃないよ

  分っちゃいるけど やめられねぇ 」

 引用するまでもないかも知れません。大ヒット曲ですし、あの時代を象徴する歌でした。

 1961年、戦後復興から、岩戸景気と呼ばれた好景気の時代の後半くらいになるでしょう。大鵬と柏戸が大関に同時昇進した年だそうです。


◆ 巨人大鵬卵焼きの時代、東京オリンピックが1964年ですから、オリンピックを目前とした時代、日本が最も明るく希望に満ち溢れていた時代と言えるかも知れません。

 長島茂雄の登場が1958年、ミッチーブームも同じ年です。

 「最早戦後ではない」という有名な台詞が、経済白書に現れたのも、1956年、この時代です。

 お酒の消費量の推移について、詳しいデータを調べたいと思いました。平成以降は分かりますが、この時代のものは手に入りません。しかし、データを見るまでもないでしょう。好景気、飲酒、どんちゃん騒ぎ、確かに、放縦と深酒は結びつきますし、放縦と深酒によって『心が鈍くな』ることも頷けます。


◆ 現代の日本にも通じるものがあるように思います。コロナによる景気低迷と言いながら、根拠が分からない株高、ますます贅沢になる生活、テレビを見ていますと、コロナによる失業問題が報道された直後、贅沢な車や食卓や家具、化粧品が宣伝されます。私のような(株)の仕組みも理解出来ない経済音痴には、好景気なのか不景気なのか、サッパリ分かりません。

 貧しい者と富む者との、二極分化ということなのでしょうか。


◆ 平たい土地には影日向はありません。高い山があれば、谷があります。高いビルが建てば、ビルの谷間と言われる日陰が出来ます。

 好景気バブルの時代は、同時に、影を生み出し、新しい不安と不満を生み出す時なのでしょう。『スーダラ節』の時代も正にそうだったのだろうと思います。東京オリンピックを目前とした好景気の時代、つまり、大量の人出が必要となり、私の故郷秋田などでは、集団就職、出稼ぎ、上京した者がそのまま戻らない蒸発の時代でもありました。

 日本一の出稼ぎ県と言われた秋田は、出稼ぎによって、農家に近代的な農機具が入り、車が入り、家が新しくなり、農業の奴隷的な重労働から解放されて行きました。

 しかし、その裏側では、一件の農家が一千万円単位の借金を抱え、出稼ぎなしには暮らしが成り立たないようになってしまいました。


◆ 私の最初の任地は、秋田の故郷にも近い大曲教会です。今までお話しした時代からは、20年近く経っていました。大曲から更に山奥に入った所に開拓農家の集落があり、全戸がクリスチャンでした。火曜日の午後に毎週礼拝を守っていましたが、集まるのは、老人だけです。独りだけ小さい女の子が一緒にいましたが、その子の両親も含めて、多くの人は出稼ぎです。中には、盆正月だけ帰って来る人もあります。

 あまり詳しいお話しをする暇はありませんが、この集落の人たちは、全員満蒙開拓団の引き揚げ者です。開拓はテント暮らしから始まりました。自分たちの家も建たない時に、彼らは、先ず教会を建てました。牛馬もなく、全て人力で岩や石を除き、木を切り倒し、根っこを抜く開墾労働の後、彼らは夜な夜な、この教会に集まり、聖書を学びました。

 周囲の農家からは冷たい目で見られました。どこかで鶏がいなくなると、真っ先に疑われ、子どもたちは差別を受けました。しかし、自分たちはただの貧乏人ではない、夜には教会に集まり聖書を学んでいる、この誇りが、彼らを支え、非行に落ちる子どもはありません。

 やがては、農機具を揃えるために、出稼ぎに出なくてはならなくなりました。しかし、この集落からは、一人も蒸発者は出ませんでした。

 貧しい暮らしは続き、私が赴任した年に、最後の一件が北日本ハウスに建て変わりました。彼らの戦後は、1956年ではなく、24年送れて1980年にやっと終わったのかも知れません。

 毎回欠かさず、集落の集会に出席する老婦人が、しみじみと言いました。

 「昔は良かった。何も無かった。食べるものもなかった。でも、みんな一緒にいた。」

 この人は、読み書きが出来なかったのですが、孫が教会学校に通うことになり、一緒に聖書を読み、読み書きを会得したと聞きました。


◆ 関係がありますかどうか。毎日頻繁に、或るコマーシャル・ソングが流れています。『スーダラ節』の節に乗せた、出前の宣伝です。生活苦にあえぐ人が増えたと言われながら、一方では、出前が流行ります。貧しい人は出前など取れないと考えるのは古いのでしょう。私ども家族は、外食は殆どしませんし、出前となると、記憶にないくらい皆無ですから、今日の様子は理解出来ません。勿論、出前外食を徒に否定出来ません。便利は便利なのでしょう。


◆ さて、放縦と深酒によって『心が鈍くな』ることは頷けますが、もう一つ上げられています。

 『生活の煩い』。放縦と深酒と『生活の煩い』は、全然真逆なような気もしますが、成る程、事柄の表と裏、影と日向かも知れません。『生活の煩い』の極めつけは、衣食住の心配でしょう。衣食住に事欠くようだったら、放縦と深酒なんて縁がないように見えますが、そうではないかも知れません。むしろ、衣食住に事欠く貧しい生活だからこそ、日々の暮らしや仕事に真っ正面から向かい合うことが嫌になって、放縦と深酒に走るのかも知れません。

 『スーダラ節』『日本一の無責任男』の時代は、実は、モーレツサラリーマンの時代でした。


◆ 肝心な『心が鈍くならないように注意しなさい』とは、具体的にはどんなことを意味しているのでしょうか。それを知るためには、続きを読むしかありません。

 35節。

 『その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである』

 『その日』とは、世の終わりの日、終末の時を意味します。先週の聖書箇所に相当します。

 当時のユダヤ人は、強くこの終末を意識していました。日本で言えば、末法思想に染まっていました。無理もありません。国はローマの占領下にありました。総督がローマから派遣されて、誰よりも大きな権限を持っています。それと並行して王が存在しますが、この王さまは、ダビデ王朝に繋がる存在ではなく、ローマから押しつけられた異民族のヘロデ大王です。

 ヘロデ大王亡き後は、その息子たちによって分割統治されていましたが、後には、ヘロデ大王の孫に当たるヘロデ・アグリッパが、かつての親友・カリギュラがローマ皇帝となったことで、ユダヤ王に即位します。これが、ルカの時代です。親友と言えば聞こえが良いのですが、不良仲間、ハングレ見たいなものです。今日、皇帝ネロの仕業として伝えられる様々な悪逆、非道は、実はカリギュラが行ったことで、ヘロデ・アグリッパは、そのパシタのようなものです。カリギュラ、アグリッパこそ、放縦と深酒のチャンピオンです。

 まあそれ以上詳しく描く必要もありません。ローマの繁栄は、ユダヤ人にとっては、とんでもない苦難の時代であり、夢も希望もない時代でした。


◆ 人々が、この世の終わりを願い望み、同時に怖れ、地獄の裁きに怯えるのも無理がない時代だったのです。

 『その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである』

 先週、この世の終わりは、ユダヤ人にとって、神の裁きの時であり、正しい裁きがなされる時であって、必ずしも、ただ怯えて待つ時ではなかったと申しました。それは、あくまでも信仰者にとってです。多くの者には、矢張り不安と恐怖の時でした。

 ローマやこれに隷従する王家の人々、そして宗教者たち、貧しい人々の土地を安く買いたたき大儲けする地主階級への不満、そして世の終わりへの不安、これが相俟って、多くの人々が、『放縦や深酒』に逃避したのではないかと、想像します。


◆ 心が鈍くなってしまうとは、自分たちが置かれている過酷な現実が、しかし、当たり前になり、それに慣れてしまうことではないかと思います。慣れて何も感じなくなり、不安も不満もなくなるならば、それも一つの処世かも知れません。しかし、慣れても、鈍感になっても、不安と恐怖は残っています。むしろ、体と心に染みついてしまいます。


◆ 東北教区時代の先輩牧師の体験談です。この人は、満州で少年時代を過ごし、今の中学生の年齢で、終戦を迎えました。幸い命からがら、本土に戻ることが出来たのですが、その体験は凄まじいものです。

 暴徒に襲われ命を奪われる恐怖、それよりも具体的で恐ろしい餓え渇き、栄養不良で肉体労働をさせられる苦痛、しかし、それに慣れてしまったと言うのです。当たり前になってしまったそうです。道ばたに転がる死体を見ても何も感じなくなったそうです。その死体を避けて、飛び越して、平気で道を歩いたそうです。

 しかし、ある時、或る瞬間、そういう自分を発見して、つまり、暴力も死も当たり前になって、慣れきっている自分を発見して、愕然としたのが、信仰の出発点でした。


◆ ドストエフスキーが、『死の家の記録』の中で記しています。

 「人間はどんなことにでも慣れられる存在だ。わたしはこれが人間のもっとも適切な定義だと思う。」

 私自身が体験したのは、先輩牧師やドストエフスキーに比べたら、小さい小さいことですが、私には一番現実的な体験です。

 生まれて初めて上京し、上野駅に下りた朝、時間が余っていたので、界隈を歩きました。アメ横の方向に歩いて間もなく、飲食店の店員が、ゴミの片付けをしていました。カラスやドブネズミの対策だったのでしょう。

 その道路端に、浮浪者とおぼしき人が寝ていました。店員が、この浮浪者を箒の柄でつつきました。こんな所に寝ているなというのでしょう。起き上がらないので、今度は足で、軽く蹴りました。そして、「なんだ。死んでるよ」。上野界隈では珍しくもない光景なのでしょうか。

 それだけの出来事ですが、私にとっては、東京での新生活の、第1日目の出来事でした。その後、浮浪者を見かける度に、心が痛んだものですが、何時の間にか、何も感じなくなりました。新宿で見かけても、道路を転がる大きなゴミくらいにしか目に入らないかのようです。


◆ 人間は、直ぐに鈍感になってしまいます。初めて見た衝撃の光景は、2度目には、半分に、3度目には、更にその半分になってしまいます。5回も見たら、ほぼゼロになってしまいます。

 心が鈍くなってしまうのでしょう。

 36節。

 『しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、

   人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい』

 『いつも目を覚まして祈』ることは、絶対に不可能です。人は他の条件さえそろえば、何も食べなくとも一ヶ月以上生きていられます。水はそうはいきません。睡眠はもっと深刻です。そこまで長持ちしません。不眠症の人も、全く寝ていないわけではありません。全く寝られなかったら、3日で駄目になると言います。多少の誤差はあるでしょう。

 『いつも目を覚まして祈』るのは、食べず寝ずにではありません。

 中世の修道院では、これを行として実践した人がいたようですが、まあ何日も持たずに挫折するか死ぬかしたことでしょう。狂気に陥ったかも知れません。『いつも目を覚まして祈りなさい』とは、絶対にそんなことではありません。


◆『人の子の前に立つことができるように』、これが肝心です。

 神の裁きの前に立つことが出来るように、神の前に立つことがが恥ずかしくないように、という意味です。ですから、『いつも目を覚まして祈』ることとは、むしろ、『放縦や深酒や生活の煩い』に埋没してしまわないということでしょう。これこそが、なかなかに大変なことです。『放縦や深酒』の誘惑を何とか退けたとしても、『生活の煩い』を退けることは困難です。

 金銭的にも、時間的にも、余裕がなくては叶わないことでしょう。しかし、金銭的、時間的に余裕があれば叶うのかと言うと、そうでもありません。


◆ 先ほど引いた開拓農家の例ですが、今日の聖書と何ら関係がないと聞いた方もあるかも知れません。しかし、私の心の中では大いに関連があります。

 食べるものも着るものも不十分で、雨風を凌げる家もなかった時のことを、老婦人は、懐かしく、あの時は幸せだったと回想するのです。衣食住少しの余裕もありません。『放縦や深酒』は、したくても出来ません。その時にあったのは、みすぼらしい礼拝堂での、睡魔と戦う、聖書の勉強でした。その時を、あの時は幸せだったと回想するのです。祈っていたからです。

 私たちの教会も同じことでしょう。あの頃は大勢で礼拝を守っていた。若い人が大勢いた。バーベキューもした。とても楽しかった。そうに違いありません。しかし、楽しいことなら、教会の外にこそ溢れています。あの頃は本当に楽しかったと回想できるのは、そこに祈りがあったからです。『心が鈍くならないように … いつも目を覚ました祈っていなさい』