日本基督教団 玉川平安教会

■2021年4月18日 説教映像

■説教題 「心の目を開いて
■聖書  ルカによる福音書 24章36〜43節 

◆ 順に読みます。36節。

 『こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、

   「あなたがたに平和があるように」と言われた』

 何故イエスさまはこのように言われたのでしょう。理由は一つです。『彼ら』、弟子たち、おそらくは11人の心に、平和がなかったからです。『イエス御自身が彼らの真ん中に立ち』、その結果、弟子たち驚いて、平和が破られたのではありません。彼らに平和がなかったから、『「あなたがたに平和があるように」と言われた』のです。

 11人は、常に教会を象徴しています。その教会に平和がなかったのです。

 

◆ 直前の24章33〜34節を読みますと、このようにあります。

 『そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、

 34:本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。』

 11人は、つまり教会は、イエスさまの復活のニュースを聞いています。11人、つまり教会に、復活のニュースが届いていました。

 更に、24章35節。

 『二人も、道で起こったことや、

  パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。』

 新たな復活の知らせが加わりました。先週読んだ箇所です。二人の弟子は、復活の主と共に時を過ごし、共に聖書を読み、その解き明かし、即ち説教を聞きました。そして、その次第を、11人に報告しました。

 しかしこの報告は、弟子たちを慰めることはなく、むしろ混乱を、不安を引き起こしました。


◆ 37節。

 『彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。』

 『あなたがたに平和があるように」と言われた』イエスさまの言葉さえ、彼らに『恐れおののき』を与えました。それ程、彼らは、教会は、不安を来していました。狼狽え、疑いを心に抱いていました。

 これも、十字架に死した筈のイエスさまが、姿を現し、『あなたがたに平和があるように」と言われた』から、弟子たちは狼狽え、疑いを心に抱いたのではありません。むしろ、狼狽え、疑いを心に抱いていた弟子たちに、イエスさまは『あなたがたに平和があるように」と言われた』のです。


◆ 他の福音書を見ても同様です。この時の弟子たちは、つまり教会は、全く希望を失い、ひたすら戸惑い恐れ、隠れる以外に何も出来ませんでした。

 イエスさまの十字架の後にも、弟子たちには希望があり、その密かな希望を守り育てていたと解釈する人があります。そのような説には、何ら聖書的根拠がありません。4つの福音書はそのようには記していません。4つの福音書は、全く絶望しきった弟子たちの姿を描き出しています。

 希望を失っても、失ったからこそ、何かを探していたとも書いてありません。慰めの言葉を求めていた、異なったニュースを追い求めていたとも書いてありません。愛する者を失った人が、現実を否定し、誰が何と言おうと愛する者は生きていると考え続けること、主張し続けることはあるかも知れません。そのようなドラマを見ます。

 しかし、聖書はそのようには描いていません。 

 聖書が描くのは、絶望だけです。不安とおののきだけです。


◆ 38節。

 『そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。』 あり得ないことが起こったのですから、『うろたえている』のは分かります。しかし、『心に疑いを起こす』とは、どういうことでしょうか。単純に今見ていることが理解出来ない、信じられないということでしょう。そして、女たちや他の弟子たちがもたらしたイエスさま復活のニュースを信じられないことと重なります。

 どんなに他人の目撃証言を聞いても、今現実に自分の目で見ても尚、信じられません。喜びどころか、不安になり、恐ろしくさえなります。

 それが当たり前でしょう。

 聖書はそのように描いています。信じられないし、信じられる筈がないと、聖書は言っています。


◆ 39節。

 『わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。

   亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』

 実に念入りに、信じられる筈がないと強調しています。信じられる筈がないからこそ、『触ってよく見なさい。』です。

 聖書は繰り返し、復活の出来事を、本来あり得ない出来事、信じられない出来事であると言っています。本来あり得ない出来事、信じられない出来事だからこその、復活なのです。


◆ 当然、私たち一人一人の信仰者も、本来あり得ない出来事、信じられない出来事を、簡単に信じられる筈がありません。

 先を読みます。40節。

 『こう言って、イエスは手と足をお見せになった。』

 『手と足をお見せになった』とは、手と足に印された釘痕を『お見せになった』ということでしょう。何週か前にお話ししましたように、十字架刑は、残酷な刑罰です。殺すことだけではない、苦しめることを目的としています。ですから、手と足に釘を打って、十字架に張り付けます。全体重を4本の釘で支えます。手と足は、神経が集まっていて最も敏感に傷みを感じる部位です。そこに釘が打たれます。

 出血はあまりないそうです。ですから、失血死はしません。痛みが長引きます。

 『手と足をお見せになった』とは、その極限の苦痛を『お見せになった』と言うことでしょう。


◆ 本来あり得ない出来事、信じられない出来事を、証拠づけるものはありません。私たちが納得出来るような証拠はありません。しかし、ここにイエスさまの十字架の痛みという印、証拠が示されたのです。私たちが納得出来るかどうかではありません。科学的証拠ではありません。しかし、イエスさまの十字架の痛みという印、証拠が示されたのです。


◆ 弟子たちは、この傷跡を見ました。しかし、傷跡に触りはしません。畏れ多いという意味合いもあるのかも知れません。しかし、そういうことよりも、もう証拠として充分だからです。

 つまり、十字架の出来事を前にして逃げ出していた弟子たちが、今、イエスさまの傷跡、つまり、十字架を見たからです。

 このことは、ヨハネ福音書にも共通しています。長い引用になります。

 『 24:十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、

   彼らと一緒にいなかった。

 25:そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、

   トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、

   また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

 26:さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。

   戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、

   「あなたがたに平和があるように」と言われた。

 27:それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。

   また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。

   信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

 28:トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

 29:イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。

  見ないのに信じる人は、幸いである。」』


◆ 目で見ただけでは証拠としては不十分、指を差し入れて初めて確かな証拠になるという話ではありません。ここでも、十字架のキリストを見たかどうかなのです。

 そして、このことは私たちにも全く当て嵌まります。十字架のキリストを見たかどうかなのです。十字架のキリストは、福音書等に描かれています。ここで、キリストを見るかどうかです。

 先週の説教を繰り返すことになってしまいますから省略しますが、先週の箇所も今日の箇所も、主題は全く同じです。十字架のキリストを見た者は、復活を信じることが出来ます。見ない者には信じられません。

 そして、十字架のキリストを見るとは、即ち、聖書の中でキリストに出会うことであり、礼拝の中で出会うことなのです。


◆ 41節。

 『彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、

   イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。』

 『喜びのあまりまだ信じられず』、そうかも知れません。悲しみのあまり、悲しみに沈み込んでいて、十字架もイエスさまも見えなかった弟子たちを、今度は、『喜びのあまりまだ信じられず』と描写しています。これが真実の姿です。既に申しましたように、聖書は、これでもかと言うくらいに、弟子たちの信じられない姿を描いています。それはそのまま私たちの姿でもあります。それが当たり前、当然です。

 信じられる、根拠なく信じられるという人もいますが、その信仰、その精神状態は怪しいものです。それは、他の人よりも信心深い、迷信深いのかも知れませんが、本当に十字架のイエスさまに出会い、復活のイエスさまのお姿を見ているかは、はなはだ怪しいものです。


◆『ここに何か食べ物があるか』。

 妙なことを仰ると思いませんか。そもそも、福音書には、繰り返し食事の場面が出て来ます。まるでホームドラマのような頻度です。

 しかし、一方で、聖書は食卓の楽しい交わりを描いている訳ではありません。この食卓は、例外なしに、過越祭に結び付いています。また、その故に、十字架に結び付いています。

 『「ここに何か食べ物があるか」と言われた』イエスさまの言葉は、十字架を過越祭を連想させる言葉です。


◆ 42節。

 『そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと』

 妙に具体的です。何か秘められた意味があるのではないかと考えさせられます。

 魚は、初代キリスト者の合図のようなものです。イエス・キリストの神の子救い主というギリシャ語のそれぞれの単語の頭文字を合わせると、魚というギリシャ語の単語イクスースになります。そこで、地下墳墓・カタコンベで礼拝を守っていたキリスト者たちは、墓の入り口に守衛を置き、地面に魚の絵を描いて、自分がキリスト者だと示した人だけを、礼拝の場に案内したと言われます。本当かどうかは分かりません。まだるっこしいし、口で言った方が早いようにも思います。

 また、魚は、ノアの洪水の時にも、被害を受けませんでした。水の中に住む生き物ですから、当然です。そこで、魚は神の救いに与った特別な生き物だと考え、これが、イクスースと合わさって、聖なる印となったとも言われます。これも良く分かりません。魚の他にも水棲の生き物はたくさんいます。

 

◆『焼いた魚を一切れ』です。まるまる1匹ではありません。切り身です。イクスースと結びつけて解釈するのは無理でしょう。

 43節。

 『イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。』

 42節と43節と、更に40節とを合わせて読みますと、ここでは、イエスさまは、亡霊のような実体のない存在ではないと強調しているのだと思います。


◆ 今日の箇所からはみ出しますが、44節も読みます。

 『イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある

  事柄は、必ずすべて実現する。

  これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」』              ここでも、矢張り聖書、旧約聖書と結びつきます。

 そして、46節。

 『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。』

 先週、ルカ24章に記された出来事は、礼拝のプログラムと重なると申しました。礼拝のプログラムは、今日の箇所にも続いているのです。

 礼拝は、派遣の言葉で終わります。それが47〜48節に該当します。

 『また、罪の赦しを得させる悔い改めが、

  その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。

  48:あなたがたはこれらのことの証人となる。』

 イエスさまの十字架と復活の出来事の承認となるのがキリスト者の働きであり、礼拝です。