日本基督教団 玉川平安教会

■2021年7月18日 説教映像

■説教題 「生ける神の宮

■聖書   コリントの信徒への手紙二 6章11節〜7章4節 


★ 取り敢えず14〜18節は省略して、13節の後には、7章2節を続けて読みます。その方が遙かに通りが良くなります。また、このような読み方は、ほぼ定説化しているようです。

 11節。

 『コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。』

 他ではあまり目にしないような、一風変わった表現ですが、言いたいことは何となくでも分かります。私たちの心はあなた方に向かって開かれている。何時でもあなた方を受け入れることが出来る。まあ、そう言うことでしょう。しかし、12節。

 『わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、

  あなたがたは自分で心を狭くしています。』

 これは、11節よりも分かり難いので、少し補って説明する必要があるようです。『広い心で』『受け入れ』『自分で心を狭くしています』、ここは口語訳ですと『自分で心をせばめていた』何れも、比喩的な表現です。心を場所・空間のように表現しています。

 パウロ的な表現方法で説明するなら、こういうことになります。パウロの心には、パウロを批判する人が、ちゃんと場所を占めています。パウロの心の中に彼らは居ます。しかし、敵対者は、心を狭くして、自分の心の中からパウロの居場所を無くしてしまっています。

 パウロの心には、敵対者の居る余地があります。しかし、敵対者の方には、その余地がありません。自ら心を狭くしてしまったから、心を閉じてしまったからです。


★ こんな言い方も出来るかも知れません。パウロの心の中では、敵対者との葛藤が続いています。葛藤で悪ければ対話です。しかし、敵対者は、パウロとの対話を打ち切ってしまいました。心の中の対話の場所を塞いでしまいました。

 聞く耳持たずと言ったら、省略しすぎかも知れません。しかし、これに近いと思います。

 だからこそ、パウロは訴えます。彼らの心に訴えます。例え形式的な返礼であっても、私の訴えに心を開くべきではないのか。全く心を閉ざして、何も聞こうとしないのは、事柄の是非を言う前に、失礼ではないのか。

 パウロは非難と言うよりもじれったさからではないでしょうか。何度も同じことを訴えます。


★ 11節に戻って説明しなければならないことが残っています。

 『コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。』

 これが口語訳では

 『あなたがたに向かってわたしたちの口は開かれており』

 心が開かれているということは、比喩としても理解出来ますが、『口は開かれており』とは、何のことでしょうか。

 実は、文字通りのことです。

 口が大きく開かれていて、咽を通じて腹につながります。つまり、腹にあるものを、正直に口から出しています。普通の日本語に言い換えれば、腹蔵なくということになりましょうか。考え方は全く同じです。腹に溜めて置かないで、口から出しているのです。つまり、正直に隠すことなく話しています。

 つまり、新共同訳の『率直に語り』と口語訳の『わたしたちの口は開かれており』とは、矢張り同じことを強調しています。同じ意味です。

 確かにそんなことがあります。口を大きく開いて、これは、怒りに任せてでしょうか、口を大きく開いて、ものを言う、叫ぶ時には、私たちは、心を開いています。怒りの故ならば、心を開いてしまっている、本心を見せてしまっているということでしょうか。口を大きく開ける時には、心も開いているのです。怒りにまかせて大声を出すのは生けないことかも知れませんが、しかし、心は開いています。

 反対に、口をあまり開けないでボソボソと話す時には、心も開いていない、口から出てきた言葉が本心かどうかは分からないと、こういうことになります。


★ しばしば引用します。ヨブ記1章

 『09:彼の妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。

  神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、

  10:ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいた  だいたのだから、不幸もいただこうではないか。」

  このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。』

 サタンのために苦しみを与えられたヨブは、多分、妻に指摘されるまでもなく、もう限界を超えています。しかし、彼は、自分の腹の中に湧き上がって来る疑惑を、不信を、腹の内にしまい込んで、口には出しません。口を開きません。それが、『彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった』という意味です。

 コリント書でパウロが言っていることとは、全く逆のことかも知れませんが、唇と、腹は繋がっているという点では同じです。

 そのことを弁えて、心を開いて大声で話すなら許されるかも知れません。そのことを弁えて、ここは口を閉じるのがふさわしいと考えたのなら許されるかも知れません。

 

★ パウロは口を開いて私たちと対話して欲しい、その腹の中に、心の中に私たちを入れてくれ、そうして腹蔵無く語ろうではないかと、要求しているのです。

 最初に申し上げた通り、ここから、7章2節に繋がります。

 『わたしたちに心を開いてください。わたしたちはだれにも不義を行わず、

   だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。』

 この言い回しを読めば、逆にパウロがどんなに警戒されているか、どんなに恐れられているかが、分かります。胸襟を開いてという言葉があります。パウロは胸襟を開く所か、大きく口を開けてお腹の中まで見せよう、何も隠し事はないと言っているのです。

 被害者、加害者という言い方は妥当ではないかも知れませんが、敢えて言えば、パウロを批判する人々は、元々パウロによって、信仰を開かれたのに、煽動者に煽られてパウロを批判するようになった、加害者側です。しかし、その加害者側が、パウロを恐れ、それ故にまた、心を頑なにするのです。後ろめたいことがあるのでしょう。胸の内を、腹の内を覗かせたくありません。


★ どなたにもこのような体験があるのではないでしょうか。陰口がそうです。面と向かって口にする勇気がないのかも知れません。ことを荒立てたくないのかも知れません。それならば、口を閉ざせばよろしいのですが、それも出来ません。結果陰口になります。

 たちが悪いのは、「誰それがこう言っている」です。もっと悪いのはみんながそう言っているです。聞いた者は、それは誰だろうと、疑心暗鬼に囚われます。

 しかし、陰口を叩くのは、本当には確信がないからです。むしろ、嘘だと知っているから、正々堂々と批判は出来ません。これは人間が犯す罪の内でも、最もたちが悪い罪です。人の心を腐らせる罪です。そんな陰口を言う人は、自分の心が腐り始めているかも知れません。


★ 3節。

 『あなたがたを、責めるつもりで、こう言っているのではありません。

   前にも言ったように、あなたがたはわたしたちの心の中にいて、

   わたしたちと生死を共にしているのです。』

 パウロを批判する人々、敵対的に振る舞い、絶対にパウロを容認しない人々に対して、パウロはこのように言います。正に、彼の心は敵対者に対して、開かれています。

 そのくらいだから、彼らのパウロ批判も、敵対行動も程度が知れていると思ったら大間違いです。それは、酷いものでした。容赦のないものでした。

 しかし、パウロの心は、未だ彼らに向かって開かれています。そして、当然ながら、心が開かれているからには、口も開かれていて、語りかけ続けています。語り続けずにはいられません。何時までも根に持って責め続けていると言うようなことではありません。

 このように正面から批判していることこそが、パウロの心が開かれている証拠です。

 

★ 4節は、ここに続けて読むべきか、それとも、この箇所からは切り離して、7章5節以下と一緒に読むべきなのか、迷う所です。続けて読む方が、パウロの姿勢が徹底することになります。

 『わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています。

   わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています。』

 無理に説明を付けようとすれば、付かないこともありません。パウロはあなた方という表現で、コリント教会員の全体を指しています。その中には、パウロに敵対的になってしまった人が多いのですが、勿論、全員ではありません。もしこの中から、パウロに立ち返る者が出るならば、実際、最後にはそのようになるのですが、それは、コリント教会そのものが立ち返ったことであり、パウロの信頼を裏切らなかったということになります。

 しかし、このようにすっきり割り切りことは出来ないと考えます。パウロの思いは複雑だし、事柄も複雑なのです。

 『わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています』というのも、コリント教会の現実ならば、

 『あなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています』これも事実なのです。

 先ほど申しました陰口を言うことは、正に、心を狭くして、相手の言い分は容れないということです。聞く耳持たないということです。


★ そして、6章14〜18節もまた、コリント教会の現実です。

 確かに、この箇所は、前後の文脈から切り離して読んだ方が正しいのかも知れません。本来は別の手紙の断片である可能性は高いかも知れません。私たちが持っているのは、聖書そのものではなくて、聖書の写本の翻訳です。聖書を一字一句神聖なものであると受け止めて、文献批評的な研究を退ける必要もないでしょう。聖書は神の言葉、しかし、私たちが今手元に持っているものは、聖書の写本の翻訳に過ぎません。

 しかし、6章14〜18節もまた、コリント教会の現実です。

 この形に編集した人は、そのことに何かしらの意味を覚えたのでしょう。むしろ、前後のつながりを感じたのです。読み取ったのです。

 

★ 14〜15節。

 『あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。

   正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。

 15:キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。』

 これはコリント教会員に対して、彼らを扇動する偽伝道者やその強い影響下にある人々から離れるように促したものである可能性を否定することは出来ないと思います。否定する必要もないと思います。

 16節。

 『神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。

   神がこう言われているとおりです。

  「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、

  彼らはわたしの民となる。』

 ここも同様です。偶像崇拝的な信仰を退け、教会の中に様々な偶像を持ち込む人々を、パウロがどんなに徹底して退けたかということを思い起こせば、私は、必ずしも、前後の文章と矛盾しないと考えます。

 偶像を、間違った信仰を、その心の中から捨てて、余地を拡げ、そして正しい信仰で、聖霊でそこを満たしなさいということなら、パウロは似たようなことを、このコリント書の中で繰り返し述べています。

 

★『わたしたちは生ける神の神殿なので』『わたしたちは、生ける神の宮である』この言葉こそ、前後の文脈から切り離して読んだら、とんでもないことになるでしょう。しかし、この文脈には合致するように思います。『わたしたちは、生ける神の宮である』、神さまから出たものではない変なものを抱え込んではなりません。私たちの心には決まった余地しかありません。要らないものが入り込めば、その分、必要なものが置けなくなります。

 

 18節は、正に教会のあるべき姿です。教会は他のことのために存在するのではありません。このためにこそ、立てられているのです。他のことに意を用いている余裕はありません。

 17節から読みます。

 『だから、あの者どもの中から出て行き、/遠ざかるように』と主は仰せになる。

   『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。

  そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、

 18:父となり、/あなたがたはわたしの息子、娘となる。』/全能の主はこう仰せられる。」』