日本基督教団 玉川平安教会

■2021年6月6日 説教映像

■説教題 「新しい契約に仕える
■聖書   コリントの信徒への手紙二 3章4〜11節 

★ 先週とほぼ同じ箇所を読みます。

 前回読んだことを踏まえながらも、今日は焦点を一つにして、うんと絞り込んで読みたいと思います。先週申し上げましたように、論理展開がなかなか難しい箇所です。大胆に割愛してでも、分かり易くお話しすることを心がけたいと思います。

 この箇所の主題は、『新しい契約』にあります。

 『新しい契約』と言うからには、当然、古い契約が問題になります。

 10節をご覧下さい。

 『そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、

   栄光が失われています。』

 直接にはモーセのことを指していますが、契約・律法を論じていると解釈してよろしいでしょう。ユダヤ教そのものと取った方が、むしろ分かり易いかも知れません。

 1番簡単な言い方をすれば、契約・律法・ユダヤ教は、かつての栄光を失っています。時代遅れです。何故なら、『はるかに優れた栄光』つまりは『新しい契約』が与えられたからです。


★ 『新しい契約』とは、勿論、イエス・キリストの十字架の犠牲によって贖い取られたものです。

 14節を読みます。

 『しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、

   古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。

   それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。』

 10節をもう一度読みます。

 『そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、

   栄光が失われています。』

 10節と14節とを重ねて読めば、次のようになります。

 古い契約はその輝きを失ってしまいました。効力を失ったと、きつく言った方が、分かり易いでしょう。

 しかし、ユダヤ教徒は、古い契約に拘っています。古くなったことを、自分たちの罪の故に、つまり契約違反の故に無効になったことを、認めたくありません。この輝きが失われたことを隠そうとして、覆いを掛けて誤魔化していると、パウロは痛烈に批判します。

 これは、勿論、当時のユダヤ教、そしてその影響を免れることの出来ないキリスト者への批判です。


★ 古いものに拘るのは、新しいもの、本当の輝きを持っているものが見えないからです。コリントの教会員は、新しいもの、イエス・キリストの十字架を知っている筈です。これを受け入れて、キリスト者になりました。

 しかし、古い契約に拘っている巡回説教者がやって来て、あなた方は異邦人であって、本当には律法を知らない、律法を知らなければ、本当にはキリスト者にはなれないと言われると、コロリとまいってしまったのです。

 巡回説教者たちが言うことには半面の真理があります。確かに、旧約聖書的背景が大切です。これを理解しないでは、本当には新約は理解出来ないし、本当には信じることが出来ないでしょう。

 しかし、本当には新約を理解していない人たちが、これを強く主張しています。彼らは、新約を、つまり、イエス・キリストの十字架の贖いによる『新しい契約』を、本当には受け入れていないのです。


★ これを、他人事のようにして聞くならば間違いです。

 何故ならば、私たちの心にも、このような覆いが残っているからです。このような覆いは、聖書や信仰をとても大事に守っているかのように見えながら、実は、一番肝心なことを覆い隠してしまう。そういうことがあるからです。

 何を覆い隠してしまうのか。

 16〜17節を見れば分かります。

 『しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。

 17:ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。』

 大胆に約めて言うならば、覆いを除いたら中味が見えて来るということでしょう。形ではなく、中味を見ようということでしょう。律法を守ことは大事だけれども、その形字面に囚われたら、律法の奴隷になってしまいます。形字面ではなく、もっと中味をつまり、律法が何を語っているのかという本質的な所を見なくてはならないと言うことです。


★ 形に拘泥するのは、中味がないからです。勿論、中味を内容を盛るためには、器が必要です。何かを表現したいと思えば、何かしらの形が必要です。しかし、器・形が出来たから、中味が出来る訳ではありません。

 中味よりも器に拘るのは、中味よりも器を大事にするのは、人間の罪の現実です。

 昔、ある酒造工場の所長さんから、直接聞いた話です。この日本でも有数の酒造会社は、倒産の危機にありました。主に焼酎を造る会社でした。今でこそ、焼酎がすっかり復権し、若い人も好んでいただきますが、当時40年前は、焼酎は人気がなく、特に若い人は、全く嫌うようになっていました。

 売れない酒を廃棄しなければならない程に追いこまれました。その時、工場長は、ある策に出ました。容器、瓶を、古風な焼酎らしい容れ物から、若い人が好むようなおしゃれなガラス瓶に変えました。名前も全く変えました。中味は何も変わりません。しかし、この製品が大ヒットし、会社は立ち直りました。

 この事例は、ちゃんと中味はあったと言うことかも知れません。しかし、人は中味よりも形に拘るという例ではあります。今日では、昔風の甕が高級品の代名詞ですから、不思議です。


★ 飛躍のそしりを免れないかも知れません。牽強付会とさえ言われるかも知れません。しかし、私は、此所でどうしても『放蕩息子の譬え』を連想していまいます。牧師の特権で、脱線をご容赦下さい。

 弟息子は、父親の財産の半分を要求し、家を出てしまいました。これは、十戒にさえ違反する行為です。明らかな律法違反です。しかし、父親は何故かこれを許し、息子の勝手に任せました。当然の成り行きで、弟息子は、財産を放蕩に遣い尽くしました。その日食べるものにも事欠くようになって、そこで初めて、本心に立ち返り、『もう息子と呼ばれ資格はないが、雇い人の一人にして貰おう』と、帰って来ます。

 これを父親はご馳走や着物を与えて歓待します。全く赦します。

 弟息子は、家を出る時に、財産の半分を要求しましたが、父親の愛の半分は要求しませんでした。その存在さえ、目に入っていません。

 まだ弟息子は、悔い改めに基づいた行いなどしていません。雇い人の一人として働いたのでもありません。しかし、父は彼を受け入れ、もう一度、息子としました。

 弟息子は、何もしていないようだけれども、決定的に変えられていました。自らの行いを後悔したこともそうですが、何より、父親の愛情に気付いたのです。愛を裏切っていたことを知ったのです。その息子を、父は愛を持って迎えました。


★ 他方、兄息子は、父の元に留まって、汗水流して働いていました。彼は、弟が戻って来たこと、父が赦したことを、納得出来ません。不平・不満を言います。その言い分は、私は我慢して家に残り、父親に仕えてきたのに、何も良いことはなかったというものでした。

 帰って来た弟に、「お前の財産は、父の愛の半分という財産は、未だ残っているよ」とは言いません。兄にもそれは見えていませんでした。

 彼は、表面、律法を守り、これに仕えてきましたが、真の意味で、家を出た弟と同様に、父親の愛を知らなかったのです。つまり、律法の究極である愛を守らなかったのです。

 キリスト者は、ユダヤ人に比べて善い物を持っている訳ではありません。そもそも律法を知りません。しかし、イエス・キリストの十字架の愛を知り、これに感謝して信仰の世界に入ったのです。


★ 今、異邦人キリスト者を受け入れないユダヤ人キリスト者は、この兄息子と同じです。律法を守らない弟には、父親の相続人たる資格がないと言います。自分は、必死に、我慢に我慢を重ねて、父に仕えて来たのだから、相続人たる資格があると言います。

 しかし本当は、表面的に律法を守っていたかどうかは問題になりません。問題なのは、父の愛を知っていたか、感じていたか、感謝していたかどうかです。

 自らの愚行の故に、むしろ父の愛を知った弟息子は、父親との『新しい契約』に入れられました。『新しい契約』、愛の契約に基づいて、父との新しい関係を築くことになりました。


★ 6節をご覧下さい。

 『神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、

  文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。

  文字は殺しますが、霊は生かします。』

 『文字は殺しますが、霊は生かします。』なんともきつい批判です。これでは律法は悪いもののようです。

 しかし、イエスさまも、パウロ自身も、他の箇所では律法を遵守することは大切で、その一点一画も廃れることはないと言っています。

 あまり詳しくお話ししていると別の説教になってしまいますので、省いてお話しします。律法が悪いのではありません。古い契約が悪いのではありません。人間が、これを守ることが出来なかっただけです。律法に違反することは、究極、死に値します。ですから、律法は、人を殺す結果になります。

 逆に、十字架に死し、自らを捧げたイエス・キリストだけが、人を生かすことが出来ます。


★ 18節を重ねて読みましょう。

 『わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、

   栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。

   これは主の霊の働きによることです。』

 何が問題になっているのか。明らかになったのではないでしょうか。

 『顔の覆いを除かれて』『主の栄光を映し出しながら』『新しい契約に仕える資格』『文字ではなく霊に仕える資格を』『文字は殺しますが、霊は生かします。』

 私たちは、イエス・キリストの十字架の犠牲によって、文字・律法・儀式、そういうものから、自由になりました。つまり、神さまの御心を直接に知ることが出来るようになりました。聖書を読み、祈り、神さまの御心を直接に知ることが出来るようになったのです。

 最早、私たちの祭司は顔に覆いを掛けたり、麗々しい法服をまとい、冠を被って会衆の前に現れることはありません。何より、私たちの聖書には覆いが掛けられていません。誰でも何時でも読むことが許されています。私たちは、誰か他の人が作った祈祷文に従って祈るのではなく、自分の言葉で、自分の心で祈ることが許されています。


★ 親しき仲にも礼儀ありという言葉があります。全くその通りでしょう。ゲーテは「親しんで慣れぬが善し」と言いました。全くその通りでしょう。私たちは、謹んで礼をもって、神さまを礼拝すべきです。しかし、その根底にあるのは、愛です。

 父への畏敬は必要かも知れません。しかし、兄息子には、畏敬よりも恐怖があり、怯えながら、我慢しながら、父に仕えて来ました。それはどうも愛ではなかったようです。


★ 4〜5節。

 『わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。

  5:もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。

   わたしたちの資格は神から与えられたものです。』

 考えて見ますと、いろんなことを上げてパウロを批判する人々は、自分の持っている権威・資格、特権、こういうものに拘泥しています。

 パウロはそのようなものを誇ることをしません。そのようなものに頼ることをしません。

 何故なら、それは自分の努力で獲得したものではなくて、『神から与えられたもの』だからです。弟息子は、『もう息子と呼ばれ資格はないが、雇い人の一人にして貰おう』と、帰って来ました。何もかも失い、無一文でした。勿論、誇りも何もありません。

 その息子を父は、全く無条件に受け入れました。全く無条件に赦しました。愛をもって迎えました。

 パウロも同じです。1章9節。

 『わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、

   死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。』

 弟息子のように、全く持ち物を失い、そして神の愛だけを頼りにしたのでした。

 今日の箇所に於いて、本当に問題になっている事柄は、対立点は、神さまに頼るのか、それとも、何か他に頼りになるものがあるのか、そのことです。自分に頼るのか、神に頼るのかです。息子と呼ばれる資格はないけれども、父の元に帰りたい、これが信仰です。