日本基督教団 玉川平安教会

■2021年11月28日 説教映像

■説教題 「神を知っているとは

■聖書   ヨハネの手紙一 2章1〜6節 


★この個所を一度読読んでみて、その後、5分間瞼を閉じて考えてみたとします。「さあ何が書いてありましたか」と問われたら、何と答えたら良いでしょう。

 『御父のもとに弁護者』『全世界の罪を償ういけにえ』『神の掟を守るなら』『その人の内には神の愛が実現しています』『わたしたちが神の内にいる』『イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません』

 これが、耳に残りそうな言葉でしょうか。「それでは、この7つの言葉・表現を使って、この個所と同じ意味になるように作文して下さい」と言われたら、どうしましょうか。

 戸惑うばかりです。もし、聖書の授業でそんな試験を出したら、多くの学生は、最後の『イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません』だけを用いて作文するでしょう。他の言葉・表現は、忘れられるか、無視されるかでしょう。

 

★一度の黙読ではなくて、問題用紙に、この7つの言葉・表現をちゃんと印刷しましょうか。それなら、接続詞を補うだけで、文章になる筈です。

 しかし、なかなか難しいでしょう。神学生だって、満点の答案を書くことは困難でしょう。「てにおは」の使い方によっては、Tヨハネの意図から外れてしまうかも知れません。


★最初の二つを外したらどうでしょう。『神の掟を守るなら』『その人の内には神の愛が実現しています』『わたしたちが神の内にいる』『イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません』

 まるで印象が変わります。これならば、若干の接続詞を補うだけで、文章が出来上がります。そして、Tヨハネの意図にかなったものになるでしょう。

 『神の掟を守るなら』ば、『その人の内には神の愛が実現しています』。『わたしたちが神の内にいる』ためには、『イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません』。

 以上、補ったのは、「ば」「ためには」この2語だけです。後は、句読点計4個です。


★そのような次第で、分かりやすく読むために、取りあえず、『御父のもとに弁護者』『全世界の罪を償ういけにえ』は無視して読みます。後回しにします。


★1節。

 『これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです』

 『これらのこと』とは、この前後のことなのか、Tヨハネ全体のことなのかはっきりしませんが、特に限定する必要はないでしょう。Tヨハネ全体のことと受け止め、執筆動機と受け取ってよろしいと考えます。

 『罪を犯さないようになる』、掟に違反しない、消極的な倫理とも言えますが、何よりも大事なことだと思います。

 昔、教会の中で消極的な倫理、積極的な倫理という言葉が流行ったことがありました。大胆に結論部だけを言いますと、「自分が嫌なことは、人にするな」「人に迷惑を掛けるな」が、消極的な倫理です。昔ながらの日本的な倫理とも言えますでしょう。


★私は所謂ベビーブーム世代の終わり頃の誕生です。子どもが溢れていました。その時は、「大人しい」が子どもへの褒め言葉でした。物の本によると、「大人しい」は「温和しい」とも書きますが、実は「音無しい」だそうです。

 長谷川町子の『いじわる婆さん』にこんな場面があります。『いじわる婆さん』が町内の人々に、初老の男性を紹介しています。「この人は、お酒も飲まず、たばこも吸わず、博打もしない。とてもいい人です」。

 以前は、これが人物を保証する言葉でした。「飲まず」「吸わず」「打たず」、要するに何にもしないことです。

 『いじわる婆さん』の漫画の落ちでは、「この人は刑務所を出たばかりです」。

 漫画ですが、単に漫画ではありません。「自分が嫌なことは、人にするな」これが、日本流の倫理、消極的な倫理でした。

 

★逆に、積極的な倫理は、「自分がして欲しいことを、他の人にもして上げなさい」であり、「人の助けになることをしなさい」となります。

 そうして、人が他人に求める最大のことは、関心を持って貰うこと、愛して貰うことですから、積極的な倫理の究極は、「自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」となります。キリスト教倫理がこれだと言う人もあります。


★エリック・C・ホガードという児童文学の作家がいます。『小さな魚』という名作があり、3〜4回も読み返しました。この人の『奴隷少女ヘルガ』という本の扉に、このような献呈の辞があります。

 「愛する息子マルクへ。君が大人になった時に、他人を愛するように、自分自身を愛することが出来るように」。

 他人を愛することの出来る人が、自分をも愛することが出来ます。自分を愛することの出来る人が、他人をも愛することが出来ます。どちらか一つだけですと、それは本当には愛とはなりません。

 

★分かり易くと考えたつもりが、却って難しくしたでしょうか。しかし、答えは簡単です。

 消極的な倫理と、積極的な倫理は矛盾しません。矛盾してはなりません。矛盾するようなら、その倫理は間違っています。

 同様に、古い掟は、イコール間違いではありません。新しい掟は、新しいと言うだけでは、イコール正解ではありません。

 3節。

 『わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。』

 『神の掟』とは、必ずしも旧約聖書の律法のことではありません。むしろ、未だ歴史は浅いけれども教会に伝えられている掟があったと考えるべきでしょう。どんな形でかは分かりませんが、逆に言えば、何書の何節という必要もないほどの自明な掟であり、教会の中の倫理です。新しい掟と古い掟とは、矛盾しません。矛盾するようなら、たいした戒めではありません。新しいものと古いものが一致して、本当の掟と言えましょう。

 それは、1章1節で

 『初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、

  よく見て、手で触れたもの』とも言われています。つまりは、『命の言葉』です。


★4節の方がストレートで分かり易いでしょう。

 『「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、

   その人の内には真理はありません。』

 こういう人がいます。必ずいます。

 NHKの大河ドラマで、繰り返し、明治維新の英傑の姿が描かれます。この場にも、その子孫に当たる方が居られるかも知れません。そうだといけないので、小さい声で話しますが、私は、勤王の志士などと呼ばれる人は、あまり好きではありません。彼らを英雄視するドラマは、ちょっと敬遠します。

 何のことはない、無知で世界情勢を知らず、独りよがりで、やたらに暴力を振るい、それどころか金品を略奪し、放蕩三昧、私にはそんな風に見えてしまいます。その証拠には、時代が変わったら、立場を180度変え、貧しい者、弱い者を抑圧する側になってしまう、そんなイメージしか持てません。偏見かも知れませんが。


★私は、日本の歴史については、勉強が足りないので分かったようなことは言わない方がよろしいでしょう。

 しかし、宗教の世界では、全く、これが当て嵌まります。

 先週も、統一原理やオウム真理教の話をしましたので、今日は遠慮しますが、新興宗教には、4節が全く当て嵌まります。


★5節前半。

 『神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。』

 『神の言葉を守る』ことと、『神の愛が実現』することとは、全く重なります。矛盾などありません。矛盾するようなら、それは『神の言葉』ではありません。『神の愛』などと言ってはなりません。それは赦されざる罪です。


★5節後半。

 『これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。』

 掟を守ることと、『神の内にいること』とが、一緒だと言われています。この二つが矛盾するようでは、それは、独りよがりの宗教です。インチキと言いたくなります。


★6節。

 『神の内にいつもいると言う人は、

  イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。』

 『神の内にいつもいる』、微妙な表現です。この表現に拘ると、『いつもいる』のではなくて、時々いる人があるかも知れません。たまにいる人もあるかも知れません。

 もしかすると、大部分の信仰者はそうではないでしょうか。『いつもいる』のは大変です。なかなかに困難です。一人の人間が『神の内にいつもいる』を、神さまが一人の人間のそばに「いつもいる」と置き換えたらどうでしょう。それなら嬉しいと言える人は、大変な信仰者です。こういう人なら、『神の内にいつもいる』と胸を張って言えるでしょう。しかし、大方の人間は、神さまがそばに「いつもいる」と、ちょっと具合が悪いのではないでしょうか。迷惑なのではないでしょうか。


★クリスマスが近づきました。町には、もうクリスマスツリーが現れ、イルミネーションが点灯されているでしょう。一ヶ月間だけ、日本はあたかもキリスト教国になります。

 初詣は3が日の間だけ、せいぜい幕の内だけですから、日本では、キリスト教が神道に勝っているのでしょうか。

 日本人は、実に正直に行動しているのかも知れません。キリスト教の神さまだろうが、神道だろうが仏教だろうが、年に数日がちょうどいい塩梅なのです。

 他の日には、神さまに縛られないで、自由に行動したいのが本音です。


★ここで、1節に戻ります。先ずは前半。

 『わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、

  あなたがたが罪を犯さないようになるためです。』

 人間は罪を犯す存在です。努力して罪を遠ざけることが出来るなら、イエスさまの十字架の出来事はありません。必要ありません。人間が罪を犯す存在だから、イエスさまの十字架の出来事がありました。

 『あなたがたが罪を犯さないようになるためです。』しかし、人は罪を犯します。単に人ではありません。『わたしの子たちよ』と呼ばれている人たち、つまり、信仰に生きている者が、罪を犯します。


★『神の内にいつもいると言う人は』、とても立派に見えますが、しかし、それは事実でしょうか。もしかしたら、罪を自覚しないだけなのではないでしょうか。Tヨハネは、この後、『罪がないと言い張るところに罪がある』というヨハネ文書に共通する理屈に展開して行きます。ここにも、当て嵌まるのではないでしょうか。

 『神の内にいつもいると言う人は』、「自分には罪はない」と言い張る人は、もしかしたら、イエスさまの十字架を必要としない人なのではないでしょうか。


★1節の後半。

 『たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、

  イエス・キリストがおられます。』

 Tヨハネは、やはり、人は罪を犯すという前提で語っています。

 人は罪を犯す存在だから、『神の内にいつもいる』ことは出来ずに、しばしば神から離れるから、むしろ、もっぱら離れていて、時々近づくだけの存在だから、『御父のもとに弁護者』『がおられます。』


★2節。

 『この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、

   全世界の罪を償ういけにえです。』

 これが、イエス・キリストの十字架です。罪を犯す人間、罪から離れることが出来ない人間、しばしば神から離れ、むしろ、もっぱら離れていて、時々近づくだけの存在の人間のために、主の十字架の出来事は起こったのです。

 ですから、『神の内にいつもいると言う』ことよりも、神から離れている現実・その罪を自覚することこそが、『神の内に〜いる』ことだと考えます。