日本基督教団 玉川平安教会

■2021年1月17日 説教映像

■説教題 「生きている者の神」
■聖書  ルカによる福音書 20章27〜40節 



◆ 30年以上も昔の話です。白河教会の牧師だった時、ある教会員のご婦人が、訴えます。

「先生聞いて下さいよ。うちの大先生ったら、こんなことを言うんですよ」。ちょっと説明が要ります。この人のご主人はお医者さんで、その息子も医者でしたから、白河の町の人も教会の人も、大先生、若先生と呼びます。当時この親子は80過ぎと50過ぎでしたが、それでも、大先生、若先生です。

 この若先生は現在90歳を超えて、なお現役で診療を続けていますが、今でも若先生と呼ぶ人がいると聞きました。

 「うちの大先生ったら、こんなことを言うんですよ。お墓の話をしていたら、『聖書にはめとることも嫁ぐこともない≠ニ書いてあるから、天国では夫婦は関係ない』、憎たらしいことを言うでしょう」。

 その時に何と答えたか、忘れてしまいましたが、このご婦人が、亡くなった後も、お墓で、そして天国で、夫と一緒にいたいと訴えたことは忘れられません。

 その後の体験では、50年も連れ添ってもう十分、お墓まで一緒にいたくないというような声を聞くことの方が多いように思います。どうも男性は妻と一緒がいいと望みますが、女性は必ずしも夫と一緒は歓迎しないようです。

 統計を取った訳ではありませんので、正確な数字は分かりません。


◆ このご婦人は、真剣な思いで、天国で夫婦はどうなるのだろうと考えました。

 しかし、この場面に登場するサドカイ派は、心から天国のことを知りたくて質問しているのではありません。質問は、イエスさまを困らせるためでしかありません。そういう問いと、死後の世界でも夫と一緒にいたいという愛情からの質問は、全然別ものです。

 28〜33節は、問でも何でもありません。イエスさまに対する無理難題と言いますか、罠でしかありません。

 理屈では、サドカイ派が上げるような事例が絶対にないとは言えません。ユダヤ教の律法では、兄が子を残さずして亡くなった時に、その妻が弟と一緒になって、名前を残すということが定められています。日本でも、特に戦時中にはそんなことがあったようです。

 若くして亡くなった兄を大事に思う気持ちと、残された妻の今後の生活とを考えると、案外合理的で人道的なことかも知れません。しかし、これが定め、まして律法になり、強制力を持つというのは、何だか怖いような、嫌らしいような気さえします。


◆ 28〜33節は、理屈では、絶対ないとは言えませんが、現実にはあり得ないでしょう。イエスさまを困らせるために、いわば捏造された問です。このような問を考え出すことこそが、不信仰です。

 現実に直面して、聖書の字面だけでは分からない、どうなってしまうのだろうと疑問に思い答えを知りたいのは当然でしょう。 

 同じ白河教会員で、同じく80歳のご婦人は、終戦時満州から帰還しました。ギリギリのタイミングだったようです。その過程で、1番末っ子の男の子、乳飲み子を亡くしました。栄養失調だそうです。その亡くなる時の様子を、悲惨な様を、私に話してくれた時に、40年も昔の話なのに、涙をボロボロこぼしていました。

 そしてあの子はどうなったのだろう、天国に行けたのだろうか、あの子は洗礼を受けていないと、嘆くのです。


◆ 矢張り白河教会員の当時70歳男性は、何の機会だったか、多分お葬式の後だったと思います、お酒を飲み過ぎた時に、私に正に告白しました。中学でも大学でも一緒だった友人が、戦犯として処刑されました。この人自身も、もし、たまたまマラリヤに罹って入院していなかったら、同じ戦場に出て、結果戦犯として処刑されたかも知れない。自分は生き延びて良かったのだろうかと、告白するのです。

 この人は、戦後ずっと、それを問い続けながら生きて来たのです。


◆ 神さまの前での問いは、真剣なものでなくてはなりません。本心ではない、心からの叫びではない問いは、不信仰以外の何ものでもありません。

 祈りも同様です。何も祈ることがないから、でっち上げたような祈りならば、しない方がよろしいでしょう。取り立てて祈ることがないのならば、無理に作り出すよりも、主の祈りをしたら良いのではないでしょうか。


◆ イエスさまは、夫を慕う気持ちからの問いに、何と答えられるでしょうか、大いに興味があります。知りたいと思いますが、叶いません。例に挙げたご婦人は真剣に聞いたのですから、私は牧師として答えたいのですが、ぴったりとした聖書の箇所は思い浮かびません。

 他の箇所をいっぱい例に挙げて、だからイエスさまならこのように答えたろうと推測するのは、おこがましいし、全然説得力がありません。

 真剣な問いならば、きっと何時か神さまが答えて下さるだろうと信じるしかありません。


◆ イエスさまを罠に掛けるためのインチキな問であっても、これに対するイエスさまの答えを見るしかありません。これだけが天国の手掛かりです。35節。

 『次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、

  めとることも嫁ぐこともない』

 この言葉には、二つ、良く良く聞くべき重要な点があります。

 第1は、『次の世に入って』です。イエスさまが現世とは違う別の世、世界について言及するのは、極めて希です。

 他では、ルカ福音書の十字架の場面が、最も印象的です。23章42〜43節。

 『「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、

  わたしを思い出してください」と言った。

 43:するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」

  と言われた』

 『あなたの御国』、御国はパラダイスです。パラダイスという現世とは違う別の世があると明言されています。そこがどんな世界なのかまでは記されていませんが、パラダイスがあると明言されています。これはとても重要です。

 この箇所は、間もなく読みますので、詳細はその時に譲ります。


◆ 第2は、『死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々』と言う表現です。

 これを良く吟味すると、『めとることも嫁ぐこともない』のは、『復活するのにふさわしいとされた人々』です。誰でも彼でもではありません。

 大胆に約めて言えば、『めとることも嫁ぐこともない』のが、選ばれた人、信仰を認められた人です。

 ローマカソリックの考え方では、死後、死者は誰もが、裁きを受けます。天国と地獄があり、そのどちらかに振り分けられます。裁きという言葉と刑罰という言葉はしばしば混同されますが、裁きは刑罰ではありません。振り分けです。地獄に振り分けられれば、当然そこには苦難が待っている訳ですから、自動的に刑罰になります。しかし、天国に振り分けられれば、それは刑罰ではありません。裁きと刑罰はイコールではありません。

 ややこしいことに、ローマカソリックの考え方では、地獄と天国との中間に、煉獄があります。ここでは試練が待っていますが、苦難を体験し、過去の罪を償うことが出来れば、天国への道が開かれます。


◆ このようなローマカソリックの考え方には、聖書的根拠は全くありません。嘘と言ったら失礼かも知れませんが、せいぜい方便です。

 プロテスタント的には、このような教えは絶対に受け入れられません。何故なら、直截宗教改革に結び付く事柄だからです。

 所謂免罪符の有効無効が、ローマカソリックとプロテスタントの重大な対立点の一つです。ローマカソリックは、ペトロやパウロのような偉人・聖人は、己一人を救うだけではなく有り余る功徳があると考えます。これを分けて貰うことで、煉獄の試練が短縮されるというのが、免罪符です。勿論、聖書的根拠は全くありません。

 この免罪符をお金で買うことが出来るとしたら、信仰義認論などは、どこかに吹っ飛んでしまいます。完全にパウロの信仰の否定です。


◆ 話を元に戻します。ややこしいことにまで触れてしまいましたが、天国地獄煉獄などという考え方とは、全く関係なく、イエスさまは、パラダイスの存在を明言しています。

これが私たちには重要です。パラダイスの見取り図は示されていませんが、重要です。

 だからこそ、36節。

『この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、

 復活にあずかる者として、神の子だからである』

 また、これが私たちが目標とする天国です。

 『帰って来たヨッパライ』の世界ではありません。「酒は旨いし、ねえちゃんは綺麗だ」ではありません。

 そこでは『もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである』、これが、唯一示されている天国の見取り図です。


◆ このことを踏まえて、最初に上げたご婦人に答えなくてはならないでしょう。その愛するご主人が言った通りです。

 『めとることも嫁ぐこともない』のが、天国です。何故なら、『もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである』。

 世の中の人には、天国が「酒は旨いし、ねえちゃんは綺麗だ」なら是非行きたい、そのためなら現世では、「酒も、ねえちゃんも我慢する」けれども、「酒も、ねえちゃんもいないなら行きたくもない」と言う人があろうかと思います。

 こんなに単純、分かり易い話ではなくとも、似たような思いの人はいるのではないでしょうか。

 もしかしたら、天国で愛する夫と一緒にいたい、それが出来ないなら、天国は要らないと言う人も、結局、『帰って来たヨッパライ』と同じかも知れません。

 しかし、天国で愛する夫と一緒にいたいと言う思いは叶えて欲しいと思うのが、私にとっては本心です。


◆ 38節。

 『神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。

  すべての人は、神によって生きているからである。』

 これが、1番直接的なイエスさまの答えかも知れません。サドカイ派への答えだけではなく、愛する人を失って悲しみ、何故と問わずにはいられない者への答えかと思います。

 これは、勿論、既に死んだ者は、イエスさまの守備範囲ではないから知らないという意味ではありません。

 生きていて、死んで行った者への悲しみに貫かれている者、心に深く傷を負っている者への、慰めの言葉だと思います。もう苦しまなくとも良い、考えなくとも良いという慰めではないでしょうか。


◆ 39節。

 『そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた』

 今イエスさまに罠を仕掛けて、不発に終わったと言いますか、むしろ恥をかいたのはサドカイ派です。律法学者は多くがファリサイ派と重なります。そして、サドカイ派は復活否定論で、ファリサイ派は肯定論に立っていました。

 単純に読めば、ファリサイ派は我が意を得たりと、イエスさまの答えを歓迎したと言うことでしょうか。しかし、それにしては、40節が奇妙です。

 『彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった』

 『彼ら』とは、律法学者のことでしょう。サドカイのことではないでしょう。それなのに、『彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった』、やり込められたのは律法学者のようです。

 これに似たような箇所があります。

 既に読んだ『良きサマリヤ人の譬え』です。

 『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。

  「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」』

 大変大事なことを訪ねているように見えます。しかし、それは『イエスを試そうとして言った』ものに過ぎません。


◆ 私たちも、大事な質問こそ、『イエスを試そうとして言っ』てはなりません。心からの問いならば、答えていただけるかも知れません。しかし、心にもない問い、まして『イエスを試そうとして言った』問いは、退けられます。それどころか、この問いをした者は、裁かれるでしょう。大事なことを軽々に扱った者は裁かれて当然です。御言葉を軽んじたのですから。

 裁かれるとは、何も罰が与えられると言う意味ではありません。最早答えがいただけなくなると言う意味です。もっとも、これが1番重い刑罰かも知れません。