日本基督教団 玉川平安教会

■2021年1月10日 説教映像

■説教題 「相続財産は我々のもの」
■聖書  ルカによる福音書 20章9〜19節 



◆ 今日の箇所に記されている譬え話から、直截に連想させられるような出来事が、日本の歴史を見ると、現実に起こっています。

 鎌倉時代の前後、応仁の乱の後の戦国時代初期、都にいる貴族や寺社の荘園統治、管理を巡って、実際に田畑を耕す階級の人々が、上にいて収穫だけを持っていく者に反抗、反乱する出来事が頻繁に起こり、やがては下克上と呼ばれる闘争になっていきます。

 サムエル記何章というように、具体例を挙げなくとも、同様のことが、聖書世界でも起こったのでしょう。そういう歴史的事実が、この譬え話の元になっていると思います。


◆ 譬え話ですから、農夫とは農園で働く農民や、直接の管理人を比喩し、農園主は神さまを、僕とは預言者を、跡取り息子とはイエスさまのことだと読むことが出来ます。更に掘り下げて、管理人はファリサイ派だと読むことも出来ましょう。

 更に、時代や国の状況によっては、もっと別のものを比喩していると解釈されるでしょう。

 現代ならば、農園を教会に、管理人を牧師に置き換える読み方もあるかも知れません。

 そもそも聖書を、単に2000年以上前に起こった出来事として読むのではなく、現代の教会や私たち自身に当てはめて読むことは、正しい読み方、是非必要な読み方でしょう。

 しかし、比喩は、解釈する者によって、誤誘導されて、元々の意味・意図からは外れた結論を導いてしまう危険があります。

 我田引水、牽強付会は、比喩解釈に伴う落し穴のようなものです。

 特に今日の箇所は、危ない箇所だと考えます。完成に注意してゆっくり読みたいと思います。


◆ 誤誘導にならないように、今日は、まず結論部に当たることを、最初にお話しします。結論つまり目的地を明確にしておいた方が、途中で迷う危険は少ないでしょう。

 結論とは、収穫とは何かということです。『ぶどう園の収穫』とありますから、比喩でも何でもない、葡萄だろうと考えたら、これは大間違いです。葡萄ではなく葡萄酒だと言うのではありません。葡萄酒もまた比喩です。

 葡萄は何の比喩か、新約聖書で果物が出て来たら、これは例外なく比喩です。果物とは、信仰生活の生り物、信仰そのものです。そして愛です。

 ガラテヤ書5章22〜23節。

 『霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23:柔和、節制です。』

 ヨハネ福音書15章16〜17節。

 『わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、

  その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは

  何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

 17:互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。』

 他にも無数に例を挙げることが出来ます。信仰の果実は愛です。


◆ つまり、比喩の中で、農園主が求めている収穫とは、愛のことに他なりません。

 ルカ20章10節。

 『収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、

  僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、

   何も持たせないで追い返した。』

 『何も持たせないで』とは、葡萄のことでも葡萄酒のことでもありません。愛のことです。

 農夫たちが『何も持たせない』のは、そもそも収穫がなかったからです。この農園では、信仰の実り・愛が実っていなかったのです。むしろ憎しみが育っていました。


◆ これが、この比喩の、そして説教の結論です。ここで初めて、比喩を我がことに、我が教会に当てはめて考えなくてはなりません。

 私たちの教会に、信仰の果実としての愛があるかということです。実っているかということです。十分に豊かに実っているかということです。

 愛という言葉だけでは、漠然としている嫌いがあるかも知れません。それならば、先ほど引用したガラテヤ書5章22〜23節が、当て嵌まります。

もう一度読みます。

 『霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23:柔和、節制です。』

 ここに上げられたことが、私たちの教会の中で実現しているかが、問われています。


◆ 結論をお話ししましたから、これを前提にして、他の比喩を解釈してまいります。

 10節の後半部は読みました。全く同じ表現が11節で繰り返されます。

 11節には少し付け加えられています。

 『更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。』

 違いとは、『これにも傷を負わせて』です。細かいことに拘れば『これにも』ですから、前の二人にも『傷を負わせて』なのでしょうが、ここで改めて『傷を負わせて』と記すことで、農夫たちの態度が、だんだん酷くなっていくことを表しているのでしょう。『追い返した』と『ほうり出した』も表現が違います。言葉の上では、重大な違いではないかも知れませんが、『ほうり出した』とは、『追い返した』よりも、より過激で敵対的だと思います。

 暴力行為がエスカレートしています。


◆ 13節。

 『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』

 農園主の判断は甘かったことになります。2度3度と繰り返されたことは、4度目にも繰り返されるに決まっていますが、農園主は判断を誤りました。

 農園主とは神さまを比喩していると考えられます。そうしますと、神さまが判断を間違えたことになってしまいますが、これは比喩の限界です。

 この箇所を盾にとって、神さまも判断を誤るなどと言うのは、意味がありません。比喩とは比喩を語るものの意図を汲み取ることが肝要で、言ってもいないことを言わせたことにするのは、それこそ、我田引水、牽強付会です。

 比喩を聞いたらその意図を探ることが大事で、揚げ足取りをしても仕方がありません。


◆ 農園主とは神さまを比喩し、『わたしの愛する息子』とはイエス・キリストを指しています。つまり、この出来事は十字架の比喩です。

 当然、農夫とはユダヤ人であり、祭司や律法学者、更にはファリサイ派のこととなります。

 彼らが、イエスさまを神の『愛する息子』・メシア・キリストとして認めなかったこと、受け入れなかったことが、この比喩の意味です。

 そして何よりも、祭司や律法学者、ファリサイ派には、信仰の実りとしての愛がないことが指摘弾劾されています。

 

◆ ルカ福音書11章42節。

 『それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。

  薄荷や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、

  正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。』

 ルカ福音書11章には、ファリサイ派批判が延々と綴られています。マタイ福音書の並行記事では、更にルカの何倍も、徹底的に批判されています。その極まりは、ファリサイ派の形に嵌まった信仰には、神と人への愛に欠けていることなのです。

 同じ11章の49節。

 『だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、

   人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』

 今日の箇所に通じます。ファリサイ派のそして農夫の罪とは、欲に目が眩んで収穫を独り占めしたことではありません。信仰の実りたる愛の果実、収穫がなかったことなのです。


◆ ルカ福音書20章14〜15節。

 『農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。

   殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』

 15:そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。』

 ここでは話も比喩も飛躍します。この言葉こそ、ファリサイ派批判です。

 彼らの罪の内容は、11章に克明に描かれています。長くて引用しきれませんので、後でお読み下さい。

 突き詰めれば、神さまのものを自分たちのものにしてしまっていることが批判されています。同時に、信仰を形骸化し、内実がないこと、つまりは、収穫物たる愛の果実がないことが批判されています。

 多くの宗教が同じ道を辿るようです。私たちとは信仰が違いますが、大いに敬意を払うべき深い哲学性を持った教えが、貧しい者弱い者への労りに満ちた慈愛の教えが、何代か指導者貸せ交代すると、大伽藍の後ろに隠れ、仰々しく麗々しく執り行われる義式によって、貧しい者弱い者の心の叫びは、かき消されてしまいます。

 他宗教だけではない、私たちの教会だって、警戒しなくてはなりません。


◆ これが比喩の大きな意味です。教会は誰のものでしょう。

 宗教改革以前は、教会は即ち王侯貴族のものでした。誰もその事実を否定出来ないでしょう。教会の財産が事実上、世俗の貴族に、または司教という名前の貴族に支配されていました。そして、御言葉、これは文字通りに聖書そのものが、一握りの司祭に独占されていました。 宗教改革が、これを打ち破りました。しかし、宗教改革によって、教会は神さまの元に返ったでしょうか。もしかしたら、農夫たちが、教会を支配しているのかも知れません。

 

◆ 教会は教会員みんなのものでしょうか。そうかも知れません。ある文脈ではその通りでしょう。しかし、本当は教会員のものではありません。神さまのものです。

 私たちは、神さまから教会というぶどう園をお預かりしてます。収穫が期待されています。収穫とは、信仰の果実たる愛です。もし、教会が愛の果実を実らせないならば、まして憎しみを育てるならば、取り上げられてしまいます。

 先々週の聖書箇所は、ムナの譬えでした。1ムナを5ムナに10ムナに育むことが期待されています。1ムナを地面に隠しておいた、退けられました。ムナつまり金貨ならば、リスクを伴う投資を避けて、隠しておいた僕にも理があるかも知れません。

 しかし、ぶどう、つまり信仰の果実たる愛です。愛こそ、投資したら増えます。投資しなければ、そのままです。増えはしません。ややもすれば腐ってしまいます。

 ルカ福音書19章26節。

 『主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、

   持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。』

 これは資本がある者は儲けるが、資本のない者は倒産するという話ではありません。愛を投資しない者は『持っているものまでも取り上げられる』、つまり、愛されなくなるでしょう。


◆ ぶどうではなく、他の作物を実らせても、神さまの期待に応えることにはなりません。

 今日の箇所の直前をご覧下さい。19章45〜46節。

 『それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、

  46:彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』  ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」』

 解釈が難しい箇所です。

 『神殿の境内』で『商売をしていた人々を』、不信仰・悪と決めつけることは出来ません。エルサレム神殿に捧げ物をするのに、遠くアフリカからやって来た人は、捧げ物の牛や羊を引っ張ってくることはかないません。だから、『神殿の境内』で、生け贄の動物を買います。外国の貨幣は汚れていると考えられていましたから、『神殿の境内』で、ユダヤの貨幣に両替して貰います。これが商売の実態です。当時のエルサレム神殿での祭儀には必要なことでした。

 しかし、イエスさまは、これを退けられました。ヨハネ福音書を見ると、鞭を振るって叩き壊したともっと過激な行動です。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』これが理由です。これは厳密でなければなりません。


◆ 教会は弱い者苦しむ者に開かれたコミュニティーセンターではありません。あってはなりません。2020年の教会活動の一つに、私は『こども食堂』を検討していました。コロナ禍で、始める前に頓挫してしまいました。大変残念です。しかし、何らかの仕方で、今も各地で続けられている『こども食堂』の働きを応援したいと考えています。

 子どもに食事を提供することは、神さまからお預かりしている農園にぶどうを育て愛の果実を収穫する業だと思うからです。

 コロナが落ち着いたら、18〜19年度に盛んになった愛餐会やコーヒータイム、アガペ食堂も再開したいと願っています。ぶどうを育て愛の果実を収穫する業だと思うからです。

 しかし、『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ことに、矛盾してはなりません。 教会は仲良しに会うために集う所ではありません。


◆ このように言いますと、とても窮屈に感じられる方もあろうかと思います。仲良しに会えないなら礼拝に出たくもないし、楽しみにしている教会行事の何がいけないのかと反発もありますでしょう。その通りです。何もいけないことはありません。

 『祈りの家で』、同じ信仰に立つ人が、一緒に礼拝を守っていれば、自ずと、楽しい交わりとなり、特別に親しい友が出来、結婚する人も出るだろうと思います。素晴らしいことで、何も間違ってはいません。

 教会の交わりに愛があるならば、大伽藍は必需品ではありません。学問的に高度な説教も、優れた教会音楽も、ましてきらびやかな祭儀など、必要ありません。つまり、礼拝が守られている玉川平安教会は、今でも十分に、畑として機能しています。信仰の実・愛が実るならば。