日本基督教団 玉川平安教会

■2021年5月23日 説教映像

■説教題 「キリストの手紙
■聖書   コリントの信徒への手紙二 3章1〜3節 

★ 『わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか』。

 使徒パウロは、何故このようなややこしいことを言わなければならないのでしょうか。それを説明すると、コリント書全体を話すことになります。その背景について、相当程度詳しくお話ししなくてはなりません。連続で読んでおりますので、おいおい触れていくことに致しまして、今日はこのように説明しておきます。

 つまり、使徒パウロは、常にこの類の批判を受けていました。どのような資格で、誰から選ばれて使徒となったのか、そもそも使徒を名乗る根拠は存在するのか、そういうことが問われ続けてきました。そして、パウロが、かつてキリスト者を迫害したという過去が、繰り返し、執拗に蒸し返されて来ました。

 パウロはそのために伝道・教会形成に多大な支障を来しました。やむを得ず、弁明しますと、今度は、それが自己推薦、自己宣伝だと批判されます。その繰り返しです。


★ パウロは、今、推薦状そのものを疑問視します。むしろ、否定します。

 『あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、

  わたしたちに必要なのでしょうか。』

 パウロとコリントの教会員とは、互いによくよく知っています。今更に、第三者の紹介状或いは推薦状など必要としない関係の筈です。互いに良くは知らないから、或いは全く知らないから、信頼出来る第三の人物の紹介状に頼ります。その人物の能力の程を知らないから、権威有る人物の推薦で、その保証とします。

 しかし、私たちも、しばしばこの辺りのことを曖昧にしたり、間違えたりしているのではないでしょうか。紹介状、推薦状、資格証明書、免許証、卒業証書、もろもろ、皆、直接その人を知らないから、少なくとも良くは知らないから、他に知る術がないから、これに頼ります。しかし、現実は、これらの資格や証明書が一人歩きし、その人物の中身よりも、実際よりも、重要な存在になってしまいます。具体的な例を挙げてお話する必要もないくらいでしょう。そのようなことが、ままあります。


★ 自己推薦を、自己宣伝と読み取ることも可能です。パウロが受け続けた批判の性質を考慮しますと、自己宣伝と表現した方が良いかも知れません。パウロは自己宣伝が過ぎると批判されました。自己宣伝が過ぎると、本当に嫌われます。最近もそんな例がありました。事実関係も、事柄の本質も、良くは知りません、マスコミの報道もあんまり真に受けてはならないようですから、分かったようなことは言えませんが、時の人として祭り上げられた人物が、自己宣伝が過ぎて嫌われる、これは事実です。

 ところで、自己宣伝の逆は何でしょうか。謙遜でしょうか。謙遜にして、むしろ他の人を立てることかも知れません。先輩を重んじることでしょうか。他の人を立てるとか、先輩を重んじるとか、表現を変えれば、伝統・秩序を重んじるということです。

 改革者は、むしろ伝統・秩序を否定します。結果、他の人を立てない、先輩を重んじない、自己中心だ、自己宣伝だと批判され、余程力のある人でない限り、嫌われて、引き釣り降ろされてしまいます。

 パウロは、そのような存在だったのでしょうか。半分は当たっていると思います。しかし、半分でしかありません。むしろ、後の半分の方が大事です。


★ ガラテヤ書1章を引用します。10〜12節。

 『こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。

   それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。

  あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。

   もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。

 11:兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、

   人によるものではありません。』

 この後、13節以下では、かつて自分がキリスト教会を迫害したことを告白しています。

 確かに、パウロは先輩を先輩とも思わないような言動に出ることがあります。しかし、それは、パウロが自己中心的だからではありません。自己宣伝だからではありません。そうではなくて、パウロは、『人間によるものではない』『人間から受けたのでも教えられたのでもなくただイエス・キリストの啓示によった』福音を宣べ伝えています。その結果、先輩を重んじないとか、秩序を乱すとかと批判を受ける場合があります。また、自己宣伝の人なのだと誤解される場合が出て来ます。


★ 推薦状に話を戻します。

 この時代、巡回説教者と呼ばれる存在がありました。巡回説教者、幾つかの教区にはそのような名前・制度があります。言葉の響きもよろしいのですが、この時代の巡回説教者は、そのような結構なものではありません。

 マルコ12章38〜40節。

 『イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。

   彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、

 39:会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、

 40:また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。

   このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」』

 これは、極端かも知れませんが、パウロも巡回説教者について同様の批判をしています。


★ イギリスの小説にはよく出てきますが、家庭教師などは、一定期間働いた家を出る時に紹介状、というよりも人物保障証のようなものを書いて貰います。それが次の職場へのパスポートになります。

 同様に、この時代の巡回説教者も、紹介状、それもペトロとか主の兄弟ヤコブとか有名人の紹介状を懐にして、アチラコチラの教会を渡り歩き、その教会のお金持ちに取り入ったりしました。

 コリント人への手紙一の1章から、拾い読みします。

 『22:ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、

  23:わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。

   すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、

  24:ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、

   召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。』

 『28:また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、

   身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。

  29:それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。』

 実は、自己宣伝だとパウロを批判する人々の方がむしろ、自分の説教を、自分の思想を、文字通り、売り物にしていました。パウロは、この点を厳密にしなければなりませんでした。そのことが、パウロの福音宣教の戦いの戦場の一つでした。

 これ以上詳しく述べていると、それこそ、コリント書の全体に話が拡がりますので、ここに留めておきます。


★ 2節。

 『わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。』

 コリントの教会員こそが、パウロたちにとっての推薦状だと言います。これは、どのような意味で語られているのでしょうか。

 例えばこんな風なことを考えます。つまり、学校の教師にとっては、生徒が推薦状です。紹介状です。その教師が育てた生徒を見れば、教師の能力、教師の人柄が一番良く分かります。私たちは、ここの所でもおうおう考え違いをしています。作品、仕事を見ないで、肩書きや資格や、後ろ盾ばかりを見て評価する、そこから、なかなか抜け出せない現実があります。

 親を観れば子どもが分かると言います。それが本当だとしたら、子どもを観れば親が分かると言った方が、より正しいかも知れません。親の顔が見たいということでしょうか。

 実力を評価する力がないから、肩書きや、もっと露骨に値段表を見て判断すります。とんだ安物を旨いと言ってしまったら恥をかくかも知れない。そこでこっそりと値段を見る、随分いい値段だ、高いと見たら、安心して、旨いと感想が言えます。値段表を見るまでは、迂闊に美味しいとも言えません。

 音楽を聴いても、絵画を観ても、うっかりいいなあとは言えません。誰の作品かこっそり調べてから、さすがに誰それはいいなあと感想を言います。

 その逆、大家と言われる人の作品を、知らないでけなしてしまったりしたら大変です。あいつは、音楽が分からない、絵が分からないと、評判が定まってしまいます。


★ さて、パウロが問題にしているのは、本当にそんなことなのか、半分方その通りですが、それだけでは不十分な説明です。

 一例として、ローマ人への手紙1章8節を引用します。

 『まず初めに、イエス・キリストを通して、

  あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。

   あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。』

 ローマ人への手紙には、また、コリントとは違った背景がありますし、全然別な教会員が信仰生活を送っている訳ですから、単純に比較したり重ねたり出来ないかも知れませんが、しかし、示唆的ではあります。

 『あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられている』

 間違いなく、このように述べられています。『キリストの手紙』なのです。

 ピリピ人への手紙第1章3〜6節。

 『3:わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、

   4:あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。

  5:それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。

  6:あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、

   その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。』

 ここにも、教会員への評価が記されています。評価という言い方は妥当ではないかも知れません。別に成績表ではありません。それにしても、かなり露骨に、述べられています。

 勿論、これは単純な挨拶やましてご機嫌伺いの常套的修辞ではありませんから、逆に厳しい評価となる場合もあります。

 ガラテヤ書1章6〜7節。

 『6:キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、

   ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。』

 ローマにしろコリントにしろ、ガラテヤにしろ、文字通りに、『わたしたちの心にしる されていて、すべての人に知られ、かつ読まれている』のです。

 ここでは未だ結論的なことを言わないで先を読みます。


★ 3節の前半。

 『あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。』

 私たちは、つい、推薦状とか、パウロの立場のことを考えて読みますが、あくまでも関心事は、問題になっているのは、コリント教会のこと、コリントの教会員のことなのです。

 そういう意味合いで、正に、全世界の信仰者から賞賛されるような教会作り、他の教会の目標となるような教会形成、それが、パウロの目標です。


★ 3節の後半。

 『墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、

  書きつけられた手紙です。』

 この3節後半についてだけではなく、1〜3節について、何故、巡回説教者のことやら、あまりにも人間的なことが問題になるのか。それが、コリント教会の現実だからという側面も確かにありますが、それだけではありません。

 そうではなくて、福音というものが、『墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙』だから、なのです。 

 律法ならば、石の板に文字によって刻まれます。しかし、福音は、一人ひとりの人間の心に、神の霊によって記され、この人の証を通じて、次の人間に伝えられて行くのです。

 その意味合いで、一人ひとりの信仰者はキリストの手紙です。福音を宣べ伝えるのに、一人ひとりの人間が用いられ、一人ひとりの人間の言葉が、これを伝達します。

 そして、この言葉とは、日本語やギリシャ語といった言語である以上に、聖霊の言葉・愛の言葉なのです。


★ 私たちが、キリストの手紙であるということは、大変なことです。私たちの教会が神さまの家であるということは、大変なことです。そんな大層なものではないと言いたくなります。しかし、世の人々はそう考えていますし、また、事実、その通りなのです。

 神の家が、少し汚くたって、それは仕方がないかも知れません。神の家とは建物のことではない、そう思っていただけます。キリストの手紙が、必ずしも流麗な手で記されていなくても、まあ大丈夫でしょう。しかし、神の家に醜い争いがあったら、キリストの手紙に愛ではなく、憎しみが語られていたら。

 そもそも、神さまの家に、聖霊が満ちているのではなくて、人間的な欲望が盛られていたら。誰かが、神さまの言葉を求めて訪ねて来たのに、それが語られていなかったら。

 それは、もう神の家ではないし、教会ではありません。