日本基督教団 玉川平安教会

■2021年11月14日 説教映像

■説教題 「命の言葉について

■聖書   ヨハネの手紙一 1章1〜4節 


★1節から順に読んでまいります。

 『わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの』

 聞く、見る、触れる、それぞれがヨハネ福音書では、特別の意味合いを重ねて用いられる専門用語です。ヨハネ福音書に記された物語の内、幾つかの場面が思い浮かびます。

 そのヨハネ文書独特の意味合いというものを踏まえて、よくよく吟味する必要があるかも知れません。しかし、ここでは、哲学的・神学的な用語として用いていると言うよりも、ごく具体的に述べているのだと思います。


★簡単に言えば、以下のような意味だと考えます。

 『聞いたもの』、以前から聞いていて、キリスト者なら誰もが知っていることです。初めて耳にする新しい教えではありません。

 秘密にされていて、特別な人間でなければ聞くこと々出来ない秘密の言葉ではありません。誰でも聞くことが出来るものです。

 『目で見たもの』、以前から誰もが目にしていることです。初めて目にして驚くものではありません。常人の目からは隠されていて、凡人には見えないようなものではなく、誰もが、目を開けさえすれば見ることが出来るものです。

 『よく見て手でさわったもの』、普段は大事に仕舞い込まれていて、触ることの出来ないものではありません。誰でも、いつでも触れることが出来るものです。私たちがよくよく体験していること、体験出来ること、現実となっていることです。

 1節は、こういう意味合でしょう。


★『わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの』が『すなわち、命の言』です。

 『命の言』という表現には、とても哲学的な響きがあります。新プラトン主義がどうとか、グノーシスがどうとか、難しい解説をする必要があるのかも知れません。この個所の注解書を見れば、いろいろと教えて貰えるでしょう。哲学的神学的な考察は必要かも知れません。

 しかし、『わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの』が、既に申しましたように、ごく具体的なこと、誰もが知っている筈のことを指しているとすれば、『命の言』も、同様に、ごく具体的なこと、誰もが知っていることを踏まえているのではないでしょうか。

 『命の言』即ち、教会に伝えられて来たイエスさまのお言葉、イエスさまの教え、イエスさまについて述べられた伝承、それがイコール『命の言』だと考えます。


★このことは、2章7節により明確に述べられています。

 『愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、

   あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、

   あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。』


★そうしますと、『初めからあったもの』という表現も、ここでは、初めから教会に伝えられたきたこと、福音そのものという理解でよろしいのではないでしょうか。

 『初めからあったもの』という表現を、創世記の天地創造の業が行われた『初めから』と理解することは可能ですし、ヨハネ福音書の冒頭部分と照らして見れば、その理解が正しいようにも思います。

 しかし、ここでは、無理に哲学的な表現として理解しなくとも、もっと単純に、教会誕生の『初めから』伝えられて来たイエスさまのお言葉、イエスさまの教え、イエスさまについて述べられた伝承、と理解すべきだろうと考えます。


★しかし、全く逆もまた成り立ちます。『わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、それは、いのちの言』です。これこそが、本来は、特別の知識を獲得した者しか聞くことができないもの、特別の修行を納めた者しか見ることのできないもの、特別に選ばれた人しか触ることの出来ないものだとも言えます。

 ここには、聖書一流の逆説があります。特別の知識を獲得した者しか聞くことができないもの、特別の修行を納めた者しか見ることのできないもの、特別に選ばれた人しか触ることの出来ないもの、そういう『いのちの言』を、私たちは今、聞き、見、触っているのです。その言葉が、教会では普通の言葉として、礼拝毎に語られています。


★いのちの言、いのちそのもの、つまりはイエス・キリストです。つまりは、イエス・キリストの福音です。

 私たちは、『いのちの言』を、イエス・キリストから『聞いた』のであり、『目で見た』、のであり『よく見て手でさわった』のです。


★2節。

 『この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、

  わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。』

 『証しをし』、『告げ知らせる』とは、これも簡単に言えば、福音宣教のことです。

 『このいのちが現れたので』とは、明らかにイエス・キリストの誕生・登場のことです。

 『この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、

  かつ、あなたがたに告げ知らせるのである』

 私たちの福音宣教の内容は、第1議的には、哲学とか神学とか思想とかではありません。イエス・キリストの存在そのものを、宣べ伝えることが福音宣教です。

 『この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである』

 これも、明らかに、イエス・キリストのことを指しています。ここでは、イエスキリストが『永遠のいのち』と呼ばれています。永遠の生命即ちイエス・キリストです。

 イエスキリストは永遠の生命を持っているというような言い方ではなく、永遠の生命、即ちイエス・キリストなのです。


★『いのちの言』そして『永遠のいのち』が、『今やわたしたちに現れた』と言います。また、1節では、『わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの』と表現されています。

 それでは、ここに想定されている教会員は、イエスさまの時代から生きていて、地上のイエスさまにお目にかかっているのでしょうか。

 この手紙が記されたのは、一番早い可能性で、紀元1世紀の終わりですから、イエスさまの時代から生きていて、地上のイエスさまにお目にかかっている者がいなかったとは断定出来ませんが、大部分の人はそのような体験を持たない筈です。また、読者は勿論それ以降の人となります。ちょっと無理があります。そんな意味で述べられているのではありません。


★『今やわたしたちに現れた』とは、地上のイエスさまに会ったということにを指しているのではありません。むしろ、宣教そのもの、宣教のイエスのことです。イエスさまの宣教に触れたということ、福音宣教に出会ったということを指しています。

 先程、私たちの福音宣教の内容は、第1議的には、哲学とか神学とか思想とかではない、イエス・キリストの存在そのものである、と申しましたが、では、私たちが伝える福音の内容とは、それではイエスさまの人間性とかそういうことなのか、そうではありません。

 聖書には、イエスさまがどのような人であったのか、イエスさまがどんな姿形をしておられたというようなことは、殆ど何も記されていません。性格のこととか、趣味のこととか、何も述べられていませんし、私生活については、何も触れられていません。

 キリストとしてのイエスさまの存在そのものが、福音の内容なのです。

 

★3節で、もう一度、『わたしたちが見たもの、聞いたものを』と繰り返しています。厳密にはちょっと言い換えています。『見た、聞いた』 ことに、力点が移されています。

 この当時の教会で礼拝がどのように執り行われていたか、厳密なことはわかりませんから、『見た、聞いた』こととは、礼拝のことと断定するのには無理がありますが、福音・宣教の業の中でと、言い換えることは十分可能です。

 具体的なことなのです。一番簡単な言い方をすれば、教会生活、信仰生活でしょう。具体的な教会生活、信仰生活、その中で、私たちは、『聞き、目で見、よく見て手でさわ』るのです。福音を 『聞き、目で見、よく見て手でさわ』るのです。そして、いのちの言、永遠の生命そのものに出会うのです。

 

★3節。

 『それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである』

 分かり易く言えば、福音宣教の共同体の一員となることです。と申しましても、宗教的な結社のことに限定して考える必要はありません。宗教的な組織のことに強調があるのではなくて、もっと内面的なこと、内容的なことだとは思いますけれども、それにしても、福音宣教の共同体の一員となることです。

 ヨハネ福音書でも、このことは繰り返し強調されています。

 そして、この交わりこそが、信仰の交わりこそが、いのちの言、永遠の生命との出会い、交わりです。

 逆に言いますと、ここで言われている交わりとは、決して人間同士が仲良く過ごすとか、そういう次元のことを言っているのではありません。

 もっと具体的に言えば、皆でおいしいものを食べるとか、貧しい人に食べ物を提供するとか、そういう次元のことではありません。皆でおいしいものを食べたら楽しいでしょうが、それで命の言をいただくことにはなりません。

 貧しい人に食べ物を提供することも勿論尊いことです。しかし、教会の最も本来的な努めは、食べ物を提供することではなくて、いのちの言を提供することなのです。

 楽しい交わりを提供することが教会の努めではありません。永遠の生命を提供すること、永遠の生命の交わりへと招くことが教会の努めなのです。

 

★『わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである』 この場合の交わりが何を意味するのか、これから学んでいくところです。最初から、分かったようなことを言う必要はありません。しかし、私たちが考える人間的な交わりのことではないということは確かです。

 今日の箇所に出てくる表現で言えば、『永遠の生命』に与ること、これこそが、『御子イエス・キリストとの交わり』です。


★その上で、4節が語られています。

 『これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである』

 福音とは、何故福音なのか、ここでは、福音とは、喜ばしい知らせに接することです。では、何故喜ばしいのか、それは『永遠の生命』に与るという希望に生きるからです。他のことでは駄目なのです。他のことでは、これ程の喜びはありません。


★『わたしたちの喜びが満ちあふれるためである』

 本日から当分の間、ヨハネの手紙を読むことになります。その目的は、『わたしたちの喜びが満ちあふれるためである』

 喜びが満ちあふれるような礼拝を持ちたいと願っています。そのためには、喜びが満ちあふれる説教でありたいと願っています。

 しかし、それは、勿論、おもしろおかしい説教ということではありません。分かり易いようにと心がけるつもりではありますが、必ずしもそれが大事なことではありません。

 喜びが満ちあふれるような礼拝を持つためには、永遠の生命が、いのちの言が語られなくてはなりません。それが、一番肝要なことです。結局、御言葉を中心とした礼拝、御言葉を中心とした交わり、それが、真に喜びが満ちあふれるような礼拝です。


▼洗礼を志願する人のための入門講座では、聖書と教会そして信仰告白についての、一番基礎的な学びを致します。そして、この学びを終えたところで、一人一人が最終決断して、いよいよ、洗礼式に臨みます。入門講座に出る人は、既に受洗という目標をもって、この会に出席します。しかし、学びを終えたところで、今一度決心を新たにして、いよいよ、洗礼式に臨むのです。

 今、私たちは、主日ごとの礼拝で、聖書を開いてこれを読み、祈り、讃美致します。これは、いのちの言・永遠の生命に与るべく始められる業です。目標が存在します。そして、決断して、いのちの言・永遠の生命を選び取ります。一番簡単な言い方をすれば、神の国に入る決断をするのです。

 勿論、神の国に入る入らないの判定をなさるのは神であって、人間の業が、それを決定するのではありません。

 しかし、洗礼式と同様に、神の国に入りたいという願いがなければ、そして決断がなければ、その門が開けられることもありません。