日本基督教団 玉川平安教会

■2021年10月31日 説教映像

■説教題 「信仰によってのみ

■聖書   ガラテヤの信徒への手紙 3章1〜14節 


★ 1節から見ます。

 『物分かりの悪いガラテヤの人たち』

 『物分かりの悪い』、乱暴とも聞こえる言葉が使われています。実はこれでも、聖書らしくやや控えめな翻訳です。元の言葉は、露骨に「馬鹿」「頭が悪い」です。


★ いろいろな悪口の中でも、「馬鹿」は最もひどい蔑みの言葉です。東京と大阪では意味が違うとかとも聞きますけれども、「阿呆」であれ「馬鹿」であれ、ひどい言葉です。

 この「阿呆」、「馬鹿」よりも、「頭が悪い」の方が、人を傷付け、怒らせるかも知れません。しかし、パウロが使った言葉は、正にこの「頭が悪い」です。

 パウロという人は、とても論理的に考え、話す人ですが、反面、激情に走る人でもあります。聖書を翻訳する人は困るだろうなと思われるような表現を、時々します。

 せっかく翻訳者が苦労して柔らかい表現に置き換えたものを、私が暴露する必要もありますから、省略しますが、今日なら放送禁止用語になるようなことさえ言います。


★ この言葉は、3節にも繰り返されています。

 『あなたがたは、それほど物分かりが悪く』

 パウロが汚いとも言える表現を用いたのには、勿論理由があります。

 それは2節と3節の後半に記されています。

 『あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。

  それとも、福音を聞いて信じたからですか』

 『“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか』

 要するに、律法か福音かという二者択一の問題です。律法か福音か、この分かれ道のどちらを選び歩くのかという、二者択一です。

 むしろ、今までどちらの道を歩いて来たのか、思い出しなさいと言っています。


★ 今までどちらの道を歩いて来たのか、思い出せないのか、それほど「馬鹿」なのかと迫っています。そんなに「頭が悪い」筈はないだろうと言っています。

 つまり、ガラテヤの教会員は頭が悪いと決めつけて批判しているのではなく、むしろ、そんな筈はないだろうという表現です。だから、「頭が悪い」などと言う乱暴な、下品な言葉を使ってしまったのでしょう。


★ 1節に戻ります。

 『ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。

   目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか』

 この後半部は、何を指しているのでしょうか。

  具体的には何も記されていません。特に記されていないということは、誰にとっても承知のこと、今更説明するまでもないことなのではないでしょうか。兎に角、とてつもない体験なのだと考えます。

 この二つのことを併せますと、とてつもない体験をしたのに、もうそのことを忘れてしまったのか、なんという『物分かりの悪い』奴だと、こういう話です。


★『目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿で』という体験が、実際に何を意味するのかを考えさせられます。

 昔、『猿の惑星』という映画ありました。核戦争を生き延び、ミュータントとなった人間の末裔が、かつての地下鉄後で生存しています。そこに、進化して中性の人間程度の知恵・知識を持った猿が、攻撃して来ました。ミュータントたちは、猿の脳に働きかけて、幻想を創り出します。猿のモーセと言うべき存在の猿の大王が、十字架に架けられて血の涙を流している幻想です。

 しかし、猿の兵団は、この幻想の障壁を打ち破ります。何のことはない、長時間幻想を持ち続ける程には、脳が発達していないので、時間とともに、幻想が薄れたのです。

 進化したとは言え、猿は所詮『物分かりの悪い』存在、もっとはっきりと、頭の悪い存在なのです。


★ ガラテヤの人々の前にも、このような幻想、いや幻想ではなくその通りなのかも知れませんが、『目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿で』現れたのでしょうか。それが、『あれほどのことを体験した』ということでしょうか。

 その通りだと考えます。『目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿で』現れたのです。

 それは『猿の惑星』で、猿の大王が十字架に架けられ、血の涙を流している幻想ではないでしょうが、それに匹敵するような、それを超えるような体験があったと思います。

 4節。

 『あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。

   無駄であったはずはないでしょうに』

 文字通りではないかも知れません。文字通りではないでしょう。しかし、それに匹敵する体験、それ以上の実体験だったのです。


★ 5節前半を読みます。

 『あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、

   あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか』

 『“霊”を授け〜奇跡を行われる方』

 ここを読みますと、少し飛躍に聞こえるかも知れませんが、『あれほどの〜体験』とは、信仰を得たこと、洗礼を受けたこと、そのものではないでしょうか。

 猿の大王が十字架に架けられ、血の涙を流している幻想、異様な幻視体験戸は性質が違いますが、信仰を得たことは、それに匹敵する体験、それ以上の実体験だと言うべきでしょう。そんなたいした体験ではなかったと言う人もありましょう。しかし、実は、それほどの体験だったのです。神の国への狭き門から、一歩でも、中に入ったのです。


★ 『あれほどの〜体験』、私たちも、このような体験を、既にしているのです。

 『目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿で』現れたこと、『あれほどのことを体験した』ということを、使徒パウロは、もう一つの言葉で表現しています。

 それは、2節、3節、5節の、聖『霊』体験です。

 2節。

 『あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。

  それとも、福音を聞いて信じたからですか。』

 簡単に言えば、洗礼を受けた時に聖霊が与えられたということです。

 

▼聖霊が与えられたということ自体、そんなに単純なことではありません。ある人は、正に、霊を見た、霊に捉えられたと言いますし、或る人は、迷っている信仰への思いが、確信に変わったと言います。特に変わったことはなかったと言う人もいます。

 何れにしろ、他の人には見えないものが見えたのです。他の人には理解できないことが納得できたのです。だから、洗礼を受けたのです。

 決して均一な体験ではありません。しかし、何かが起こったのです。

 しかし、それが何時の間にか希薄になってしまいました。猿たちのように、持続出来なかったのでしょうか。


★ 5節後半を読みます。

 『それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか』

 玉川教会時代、たまにですが、犬と散歩に行きました。そうしますと、あちこち引っ張り回されます。

 犬には、人間の目には見えないものが見え、聞こえ、そして臭いを嗅ぎますから、結果、人間には予測できないところに、引っ張り回されます。

 人間の鼻には分からないからといって、それが存在しないとは言えません。見えないからという理由で存在を否定したら、あまりに非科学的です。

 サメなどは、何十キロも先の血の臭いを嗅ぎ当てるそうです。何とも不思議な話ですが、間違いなく、事実です。渡り鳥は何千キロもの旅をします。

 他の人間の目には見えないもの見、聞き、希望を抱いた者が、人間にも存在するのです。


★ 6節。

 『それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」

   と言われているとおりです』

 アブラハムは、他の人には聞こえない神の言葉を聞いて、旅立った人です。

 7節。

 『だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい』

 信仰上の根本的問題が取り扱われています。それは、神の民即ちイスラエルとは誰かという問いです。

 使徒パウロは、実に図式的と言えば図式的、白か黒かというような仕方で事柄を処理して行きます。

 つまり、アブラハムから生まれた者は全てイスラエルなのか、そうではありません。例外があります。イスラエルと呼ばれたのは、イサクだけなのでしょうか。むしろ、半分だけです。先に生まれたイシマエルの子孫はイスラエルとは呼ばれていません。

 それでは、子のイサクから生まれた者は全てイスラエルなのでしょうか。そうではありません。同じ父母から生まれたのに、しかも、長男なのに、エサウの子孫はイスラエルとは呼ばれません。

 ですから、イスラエルとは誰か、それはアブラハムの血縁のことを言うのではありません。こういう理屈です。ガラテヤ書の4章で、このことが詳しく述べられています。


★ 8〜9節は、このような前提に立って、創世記の表現を解説しています。つまり、信仰を心に抱いた者は、そのことで既に、アブラハムと同じ処に立つという主張です。アブラハムの血につながる者ではなく、アブラハムと同じ信仰を与えられた者が、アブラハムの後継者であり、真のイスラエルだと言います。そして信仰の旅に出発するのです。


★ では誰が救われるのか。誰も救われません。途中で倒れてしまいます。使徒パウロは人間の罪の現実を、そして死に定められた現実をそのように見ています。

 ところで、律法の道をひたすらに歩み続けて、途中で倒れたなら、神さまが抱きかかえて助けて下さるかも知れません。否、助けて下さることを期待します。しかし、それでは、律法を道を歩み続けて頂上に辿り着いたとは言えません。むしろ、逆です。

 私の足、私の力では頂上まではたどり着けません。神さま助けて下さいと祈ったならば、それは、もう既に、使徒パウロと対立する信仰ではなくて、使徒パウロと同じ信仰義認の信仰です。律法主義者も、挫折したら、跪いたら、信仰に依って救われるでしょう。


★ 13〜14節に述べられていることは、大変分かりにくいのですが、結局、十字架にのみ救いがあるということです。

 使徒パウロは、決して、独善的なことを言っているのではありません。自分k信仰だけが正しくて、他は間違っている、そういうことを言っているのではありません。むしろ、逆です。

 誰も、自分の行い、自分の感情、自分の哲学、自分の思想、そして自分の信仰で自分を救うことは出来ないと言っているのです。

 自分の行いや持ち物ではなくて、イエスさまの十字架だけが私を救ってくれる、これが、信仰義認論です。

 

★ 行いか信仰か、聖書の時代からの対立は、現代にも、引き継がれています。現代の教会でも、教会論の中心的な課題となる深刻な問題です。

 事柄は、決して単純ではありません。どの角度から見るか、何処に立ってものを言うのか、それで随分、様相が違ってしまいます。

 教会はいろいろな差別に取り組む基地とならなければならない、そんな意見には賛成できません。しかし、礼拝だけ守っていれば、他に何もしなくても良いと言うことでは勿論ありません。


★ 今ここで、簡単に結論めいたことを言えない程に、事柄は複雑です。当然、具体的な事柄については、議論があるし、その議論が対立的になるのもやむを得ないと思います。

 しかし、どんなに世の中が複雑多様化しており、自然それと向かい合う教会の方も単純には行かないとしても、このことだけは確かです。

 イエスさまの十字架と復活にのみ救いがあります。他の何物も、この私の救いとはなりません。この大前提に立って、その上で、議論が起こり、その議論が対立的になるのならば、仕方がないと考えます。

 しかし、 イエスさまの十字架と復活にのみ救いがあるということについて異論がある、議論したいと言う人は、それは、教会の外でやって貰うしかありません。


★ 今日は、宗教改革記念日です。宗教改革とは何か、これにも多様な見方があるでしょう。

 しかし、信仰に依ってのみ救われる、この宗教改革の標語は帰られることはありません。変えられてはなりません。変えることは十字架を否定することに過ぎません。