日本基督教団 玉川平安教会

■2021年8月8日 説教映像

■説教題 「慈善の業に加わる

■聖書   コリントの信徒への手紙二 8章16〜9章5節 


★ まず8節から読みます。

 『わたしたちは一人の兄弟を同伴させます。

  福音のことで至るところの教会で評判の高い人です』

 『一人の兄弟』とありますが、名前はありません。この人物について18〜19節でいろいろと紹介していますが、最後まで名前は出てきません。いろいろと人柄を説明しているのに、名前はありません。奇妙な表現です。コリント教会員には良く知られている人なのでしょうが、それならば、名前を上げれば十分で、いろいろと説明する必要はありません。パウロによる人物保証という意味合いで、いろいろと説明しているのなら、名前は是非とも必要です。なぜ名前を言わないのか、隠す必要もありません。不可解です。


★ パウロがうっかり名前を忘れたということは、絶対ないとは言えませんが、この書簡も普段のようにパウロ自身ではなく、口述筆記によって弟子の誰かが筆記しているとすれば、パウロと弟子と二人とも忘れることはないと思います。

 名前がない理由は一つしかありません。名前を上げない方が良いからでしょう。コリント教会員にとって未知の人だったら、なおさら名前を上げるでしょう。名前を上げない方が良いのは、実際コリントに到着した時に、なるほどこの人ならと思わせる効果を狙ったのでしょうか。それは、ちょっと考え過ぎではないかと思います。


★ 結局名前が上げられない理由は分かりませんが、その結果として、別の効果が発揮されています。つまり、8〜9章に記されていることです。

 『福音のことで至るところの教会で評判の高い人です。

  19:そればかりではありません。

  彼はわたしたちの同伴者として諸教会から任命されたのです。』

 この人の役割は、コリント教会員から集める献金の管理をすることにあります。もうすでに何週も、パウロが献金のことでコリント教会員からいわれのない批判を受けた話をしておりますので、今日は省略します。誤解が生まれ、関係がこじれた教会で、募金を行う微妙なタイミングです。その際に、この名前が記されていない人が、用いられました。


★ ここから、私たちは極めて具体的な教訓を読み取らなくてはなりません。つまり、パウロは献金のことに慎重に対処しました。「神さまのご用なのだから、文句は言うな、疑問を差し挟むことは不信仰だ」、などとは言いません。慎重に、もちろん、公正に取り扱ったのです。

 私たちの教会でも、これは大事なことです。牧師や役員会が不正なことをする筈がありません。しかし、だからと言って会計の取り扱い、報告がお粗末であってはなりません。

 日本基督教団の殆どの教会では、会計はオープンです。何にどれだけの支出をしたのか、明瞭にしています。教会によっては、収入についても、つまり、誰がいくら献金したのかも、週報等で公開しています。

 私は、個々人の献金額まで掲載する必要はないと考えますが、要求があれば、それが正当な動機に基づくものであれば、いつでもお答えできます。


★ もう一つの直接的な教訓は、会計を担当する人は、ここに描かれるような人でなければならないと言うことです。繰り返します。

 『福音のことで至るところの教会で評判の高い人です。

  19:そればかりではありません。

  彼はわたしたちの同伴者として諸教会から任命されたのです。』

 会計を担当する資格と言えましょう。『教会で評判の高い人』つまり、皆の信頼があるということです。信頼がなければなりません。

 そうしてもっと大事なことは、『わたしたちの同伴者として諸教会から任命された』ことです。『教会から任命された』、これが大事なことです。その人が会計士の資格を持っているとか税理士だとか、そんなことではありません。算盤が巧みだということでさえありません。


★ もっと大事なことは、『わたしたちの同伴者として』、ここにあります。この人は、単にコリントへの旅の同伴者ではありません。パウロの伝道旅行の同伴者です。

 神の国の福音を述べ伝える旅の、同伴者です。パウロの同労者です。

 伝道の志のない人は、教会会計にはふさわしくありません。あまり詳しく言うのは憚られますが、伝道の志のない人が教会会計だと、牧師は大変です。とにかく教会会計の財布の紐を固くすること、教会財政を健全化すること、それも大事かも知れませんが、それだけですと、伝道は停滞します。

 私はある教会で、年に数回しか礼拝に出ない人が、教会会計を握っているという時を体験しました。実際にあったことなので詳しくは言えませんが、牧師としては、まいってしまいます。


★ さて、会計について申し上げたことは、教会の全役員についても、全く当てはまります。教会役員はいろいろな役割を担っていて、なかなかに忙しいのが現実です。また、様々な能力が要求される場合があります。そのようなことに能力を発揮する役員がいると牧師は大いに助かります。

 しかし、役員の資格は、その能力ではありません。

 三度繰り返します。

 『彼はわたしたちの同伴者として諸教会から任命されたのです』

 役員は、何よりも、教会の伝道の業に、志がなくてはなりません。


★ 今日の箇所には特徴的な単語が、繰り返し使われています。 

  16節を見ます。

 『あなたがたに対してわたしたちが抱いているのと同じ熱心を、

   テトスの心にも抱かせてくださった神に感謝します』

 テトスについては、お話ししたいことがたくさんありますが、話が散漫になるので割愛します。大事なのは、『熱心』の単語です。

 同じ字が8章で5回繰り返し使われています。 

 7節、8節、16節、17節、22節です。7章にも2回出てきます。19節には『熱意』もあります。

 会計の資格、役員の資格を言いましたが、何よりも必要なのは、この『熱心』です。伝道、教会形成への『熱心』です。


★ 19節の後半を見ます。

 『それは、主御自身の栄光と自分たちの熱意を現すようにわたしたちが奉仕している、  この慈善の業に加わるためでした』

 この名前がない人は、パウロの同行者として任命されました。より具体的には、『慈善の業』の担い手、おそらく出納係です。

 『熱心』とは、具体的には『慈善の業』つまり、エルサレム教会への金銭的支援であり、そのための募金活動です。


★ メリメというアメリカ・メソジスト教会の牧師にして、推理小説作家がいます。

この人の作品『ランドルフ師と墜ちた天使』に、こんな台詞があります。

 「福音派の牧師が聖霊という言葉を口にしたら、それは必ず献金のことだ」

 献金を集めるために、聖霊を口にしたら嫌らしいと思います。熱心と献金を結びつけるのも嫌です。熱心を、まして聖霊を金額ではかることは出来ませんし、そんなことをしたら悪魔の所業です。

 しかし、この二つは結びつくことが多いのも事実です。


★ 微妙な話題ですから、実際の体験でお話しします。

 松江北堀教会で、会堂建築を経験しました。献金の口数は僅かに27口、予算額は6800万円、単純計算すれば、一口252万円です。無謀とも批判されましたが、達成出来ました。竣工時、借金は一切なく、全額支払いを終えることが出来ました。

 1千万円単位の献金もありましたが、多くの教会員が、一緒に幻を見て、力を合わせた結果です。

 その数年後、阪神淡路大震災が起こりました。会堂建築を終えた間もなく、皆が無理をしたばかり、そこで、目標額も定めず、全く自由献金として特別会計を設けました。結果は、200万円ばかりを捧げることが出来ました。

 会堂建築を終えたばかりだから、疲れて献金を惜しむ力が働くのではなく、会堂建築を終えたばかりの熱心が残っていて、献金できたのです。


★ 一つだけ具体的なことを申します。多くの教会が、会堂建築時、教団の諸教会に献金を依頼します。しかし、松江北堀では募金趣意書は出しませんでした。ただ、私たちの計画を覚えてお祈り下さいとだけ記しました。お偉い人の賛同者も載せず、教会員の名前を載せました。…振り込み用紙は同封しましたが。

 しかし、諸教会から献金がありました。計700万円くらいだったでしょうか。大いに助かりました。「会堂建築は無謀だ、教会が分裂する」とまで言った人が会計担当役員になりました。この人が、朝、牧師館にやって来ます。

 「先生、また献金がありました」と、振込用紙を掲げながら嬉しそうに報告します。その金額は、時に1000円、2000円です。田舎の小さい教会からの献金です。会計は、「これが一番嬉しい」と言います。大教会からの多額な献金よりも、小さい小さい教会からの1000円が嬉しいと言うのです。この人は、自分の名前で1000万円、母親の名前で1000万円献金しました。しかし、1000円の献金が嬉しいと言うのです。

 それは、神の業に、参加した者の喜びです。それが阪神淡路大震災への献金にも繋がったのです。


★ 玉川教会でも、隣接地を購入したり、会堂等をリフォームしたりで、松江の会堂建築以上に費用が要りました。もちろん、全部献金で支えられました。その後、3.11の大地震が起こりました。

 この時も、一人一口200円からとして、募金しました。小学生、中学生でも、献金できるようにと考えたからです。結果、300万円を超える額を献金出来ました。


★ この体験を通して、私は牧師として、全き自信を持っています。それは、教会の形成、伝道に、本当に必要なものは必ず与えられるという、全く単純な信仰です。

 ですから、頑張って献金して下さいとは言ったことがありません。必ず与えられる、与えられなければ、それが御心なのだと、与えられたもので賄えば良い、単純にそう考えています。それでやってこれましたし、玉川平安教会でも、そのようになっています。

 神さまは、必ず必要なものを与えて下さる、お金も、そして何よりも人を。その単純な信仰こそが、熱意に繋がるのではないでしょうか。

 算盤を弾いても熱心は生まれて来ません。

 どんなに大事な事業であっても、算盤を弾いて達成できるものではありません。

 9章1〜2節。

 『聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要はありません。

   2:わたしはあなたがたの熱意を知っているので、

   アカイア州では去年から準備ができていると言って、

   マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。

   あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのです』


★ 今諸教会は、コロナ感染下、大変な困難の中にあります。礼拝が出来ない教会が少なくありません。やっと出口が見えたと思ったら、その出口が遠のいた感があります。

 コロナ後のことがとても心配です。地方の小規模教会は壊滅的なダメージを受けるだろうと思います。礼拝を再開できないかも知れません。

 私が親しくしていた福島のある教会は、震災前で礼拝出席が一桁でした。放射能汚染の避難地区ギリギリにありましたが、震災後、礼拝は牧師家族だけになりました。会堂は教団の支援で再建されましたが、その後牧師が亡くなり、この先、見通しは全くありません。


★ 松江でも玉川でも、正直な話、とても不安がありました。眠れない夜を過ごしたこともあります。うまくいかなかったら、牧師を辞任しなければならないとも思いました。

 神さまは不安を希望に変えて下さるなどと立派なことは言えません。しかし、不安の中でも希望を持つことは出来ます。コロナの先に何が待っているのか、不安です。しかし、その不安の中でも、同時に希望を持つことは出来ます。パウロもそうでした。

 人生そのものも同じでしょう。不安を拭うことは出来ません。しかし、同時に希望を持つことも出来ます。