日本基督教団 玉川平安教会

■2021年9月26日 説教映像

■説教題 「弱いときにこそ強い

■聖書   コリントの信徒への手紙二 12章1〜10節 


★ 今日は末尾の10節から順に、遡行して読みたいと思います。何故そのような変則的な仕方で読むのかということを縷々説明しても、時間の無駄ですので、約めて申します。決して、趣向を変えてというような安易な発想ではありません。その方が理解しやすいと考えるからです。少なくとも私にもそのように思われます。


★ 10節。

 『それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、

   キリストのために満足しています。

  なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。』 

 この10節も終わりから見ます。

 『わたしは弱いときにこそ強い』

 極めて逆説的に聞こえます。初めて目にした人には奇異に聞こえるでしょう。奇を衒っているとさえ聞こえるかも知れません。

 しかし、コリント書を続けて読んできた者には、馴染みのある表現です。


★ 一コリントの1章から、幾度も、似たような表現が現れます。極め付けは二コリント1章8〜9節でしょうか。何度も繰り返し引用しています。

 『8:兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。

   わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、

   生きる望みさえ失ってしまいました。

  9:わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。

  それで、自分を頼りにすることなく、

   死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。』

 『自分を頼りにすることなく … 神を頼りにする』ときに、信仰者は強くなることが出来ます。人間的な意味での強さなど、何ほどのこともありません。体力も気力も知力も、大きな試練を乗り越える力とはならない場合があります。体力も気力も知力も、万全ではありません。年老いたら弱ってしまいます。


★ 10節の前半をもう一度読みます。

 『わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、

   キリストのために満足しています。』

 何故満足できるのか、神によって与えられた試練だからです。神によって示された目的地に向かうときに、必ず立ち向かう障害だからです。障害があったら、それはむしろ正しい道を進んでいる証拠になります。『弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まり』これは、使徒パウロにとって挫折ではありません。神の国への確かな一里塚です。


★ 9節。

 『すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。

  力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

  だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、

  むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』

 後半は、先ほど引用した二コリント1章9節と類似しています。文面は違ってもほぼほぼ同じことを言っていると思います。

 前半『わたしの恵みはあなたに十分である。』

 パウロが神に与えられた使命を果たすのに十分なものが与えられている、足りないものはないという意味でしょう。

 

★ この一行だけが一人歩きしています。良く分かります。

 私たちはどうしても、自分にはないものを数えてしまいます。あれが足りない、これが足りないと思います。単に贅沢に慣れているということではありません。何かをしようと考えた瞬間に、足りないものを数えてしまいます。

 何かをしよう、教会のために何かをしようと思うことが悪いことである筈がありません。しかし、その瞬間に足りないことが、足りないことだけが頭に浮かびます。

 全く逆の発想をする人がいます。出来る人がいます。例えば、今冷蔵庫に眠っている材料を並べます。何かしら料理しようと考えたら足りない材料だけが浮かんで、まず買い物に出かけるかも知れません。しかし、家庭料理のプロとなりますと、今、手元にある材料で何が出来るかと考えます。そして、限られたものでちゃんと料理を拵えてしまいます。

 これがプロです。材料や道具を探したり買い足したり、それで時間が経ってしまう人は、素人です。私の大工仕事や野良仕事はそんなものです。準備と片付けに時間を浪費して、本当に仕事をしている時間は僅かになってしまいます。


★ さて、脱線しました。パウロが言うのはそんな卑近なことではありません。神さまのご用に仕える話です。

 7節後半と8節を読みます。

 『わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、

  わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。

  8:この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。』

 パウロにも足りないものがあった … どころではありません。パウロの伝道の業を妨げるとげがありました。それは『サタンから送られた使い』と描写されています。

 とげとは具体的には何なのか、諸説あり、盛んな議論があります。

 しかし、何かよりも、何故の方が重要です。神さまのご用のために命がけで働くパウロが、何故、このように妨げられるのでしょうか。苦しめられるのでしょうか。

 『離れ去らせてくださるように』願っても、その祈りが叶えられないのでしょうか。


★ 7節前半を読みます。

 『あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、

   そのために思い上がることのないようにと、

  わたしの身に一つのとげが与えられました。』

 これが理由です。『思い上がることのないように』と、はっきりと理由が述べられています。パウロはこのように受け止め、理解したのです。

 パウロも人間ですから、時と場合によっては思い上がることがあるのでしょうか。

 パウロはこれをとても警戒しています。自慢話に聞こえるような箇所では、こんな馬鹿げた話はしたくはないのだがというような、言い方をします。

 先々週の箇所もそうです。二コリント11章17〜18節。

 『17:わたしがこれから話すことは、主の御心に従ってではなく、

   愚か者のように誇れると確信して話すのです。

  18:多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう。』

 

★ それでは、パウロを思い上がらせるような出来事とは何でしょうか。

 『あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。』とは何でしょうか。

 ここからは、1節に戻って順に読みたいと思います。

 『わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、

   主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。』

 『誇っても無益ですが』と言いながら『誇らずにいられません』と言う『あまりにもすばらしい』こととは何でしょうか。

 2節以降に記されています。


★ 『わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、

   その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。』

 『その人は』と言いますが、『誇らずにいられません』と言っているくらいですから、パウロ自身のことでしょう。そう考えなければつじつまが合いません。

 『十四年前』が何時のことなのかが分かれば、この出来事を特定出来るかも知れませんが、『十四年前』が何時なのか、残念ながらはっきりとは分かりません。

 『第三の天にまで引き上げられた』は、もっと分かりません。

 聖書周辺の物語には、生きたまま天に上げられた人の物語が出てきます。しかし、これらと重なるのかどうかも分かりません。

 想像を逞しくして、更に、聖書ではない文献に当たって、詳細を知ろうとすることは、たとえ可能だとしてもあまり意味はないと考えます。ここに記されていることを読まなくてはなりません。記されていないことまで読む必要はないでしょう。


★ 2節後半。

 『体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。』

 パウロ自身のことでしょうが、詳しくは『知りません。神がご存じです。』と言います。ならば、私たちには知り得ないし、知る必要はないでしょう。


★ 3節。

 『わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。

   神がご存じです。』 

 2節後半が、そのまま繰り返されています。『わたしはそのような人を知っています。』 パウロ自身のこととしか思えません。


★ 4節。

 『彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、

   言い表しえない言葉を耳にしたのです。』

 ちょっと脱線した話をします。

 私たちは、言葉そして文字とは、一つの出来事あるいは思いを、他の人に伝えるためにあると考えています。そのためには、言葉・文字は、他の何よりも役に立ちます。誰が読んでも理解出来ることが言葉の必須条件だと思います。

 しかし、これは言葉の一つの側面に過ぎません。言葉は、理解されないために、人に読まれることがないように存在する。これも、言葉の一つの側面です。

 こういう理屈を展開する優れた小説があります。残念ながら、手元にありませんし、本の題名も作者の名前も思い出せません。おおよそ見当は付きますが、間違っているかも知れませんので、隠しておきます。それならば、そもそも引用しなければよろしいのですが、是非触れたいのでご容赦下さい。

 エジプトの神聖文字があります。長年解読されることはありませんでした。シャンポリオンが、ロゼッタ石を手がかりに、これを解読した話は有名です。何故解読が、つまり読むことそのものが困難だったのか、それは祭司たちが文字を独占し、一般庶民には読めないようにしていたからです。文字を独占することが、彼らの権力の根拠の一つでした。

 かつて、階級毎に言葉遣いが違ったのも、同じ理由に基づくものと思います。

 他の聖書世界でも同様でした。文字・言葉は、特権階級の独占物でした。しかし、フェニキア人が地中海世界で貿易に乗り出し、船で貨物が運ばれるようになりますと、通じない言葉、読めない文字は役立ちません。誰にも通じる言葉が、文字が作られて行きました。 

★ 今日でも、この図式は続いています。寿司屋の符丁などがあります。若者がメールに用いる言葉・文字があります。これらは、通じることと、通じないことと、相矛盾する二つの目的を持っています。ちょっと古い小説を読みますと、イギリスでは、ラテン語やギリシャ語、更にフランス語が日常会話の中にも引用されます。これは、通じることと通じないこととが、目的として重ねられています。

 実は教会も同じではないでしょうか。

 説教始め教会の中の言葉は、通じなくては仕方がありません。しかし、それだけではありません。『人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳に』するのが、礼拝だとも言えますでしょう。

 しかしそれは、独りよがりの、知ったかぶりをするための、自分を自慢するための言葉であってはなりません。宗教改革の重要な側面は、誰にも通じる信仰の言葉を持ったことにあります。


★ 5節。

 『このような人のことをわたしは誇りましょう。

  しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。』

 パウロは誇り驕りととられないように、実に慎重です。


★ 6節。

 『仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、

   愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、

   わたしから話を聞いたりする以上に、

  わたしを過大評価する人がいるかもしれないし』

 とても慎重です。そして同時に軽々しく体験を誇る人を戒めています。

 神秘的体験を持った人はいるかも知れません。そのような主張をする人を、嘘つきと断定することは出来ないかも知れません。

 しかし、これらの人よりももっと神秘的な体験をしたパウロは、それを喧伝したり、まして、他の人には真似できないことだと、自慢したりはしません。もし、神秘的な体験を持ったのならば、その人にも、パウロの慎重さが、謙遜が欲しいものです。