日本基督教団 玉川平安教会

■2021年6月27日 説教映像

■説教題 「キリストの愛が迫る
■聖書   コリントの信徒への手紙二 5章11〜15節

★ いきなりですが、小説の引用をします。

 『そもそも彼は、現実に存在するもの、実在者としての神を、正直言ってただの一度も自分が信じたことのないのを知っていた』。

 2頁くらい後に、今度はこんな表現が見えます。

 『ほかのみんなと同様、自分が聖職に就くのをいわば当然と思っていた。がそれは、宗教的な選択ではなく、職業的な選択だった。聖職者か、軍人か、役人か。で、聖職者を選んだ、というだけのことだった』。

 ジル・マゴーンという女流作家の『牧師館の死』という作品からの引用です。この作品についても、作家についても特別申し上げる必要はありません。引用だけで十分です。

 主要登場人物の一人である牧師は、代々牧師の家系に生まれ、職業として牧師を選んだ、しかし、彼には信仰は全く無かったという設定です。この牧師は、さすがに牧師の名門の生まれで、牧師としての仕事について、あらゆる面で優秀です。

 しかも、彼は所謂出世を望まず、都市近郊の、田舎だけれども都会から遠くはないという絶好の場所にある教会に赴任すると、どんな転任の話にも応ぜず、ひたすらこの教会を守り続けます。結果、世間からは、無欲な、真の牧師、信仰の人と見られています。しかし、実際には、この人には信仰がありません。


★ もう少し引用します。クリスマスイブの説教原稿を書くのに行き詰まっている場面です。

 『もともと彼は神を信じてはいないのだから、これは信仰の危機ではなく心の危機であり、真夜中のミサの言葉が浮かばないのは、単に思いつかないだけなのだ』。

 何とも辛辣な表現です。

 もう一箇所だけ。この牧師は説教を仕事だと割り切っています。

 『説教の下書きを作って説教壇に立ち、何も期待せずにただ見詰め返す、毎回お馴染みの顔ぶれをながめるのを。彼らもまた彼と同じく、習慣や惰性でそこにいるのだ。多分彼らのほうは、冷え切った空気とステンド・グラスの光の中で、自分たちに必要なものを見つけるだろうが、ジョージにはそうしたことは起きなかった。彼の探しているものが何であれ、日曜日の朝のセント・オーガスタス教会では見つからなかった。』

 

★ Uコリント5章11節。

 『主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。』

 この表現から読んで参りたいと思います。

 信仰がないのに、牧師としての仕事を無難にこなしている、この小説に描かれるような牧師が本当に居るのか、居ないのか。分かりません。日本基督教団ではどうでしょうか。居るのかも知れません。居ないのかも知れません。居ないと信じたいのですが。

 もし、そんな人が居たら。そんな牧師が居たとしたら。彼は、『主に対する畏れを知って』いません。『主に対する畏れを知って』いないから、信じないから、このような偽牧師で居られます。『主に対する畏れを知って』いたならば、とても、可能な所業ではありません。


★ この小説の牧師は、一応、牧師の仕事をそつなくこなしていることになっていますが、そのような人が、『人々の説得に努め』ることが出来るのでしょうか。出来ないのではないでしょうか。

 諄いのですが、もう一箇所だけ引用させて貰います。最初の引用の続きです。最初から読みます。

 『そもそも彼は、現実に存在するもの、実在者としての神を、正直言ってただの一度も自分が信じたことのないのを知っていた。善に導く力として、人間が己の中に代々受け付いて来たものとしてなら、神を信じていると言えるだろう。が、絶対的支配者の類としての神は信じていなかった』。

 彼が信じているのは、善です。だから善の勧めを語ることならば彼にも可能です。しかし、この日の説教はクリスマス説教、信仰抜きにクリスマスを語ることは困難だから、行き詰まります。否、彼にはクリスマス説教を何十年もして来た実績があります。しかし、この人が、十字架について語ることが出来るでしょうか。


★ もしこの人が十字架について語ったならば、十字架とは単なる自己犠牲の物語であって、罪の贖いという要素は消えてしまっているでしょう。まして、復活を、この人は語ることが出来るのでしょうか。語るかも知れません。しかし、彼の語る説教は、復活とは生き生きとした人生を取り戻すことだというような、聖書とは何の関係もない話でしょう。

 それとも、彼は、このような説教さえも、職業的に、こなしてしまうのでしょうか。


★『主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。』

 口語訳聖書では、『主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める』。

 信仰を知らない人が読んだならば、違和感を持つかも知れません。独善的な響きを聞き取るかも知れません。しかし、『主の恐るべきことを知っている』、主なる神への畏れ、本来私たちがその前に立つことも許されない絶対の存在を感じ、畏れおののくことがなければ、『人々に説き勧める』ことなど不可能です。


★ 偽預言者たちと、偽信仰者たちとは、パウロの使徒としての資格を問題にしましたが、パウロが使徒として語る根拠は、ただ、神への畏れ、これ以外にはありません。十字架と復活の主との出会い、それ以外にはありません。

 主への畏れ、これこそが、私たち世界中のキリスト者の、立つべき共通基盤です。同じキリスト教会と言っても、その思想も聖書理解も教会論も、随分違います。教派によっては、とても折り合うことは出来ないと思われる程に違います。しかし、どんなに違っていても、その教会に、主への畏れ、十字架と復活の主との出会いがあるならば、私たちは、それは教会ではないと裁きの言葉を言ってはなりません。それは、主への畏れを知らない者の業です。


★ これが、どんな教会にあっても、その存在の大前提です。この前提に立たない教会は、教会ではありません。これは、明確に断定されなければなりません。この大前提に立たないならば、どんなに優れた英知に充ちたものであっても、慰めと励ましがあっても、貧しい者虐げられた者への愛が語られていても、それは説教ではありません。そのことは、明確に断言されなければなりません。


★ 11節の前半だけで、長くなってしまいました。先を急ぎます。11節の後半。

 『わたしたちは、神にはありのままに知られています。

  わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。』

 『神にはありのままに知られています』。誰が認めようと認めまいとです。これも、信仰の基本でしょう。人間に認められるかどうかではありません。神さまに認めて貰えるならば、それで良いのです。

 しかし、このことは、口で言う程簡単なことではありません。本当のことが分かって貰えない。或いは、冤罪を着せられる。何とも辛いことです。地団駄を踏んでも歯噛みをしても、状況は何も変わらない。絶望的にもなりますし、場合によっては自暴自棄的にもなります。自虐的にもなります。

 その逆に、どうせ誰も分かってはくれないと開き直って、もう。理解して貰う努力を放棄することが良いことだとも言えません。

 矢張り肝心なことは、神さまに分かって貰うことです。神さまは分かって下さると信ずることです。そうすれば、他の人々に対しても正しい対応が出来るのではないでしょうか。

 今、パウロは正しくそれをしているのです。誰が分かってくれなくとも、神さまは全てをご存じてある、その信仰に立って、コリント教会員への弁明をしているから、コリント教会の人々の頑なな心も、次第に溶けて来たのです。

 ここでも、大前提は信仰です。信仰なくして、正義も何もありません。


★ 逆に言えば、引用した小説に出て来る牧師は、神を信じていないからこそ、平気で牧師になれたし、信じてもいない聖書から説教原稿を書くことが出来ます。


★ 12節をご覧下さい。ここはなるべく簡単に読みたい所です。

 『わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。

   ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、

   わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。』

 簡単ではない、随分ややこしいことが記されていますが、要はこれまでの主張の繰り返しです。外面に惑わされずに、その人が何所に立っているのか、本当に信仰的な立場から発言しているのか、それとも、醜い嫉妬や、利害や、あまりにも人間的な所に立って批判しているのか、見極めなければなりません。

 本当の信仰に立って、『外面を誇っている人々に応じ』、闘わなくてはなりません。そのことを、パウロは、『わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供している』と言い切っています。これは、自惚れではありません。自慢でもありません。自信でさえありません。そうではなくて、真に神を恐れる、人間の地位や力やうわべのものを恐れないという姿勢なのです。


★ 13節。

 『わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、

   正気であるなら、それはあなたがたのためです。』

 『正気でない』、口語訳では『気が狂っている』。パウロをこのように批判する人々が居たようです。確かに、パウロにはそんなふうに見える所があるかも知れません。パウロは、知識人ですが、全くの常識人、教養人、バランスの取れた教師とは見えない面があります。知識人、常識人、教養人である以上に、信仰の人であり、熱情の人であり、世俗の価値観に反対する人ですから。

 しかし、その一方で、例えば、同じコリント書の異言について語っている箇所などを読めば分かりますように、宗教的なファナティスト(熱狂主義者)ではありません。独善的な敬虔主義者でもありません。極めて、哲学的な思惟に長けた神学者です。

 『わたしたちが正気でないとするなら、それは神のため』、『気が狂ってい』ないとは弁明しません。もし、気が違っているなら、『それは神のためであ』ると言っています。神への熱情、伝道への熱情が人々の目には狂気と映るならば仕方がないと言うのです。

 『正気であるなら、それはあなたがたのためです。』。

 これも間違いなく、パウロという人の一つの面です。

 このことは、14節の後半と15節に直結します。パウロにとっては、このことが、このことだけが大事なのです。十字架と復活の神の出来事が正しく宣べ伝えられる、それだけが大事なことです。そのことの故に自分がどのように評価されるかということは、二の次なのです。


★ 最後に14の前半。

  なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです』。

  口語訳聖書では

 『なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである』

 『駆り立てている』。『強く迫っている』。

 これが教会の姿です。これが信仰の姿です。『強く迫っている』のは、『駆り立てている』のは、『キリストの愛』です。『キリストの愛』つまりは、その十字架です。漠然とした事柄ではありません。最初に、小説の引用をしました。その箇所を読みます。

 『そもそも彼は、現実に存在するもの、実在者としての神を、正直言ってただの一度も自分が信じたことのないのを知っていた』。

 やはり、教会は、このような人の説教では成り立ちません。どんなに教養があって話術に優れていようとも、人間的な魅力に溢れていようとも、そんなことでは教会は成り立ちません。


★ 教会で語られるべき福音宣教は、良い行いの奨励ではありません。社会正義に基づく、悪の弾劾でもありません。傷ついた人間への愛と思いやりに充ちた言葉、でさえありません。

 教会で語られるべき福音宣教は、神の言葉への畏れに基づくものであり、主の十字架と復活の出来事を、聖書に忠実に宣べ伝えることです。


★ コロナ禍の中で過ごす2年、私たちの教会でもいろんな物が損なわれました。愛餐会会も伝道集会も音楽会も何も出来ませんでした。人と人とのお交わりも出来ませんでした。しかし、逆に見れば、ただただ神の言葉を求めて、礼拝を守り続け、マスクで邪魔されながらも讃美し続けました。教会とは何か、礼拝とは何か、福音とは何か、このことを教えられた時でした。これは、必ずコロナ後の教会形成の力になると信じます。

 2年、礼拝に出られなかった人もあります。しかし、我慢に我慢を重ねたこと、礼拝への餓え、渇きを覚えたこと、そのことさえ、きっと、コロナ後の教会形成の力になるし、一人一人の信仰の養いに繋がることだったと思います。また、是非にもそのようにしなくてはなりません。コロナ後の伝道計画は始まっています。