日本基督教団 玉川平安教会

■2024年4月21日 説教映像

■説教題 「熱くも冷たくもなく」 

■聖書   ヨハネの黙示録 3章14〜22節 



† しばらくの間教団の聖書日課に従って、礼拝を守って行くことにしました。適当な準備を終えたところで、ガラテヤの信徒への手紙を読みたいと考えています。

 今日の箇所も、日課に従いました。そして、説教準備を始める段になって初めて気付きました。22年の11月、召天者記念礼拝の礼拝で読んでいました。

 5年以上も前のことならば、せめて3年前ならば、同じような説教になってもかまわないと思います。そもそも、殆ど同じ説教でも何も不都合はないと考えます。

 多くの人は覚えていないからという理由ではありません。

 2度と出来ない説教ならば、初めからしない方が良いと思います。


† しかし、2年経っていないのでは、ちょっと躊躇います。

 そこで、以前の説教は中身を読まないで、新しい気持ちで読むことにしました。そうしますと、当然ながら、以前の説教と重なる所もあるかも知れません。毎回、新しい発見、まして発明をして説教原稿を書くことはありません。


† そういう意味でも、前回のことは念頭に入れず、14節から順に読んでまいります。

  … ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。…

 同じ頁にある3章7節と、全く同じです。ラオディキアがフィラデルフィアになっているだけです。これは他の5つの教会についても同じです。

 1章4〜5節には、『ヨハネからアジア州にある七つの教会へ』とあります。

 全くそのまま素直に読めば、7つの教会にそれぞれ天使がいます。この天使がどのような形で存在し、どのようにして教会を導いているのかは分かりません。


† それぞれの教会に問題があり、批判的に描かれています。それを改めよと警告が与えられています。そうしますと、それぞれの天使の働きに足りないものがあるのでしょうか。むしろ、間違った指導をしているのでしょうか。

 もし、天使と呼ばれているのが、それぞれの教会の人間である指導者、監督とか牧師だったら、話は分かりやすいように思います。

 教会の指導者が、天使と呼ばれ、一方で、その教会の問題点が指摘されているとしたら、私は、極めて現実的、さもありなんと受け止めます。

 地上に存在する現実の教会について、全く当て嵌まると考えます。

 教会で指導的立場に立つ人は、神さまの御用をする人であり、聖書から神さまの言葉を伝える人です。そういう意味では、天使と同じ役割をしています。しかし、所謂天使ではありません。天使ではないから、人間だから、失敗も間違いもあるでしょう。

 そもそも、このヨハネ黙示録の天使が、自分の教会の過ちを、鋭く批判されています。この指摘は、受け入れなければなりません。


† … ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。…

 『天使にこう書き送れ』と命じられているヨハネは、どのような人なのでしょう。7つの教会を束ねる指導者の立場にいたのではないかと、想像する人がいます。そうかも知れません。総監督とかではなく、むしろ預言者なのでしょうか。両方なのかも知れません。


† … 『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方 …

 イエスさまの、何と言いますか、肩書きのように記されています。これは、短い信仰告白と言えましょう。神さまを形容する言葉、神さまに呼び掛ける言葉は、聖書の中にも多々あります。その中でも、この3つの形容がなされているのは、ヨハネの信仰だと言えます。つまりは、ヨハネが指導した教会の信仰告白です。

 『誠実で真実な証人』に特に注目します。

 イエス・キリストが、その十字架を背負った人生で、神を、誠実に、真実に証ししたと言うことが述べられています。これは、そのまま、ラオディキアにある教会の人々に、あなた方もそのようにありなさいと勧められています。


† 15節。

  … 「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。

   むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。…

 これが、ラオディキアにある教会の問題点だったようです。

 私は、牧師として5つの教会を経験しました。神学生の時には、他の教会で礼拝を守りました。そのほとんど全部の教会が、この批判に当て嵌まるかも知れません。『冷たくもなく熱くもない』教会だったかも知れません。

 

† この箇所を読みますと、必ず想い出すことがあります。前回も似たようなことを言ったかも知れませんが、お話しせずにはいられません。

 聖霊派に近い、熱心さを強調する教派出身の人が、礼拝に出るようになりました。若い女性です。この人は、この聖書個所を上げて、教会が生ぬるい、牧師は教会員を甘やかしていると批判しました。私は咄嗟に、つい答えました。「生ぬるい方が長く入っていられますよ。」 … お風呂のことです。

 実際、批判通りに生ぬるい教会だったかも知れません。礼拝にやって来た、何れも80歳過ぎのご婦人たちが、みんなでお昼を食べ、だらだらとおしゃべりし、更におやつを食べます。殆どの日曜日、最後の一人が帰るのは3時過ぎ、ややもすると4時過ぎです。

 この教会を離れて30年以上経ちますが、先々週も一人の教会員が訪ねて来て、一泊しました。生ぬるい関係が、未だに続いています。

 

† 16節。

  … 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、

  わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。…

 聖書がこのように語っているのですから、「なまぬるい方が好きだ」「健康的だ」と言い張ってはならないでしょう。

 確かに飲み物のことではありません。お風呂のことでもありません。教会のこと、礼拝のことです。熱心さがなくてはならないのでしょう。


† 今お話しした教会の老婦人の中に、その中でも、特に温厚で、信仰生活のあり方も、生ぬるいと言えば生ぬるい人がいました。その優しい人柄で、誰からも愛されていましたが、信仰熱心だとは見えません。

 しかし、この人と、時間をかけてお話しする機会がありました。

 そこで初めて知りました。戦後満州から引き上げてきた時の壮絶な体験をうかがいました。一番下の男の子を、引き揚げ船の中で失いました。栄養失調による衰弱死でした。涙ながらに、その時のことを振り返りながら、言いました。

 「死にたいとさえ思ったけれども、信仰で支えられました。」そして、これも初めてうかがいました。未だ女学生の時に、婦人宣教師が、この人の家に下宿していて、毎晩、一緒に聖書を学び、お祈りしたと言うことを。


† 生ぬるいか、熱いか、それとも冷たいか、そんなことは、表面的には分かりません。私は、ほぼ毎晩、体温を測ります。36度を超えると、熱があるのではないかと心配になり、もう一度測ります。36度5分を超えたら薬を飲みます。冷たい人かも知れません。

 しかし、最近知りました。体温が上がっていると睡眠に入れないそうです。それも、表面体温ではなく、体の内部の温度だそうです。だから、お風呂はに入ってから直ぐ休むのではなく、2時間は置いた方がよろしいそうです。医学者の言うことも、時代と共に変わりますから、本当にして良いかどうかは分かりません。

 私の睡眠障害は、表面体温が冷たく、内部体温が熱いからかも知れません。

 とにかく、そんな表面的なことでは、信仰が、ぬるいとか熱いとかと言っては間違いだと考えます。

 聖書に逆らうようなことを言ってはならないでしょうか。


† 17節。

  … あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。

  何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、

   目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。…

 ヨハネも、決して表面的なことで、生ぬるい、熱いと裁いているのではありません。

 ラオディキアにある教会が批判されなくてはならないのは、戒められなくてはならないのは、この17節の点です。

 『金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』この描写から見ましても、ラオディキア教会には、社会的地位の高い人、お金持ちが大勢集まっていたのでしょう。

 

† この時代、正確な年代は分かりませんが、起源100年前後10年として、更にそこから何年もずれたとしても、教会が順風満帆だったとは言えません。社会的地位の高い人、お金持ちほど、教会に通うには差し障りがあったと思います。

 生ぬるい気持ちで信仰できたとは考えられません。そのような人に警告されています。

  … 自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、

   目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。…

 このようなことを、『惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者』本当に苦悩している人に、言うはずがありません。

 ラオディキアの人は、金持ちで、満ちたりていたのでしょう。社会的地位には、財産には、満ちたりていたのでしょう。

 しかし、『惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者』でもありました。それは、勿論、信仰的な意味です。


† 18節。

  … そこで、あなたに勧める。裕福になるように、

  火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、

  身に着ける白い衣を買い、

  また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。…

 ラオディキアに、このような産業、目薬を作る産業があったと言う人がいます。それは知りませんが、皮肉として言われていることは確かです。

 彼らは、信仰的には生ぬるく、富の追求にはうんと熱心だったと批判されています。


† 19節。

  … わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。

   悔い改めよ。…

 16節で『熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。』と言いましたが、吐き出すことが目的ではありません。悔い改めを迫るためです。叱咤するためです。

 つまり、生ぬるいという批判を、唯批判のために、軽々に使ってはなりません。そのことは、20節ではっきりします。


† 20節。

  … 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて

   戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、

   彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。…

 ここに至って、この書の、少なくともこの箇所の主題が分かるように思います。

 熱いのが良いか、冷たいのが良いか、なまぬるい方が良いか、そういう話ではありません。ことは、天国の話です。神の国の話です。『わたしと共に食事をする』とは、神の国の食卓のことです。

 勿論、熱い人、冷たい人、なまぬるい人、その内の、誰が天国に近く、誰が天国から遠いかという話ではありません。

 むしろ、あなたはどこに向かおうとしているのか、本当には何を求めているのかと問われています。


† 唯の買い物、日帰りの小旅行、海外旅行、引っ越し、それぞれ準備が違います。心の備えが違います。何しろ、真剣さが違います。天国に向かうのに、ふさわしい衣装は金銀ちりばめた豪華な服かと問いかけられています。

 私たちは、旅行に備えて、旅行の機会に、服を新調したりします。バッグを買う人もいます。

 天国の旅行へは、どんな準備をしましょうか。どんな服装がふさわしいか、そういう次元の話です。21節。

  … 勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。

   わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。…

 イエスさまが天国に向かった時には、どんな備えをしたでしょうか。どんな服装だったでしょうか。十字架の場面を想い出していただきたいと思います。

 イエスさまの衣装は、イエスさまの履き物は。