日本基督教団 玉川平安教会

■2024年5月12日 説教映像

■説教題 「力を捨てよ」 

■聖書   詩編46編 2〜12節 



† 新年度、教団の聖書日課に従っています。その結果、今日の聖書個所は、21年に読んだ所と重なってしまいました。

 つい最近のことだけに、前回の説教は意識しないで、重なっても重ならなくとも、とにかく新しい気持ちで読むことにしたいと思います。


† 2節。

  … 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。

  苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。…

 後半から、読みます。『苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。』そうでしょう。そうでなくては困ります。

 イザと言う時に、神さまが留守では困ります。助けて貰えません。しかし、本当にそうでしょうか。私たちは、神さまには何時でも傍らに居て貰いたいのでしょうか。


† 必ずしもそうではありません。必要な時には居て貰いたいけれども、何時でも居られたら困ります。それが本音ではないでしょうか。

 ある小説家が言っていました。芥川賞の候補になること4回、2作品が映画になった、ちゃんとした作家です。かつ、青山のキリスト教学科を卒業しています。

 『天にまします我らの父よ』

 神さまは、殆どの宗教で、天に居て、天からやって来ます。「それは、天地の地に居られたら困るからだ」と、彼は言います。「足下に居て、地面から見上げられたら、見て欲しくないところが、みんな見られてしまう。」

 その通りかも知れません。


† 何時でも居て欲しくはありません。こちらの都合に合わせてやって来て欲しい、それが人間の本音でしょう。

 誰しも、24時間の行動全てを見張られていたら、とてもプレッシャーです。気持ち悪いとさえ思います。もし、部屋の中に、盗聴器が仕掛けられていたら、まして、盗撮カメラがあったら、嫌です。不安、不愉快です。

 もしかしたら、幽霊が怖いのも、この理由ではないでしょうか。不動産で事故物件と呼ばれるものがあるそうです。その家・部屋で、人が亡くなった、それも自殺とか殺人、または孤独死があったら、それは事故物件となり、不動産屋さんは、新しい借り手にそのことを伝える義務があるそうです。教えなかったら、違反行為です。


† 幽霊が怖いのは、24時間、何時でもスイッチが入っていて、自分の様子を見られてしまうのが、怖いのではないでしょうか。幽霊が人を殺したという話はあまり聞きません。祟り、そんなことは、誰も本当には信じません。しかしそれでも幽霊が怖いのは、自分の意志に関係なく、見られてしまう怖さではないでしょうか。

 幽霊がいるとしたら、部屋のドアをノックしてから、入ってきて貰いたいものです。それならば、怖さは、半減どころか、10分の1に下がるでしょう。

 そして、神さまについても同じなのではないでしょうか。

 私たちは、呼びかけの言葉で祈り始めます。神さまの呼び出しです。ノックです。同様に、神さまにも、ノックしてから、心の扉の中に、入ってきて貰いたいのではないでしょうか。勝手に出入りされたら困ります。

 もっとも、中には、他人に見られることが大好きな人もいるそうです。自分の部屋やそこでの行動を、24時間放映している人がいるそうですが、悪趣味どころではありません。変態です。


† ユダヤ人は、天を見上げて祈ったそうです。現代のイスラムの人も同じでしょうか。ユダヤ人や、イスラムの人は、天を見上げて祈ることで、神さまに呼び掛け、神さまに見て貰おうとするのかも知れません。

 日本人は大抵、うつむくようにして祈ります。祈ることで、自分の心の内を見つめることが、日本人にとっては、大事なのかも知れません。

 説教は、心理学でも礼拝学の時間でもありません。このことを、これ以上論じようとは思いません。私たちの祈りには、天を見上げて祈ることで、神さまに呼び掛け、神さまに見て貰うとする思いと、一方で、自分の心の内を見つめる、その両方の思いがあるのではないでしょうか。


† 2節の前半を改めて見ます。後半も合わせて読みます。

  … 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。

  苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。…

 この詩人は、神殿に神さまを訪ねています。或いは、自分の心の内で、神さまに尋ねています。結局私たちと変わりません。

 ただ、いずれにしろ、『必ずそこにいまして助けてくださる。』と信じています。

 『必ずそこにいまして助けてくださる。』と信じていれば、常にぺったりとくっついていなくとも大丈夫です。

 常に、手を握っていなければならないのは、不安だからです。不安が大きいからです。


† 子どもが児童公園のお砂場で遊んでいます。夢中になって遊んでいますが、時々、ベンチのお母さんの方を振り返ります。お母さんを見ると、安心してまた砂遊びに集中します。

例えお母さんがスマホの画面を見ていても、安心は戻ってきます。

 逆方向も同じでしょうか。母さんがスマホの画面に夢中です。時々、子どもの様子を見ます。そして、安心して、またスマホの画面に戻ります。


† 全く話が飛躍していると聞こえるかも知れませんが、ヨハネの第一の手紙を引用します。

4章18節です。

  … 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。

   なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。…

 お母さんが見ていてくれる、そのことを知っているだけで、子どもには『恐れが』ありません。母さんが見ていてくれれば、お砂場から、ブランコや滑り台に挑戦出来ます。そこで、痛い目や、いじめっ子に出会っても、泣きながらお母さんの元に帰って来て、愛情を充電して、再びまた、外の世界に挑戦出来ます。


† この詩人にはそれがあります。詩人は、神さまの所に出かけ、または、神さまに呼び掛けて、不安を取り除きます。3〜4節。

  … わたしたちは決して恐れない 地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも

  海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも。…

 大地震と大津波を描いているように見えます。ユダヤには、あまり地震やまして津波はないように思いますが、聖書に言及されていますから、あったのかも知れません。

 どちらにしても、天変地異さえ、神さまの御守りの下では、恐れるに足らずと、詩人は言っています。

 

† 逆に5節。

  … 大河とその流れは、神の都に喜びを与える いと高き神のいます聖所に。…

 大河とは、チグリス・ユーフラテスのでしょうか。それとも、ナイル川を想定しているのでしょうか。大河は、時に大災害をもたらしますが、それ以上に恵みを運んで来てくれます。作物を育てる水、肥沃な土そのものです。

 この大河さえ、『神の都に喜びを与える』ために、存在します。


† 6節。

  … 神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。

  夜明けとともに、神は助けをお与えになる。…

 短期的には、災いがあっても、どんな時にも、新しい朝が訪れます。

 7節。

  … すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。…

 神を知らない人々は、何かが起こると動揺し、この世の終わりを迎えたかのように、騒ぎ立てます。信仰を持った者がなすべきことは、朝が来ると信じて待つことです。夜が続く間、祈り続けることです。


† 8〜9節。

  … 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。

  主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。…

  人間の手では何も出来ないのですから、『主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。』これしかありません。

 私たちの教会も、全く同じことです。私たちは、朝に目が覚めたなら、その日一日のことを考えます。何をなすべきか、何が最優先かを考えます。その中には、苦痛に思うこともありますが、楽しみもあります。どちらもあります。どちらの方が多いかは、重大事ではありません。どちらも、必ずあるのですから。


† 日が暮れてくると、明日のことを考えます。考えるべきことが沢山あります。考え出したら、眠れなくなるほどに、考えるべきこと、なすべきことが無数にあります。

 しかし、夜、休む前に頭に浮かぶようなことは、大抵、どうしようもないことです。考えても無駄なことが多いと思います。考えるほど、眠りを妨げ、明日の仕事を妨げます。

 マタイ福音書6章34節。

 … だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。

   その日の苦労は、その日だけで十分である。…

 夜に考えるのは、明日の、楽しいこと、待ち遠しいことだけで充分です。それとも、あんまり楽しいことを思い浮かべると、やっぱり眠れなくなりますか。

 教会も同様です。明日の教会については、楽しいことだけ考えれば充分です。辛いことを、どんなに考えても、作戦を練っても、結果に大した違いはありません。


† さて、この詩人の、神さまに助けて貰いたい深刻な悩みは何だったのでしょうか。

 10節を見ます。9節の終わりから読みます。

 … 主はこの地を圧倒される。

  地の果てまで、戦いを断ち 弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。…

 文章の流れと無関係に記される筈がありません。

 この詩人の悩みは、戦争とその被害のことでした。

 3〜4節に描写されたことも、戦争のことではないでしょうか。

 … 地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも 

  海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも。…

 地震のことでも大津波のことでもなく、戦争のことかと思います。


† この時おそらく、ユダヤは新カルディアに滅ぼされ、バビロン捕囚の最中にあります。詩人は、チグリス・ユーフラテスの近くで、半奴隷の生活を強いられていたのでしょう。その時に歌われた詩だと思います。

 しかし、彼は、「神よ、助け給え。バビロンを打ち砕き給え」とは、祈っていません。彼は、繰り返しますが、『地の果てまで、戦いを断ち 弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。』と祈ります。

 この祈りこそ、神さまのもとに届かなくてはなりません。『敵を滅ぼし給え』の祈りでは、永遠に戦争は止まないし、平和は来ないでしょう。自分が先ず武器を捨てなければ、戦争は終わりません。それは、ウクライナだって、イスラエルだって同じことです。


† 11節。

 … 「力を捨てよ、知れわたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」…

 『この地で』とは、エルサレムのことではないでしょう。バビロンでしょうか。違うかも知れません。しかし、どこでも同じことです。詩人の住まいする所です。信仰者の居る所です。そこで、その地で、武器を捨てよと、言われているのです。

 12節。

 … 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。…

 最初、2節を読み、この詩人は、神殿を訪ね、神さまに呼び掛けたと申しましたが、そこは神殿ではないかも知れません。詩人の住まいする所です。信仰者の居る所です。

 それは、私たちの教会にも当て嵌まります。


† そこでは、『力を捨てよ』と呼び掛けられます。ミサイル弾が足りない、戦車が足りない、兵士が足りないではありません。『力を捨てよ』です。

 『万軍の主はわたしたちと共にいます』のに、あと、何が足りないのでしょうか。『ヤコブの神はわたしたちの砦の塔』ならば、他のどんなものが、私たちの明日を守ってくれるでしょうか。私たちの教会に何が足りないのか、『万軍の主はわたしたちと共にいます』ならば、他に足りないものなどありません。