† 私はカード作りが趣味です。クリスマスカードになりますと、1日5時間の10日とすれば、計50時間も費やすことがあります。昨年も、200枚以上作成しました。 イースターにも、母の日にも、敬老の日にも作りますし、誕生カードもあります。 しかし、ペンテコステ・聖霊降臨日のカードは作ったことがありません。何故作らないのか、むしろ、作ることが出来ないのか。イメージが湧かないからです。 † クリスマスですと、無数のシンボルがあります。羊と羊飼い、3人の博士と馬、賛美を歌う天使、ろうそくの灯火、星の光、聖書には出て来ないクリスマス・ツリー、聖書に出て来る筈もないイルミネーション、未だ未だあります。クリスマスカードのイラストに困ることはありません。 イースターには卵と兎があります。聖書には全く出て来ませんが、卵と兎が、イースターのシンボルとなっています。ところが、ペンテコステ・聖霊降臨日には、そのような分かり易いイメージはありません。強いて言えば鳩でしょうか。 何しろ、聖霊は、目には見えないものです。色もありません。手で触ることも出来ません。これを言葉で説明することはとても困難です。ですから、カードが出来ません。 † 目には見えないし、手で触ることも出来ませんから、勝手な解釈や、とんでもない嘘が横行します。このために、多くの常識ある人は、聖霊という言葉を口にする人には、不信感を抱いたり、時に嫌悪感を抱いたりします。 その一方で、目には見えないし、手で触ることも出来ないからこそ、世の常識とおよそかけ離れているからこそ、これに魅力を感じる人がいることも事実です。 今日でも、霊媒師や口寄せをする人がいます。神癒、つまり、聖霊の力によって病気を治すことが出来ると主張する人もいます。私には嘘としか思えませんが。 † 教会によっては、この聖霊を重んじるあまり、礼拝の最中に踊り出したり、奇声を上げたり、失神する人さえいて、これを霊感だと評価し、逆にこのような体験をしない人を、聖霊が与えられていない、本当には信仰がないと言って、否定する人がいます。私には、そのような体験がありません。ですから、理解も出来ませんし、否定してはならないかも知れません。 それが、信仰生活にとても大事なことだと考えるならば、それに魅力を感じるならば、いっそ、ロック音楽のコンサートに出かけたらどうでしょうか。体を揺すり、飛び上がり、他人には全く理解出来ない言葉を大声で叫ぶ人がいるそうです。 一昔前のグループサウンズ、もっと昔のロカビリーでは、珍しくもない光景でした。 † さて、以上お話ししたことは、全部無駄話だったかも知れません。多分無駄でしょう。25分前後の説教の4分の1を費やすことではなかったでしょう。しかし、それほど、聖霊は、理解されていないし、むしろ誤解・曲解・偏見に包まれているのです。 無駄話も含めて、ここで、まっさらに帰って、聖書そのものに聞かなくてはなりません。 † 26節。 … "霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。… 何しろ、聖霊とは、『弱いわたしたちを助けてくださ』るもの、存在です。このことを厳密にしなくてはなりません。曲げないで、真っ直ぐに聞かなくてはなりません。聖霊とは、『弱いわたしたちを助けてくださ』るものです。 私たちを苦しめたり、「お前には聖霊が足りない」などと否定する攻撃材料ではありません。聖霊を持ち出して、人に過酷な要求をしたり、やりたくもないことを強いたりするのは間違いです。そんなことがあったら、それは聖霊ではなくて、むしろ悪霊です。 脱線になってはいけませんから、簡単に申しますが、マルコ福音書は聖霊を説くことはあまりなく、それよりも、悪霊を退けなければならないと説かれています。 † 26節の続きを読みます。 … わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、… その通りでしょう。私たちは、神さまに届く言葉、神さまに喜ばれる言葉を知りません。持っていません。 お祈りの名人みたいな人、それを誇りに思っている人がいます。そういう人を賞賛する人がいます。それが、信仰だと考えている人がいます。しかし、どうでしょうか。 『わたしたちはどう祈るべきかを知りません』 聖書ははっきりとそのように言っています。言ったのはパウロです。パウロでさえも、そう言っているのです。お祈りの名人はいません。名人になってはなりません。 † 脱線でしょうが、敢えて申します。過去にもお話ししています。 詩人金子光晴は、こんなことを書いています。 「詩を書きたいなら、上手な詩を書いてはならない。間違っても、人を感動させる詩を書いてはならない。」 これを祈りに置き換えたら、「本当に祈りたいなら、上手に祈ってはならない。間違っても、人を感動させる祈りをしてはならない。」 少し柔らかい表現に置き換えます。「本当に祈りたいなら、上手に祈ろうとしてはならない。間違っても、人を感動させようとして祈ってはならない。」 このことは、説教にも全く当て嵌まると考えます。 金子光晴は聖書学者でも、信仰者でもありません。ですが、彼の言うことは、マタイ福音書の山上の垂訓に描かれるイエスさまの教えにも、全く妥当すると考えます。 † 元に取ります。26節の続きを読みます。 … 霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。… 祈る言葉を持たない私たちに、祈りの言葉を与えてくれるのが、聖霊です。私たちの、祈りにならない、うめきや、嘆きや、時に悲鳴を、神さまに届けてくれるのが、聖霊です。 聖霊とは何か、聖霊の働きは何か、先ずこのことを確認しなければなりません。聖霊について勝手なことを言い、聖霊を自分の持ち物、超能力のように言い、結果、逆に聖霊の働きを邪魔するようなことは、絶対にしてはなりません。それは、聖霊への冒涜です。 † 27節。 … 人の心を見抜く方は、"霊"の思いが何であるかを知っておられます。… とても難しい表現です。良く分かりません。 『人の心を見抜く方』とは、神さまのことでしょう。その方は『"霊"の思いが何であるかを知っておられます』 良く分かりませんが、神さまは、人間の心も、そして聖霊の思いも知っているということでしょう。それ以上に想像を膨らませることは必要ないでしょう。 † 27節の後半。 … "霊"は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。…『執り成してくださる』と記されています。一番簡単に言えば、『聖なる者たち』つまり信仰者のために、『執り成してくださる』とあります。神さまに届く言葉を与えて下さいます。人間のために働いて下さいます。 聖霊は、人間を支配する存在ではありません。決して、人を苦しめることはありません。苦しめるとしたら、それは悪霊でしょう。聖霊に聞け、聖霊に従えと主張する人は、実は悪霊に従えと言っているのではないでしょうか。悪霊で脅かして、自分に従えと言っているのではないでしょうか。言い過ぎですか。 † 28節。 … 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たち… 信仰者を、『計画に従って召された者たち』とも言っています。 29節では、『前もって知っておられた者たち』とも呼びます。 30節では、同じようなことを繰り返して、『神はあらかじめ定められた者たちを召し出し』と記しています。 これは、決して予定論・決定論とか、運命論と受け止める必要はありません。間違っても、マーク・トゥエインの『人間機械論』ではありません。 逆のことを想像して下さい。この時代には、現代でもそうかも知れませんが、自分の努力・勉強・修行で、信仰を持つことが出来ると考え、主張する人が多かったのでしょう。 つまり、救われるか否かは、自分次第です。イエスさまの十字架は要りません。 『御計画に従って召された者たち』と言うのも、『前もって知っておられた者たち』と言うのも、救いの根拠は神さまにある、人間の側にはないという意味です。イエスさまの十字架だけが、人間を救うという意味です。 少なくとも、『万事が益となるように共に働く』聖霊は、私たちを助けて下さいます。私たちを苦しめる存在ではありません。 † 29節の続き。 … 御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。… これこそ、私たちの理解を超えています。しかしパウロが言うのですから、この通りなのでしょう。私たちが『御子の姿に似たものに』なれるかどうか、私には不可能事に思われます。とても自信がありません。が、そんなことを言ってはならないでしょう。パウロが言うのですから。 少なくとも、そのようになりたい、そのようにありたいと、信仰の道を歩き続けるべきでしょう。その歩みを聖霊が助けてくれると信じて、信仰の道を歩き続けるべきでしょう。 † 29節の続き。 … それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。… これも、これこそ、分かり難い表現です。 『兄弟』という言葉から考えます。ヨハネの第一の手紙3章1節。 … 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。 それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで… イエスさまが神の独り子だと言うのが、聖書の思想・信仰です。しかし、ここでは、人間を『神の子と呼ばれるほど』、神が人間を愛して下さるという信仰が語られています。 そうしますと、理屈から言って、神に愛された人間は、神の子として、イエスさまの兄弟と見做して貰えるという考え方です。そうなりますと、イエスさまは兄弟である人間の長男だという理屈です。勿論、人間が神の子となる筈はありません。そのように扱って貰える、見做して貰えると言う意味です。 † ヨハネの第一の手紙3章1節の続き、2節には、このように記されています。 … 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、 まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、 御子に似た者となるということを知っています。 なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。… ローマの『御子の姿に似たものにしようと』と、一致します。 聖霊は、人間を神さまに導き近づけるものです。 † 30節の前半については既に触れました。 『神はあらかじめ定められた者たちを召し出し』とは、予定説、運命論、まして人間機械論と受け止めるのは間違いです。 神さまによる救いの確かさを強調する表現です。一番平たく言えば、神さまは思いつきで、言い換えれば、たまたま、一人の人間を救い出されるのではありません。 神さまが人間を創造されたその時から、救いの計画の中に置かれているのだというパウロの信仰です。強調されているのは、神さまによる救いの確かさ、これ1本です。 † 30節の続き。 … 召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。… これも神さまの救い業の確かさです。 最近テレビのドラマで、「産むのではなかった」「生まれてくるのではなかった」というセリフを聞きました。そんな親子がいたら不幸でしかありません。しかし、根本的な間違いは、人間にそんな判断が出来ると考えていることにあります。 人間は自分の気持ちで「産む」のではありません。自分の意志で「生まれてくるのでは」ありません。そこには、神さまの御心が働いているのだというのが、聖書の信仰です。神さまの気持ちと、人間の心とをつなぐのが、聖霊の働きです。 † 原稿を書いている内に、ペンテコステのイラストを思いつきました。鳩です。当たり前と思われるかも知れませんが、この鳩はノアの洪水の鳩です。かつ、8章12節の鳩です。… 彼は更に七日待って、鳩を放した。鳩はもはやノアのもとに帰って来なかった。… シュテファン・ツヴァイクの小説に依れば、この鳩は平和な地を求めて、しかし、その地はどこにも見つからず、どこにも降りられずに、今も飛び続けています。 |