◇ 13節前半から読みます。 … 以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。… 前半部分については、特に説明は要らないでしょう。今日初めて教会に見えた方があったとしたら、「使徒と呼 ばれるパウロも、かつてはこの通りで、キリスト教信仰、教会を迫害した人だった。」ことを知っていただければ充 分です。 ◇ 肝心なのは、後半部です。 … 信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。… 『知らずに行ったこと』は赦されると、書いてあります。 これが罪の赦しです。『神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者』でさえも、赦されました。悔い改め、 罪を告白さえすれば、赦されます。これが神の赦しです。 イエスさまは、十字架の上で言われました。ルカ福音書23章24節。 最近に読んだ所です。 … そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです。… ◇ ローマの兵士たちが、自分が何をしているのか分からない筈がありません。命令を受けて、イエスさまを十字 架に付け殺そうとしています。 逆に、このことから分かりますように、『自分が何をしているのか知らない』とは、必ずしも無知のことではありま せん。 パウロは旧約律法を専門的に学んだ人です。決して無知ではありません。むしろ逆で、情熱的にユダヤ教の 信仰を抱いていました。だからこそ、キリスト教を迫害する一派に加わり、指導的な立場にさえありました。 ◇『自分が何をしているのか知らない』とは、イエスさまではなく、他のものを信じ、頼りとし、これに仕えていると 言う意味です。むしろ自分の力を信じていることです。 そのような人が、イエスさまに出会い、教会に出会い、それを信じるようになったなら、それ以前のことは、全て 赦されるという意味です。 これは私たち日本人の大部分の人、つまり、生まれながらのクリスチャンではない人にとって、大いなる福音で す。 ◇ 12節に戻ります。 … わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。 この方が、わたしを忠実な 者と見なして務めに就かせてくださったからです。… 『強くしてくださった』と言うのですから、かつて、パウロは弱かったことになります。しかし、弱かった時のパウロは、 つまり、キリスト者となる前のパウロは、一個の人間としては、強かったのではないでしょうか。若く体力もあり、ユ ダヤ教の信仰に燃えていました。肉体的にも信仰的にも強かったのではないでしょうか。 それなのにパウロは、その時の自分を弱かったと言い、ローマやユダヤ教から迫害を受け、様々な試練・苦労 の故に、病を抱え、肉体的には弱くなった今の自分を、『強くして』貰ったと表現するのです。 ◇ 二コリント1章8〜9節。 … 8:兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。 わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、 生きる望みさえ失ってしまいました。 9:わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。 それで、自分を頼りにすることなく、 死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。… これが『わたしを強くしてくださった』とパウロが言う意味内容です。他人の目から見れば弱くなった時に、自分 の力が頼りにならないと知った時に、パウロは神による強さを発見しました。 ◇ 私たちも同じではないでしょうか。 自分の話ですが、他人を例にとることは出来ませんので、自分のことで話します。 つい先日、後期高齢者になりました。「なってしまった」が本音です。昔のような体力も気力もありません。昔、 難なく出来たことが、今は出来ません。がっくりすることがしばしばです。もう、自分の体力気力、知力は、頼りに なりません。 しかし、パウロに倣い考えるならば、自分の力に幻滅した今こそが、チャンスではないでしょうか。昔、なまじな 体力気力、知力があったが故に犯した罪は、数々の失敗は、赦して貰えるのではないでしょうか。ただ、自分の 限界に気付きさえすれば。 ◇ 12節後半に戻ります。 … この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。… かつて教会を迫害したパウロを、神は赦して、なおかつ、用いて下さいました。用いて下さったことこそが、赦し です。 「よしよし、おまえの罪は赦してやろう。もうどこかに行きなさい。」では、本当の赦しではないかも知れません。 福音書では、『おまえの罪は赦された。これからは罪を犯さないように。』とイエスさまが仰る場面があります。 これも赦しに違いありません。 しかし、パウロのように、用いられることこそが、本当の赦しであり、本当の救いなのではないでしょうか。 ◇ 14節を読みます。 … そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、 あふれるほど与えられました。… 何度も申しますが、パウロ書簡で、『恵み』という字が用いられる時は、これを使命と置き換えた方が、分かり 易くなります。無教会の橋三郎先生の説です。 神によって赦され使命が与えられ、用いられたのがパウロです。この使命は、『信仰と愛と共に』与えられまし た。 ですから、どんなに苦難に出会っても、パウロには、そのことが慰めとなり、癒やしとなり、新しい気力となったの です。 ◇ 15節。 … 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、 そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。… これは自己卑下でも、謙遜でもありません。パウロは、これを全くの事実として告白しています。 これこそが、パウロの信仰であり、パウロの強さです。 私たちも、これに倣うことが出来るのではないでしょうか。 「私には、かつてあれ程の力があったのに。体力気力、知力があったのに、その力は、どこに行ってしまったの か。」と嘆いても仕方がありません。まして、「かつての体力気力、知力は、おまえの倍はあったぞ。」と言って、若 い人に張り合っても、どうにもなりません。負けて惨めになるだけでしょう。 肝心なことは、パウロが体験したことです。 『自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。』この一点です。 ◇ 16節。 … しかし、わたしが憐れみを受けたのは、 キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、 わたしがこの方を信じて 永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。… 『信じて』、『憐れみを受けた』、その結果『永遠の命を得ようとしている人々の手本となる』、この順番です。 ◇ 再び、二コリントから引用します。4章7節。 … ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。 この並外れて偉大な力が神のものであって、 わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。… ごく最近に聖書研究祈祷会で読んだ所です。 ちょつとだけ解説します。パウロは自分を『土の器』に準えています。『土の器』とは、一番安い粗末な、そして 壊れやすい儚い燭台のことです。しかし、この『土の器』は、金銀宝石をちりばめてた豪華な燭台に比べて、一 つも劣ることはありません。むしろ、豪華な燭台は、肝心の灯りを覆い隠してしまいます。光を妨げてしまいま す。『土の器』は、余計な飾りがないから、中の灯りを損なわず、そのままに輝かせることが出来ます。 そういう逆説であり、しかし真実です。 自分の力を頼りとする者、まして、力を誇る者は、却って、神さまの邪魔をする者です。 もう一度、二コリント4章7節を読みます。 … わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。 この並外れて偉大な力が神のものであって、 わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。… ◇ 18節を読みます。 … わたしの子テモテ、あなたについて以前預言されたことに従って、 この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい、… テモテに、『土の器』であれと言っています。『土の器』で良いと言っています。 テモテは若く経験がありません。ギリシャ人ですから、ユダヤ人キリスト者からは、聖書的・律法的教養がない と軽んじられていたようです。 それに屈してはなりません。しかし、その点で張り合うこともありません。『土の器』であることを、力として、誇り として、『戦いなさい』と励ましています。 ◇ 19節前半。 … 信仰と正しい良心とを持って。… これが、これだけが、『戦い』の武器です。他の武器などは要りません。テモテは、若く経験不足かも知れませ んが、『信仰と正しい良心とを持って』いると、パウロは認めています。これだけがあれば充分だと、励ましていま す。 このことも、私たちに当て嵌まるのではないでしょうか。 私たちも『信仰と正しい良心とを持って』いれば、それでよろしいのです。「他の力がないことを、かつて持ってい たのに失ってしまった。」ことを嘆く必要はありません。ただ、『信仰と正しい良心とを持って』いるかを、問わなくて はなりません。自分自身に問えばそれでよろしいのです。 パウロは、テモテに若さ故に軽んじられてはならないと言い、また、謙遜でありなさいと言います。これは、老年 の者にも当て嵌まります。年老いたが故に軽んじられてはなりません。しかし、老年の者こそ、謙遜でなければ なりません。 ◇ 19節後半。 … ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました。… 『ある人々』が誰を指すのかは分かりません。特定していません。多分、洗礼を受け、キリスト者となりなが ら、信仰を捨ててしまった人のことでしょう。 何故信仰から離れたのかも記されていません。『信仰と正しい良心とを持って』いなかったからでしょうか。誘 惑に負けたからでしょうか。記されていませんから、分かりません。記されていないことを、詮索しても答えは出て 来ません。 ◇ 20節。 … その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。 わたしは、神を冒涜してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡し ました。… この二人は、名前が特定されています。『ある人々』と、何故か扱いが違います。これは想像ですが、二人は 伝道者だったのではないでしょうか。教会の指導者だったのではないでしょうか。この二人は何らかの仕方で、 『神を冒涜し』しました。 先ほども同じことを申しましたように、記されていないことを詮索しても埒が明ませんが、全体の流れから推し て、教会の中で指導的立場にあったのでしょう。そして自分の力を誇ったのでしょう。 しかし、何らかの、『神を冒涜し』たと言われる罪を犯しました。その罪は、赦されることはありません。パウロ は、『わたしは〜彼らをサタンに引き渡しました。』と言っています。赦しを説くパウロにも、赦しがたいことがありま す。赦してはならないことがあります。神の前で自分の力を誇ることは、赦されない罪です。 |