日本基督教団 玉川平安教会

■2024年5月19日 説教映像

■説教題 「霊があなた方と共に」 

■聖書   ヨハネによる福音書 14章15〜21節 



† 今日はペンテコステ・聖霊降臨日です。教団の日課に従っている聖書個所も、当然、聖霊のことが述べられています。それだけではなく、今日与えられている箇所は、三位一体論が踏まえられています。前提にあると言った方が良いでしょうか。

 踏まえられているとか、前提とかと申しますのは、この箇所が決して、三位一体論を論じているのではないという意味です。

 他のどの箇所もそうです。聖書は、三位一体論を論じている訳ではありません。信仰義認論だって同じことです。聖書は、信仰義認論を論じている訳ではありません。贖罪論でさえ同じです。聖書は、贖罪論を論じている訳ではありません。


† 三位一体論も信仰義認論もそして贖罪論も、聖書に記されている事柄を、要領よくまとめれば、これらの言葉になるという意味です。本来ならば、三位一体論も信仰義認論もそして贖罪論も、私たちの信仰を簡潔に言い表す表現・術語です。分かり易いものです。

 しかし、実際には、これらの言葉や、これを巡るややこしい議論にはまり込んで、何とも難しい神学論争になってしまいます。そして、私たちの信仰の実際とは、かけ離れたこと、無縁のことになってしまいます。


† 神学的、哲学的思考に慣れた人には、分かり易いし、それらを積み重ねて、より深い信仰の境地を見出すことが出来るかも知れません。

 しかし、そうではない人にとっては、徒に、ことを複雑にし、不毛の論理になってしまうのではないでしょうか。私なども、その一人でしょう。

 三位一体論、信仰義認論、贖罪論、他にもいろいろと神学用語が溢れていますが、私などは、頭がこんがらがります。

 コロサイ書2章8節。

 … 人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、

  むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。

  それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。…

 三位一体論、信仰義認論、贖罪論を『人間の言い伝えにすぎない哲学、むなしいだまし事』などと言ったら、偉い学者に叱られます。異端だと断じられるかも知れません。

 しかし、三位一体論、信仰義認論、贖罪論が大事な聖書の教えだからこそ、この言葉に振り回されてはならないと考えます。少なくとも、この術語を振りかざして、他の人の信仰を否定したりするのは、良いことだとは思えません。


† 大分長い前置きになってしまいました。とにかく、聖書に記されていること、それも、この箇所に記されていることに限定して読みたいと思います。専門的術語を振り回すよりも、その方が良いと考えます。

 15節。

 … 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。…

 全くその通りでしょう。『掟』とは何かとか、その『掟』の正当性とかと言い出せば、話はどんどん複雑になり、意味をなさなくなりますが、ごく、普通に、常識的に考えれば、全くこの通りです。

 日本の国を愛する者は、日本の掟・法律に従います。自分の会社や学校を愛する者は、そこでの掟・決まり事を守ります。家族についても同様です。


† この場合には、当然ながら、教会のことです。教会を愛する者は、教会の掟・規則、何より信仰告白に従います。これが大前提です。

 実際に教会生活をしていればこそ、教会の掟・規則、何より信仰告白に疑問を持つ場合もあります。教会といえども、地上に於いては人間の集まりです。人間の集まりに過ぎません。ですから、納得の出来ないこともあるでしょう。教会が、教会の牧師や役員が、間違うこともあるでしょう。

 その時にも、その時にこそ、教会の掟・規則、何より信仰告白を振り返らなくてはなりません。もしかしたら、間違いを指摘し、戦わなくてはならないこともあるかも知れません。苦しい戦いです。覚悟を持ってなすべき戦いです。


† この箇所だけで読みましょうと言っていながら、もう既に、無駄に膨らませているかも知れません。元に戻します。

 16節。

 … わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、

   永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。…

 これは、正に三位一体です。

 『わたしは』とは、勿論イエスさまです。『父』なる神、そして『別の弁護者』に言及されています。『別の弁護者』とは聖霊のことです。父・子・聖霊、これが三位一体です。この表現を大きな論拠にして三位一体論を説く人もいるでしょう。

 しかし、逆に、この表現を大きな論拠にして、父・子・聖霊それぞれ別々だと、三位一体論を否定する人もいるでしょう。

 

† 今は三位一体論そのものを、論じることは避けたいと考えます。ここに書かれていることに限定して読みます。

 17節。

 … この方は、真理の霊である。…

 『この方』つまり、『別の弁護者』のことです。『別の弁護者』・聖霊とは、『真理の霊である』と言われています。ここでも、いくらでも話を拡げることも出来ます。拡がるでしょう。しかし、限定して考えれば、『真理の霊』が、真理の霊だからこそ、私たちを弁護してくれると言うことです。

 もっと簡単に言いましょう。

 正しく信仰の道を歩んでいれば、必ず聖霊が守ってくれる、人々の誤解や非難から弁護してくれるということです。


† 先ほど申しましたように、実際に教会生活をしていればこそ、教会の掟・規則、何より信仰告白に疑問を持つ場合もあります。教会が、教会の牧師や役員が、間違うこともあるでしょう。

 こんな大変な時に、『真理の霊』が、『弁護者』となって守ってくださる、それが、信仰です。このことが信じられないならば、議論で勝ったとしても、それは虚しい戦いです。


† 17節の続き。

 … 世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。…

 その通りでしょう。当然です。

 分かり易くなるように、少し置き換えて考えたいと思います。

 この頃世間を騒がせている殺人事件で、犯人の一人が言った言葉があります。テレビで報じていました。その時点では18歳です。

 「世の中、金でしょう」。文脈は良く知りませんが、「世の中、金でしょう」と言う人が、金のために殺人を犯した、そういうことでしょうか。

 詐欺事件が頻繁に起こっています。欺される方が悪いと言う人もいますが、そんなことはありません。欺す方が悪いに決まってします。詐欺が溢れています。携帯電話にも、パソコンにも、毎日毎日、詐欺のメールが入ります。

 このようなことをする人は、一人ひとり事情はあるとは言いながら、簡単に言えば、正義という言葉が見えていません。『見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。』のでしょう。

 少年少女に対する性犯罪も同じです。

 この人たちには、愛という言葉が見えていません。『見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。』のでしょう。


† 17節の続きを読みます。

 … しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、

  これからも、あなたがたの内にいるからである。…

 私たちは、正義と言う言葉を知っており、それを大事にしています。私たちは、愛と言う言葉を知っており、それを大事に思っています。

 そして聖霊という言葉を知っており、それを大事にしています。

 正義が、私たちの心の中に染み込んでいるように、愛が、私たちの心の中にあって、私たちを揺り動かすように、聖霊が私たちの中にあって、私たちを、守っているのだと、ヨハネ福音書は言っています。


† 18節。

 … わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。

  あなたがたのところに戻って来る。…

 これはイエスさまの十字架のことを言っています。『みなしごにはしておかない』とは、一寸屁理屈に聞こえるかも知れませんが、一時は『みなしごに』になってしまうことになります。イエスさまが十字架にかかり、そして昇天されます。教会は『みなしごに』になってしまいます。しかし、そのままには『しておかない』、『あなたがたのところに戻って来る。』となります。

 『戻って来る』とは、何時のことでしょうか。それは、再臨のことを指しているのでしょうか。


† 19節の前半。

 … しばらくすると、世はもうわたしを見なくなる…

  これは間違いなく十字架のことです。その続き。

 … あなたがたはわたしを見る。

  わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。…

 『世はもうわたしを見なくなる』しかし『あなたがたはわたしを見る』となります。

 ここで再臨のことを考えると話がややこしくなります。ここでは、再臨のことは勘定に入れずに、なるべく簡単に考えた方が良いでしょう。

 つまり、十字架によって、世の人々にはイエスさまが見えなくなるけれども、教会の者には、見える、存在するということでしょう。それが聖霊です。ここでは、イエスさまと聖霊とは、同じものと受け止めることが出来ます。

 三位一体論を持ち出すと、話がややこしくなりますので、簡単に、イエスさまは十字架の後も、聖霊として教会の中におられる、そういう信仰です。


† 20節。

 … かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、

   わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。…

 ここでも『かの日』とは何時のことか、再臨のことなのかと読むと、難解になります。議論も生むでしょう。

 しかし、単純に読めば、教会の中にイエスさまは生きておられるということでしょう。


† 21節が、そのような考え方を補強しています。

 … わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。…

 15節が繰り返されています。そっくり同じです。

 教会の中で生きることと、イエスさまを愛することとは一つのことです。イエスさまを愛するけれども、教会は嫌いだと言うのは、矢張り歪んでいます。勿論、何度も申しますように,教会も地上に於いては人間の集まりですから、教会の雰囲気が合うとか合わないとか、好き嫌いはあるかも知れません。その感情を抑え込んで、嫌でも教会を愛しなさいとは言えないでしょうが、教会は教会です、神さまの家です。神さまの家族です。


† 21節の後半。

 … わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。

  わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。…

 ならば、好き嫌いは絶対ではありません。神に愛されたいならば、神さまの声を聞きたいならば、矢張り教会の中にいることです。

 

† 22節以降では、イエスさまと父なる神とが、一つのものであることが言われていると考えます。しかし、少なくとも、今日は、三位一体論を論じようとは思いません。実際に語られていることだけを聞きたいと考えます。

 全部を簡単にまとめます。イエスさまは、十字架に架けられたけれども、教会を見捨てて去ったのではありません。教会の中におられます。そのことは、教会の中で働く聖霊によって知ることが出来ます。そして、イエスさまが、教会の中におられる時に、神さまも、教会の中におられます。

 聖霊の存在そのものは、どうやったら見ることが出来るでしょうか。目には見えません。しかし、風が梢を揺らすのを見るのと同じように、聖霊が人の心を動かし、愛で満たすのを見ることは出来ます。教会生活をしていれば、必ず目にすることが出来ます。